South of Heaven


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幽霊

2000年06月13日(火) 23時29分 思考

 結構怖い心霊話サイトを見つけた。 ここはテケテケもの、湖から無数の手ものなどの類型が少ないので、なかなか楽しめるサイトだ。といっても夜遅くに読む気にはなれませんが。
 こうした心霊話に仏僧(フランスの坊さんにあらず)が出てきて人間の霊魂に関して実しやかに説諭するということがしばしば書かれているのだが、これは本来の仏教からいえば噴飯もののことなのだそうだ。本来、仏教は魂のような永劫普遍のものの存在を認めていない。これが絶対神だのなんだのを教義とする他の宗教との違いだ。我々が目にするところの世界には、永劫普遍に変わらぬものなど何一つありはしない。そのような観測から、移ろい行く諸々のものへの執着を捨てるために修行し、そのような心の平静を得よというのが仏陀の主張らしい。何かをひたすら信ぜよとは説いていない。原始仏典には「信仰を捨てよ」とまであるという。原始仏教は自らを信仰ではないとみなしていた、ということらしい。
 そういう本来の仏教の姿からすれば、事あるごとに魂だの死後の世界だのが語られ、織田無道のような人まで闊歩する日本の仏教は堕落しているともいえる。しかし古来からの御霊信仰とシームレスに接続できる霊魂説を採らないで仏教の興隆があったとも思えない。
 急いで付け加えておくと、仏教では魂の存在を否定してはいない。しかしそのようにあるのかないのか分からないものを語ることは無意義だという立場から、少なくとも原始仏教では魂に関して何も語っていない。仏陀も「魂はあるのですか」とか「死後の世界はどうなのでしょう」とかいった人間の知覚の及ばない世界に関する質問に対し、沈黙を守ったという。そのようなあるのかないのか分からない事に関わりあうよりは、現実に存在する病老貧苦などの災いを克服せよというのが仏陀の態度だった、らしい。
 こんな話を聞くと、例えば超心理学の発展で霊魂や死後の世界の実在が明らかになったら、仏教者はどうするのだろうと思ってしまう。それを取り込んだ新しい教義を発展させるのだろうか。それとも所詮外道の説として切り捨ててしまうのだろうか。確かに、人間の知覚と言う問題に関して、現代科学と仏教とでは大きな隔たりがあるように感じる。
 ともあれ、仏教的には魂は「無い」として良い。少なくとも、それは人間には知覚し得ない世界のことだ。また科学的、唯物論的な態度を取っても魂は存在しない。幽霊なんていやしないのだ。
 とまで考えてはいてもやっぱり幽霊は怖いのである。だって、我々の想像も及ばぬなにかが存在するかもしれないじゃないですか。それを僕の頭のどこかが恐れつづけているのだ。

耳が......

2000年06月13日(火) 18時28分 暮らし 天気:雨に次ぐ雨

 朝、目が覚めたとき、左の耳が詰まった感じで聞こえなくなっていた。気持ち悪いなーと思いながら出勤の準備をしているうちに直ってしまったが。ここ数年、内耳の管が細くなったのか、病気をすると耳が詰まりやすくなっている。あるいはストレスかもしれない。海老名にいた頃の上司が、ストレスからくる難聴で名古屋送還の刑に処された事もあった。人間の体は心の状況に正直に反応するのだな。

復活

2000年06月12日(月) 23時27分 暮らし

 夕方に起き出してもまだ8割頭だったので、気合を入れるために焼きそばを作ってビールを流し込んだ。これが効いたのか、ようやく頭がしゃっきりしてくれた。ってアル中かい。
 起き出して、Hページに手を入れ、BBSの調整に手をつけた。怪しい雑談ページをさらに怪しくして、リンクページも天文関係を大幅に充実させた。なんだか初志と違うページになってきたなあ。最初はPCとDiablo(爆)のページだったんだけど。
 Diablo2関連の情報も、発売が決まって急激に増えているようだ。そろそろうずうずしてきたぞっと。

雨だな

2000年06月12日(月) 18時25分 暮らし 天気:雨々です BGM:Rain Song/Led Zeppelin

 前日からの不快な感じはまるで改善されない。こういうときには汗をかけば何とかなるのだが、季節柄不快な、ねっとりした汗をかくばかりで、体温の降下には役立ちそうにない。さっくり休みましょう。しかし休出して翌日休みか。なにしてるのやら。
 布団に寝転がって、雨の音に耳を傾けていた。どうせ休むのならば、晴れの日より雨の日がいい。雨の日の静けさが心を安らわせてくれる。物理的には音量は増えているはずだけど、不思議な現象だね。人間の心の働きというものは不思議だ。
 それにしても今年の梅雨は梅雨らしい梅雨だな。例年、入梅後もしばらくは空梅雨という状況があたりまえだったのに。今年の梅雨前線は気合が入っている。おかげで星空を見たい僕は割を食っています。とほほ。
 ふと気づくと、もう夕方になっている。そろそろ日が暮れ始める時刻だった。今日は眠りに眠った日だったな。
 書くまでもないことだと思うが、雨なので観望は不可能です。

新掲示板設置

2000年06月11日(日) 23時23分 インターネット

 HP-UXに完敗を喫した俺様は、身も心も疲れ果てて帰宅した。が、すげー調子が悪い。異常な眠さと異様な不快感にのた打ち回りつつ、布団で寝込んでしまった。その前にNHKスペシャルはちゃっかりビデオ予約しておいた。
 目覚めるともう1時過ぎ。とりあえず風呂に入ってまた布団にもぐりこんだが、今度は目が冴えて寝付けない。不快だ。
 やむなく起き出して、ぼんやりネット撃沈される(やっぱ受身であるべきだよな)。ネットの海は紛争が絶えず、行く雲の形は絶えず移ろい行き、世は並べて平和である(意味不明)。
 ふとDiablo2の情報を検索したら、7/1に発売の文字が。待ってました! そろそろDiablo2のページを作っておくか。
 いい機会なので、新しい掲示板を立ち上げた。今は久遠さんからの借り物だが、久遠さんとの関係を見直したい(手を切りたいの婉曲表現)ので、現掲示板は破棄、新掲示板に完全移行することにした。長い間どうもありがとうございました>久遠
 新掲示板は、あちゃいんさんのwebbbsを導入。通常のperlベースのものではなく、C++による掲示板だ。g++によるmakeの必要がある。前にairnetに導入しようとしたときには、airnetの環境にライブラリが足りず、makeできなかった。しかしあちゃいんさんはBig-netにも設置しているので、こちらなら確実なのだ。事実、問題なくmakeできた。
 設置したのは日記感想用BBSと雑談用。雑談用はらぶりぃである(謎)。

休出

2000年06月11日(日) 19時22分 暮らし 天気:くもりと雨

 雨の中、会社に向かった。仕事が終わらねー、と喚きつつマシンの近辺をうろうろ。本当に終わらない。HP-UXへのパッチ当てって、どうしてこんなに面倒なんだ!(これでもテキストをシェルに食わせて.depotを得てswinstallと簡略化されてはいる)。おまけにJava2の前提パッチとして挙げられているもののいくつかは、HPの個別パッチデポでも見つからない。リプレースされているのがあるようだが、それがJava2の前提パッチに反映されてないのだな。とりあえず当てられるだけ当てておく。
 それで起動すると......Java2アプリケーションが起動できないでやんの(T-T)(身も世もなく泣き崩れる)。パッチ当てる前は起動できてたやん。なぜだ、フィオリーナ!(あんまり関係ないよな)。

いろいろ買い物

2000年06月10日(土) 22時42分 暮らし 天気:くもりです

 昨日、無事にボーナスが支給されたので、さっそくモノを買い物に出かけた。
 秋葉に出かけ、まずは協栄に向かった。先週、ビクセンのファインダーが入るでしょう、といっていたのを憶えていたからだ。ところが店員さんに聞いてみると、まだ入ってないという。「電話を下さってからいらしていただければ......」と店員さんはいっていたが、なに、他に用事はあるのでお気になさらず。
 じゃあスターベースに行こうかと思ったが、先に若松に寄った。ここでWorkPadc3(8MB)を買うつもりだったのだ。が、店内を見回しても見当たらない。カウンターで言えば出してくれるのだろうが、張り紙も見当たらなかったので、他を当たってみた。結局、M専にて4万円でゲット。思ったより安かったな。さらに折りたたみキーボードを買おうと若松に引き返したが、今日は品切れの様子。うう、思ったより売れているようだな。確かに、そそるアイテムではある。
 やむなくここではボールペン内蔵スタイラスペンを買い(しかしサイズ違いでPalm3系にしか刺さらなかった)、T-Zoneに入ったが、ここでも折りたたみキーボードは見つからない。液晶保護シートと皮製バインダーを買って出た。
 その足で高架をくぐり、スターベースに。ここで店員さんにBORGに着くファインダーのことを聞くと、いろいろ出してくれた。MIZARやタカハシのモノがここにはあった。MIZARの変な形の正立ファインダーはそそるが、口径が20mmと小さいのでパス。50mm級のとしてはタカハシの物があったが、値段は本体だけで2万以上する。結局、タカハシの6*30+足を15000円で買った。帰ろうかと思ってスターベースの店内に目をやると、いろいろ面白いものに気づいた。まず、前から欲しかったミューロン180+経緯台セットがあったことだ。経緯台は本当に頑丈そうで、かなり大きいミューロン180も軽々とハンドリングできそうだった。微動ノブも軽いし、本当にそそる。近々、C8の中古をなるべく安く買うつもりだが、それでもこの望遠鏡なら観望用に欲しいところだ。またTeegul100という小さなカセグレン式望遠鏡も面白そうだった。100ED持ってなかったら買ったかも。またタカハシ製の50mm フィールドスコープが9800円。これもそそるが、荷物が多かったので今回はパス。その後は丸五に寄ってとんかつを食らって帰った。
 帰って、まずはファインダーに取り付けてみる。実は、家を出る前にBORGの付属部品をやりくりして、ヘリコイドにアメリカンサイズを挿せる構成が実現できることに気づいていたのだ。そこにファインダーを着ける。全長がタレットの無い分だけコンパクトになり、そこにファインダーがついたのでますます精悍なスタイルになった。かっこいいぜ、俺のスーパーボーグ!(どの辺がスーパーだ)。これなら携行バッグにもすぐに収まりそうだ。ファインダーの足もタカハシ製だが、鋳物のがっちりしたものだった。
 続いてWorkPadc3(PalmVx)のセットアップを。これは寝室の文机に置いてあるPortege660CDTに着けた。いろいろなアプリをインストールして、大型辞書を放り込んでも、まだ4MBも余っている。これは使い出がありそうだ。
 また日本語OS3.5は細かい部分で改良されているので、ますますPalmが使いやすくなっている。これでインターネットアクセスしようとは思わないが、可能性はいろんな意味で開けている機械だ。

News23でのR.村上 v.s. 筑紫哲也

2000年06月09日(金) 23時39分 テレビ

 この間インターネット中継されたR.村上と筑紫哲也の対談が、News23で放映された。時間的に15分程度のごく短いものだったので、ほとんど要約というレベルだった。まあ移り気な視聴者は深い議論なんざ聞きたくないのだろう。
 対談そのものは筑紫による「共生虫」の予言性に対する指摘に始まった。村上は自分の中で"引きこもり"をシミュレートしたらああなっただけだとかわす。
 対談では、'90年代に入っての相次ぐ経済的社会的破綻を子供たちがつぶさに見て、大人への信頼を喪失した点を指摘している。また少年の犯罪に対する社会全体のばかげて過敏な反応が、自己の位置を見失って犯罪に走る少年たち(とは限らないと思うが)に付け入る隙を与えているとも指摘している。
 これはどういう意味か。大きな犯罪を起こした少年たちの言動を見ていると、何か漠然としたもの、例えば学校、例えば社会に対する復讐というニュアンスが引き出される。この対談でも語られたように、語彙の少ない少年たちの言葉を額面どおり受け取るのは危険だ。だが漠然とした目標に向けられた漠然とした感情というものの存在は明らかだ。そこで自分が起こした犯罪に対し、社会全体があたかもこの世の終わりのような反応を示すことは、犯罪者だけでなく、その予備軍たる少年たちにも達成感を与えてしまうということだと思われる。
 村上は、「子供はもっと愚かであっていいのでは」という。まだ幼いうちからなにかを悟ったように感じ、未来への閉塞感を抱く子供の多いことに、村上は懸念を抱いているようだ。
 それと矛盾するようだが、と村上は前置きを置いて、「戦略的に生きろ」とも語った。自分が何をしたいかを見極め、それを達成していくような生き方をしろというのだ。
 しかしこの前後の論理の乖離は大きい。悟ること、何か結論を出すことを回避しながら、自分の進む道を見極めるというのは本当に可能なのだろうか。この辺、実は村上もまだ未整理の問題なのだと感じた点だ。
 一方筑紫は「モデルの不在」を指摘した。戦前は大将か大臣か、戦後はもう少し具現化して本田総一郎やビル・ゲイツ(マジかよ)か、というモデルがあり、それを目指すというある意味戦略的な生き方が可能だった。ところが今、少年たちには成りたい者がないというのだ。そして筑紫は、そこには肯定的な意味もあるという。多様な生き方を、自分で決めることができるのだから。しかし「モデル探し」をしてしまうのは、これはもう人情というものではないだろうか。
 僕が感じたのは、少年たちの"語る技術"の貧困さは、彼ら自身を苦しめているのではないかというものだ。人間は苦痛を感じたらそれを人に訴えたり、訴えることが出来なくても自分の内部で言語化してその根源と対決することができる。しかし今、子供たちは語ることが苦手になっている。語るということは語彙だけの問題ではない。まず語るべき事項の持つ意味性、それら相互の関連する論理性をも理解し、きちんと行使することが重要だ。また語るべき事項が、現代ではあまりにも複雑になりすぎていることも指摘できるだろう。「ちびくろサンボ」が善だった、あるいは悪だった時代のなんと単純だったことか。
 "語る技術"は、語彙を習得し、それを文法に沿って幾度となく繰り返し使用することで得られるものだ。そこには必ず訓練という要素が必要とされるだろう。しかし教育の現場では訓練という要素が次第に軽視されているように感じている。「個性」という魔物に囚われすぎて、軍隊の記憶を呼び覚まさせる訓練という要素を、現場の教師が次第に排除しつつあるのではないかと勘ぐってしまう。
 語る、ということは人間の生活史全てに関わってくるものだから、いずれにせよ少年に自らを積極的に語らせるように、社会の様々な局面で働きかけていくのが筋ではないだろうか。
 この対談、時々インターネットのBBSでのメッセージを拾い読みしながら進んだ。この点だけはインターネット公開の意味があったといえるだろう。
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