Strange Days

2000年08月31日(木曜日)

テレスコマイクロ活用

23時55分 デジタルカメラ

 買ったはいいが、E950専用望遠レンズと化していたテレスコマイクロだが、いろんな活用法があるのが楽しい。単なる望遠鏡として見ても、意外に像がシャープなのが凄いなと思った。夜、雲の切れ間からのぞく星に向けてみたのだが、ちらりと見えた土星も木星も、小さくシャープな像を結んでいた。8倍で実視野が6.5度ということは見かけ視野50度強と結構広い。空をざっと眺めるには良いかもしれない。また手持ちの顕微鏡としてもなかなか楽しい。本体だけなら20倍、クローズアップレンズを着けると最大60倍にまで拡大可能になる。これでミジンコでも観察したらと思うと楽しそうで身震いする(変かも)。もっとも、このテレスコの特性なのかどうなのか、焦点深度が非常に浅いので、手持ちでは大変な忍耐を必要とする。微細な構造を眺めようとすると気が狂いそうになる。三脚に着けてマクロ・スライダーとかいう部品にかませると良いそうだ。
 このところ、なぜだかなぜか顕微鏡が欲しくなって、NIKONのファーブル系統のカタログを眺めては買おうかなあと思ったりする。ファーブルシリーズは20倍のポータブル顕微鏡だ。20倍の顕微鏡というとなんだかやたら倍率が低そうだが、テレスコで試したかぎり相当細かいものが見えるようだ。またファーブルは双眼実体顕微鏡なので、焦点位置のモノが立体的に見えるという特性をもっているらしい。ミジンコが立体的に見えるなんて楽しそうだ(ミジンコにこだわるなあ)。これをもって森をさ迷ってみたい。どこか疲れているのか? > ワシ

何か視線を感じる

17時44分 暮らし 天気:久しぶりに雨のちくもり

 新しい座席は職場の水場のすぐ傍だ。この水場、昼時になると歯を磨く人々が群れるところなのだ。以前は水場の傍はマシン置き場だったので、歯磨きの面々はなんとなくマシンの方をボーっと眺めながら歯を磨く癖がついてしまったようだ。今、マシン置き場の跡地には僕を含む面々がいる。歯磨き連の習慣は変わらない。おかげで昼時になるたびに歯磨き連になんとなく眺められるという状況が発生してしまうわけだ。なんとなく視線を上げづらい状況で困っちゃう。
 水場との仕切りの高さが視線を妨げるでもなく、しかしもたれるにはちょうど良すぎるのも一因と思う。仕切りの上端に有刺鉄線でも張り巡らせてはどうか(危ないって)。いっそ、昼時にはなにかパフォーマンスをやって歯磨き連からおひねりを頂戴するか(芸人か)。

2000年08月30日(水曜日)

休むのだ

17時43分 暮らし 天気:晴れ

 朝、目覚めると窓際で扇風機がガラガラ音を立てて回っていた。別にどうと言うこともない朝の情景だ。しかし、なにか異常な感じがある。身を起こすと、喉がガラガラになっていることに気づいた。それだけでなく、結構熱が出ているようだ。寝るときは平気だったのになあ。不思議に思いつつも会社に休む旨電話を入れた。
 布団に横になって鬱々と考えてると、漠然とした兆候らしきものがあったのに気づいた。職場の新しい席は、空調の風がもろに当たるところにある。それで喉がいがらっぽいなあと思ってはいたのだ。また星を見ながら、なんとなくトリップしたような、何かずれたような感覚をおぼえてもいた。あれは要するに発熱していたのだろう。ビールのせいじゃなかったんだ。
 一度起きだし、日記を書いて遅い朝食を取ったほかは、ひたすら寝た一日だった。

2000年08月29日(火曜日)

いっぱい星を見ました

23時55分 星見

 帰宅してすぐ、ベランダに出てさそり座にMIZAR20*80を向けた。今夜もこの時刻は薄雲が多く、なかなか良くは見えない。M7もいささか精彩を欠き、主要な星が10個ほど見えただけだった。M8も今夜は散光が感じられなかった。
 今年の夏はこれで終わりかなと思った。
 ふと横になったら、意識が1:00にワープしてしまった。なんという宇宙の神秘!(寝ただけだってば) 起き出してビクセン60mmを木星に向けた。
 昨日整備した結果、うるさい迷光や滲みは少なくなってはいる。しかし解像度は上がらない。この古代の60mmでは限界かな。木星は縞2本が限度だ。今夜はガリレオ衛星は東に固まっている。
 この60mmを撤去し、再びC8EX+GP赤道儀を取り出した。今夜は風が強いせいか、シーイングは7/10程度。しかし透明度は宵の口の朧霞が嘘のような冴え冴えとした夜空になっている。本当に低高度まで星がくっきりと見えるのだ。LV40を着けて木星を導入し、LV4に替えた。限界に近い500倍の視界は、さすがにぼんやりし始めている。しかしシンチレーションが安定した瞬間には木星の表面に縞が蛇行する様子まではっきりと見える。土星もカッシーニの間隙がくっきり見え、本体の縞もわかる。しかしあまりにもシンチレーションが安定しない。
 これはもしかしてC8EXの筒内気流のせいかと思い、100EDと取り替えてみた。こちらで見てもシンチレーションは安定してないので、やはり高空の風のせいだろうと判断した。100EDでは木星の縞はかなり薄らぐが、それでも目を凝らすと蛇行する様子が識別できた。土星もカッシーニの間隙はくっきり見える。しかし本体の縞は見えない。
 100EDにLV40を着けて木星周辺を流していると、やたらと明るい星が目に飛び込んできた。ワイドビノで見ると、木星と土星がちょうどヒアデス星団のV字型を挟み込んでいるのが見えた。そういえば、と思ってその上をのぞくと、プレアデスが美しく輝いていた。そこで80mm双眼鏡を部屋の前の通路に持ち出し、かなり高度があるプレアデス星団に向けた。MIZAR20*80の視界にすっぽり収まったプレアデス星団は、暗い背景に冴え冴えと浮かぶ星の中州のように見えた。プレアデスを見るにはこのMIZAR20*80がベストだ。しかしヒアデス星団は広すぎて、80mm双眼鏡の視界には収まらない。同じMIZARの10*42の方が向いていそうだ。
 2時を過ぎたこの時刻、東の空のこの辺りは空の中で一番華やかな一角だ。高いところにはプレアデス星団がぎっしりと詰まって光を放ち、その真下には土星と木星が鋭い光を放っている。そしてその間をヒアデス星団のV字が敷き詰められているのだ。しばしその華やかな辺りをうろついた。
 撤収しようと三脚を畳み始めたとき、ヒアデス星団の真下に見覚えある星の配列を見つけた。そうか、もうオリオン座が上り始めているのだ。早速双眼鏡を向けると、低高度にも関わらずオリオン座はくっきりと見えた。久しぶりに見るオリオン大星雲も、堂々とした輝きを放っている。
 部屋に戻り、100EDでオリオン大星雲を見た。まだ高度が低いのだが、ちゃんとトラペジウムは4つまで分解できた。散光はさすがにM8より強烈だ。鳥が羽を広げたような形を、はっきりと識別できる。思わず珈琲が欲しくなった。
 C8EXでオリオン大星雲を見た。こちらはさすがに100EDよりさらに明るい。しかし色を感じられるほどではない。もっと高度が上がれば別かもしれない。トラペジウムもきちんと分離できる。
 そんなわけで今夜は大満足の一日だった。明日も観望できるかな。

引っ越し完了

17時41分 暮らし 天気:晴れだぜ、これは

 後回しにしていた職場マシン室のHPマシンをセッティングした。ホームページがある機械じゃないぞ、ヒューレット・パッカード社のUNIXワークステーションだ。
 最初、HPUXの自IPアドレスもSolarisと同じく/etc/hosts変更だけで良かろうと思っていたのだが、これではダメなようで起動時にNFS関係がエラーになる。というか起動シーケンスで延々と待ってしまう。なのでSAMから変更してやらなければならないようだ。他にも細々とした設定ファイルがあるのだろう。さらにゲートウェイを設定し直せば他のネットワークからでも見えるようになった。これで引っ越しは一段落だ。

2000年08月28日(月曜日)

古いアイピースを分解してみた

23時55分 星見

 昨日届いた望遠鏡を組み立ててみた。この望遠鏡、載ってる三脚がでかくて、下手するとGP赤道儀+C8EXよりもかさばりそうだ。組み立てた望遠鏡で深夜の木星、土星を眺めてみた。木星は縞2本がくっきり見える。見え方としては100ED的だが、あれよりは視界がずっと暗い。しかし案外に見えるのには驚いた。ただしレンズが汚れているので、視点によっては像がハローをまとってしまう。土星は輪がくっきり見え(あたりまえ)、本体の縞は見えないというところ。もちろんカッシーニの間隙は見えるはずが......あれ、見えてないか?(爆) 確かに輪の端の方に黒い線が走っているように見える。案外に細かいところまで見えるようだ。Fが長いせいか、像は高倍率でもそれなりものだ。ただし暗い。
 レンズの汚れが気になったので、やはり清掃してみることにした。まずアイピースだ。アイピースのレンズ面や内部にゴミが付着しているのが気になった。そこで分解清掃を試みることにした。まあ失敗してもこれ以上悪くはなるまい。
 最初にねじ込み式K26mm。これはボディをねじってみると望遠鏡側の筒が外れ、その奥にあるレンズ押さえが落ちてきた。レンズを取り出したティッシュで拭いてやり、yamacaさんのページを参照しながら組み立てなおした。ケルナーは2群3枚構成だが、その通りのレンズ構成になっている。奇妙なことに、レンズ面の内向きの側に指紋がべたべたとついている。僕がやったのだろうか。いや、ここまで無神経とは思えないし、分解したという記憶もない。これは昔親戚の子に貸したときに分解されたのだろう。彼は好奇心旺盛だったからこういう小物を分解せずに居られなかったのだろう。そうだ、そうに違いない。~
 ふと、指紋照合すれば僕がやったのかどうかが分かるのではないかと気づいた......。早速指紋をきれいに拭い取って証拠隠滅。これで美しい想い出は永遠のものだ(なにがだ)。~
 K20mmも同じ構造だ。こちらはyamacaさんのページにあるものと同じようだ。20数年も同じ構造のアイピースを作ってきたのだな。ケルナー式はレンズの大きさが印象的だった。意外なことに、対物側のレンズにはコーティングを施してあるようだ。目レンズ側はわからなかった。~
 次にOr.9mmを分解した。モノはyamacaさんのページにあるものとやはり同じ。ただし最近のものは分解できないそうだ。こちらはレンズ押さえを抜くと、細い金属(銅?)の筒にレンズが入っていた。レンズは2群4枚構成。2群のレンズをエボナイト製の筒で分けている。オルソスコピックと称して入るが、実際にはプローゼル式だった。どっちのレンズも凄く小さい。これで充分物足りるのならば、ツァイスサイズのスリーブでも充分そうだ。Or.6mmは奇妙なことに目側からセパレータ、レンズ2群の順に入っている。この配列は明らかにおかしいのでセパレータを真中に入れなおした。こちらのレンズはさらに小さい。~
 無水アルコールの類がなかったため、十分な清掃は出来なかったが、アイピース内部にゴミがたまっている状況は改善できた。明日はこれで空を眺めてみよう。~

職場の引越し

17時36分 暮らし 天気:なんだか晴れっぽい雰囲気

 朝一で居場所を移動した。既に荷物はまとめておいたので、それらを新しい場所の机に移動させるだけだ。荷物の移動は30分もかからなかった。ただしOAマシンのIPアドレスも新しいものを与えられたのだが、これはまだ社外のインターネットへと出て行けない。新たに申請しなおす必要がありそうだ。しかし実は旧IPアドレスでも使えるようなので、新IPアドレスでの申請が済むまでこっそり使う悪だくみな俺様なり。
 自席の移動はすぐ済んだが、新しいマシン室に移ったマシン群のセッティングが大変だった。なにせ、ケーブル類を全部接続しなおさなければならないのだから。まあ結構いいかげんにケーブルを選別し、それらをこれまた適当に接続してゆくと、さしたる問題もなく旧に復した。しかし一番大変そうなHPのUNIX機は後回しだ。これ、IPアドレスはどうやって変えるんだろう。

2000年08月27日(日曜日)

またまたまた星を見た

23時55分 星見

 今夜もC8EXで星を見た。しかし今夜も雲が多いので、シーイングは5/10程度だろうか。
 まずは土星に向けた。土星はうす雲の中にあり、また濃い雲に覆われそうな最悪の状況だった。しかし視界の中に浮かぶ土星は、意外にも良く見えた。カッシーニの間隙は楽勝で、エンケの間隙も見えているような気がしなくもなかった。また本体の縞もはっきり見えた。こんな状況でここまで見えるとはなあ。もっとすっきりした透明な空で眺めてみたいものだ。
 しかし観望を始めて10分もしないうちに濃い雲が土星を覆い尽くし、すぐに木星も同様の憂き目にあった。今夜の観望はここまでだ。

世紀を越えて

22時35分 テレビ

 今回の「世紀を超えて」は、超微細機械の話題だった。
 日本ではその全長がミリ単位、構成部品に至ってはマイクロメートル単位の「マイクロマシン」の研究が進んでいる。マイクロマシンの研究は'90年代初頭に一部の学者たちが研究会を作り、進めてきたものだ。この微細な機械の製造には、マイクロプロセッサの製造技術が応用されている。つまり感光、エッチングという工程をいくつも組み合わせ、最終的に超微細な部品の製造を実現するのだ。
 マイクロマシンはどのような用途に使われるのだろう。まず医療への応用が期待されている。医療の現場では、手術の際に患者に与えるダメージを減少させることを目論み、できるだけ切開が少なくて済むマイクロマシンの開発が急がれている。さらに体外からの切開では到達が難しい体内奥深くへのアクセスや、脳内の動脈瘤などの微細な患部へのアクセスへの適用も考えられている。また原発の内部など、人によるアクセスが難しい入り組んだ場所への適用も考えられている。特に原発の熱系統などの過酷な場所では、微細な損傷が大きな事故につながる可能性が高い。そこで微細な損傷の検知も可能なマイクロマシンへの期待が大きいというわけだ。
 アメリカではさらに小さなナノマシンの概念が取り上げられている。'60年代にファインマンが予言したように、いまや原子一個の操作すら可能になっている。そこでこの原子配列の加工技術により、原子数個で構成されるほどの微細な部品を作ろうという試みが続けられているのだ。原子数個というサイズの部品になると、原子そのものが内部構造をもっている関係で原子同士はある程度自由度のある結びつきをする。そのため、ナノマシンが動作する状況のシミュレーションを見ると、ナノマシン全体がうねうねと動き、なにや生物的でいかがわしく感じられるのが楽しい。
 ナノマシンはやはり医療への適用が考えられている。これほどのサイズになると細胞一つ一つの処置が可能になるので、人体内部で絶えず欠損し、癌化の危険性がある損傷細胞を修復することが可能になるという。
 それにしてもこれほど小さな機械になると、その存在を検出したり排除したりするのが難しくなるだろうと思われる。万が一暴走したらどう対処するつもりなのか、応用の可能性はようやく検討され始めたばかりというのが実情だろう。

荷物いろいろ

17時34分 暮らし 天気:晴れかな

 実家から荷物がいろいろ届いた。実は昨夜のうちに運送屋がやってきていたのだが、その時刻にうたた寝していて気づかなかったようだ。
 再送を依頼し、今朝のうちに届いた。物は実家に死蔵されていた天体望遠鏡、そして様々な雑貨だ。この雑貨の多くが、実はかのオリジナル出前一丁だったりする。横浜ではなぜか見つからないので、わざわざ送ってくれたのだ。さっそく一つ作って食ったが、相変わらず出前一丁だった(なにがだ)。

2000年08月26日(土曜日)

サイエンスアイ

23時55分 テレビ

 23:30からのサイエンス・アイは例の国際宇宙ステーションの話題だ。これはNASA、ESA、NASDA、そしてロシア宇宙局などが参加している恒久的な宇宙ステーション計画のことだ。ロシアの財政難などによりかれこれ2年以上遅れている計画だが、番組を見た限りではロシアだけを責めるわけにはいかないようだ。最初の一歩から、すなわちレーガン政権下でFreedomとして企画されたときから、ボタンの掛け違いは始まっていたようだ。当時のNASAは計画を生き残らせるため、意図的に見積額を低く算定したのだ。そして実は技術的にもNASA単独では遂行できないことが明らかになった。スカイラブ以来、長期滞在の経験がないアメリカは、恒久的な宇宙ステーションの実現に必須な空気、水のリサイクル技術を持っていなかったのだ。つまり、計画の実現にはロシアの参加が不可欠だったということになるのだろう。また資金的にもアメリカ単独ではまったく賄えないことは明らかだった。アメリカが広げた大風呂敷を実現するために、他の国の参加は必然だったのだ。やれやれだ。

また星を見る

23時55分 星見

 今夜も空はよろしくない。今夜もシーイングは4/10から5/10程度。しかし木星の輝きは明瞭だったので、今夜はC8EXで星を見ることにした。
 このC8EX、10年落ちなのだが、丁寧に使われてきたのか鏡面の傷は見られない。もう10年は使えそうだ。これを100EDと入れ換えにGP赤道儀に載せる。そして木星を視野に入れようとした......。あれれ、なかなか入らないな。ファインダーの軸が狂っているのかもしれない。しばらく放っていたから。それでもなんとか無理やりに視界に納めようとしたが、ダメ。とうとう木星は桟に隠れてファインダーからは見えなくなった。そこで本体の方でサーチしてみたが、まったく星が見えない。ピントが合ってないのか?
 何がなんだかわからない。今までにない事態だ。いくらなんでも、LV40で50倍の視界には、星の一つでも入るだろう。しかしやがて、視界が明るくなったり暗くなったりすることがあるのに気づいた。これはピントが大きく狂い、星像が拡散してしまったためだろう。そこで明るくなるところまで望遠鏡を動かし、ピントを明るさが凝縮する方に動かし、また明るい点を探すというのを繰り返した。やがて、レコード状の光が目に入った。これは明らかにピントが少し狂った星像だ。そしてピントを合わすと、思いもしなかったくらい大きな木星が目に飛び込んできた。ムムム、ということは......。アイピースを良く見るとLV40ではなくLV4だった。500倍で捜天していたとは......。500倍で見る木星像は、結構はっきりと見えた。特に大赤斑とそれを巡る縞の蛇行が見えたのはびっくりだった。100EDではさすがにここまでは見えない。うーむ、やはり惑星観望用にはこっちが向いているな。

戸塚で遊ぼう

19時30分 暮らし 天気:晴れだとされる

 昼前に目覚めた。昨夜は2:00には寝たので当然だ。フレッツアイを導入して以来、テレホーダイにまったく縛られることが無くなったので、大変健康的な生活を送れるようになった。実際、思いついたらアクセスできるという生活は、非常に便利だ。
 今日は戸塚の図書館に行こうと思った。戸塚は仕事帰りに便利なのだが、PC関係のショップが全くないのであまり利用してなかったのだ。
 戸塚までは通勤定期があるので、現金を使わなくてよい。そこからまずは戸塚小学校を目指した。その近くにうまいラーメン屋があるらしい。途中、駅前でフリーマーケットを冷やかしていった。Tシャツの安いのがたくさんあったので、いくつか買っておけばよかった。
 ラーメン屋は戸塚小学校の前、国道方面に抜ける道にあった。店に入り、チャーシューと餃子を頼んだ。出された水は当たり前の水のようだ。注文すると、まずは麺をゆで始めた。ここはラーメンとはいわず「支那そば」と称するようだ。中国の右翼につるし上げを食わないか心配だ。
 麺はタイマーを使ってきっちりゆでている。そのせいか、麺のゆで加減は結構なものだった。そこにしょうゆ味のスープを満たし、細切りの支那竹、柔らかめのチャーシュー、そして茎ワカメを添えている。上がったとき、店主が「言ってくださればネギ油を足しますから」といった。そういう目で見ると、スープには油っけがほとんどない。恐らく海鮮由来のうま味に味付けしたものと思われる。なんとなく、我が故郷のモリスと似ている。が、モリスがそれを塩味にして徹底徹尾あっさり味にしたのに対し、この店は強いしょうゆ味にしてさっぱりしているが濃厚な味付けにしている。これでももの足らない客がいることは、店主の言葉からもうかがえる。
 このクソ暑い最中にこってり味なぞごめんしたいので、この味付けは大変よろしい。一方、餃子はふつうの餃子だが、調理の間合いを見て支那そばと一緒に出るように調節してくれた。僕が出るのと入れ換わりに客が入ってきたが、それ以外に客は見かけなかった。時間もあるのだろう。繁盛して欲しい店である。
 店を出て駅方面にとって返し、程なく戸塚の図書館に着いた。ここは公民館などの機能を併せ持っているようで、図書館は1階を占有している。藤沢や泉区の図書館は数階にまたがっているので、ここは大した規模ではないのだろうかと思っていた。しかし1階と言ってもかなりの広面積で、内容的にも他に劣らない程度の充実ぶりだった。夏休みも終わりということで、宿題をやり残している学生が殺到しているのだろう、机は皆埋まっていた。あまつさえ、それらは朝一で抽選されたのだとか。交通の要所にある図書館ということでか、利用者は泉区のそれの倍以上はいるようだ。恐るべき混雑ぶりだった。
 ここでは増谷文雄の著作を探して歩いた。横浜市の図書検索によれば、この戸塚にも置いてあるはずなのだが、一向に見つからない。宗教関係のコーナーにも東洋哲学のコーナーにもない。貸出中かもしれない。それでヴィトゲンシュタイン(ウィトゲンシュタインと書くより物々しくて良い)の科学哲学考察を解説した「科学の誘惑に抗して」という本を読み始めたが、例によって難しくて数ページ読んではしばし考え込むという始末だった。まあ理解率35%程度かな。開館時間が迫ったので図書館を辞した。
 帰り道、駅前のミスドに寄ってPalm+PPKで日記をつけようかと思ったのだが、キャピキャピした学生が群れていたので2階は満席だろうと観念して帰宅した。

2000年08月25日(金曜日)

星を見よう

23時55分 星見

 帰省以降、まともに星を見る機会が全くない。空は5月のような薄曇り続きで、夜でも星が見えないことおびただしい。今年の太平洋高気圧は温室育ちのひ弱なボーヤなようだぜ。ブルワーカーで鍛えてこい!(爆)
 そんなこんなで真っ白な空に星を見る気力をドレイン(1レベルダウン)され続けてきた俺様だが、今宵はついにぶちきれてとにかく望遠鏡を空に向けたのだった。
 時刻は既に1:00過ぎ。100EDをまず向けたのは東に上りつつある木星だった。今夜のシーイングは4/10あるいは5/10。細かい星がまったく見えない。これでも木星は結構見えた。縞が蛇行する様子がおぼろげにうかがえる。ガリレオ衛星も鋭い光を放っている。また土星の輪もくっきりと見えたが、こちらはカッシーニの間隙を識別するまでは至らなかった。はあ、こんなんで夏が終わってしまう。

引っ越し準備

19時28分 暮らし 天気:晴れてるようですな

 いよいよこの土日に職場の機械類が引っ越してしまう。今までは直近2mにあって、大変い便利だったのだが、これからは1階と2階に離れ離れになってしまう。大変不便だ。「大ふへん者」と書いた幟でも背負っとこうかいな。
 移設後は、1階まで赴くのは面倒なので、きっと各種リモートアクセスでコントロールすることになるだろう。むむむ、である。
 機械が引っ越すついでに自席もちょいと移動するので、うずたかく積み上がった書類を鬼のように整理した。出てくる出てくる、やばい書類が(爆)。さっさと隠滅に励むのである。おかげで机上は、はあすっきり。

2000年08月24日(木曜日)

引越しですが

20時27分 暮らし 天気:これで晴れ......?

 職場の引越しがある。今、自分の机と、いつも使っているマシン群はほぼ隣り合わせで、メインテナンスが大層楽なのだが、これが別の階に離れ離れにされてしまうというのだ。まあリモートで入ればいいのではあるが。
 おかげで今日は移動する機械たちの整理に潰されてしまい、明日もそうなるだろう。移動後の来週も設定に追われるだろう。まあマシン室が事務室から遠く離れるので、居眠りしても気づかれないことだけが救いだが(って寝るなよ)。

2000年08月23日(水曜日)

星が見えないのだ

22時25分 暮らし 天気:くもりだなあ

 それにしても、今年の空はどうなってしまったのだろう。夏の後半というのに、空は毎日曇ってばかりだ。特に夜には雲がどこからともなく湧いてくる。大きな雲がないなと思っても、夜空を見ると霞がかかって青く光っている。いったい、七月の澄んだ空はどこに消えてしまったのだろう。
 週間天気予報を見ても、毎日必ず雲が登場しているではないか。ええいお天道め、なにゆえ身を隠す。そこまで拙僧を愚弄するか(いつ出家した)。星は見えんし湿気はあるしで、ワシャかなわんよ。

2000年08月22日(火曜日)

JSP

20時20分 コンピュータ

 しかしJSPってのはよく分からんな。動的に有象無象が生成されるモノドモというのは流行りだが、ゼロから学ぶ方にすればなかなか概念を把握しがたい代物でもある。確かに便利そうなのだが、単純なWebフォームを代替するくらいならCGIでもいいじゃんと思ったりするわけだ。単純明快だったServletが懐かしい(ってこっちも現役の概念だぜ)。
 Airnetのフレッツアイ対応サービスではグローバル固定IPアドレス割り当てサービスを始めると宣言しているので、お家サーバが実現できるじゃないかとワクワクしている。でもUNIXマガジンを読んでセキュリティを勉強しないとね。まずは人の踏み台にされないようにしなければ。

よく寝ました

17時19分 暮らし 天気:晴れてるといえなくもないが

 昨夜寝たのが1:00頃。起きたのは9:00頃だった。久しぶりに平日に十分な睡眠時間を取った。ってダメ社会人です。
 しかしこれほど寝てもまだ体のだるさは取れない。夏ばてだろうから当然だろうが、ある意味睡眠不足以上につらいのだ。毎日何リットルも汗かいてるからなあ。

2000年08月21日(月曜日)

よく寝ましょう

20時18分 暮らし 天気:くもっとるやんけ

 エアコンつけっぱなしの生活が悪いのか、くもり勝ちの天気が悪いのか、食生活が悪いのか、それともそれら全てが悪いのかどうか知れないのだが、くしゃみが出る出る。鼻に定期的に刺激物を吹き付けられるような感じで、突然鼻の奥がむずむずして、涙がぼろぼろ出るのだ。午後遅くになってようやく沈静化したが、ハウスダストのアレルギーなのかねえ。
 こういうときには良く寝るに限ると、明日はフレックスで遅く出社することにした。しかし晴れないねえ。

2000年08月20日(日曜日)

NHKスペシャル「世紀を越えて」

23時15分 テレビ

 今夜は久しぶりに「世紀を越えて」があった。新シリーズではテクノロジーの発達に焦点を合わせるようだ。
 去年、日産から新型車の発表があり、世界中の自動車関係者の注目を集めた。注目を集めたのは、実は新型の変速機だった。この車は新しいタイプの無断階変速機(CVT)を搭載していたのだ。
 CVTは90年代に入って相次いで登場したが、その概念は古く、自動車の登場とほぼ同時だったといってよい。動力軸の終点と駆動軸の始点に円盤を取り付け、その二つを直行させて接触させる。その接触点を変えることで駆動力を無断階に伝達できるというのが原型だ。しかし初期のCVTは伝達部分の磨耗が激しく、車の能力が向上するに従って姿を消した。
 '70年代、オイルショックがCVTの再登場を促した。当時も今も変速機の主流はギアを使った機械式変速機だが、これは大動力の伝達にも耐えられるものの、機械内部での動力ロスが大きいという欠点があった。これを改善すれば莫大な量の石油を節約できると見たアメリカは、国を挙げてのCVT開発に乗り出したのだ。
 この動きを日本のメーカーも見ていた。動力ロスの少ないCVTを実用化できれば、自動車の燃費をさらに伸ばせる。メーカーの一つ、日本精工でも、若手技術者をCVT開発要員に当てて、独自に開発を始めた。
 CVTにはいくつもの形式がある。'90年代初頭に富士重工が開発したのはベルト式の物だが、これは大動力の駆動には向かないとされる。またベルト自身のフリクション・ロスも大きい。伝達に流体を使う形式も考えられるが、原理的に動力ロスが非常に大きくなってしまう。CVTは結局隔たった動力軸と出力軸の間をなにで繋ぐかが問題になる。日本精工が選んだのは、アメリカの発明家が研究していたローラーを使用する形式だった。二つの軸の端に取り付けたディスクで二つのローラーを挟む。このローラーの角度を変化させると、それぞれのディスクでの接触位置が変化する。これにより各軸間の伝達比を自由に変化させることができる。日本精工の技術者はこの発明家との共同研究を進めた。
 最初の試作機を搭載しての耐久試験は、しかし潤滑油に起因する障害で失敗に終わった。このCVTでは特殊なオイルを使って各軸、各ローラー間の焼きつきを防ごうとしている。オイルは各部品の接触面に膜を作り、ごく小さな間隙を確保することで接触を防ぐ。しかしこのままでは部品間にすべりを生じ、動力の伝達ロスが大きくなる。この発明の核心はオイルの性質にある。すなわち高圧がかかると固化する特殊なオイルを使い、肝心の接触部ですべりを防ごうというものなのだ。ところがこのオイルは超高温、高圧になる接触部の過酷な状況に耐えられず、分子がばらばらに切断されてオイルとしての用を成さなくなってしまったのだ。
 日本に帰国した技術者は、より耐久性の高いオイルを求めて日本石油の技術者とコンタクトを取った。この技術者は潤滑性の高い新型オイルを相次いでリリースしていたのだが、過酷条件で確実に「滑らない」オイルの開発という要求に驚いたという。しかし500に上る物質の分子形状を洗い直し、検討に検討を重ねた結果、意外なヒントにより滑る/滑らないという二律相反する性質のオイルを開発することに成功した。ヒントは作業服に縫い付けられたマジックテープだった。マジックテープは水平方向に引くと決してはがれないが、垂直に引くと簡単に外れる。このマジックテープの接触部の形状をヒントに、新しい潤滑油の開発が成されたのだ。
 このオイルを得たCVT開発は新しい段階に進んだが、ここでまたしても新しい課題に直面した。このオイルを用いての耐久テストを実施中、部品の破損という深刻な問題が発生したのだ。原因は部品を形成している鉄の質にあった。当時最高級の鉄を用いていたのだが、それでも僅かな不純物が混入している。通常の部品としてならなんら問題にならない程度の不純物が、CVT内部の苛酷環境では破断を生むのだ。
 この問題は素材のメーカー、山陽特殊製鋼に委ねられた。高純度の鉄は、溶解した鉄に吸引ポンプを差し込み、含有している酸素を吸い出すことで得られる。しかしこの吸引ポンプ差込のとき、径の大きな吸引ポンプにスラグが取り込まれ、これが溶け出してしまうことで不純物を残す要因となっていた。この問題は現場の職人のアイデアで解消されたという。吸引ポンプに薄い金属で出来た覆い(陣笠という)を着けるのだ。この覆いは溶解した鉄に差し込んだときに、表面のスラグを取り除けてくれるが、間もなく完全に溶解してしまう。この結果、吸引口にはスラグが取り込まれず、高純度の鉄を得ることが出来た。
 いわば究極のオイル、究極の鉄を得たことで、CVTはいよいよ実用間近と思われた。この頃には日産が研究に参加し、実用化に向けて走り出していたのだ。ところが、ここでまたしても大問題に突き当たった。
 日産は大出力向けのこの方式のCVTを、自社の大排気量車に搭載したいと考えた。そこで小型車向けに考えられていたプロジェクトを改め、大動力を伝達可能な設計に改めた。そしてこれを耐久試験にかけたところ、今度はローラーの破断という恐ろしい現象に見舞われるようになったのだ。現象的には、ローラーの破断面に白色組織と呼ばれる変質が表れていた。
 全ての関係者による原因究明が進められた結果、意外な事実が明らかになった。このCVTのために開発された新型オイルと、強い相関を持つことが分かったのだ。日石の技術者は丹念にチェックを行い、最後にようやく原因を突き止めた。オイルの添加物に問題があったのだ。
 オイルは基本となる潤滑油の他に、その性質を改善するために様々な添加物が加えられる。日石では耐久テストに向けての最後の調整として、硫黄化合物の一種を添加していた。ところがこの物質が苛酷環境で変質し、ローラーの表面を侵し、その内部に水素を浸透させてしまったのが白色組織の成因と考えられた。そしてこの化合物を別の物質に変えたところ、ついに問題は解決された。CVTはようやく実用化されたのだ。
 このCVTは市場に出るなり大きなインパクトを与えた。しかし既にCVTという技術に対する開発競争は激化している。このCVTはライバルメーカーによって調査され、これに打ち勝つ技術の開発が進められているのだ。この開発競争無くして20世紀における技術の進歩はあり得なかったろう。しかしその行き着く先を誰も考えてないのが面白い。速く走ることに夢中で、どこに向けて走っているのか、誰も確信していないのだ。果たして21世紀にも同じ傾向が続くのかは、まったく予見できないことだが。

ちょっとお出かけ

17時14分 暮らし 天気:くもり気味

 真夜中、0:00頃にちょっと横になっていたら、気づくと朝になっていた(滅)。いかんいかん、ちょっとゲームして寝なおそうとDiablo2をやっていたら昼を過ぎていた(続滅)。さらに出かけようかと思いつつ横になっていたら2時間ほど意識がワープしていた(完滅)。ダメじゃん。
 それでも16:00頃には湘南台方面に出かけた。この時刻ではもう図書館は閉館間近なので、駅前のKFCで鶏をむさぼり喰らいながら、Palm+PPKでもって日記を書いた。最近痛感するのだが、いかに入力がPPKで改善され様と、Palm側のエディタに4KB制限が付きまとっていては快適な入力は出来ない。本来そういう機械ではないので仕方ないのだが、やはりPalmのエディタは手薄だと思った。足らないものは自分で作れという格言はあるのだが、うーむ。
 その後は本屋で本を買い、ウェーブ・アイを冷やかして帰宅した。

2000年08月19日(土曜日)

NHKスペシャル「4大文明」

23時11分 テレビ

 21:00からのNHKスペシャルは「4大文明」最終回の「エピローグ謎のマヤ・アンデス」。
 今まで登場したエジプト、メソポタミア、インダス、そして中国の4大文明は、いずれもユーラシア大陸の周縁部に栄えた文明だ。これらの文明は長い距離を隔てながらも、陸路で到達できるという有利さから交通があり、それぞれの文明に影響を与え合った。これらの文明に似通った点が多いのは、実はそうした理由からなのだ。
 しかし地球上にはユーラシア大陸周縁部以外にも古代文明があった。それはユーラシア大陸とは広い海で隔離された別天地、アメリカ大陸にだった。
 マヤ文明は中米のメキシコ南部のユカタン半島に栄えた文明で、メソ・アメリカの文明という括りでいえば4500年ほど前に勃興したという。中米という隔絶した地にありながら、4大文明とさほど変わらぬ時期に勃興したという事実が面白い。
 4大文明がそれぞれ大河のほとりに興り、その豊かな水を灌漑で用いるという方法で農業を延ばしたのに対し、マヤ文明は灌漑を一切用いない焼き畑農業を採った。焼き畑農業は乾季の終わりに森を焼き開き、雨期の始まりとともに熱帯の豊富な雨が降り注ぐことで成り立つ。そのため、季節の変わり目を4大文明並みに、あるいはそれ以上に精密に知る必要があり、天文学が発達し、精密な暦が編まれた。そしてマヤ文明は巨大な神殿を築き、そこに無数の生け贄を捧げたのだ。
 マヤ文明が生け贄を盛んに捧げたのは、近縁のアステカ文明を見聞した欧州人たちの記録からもうかがえる(もっとも、マヤに比較するとアステカは「ひどすぎる」ものだったらしいが)。中米における文明は、やはり中米に栄えたオルメカ文明に端を発する。マヤやアステカの暦は、実はオルメカのそれを発展させたものだという説もあり、強い影響下にあったことは間違いない。そしてこのオルメカの頃には既に生け贄の風習があったようだ。中米の文明はある文明が衰退するとその周辺の別の部族が簒奪するという風に回転していったのだが、その結果中米では非常に等質性の高い文明形態が編まれていった。
 マヤの人々は太陽のことを恒久的な存在ではなく、人間からの働きかけがないと衰退してしまう存在だと考えた。太陽も養分を欲しがるというのだ。そして太陽の養分として最適なのが、人間の血だと考えられた。その結果、生け贄が非常に重視されることになる。天変地異があれば、雨が降らなければ、長雨ならば、頻繁に生け贄が捧げられた。
 生け贄が多かったのは彼らが残酷で命を軽んじていたからだとは限らない。メソ・アメリカの生命観の特徴は、この世はヒトをその他のものが取り囲み、対立するというものではなく、それらすべてが同じ世界に属するという点にある。キリスト教的な価値観のようにすべてをヒトの対立項に置くことで軽重を量ろうと考えるのではない。人の命と、太陽の健康とは等価なのだ。彼らは太陽に対して「思いやり」があったのかもしれない。しかし、生け贄にされる方は、いかに宗教的な価値観に裏打ちされていたといえど、やっぱりたまったものではなかったのではないだろうか。なにせ、生け贄は心臓をえぐり出され、生皮をはがれたそうだから。
 マヤ文明自身は西暦800年頃に突然衰退してしまう。番組では人口が増大して食料を賄えなくなったためという説を取っている。しかし異説もある。マヤ文明の暦に秘密があるという説だ。マヤ文明の暦は256年ごとに大きな周期を繰り返している。この大周期が文明の盛衰に当たるという文明観を持った結果、その256年が到来した頃(ちょうどA.D.800辺りだったらしい)に文明の終末を信じて都市から去ってしまったという説だ。もしそうならば、文明観が文明自身の寿命を決めたことになり、大変面白い説だと思う。番組の説に沿っていえば、文明の衰亡を信じた人々、特に農業に当たっている農奴が逃亡した結果、食料調達が不可能になって滅亡した、とも考えられる。また生け贄に勤しんだ結果、文明にとって最大の資源である人間を殺しすぎたとも考えられる。いずれにせよ、マヤ文明も4大文明と同じく人口増による飢饉で亡びた可能性はあるわけである。ここから蘇ったのは中国古代文明だけだ。
 マヤ文明はアステカ文明に受け継がれたが、これもちょうどスペイン人が到来する直前に滅亡状態になっている。
 しかし最盛期にスペイン人の侵略を受け、滅亡してしまった文明もある。インカ文明だ。
 インカ文明は、やはり4000年以上前に勃興したプレ・インカ文明に端を発する。それが長い間に発展し、スペイン人到来の頃、西暦1500年の頃にはアンデス山中にまたがる一大帝国として統一されていた。
 インカ帝国を支えたのは、高度差を利用した農業だった。高地ではトウモロコシやじゃがいも、低地では果物などを作り、栄養を確保していた。さらに、太平洋岸にまで降りて海藻も採っていたらしい。当然、海辺と高地の交易も盛んだったろう。こうして富が蓄えられていったのだ。
 インカの特色は、鉄器も文字も持たなかった点だ。しかし高度な天文学の知識があり、様々な天測用の建築物が建てられた。それが文字の替わりに知識を伝える一助を担ったのだろう。
 インカ帝国の最後は良く知られているように悲惨だ。インカ文明は洗練された技術を持ち、高度な社会組織を持っていたが、こと戦争となると悪逆なまでに強い西欧文明の侵略を受け、ひとたまりもなく亡びてしまった。インカが接触していた文明は、遠距離にまで波及する余力のないメソ・アメリカ文明だけで、それだけに「外部」という意識が希薄だったのだろう。
 人口増による自然破壊で衰亡したメソ・アメリカの文明とともに、インカ文明の最後は文明の本質を垣間見させる。文明とは物差しだ、という説を司馬遼太郎が唱えたが、それに即していえば戦争という物差しの下にインカ文明は西欧文明に敗れたのだ、といわざるを得ない。なぜ物差しとして戦争だったのかといえば、それは偶々だったのではないだろうか。文明が接触するとき、どのような物差しが当てられ、それぞれの文明の「優劣」が量られるかは一様ではないだろう(戦争が多いとはいえるが)。しかし一度交通が成立すれば優劣を定めずにはいられないのが文明の本質だと思う。生まれ出でて以来の孤立で、優劣を量られるという試練を経験しなかったインカ文明の悲劇だったのだろう。
 実は10世紀にはバイキングたちがグリーンランド経由で北米に到達しており、また神話に近いがフェニキア人も北米に植民地を持っていたという説がある。もしそうならば、メソ・アメリカ、さらにはアンデスにまで、これら冒険心に富んだ人々が足を伸ばし、これらの地域の人々が「外部」の実態に触れる機会も皆無ではなかったはずだ。もしもそんなことが起きていたのなら、両米大陸における古代文明の存在も、謎とはならずに済んだのかもしれないのにと残念に思う。

睡眠時間ボロボロ

19時09分 暮らし 天気:くもりですな、こりゃ

 前日、なんとなく寝入ったのが23:00過ぎだったか。なんとなく朝早くに目覚め、呆然と一日を過ごした。今日は外出しないつもりだ。しかし夕方になって食料が尽きていることにはたと気づき、ビルマから敗走する牟田口将軍なみの慌てぶりで買い物に出かけた。

2000年08月18日(金曜日)

MP3なCD(-ROM)プレイヤー活用

22時08分 デジタルギミック

 前に買ったMP3データ再生可能なCD-ROMプレイヤー(もっと簡単な名前は無いものか。面倒なので以降アレとする)、は、それなりに便利で役立っている。ところがアレには色々な癖があって困る面もあるのである。例えばSTOPすると設定をすっかり忘れてくれる点だ。レジュームくらいはして欲しいものだが価格が価格ゆえかそういう気の効いた機能は一切無い。スイッチを入れるたびに前のことは一切合財忘れて爽やかに起き上がる。竹を割ったような性格とはこのことだろうか(違)。
 これが10曲程度の曲しか収納できないメモリ式のプレイヤーならいいのだが、なにせこいつは100曲以上のデータを収納できるのだ。いちいち「前はどこまで聴いたっけ」などとはやっていられない。そこでランダム選曲を活用せよということになる。これだと曲数の多さを活かせる、ような気がする。しかし一々初期化されるので、起動するたびにディレクトリを読んで、ソートして、という動作を延々と待たなければならないのだ。それからじゃないとプレイモードの選択を出来ないのだ。めげるぜ、ほんと。せめて再生モードの記憶ぐらいしてくれれば良かったのだが。

休みたいのに休めない

18時07分 暮らし 天気:曇ってますぜ

 昨夜、何度もうたた寝して朝まで不規則に睡眠し、さらにはエアコンをうっかり最強にしていたせいか、朝にはすっかり半病人となっていた。休みたい! しかし休めない。この俺様でさえ休めない仕事があるのである。
 このところ、毎日一つは「休めない仕事」があるので困り者である。これでは「あ、今日は休もう」などと気楽にずる休み出来ないではないか。世の中何かが間違ってると思うわけである(間違ってるのはお前だ)。
 幸い、体調の方は昼には解消していたが、午前中は不快感が最強に強まって((C)スタパ斉藤)いて大変だった。気楽な生活をしたいものである。

2000年08月17日(木曜日)

パックス社によるソースコード盗用疑惑

20時06分 コンピュータ 天気:くもり

 前に書いたことのあるパックス社によるJM5ソースコード盗用疑惑に関してだが、JM5作者グループによる抗議活動は終結したようだ。パックス社の代表者との直接会談の席上、パックス社より(ソースコード盗用疑惑を持たれた)JMailの販売や開発を継続しないという旨が明らかにされ、JM5開発者グループの主張していた処理が受け容れられたため、抗議活動を継続する必要がなくなったとのことだ。しかし席上、パックス社側からは「Psion関係からは一切手を引く」という意向も伝えられたという。これはJM5開発者側が望んだことではなかったが、同時に利害が絡むことでもないため、あえて異議を差し挟むこともしなかったとか。別に異議はないが意義も見出せない条項で、パックス社の腹いせという観も無きにしも非ずだ。
 これでJM5開発者グループに対する権利侵害は解消され、めでたしめでたしといいたいところだ。しかしパックス社の態度に焦点を当てた場合、初動の対応が大変まずかったこと(前にも書いたが、疑惑の存在自体を否定しようとしたことなど)、そして最終的な権利侵害の経緯に関して、パックス社内部での調査が不徹底であることなどが気にかかる。パックス社の代表者によると、ソースコード盗用の経緯を知る「関係者」が退社したため調査不能という事らしいが、トカゲの尻尾きりよろしく闇に葬ったのではと疑われても仕方ない対応だと思う。疑惑が持ち上がってから解決するまである程度時間があったのだから、その間にある程度調査が出来たはずだ。その経緯は明らかにするべきではなかったのだろうか。これはパックス社の信頼性という問題にとどまらず、オープンソースに対する権利侵害という問題に対する貴重なケーススタディになりえたと思うのだ。恐らく、同様の問題は今後多発するはずだ。オープンソースの開示形態は様々だし、それに対しての世間一般の理解はあまりにも貧弱だ。そこでなにを強調すれば開発者の権利を守りやすくなるのか、あるいはなにを理解すれば/させれば権利侵害を避けることができるのか、また企業の側からどこに注意を払えばよかったのか、貴重な教訓を残してくれたはずだ。そういう意味で、パックス社は最後までオープンソースという概念に対する責を果たしてくれなかったという点が残念だ。

2000年08月16日(水曜日)

プロバイダ思案

17時04分 インターネット 天気:曇天

 めでたくフレッツアイが開通したのだが、airnetもiij4uも未対応だったので暫定的にbiglobeをプロバイダに使っている。かなり早くて快適ではあるのだが、できれば会員数が多すぎるところは避けたい。またプロバイダの数も整理したかったので、とりあえずairnetは止めて、biglobeも非常用に戻し、iij4uに一本化するつもりだった。
 今日になってairnetのWebページを見ると、神奈川地区でのフレッツアイ対応が完了したとあった。そこで改めて料金を勘定してみると、iij4uへの一本化では安くならないことに気づいた。
 現状、iij4uはメール専用で、月800円を払っている。用途を考えれば少し高すぎるとは思うが、メールアドレスばかりは頻繁に変えるわけに行かないので、これは我慢しようと思っている。このiij4uのフレッツアイオプションを選択すると、月額固定で2200円を取られて3000円となる。
 一方、airnetの方は月額固定の3000円で、これを止めることを考えれば確かに現状よりは安くなる。ところがairnetにはIP接続コースというフレッツアイ専用コースがあり、この場合は月額1800円固定になる。これを選択するとiij4uの固定分込みで2600円。iij4u単独より安くなる。またairnetはWebスペースを増やせるという点も見逃せない。
 そんなわけで、結局のところ今と同じくairnetを使った方が得策だと結論付けた。早速コースをIP接続コースへと変更し、biglobeは時期を見てフレッツアイオプションを取り消すことにした。また非常用プロバイダに逆戻りである。

2000年08月15日(火曜日)

横浜に帰る

22時03分 暮らし 天気:晴れ(移動後)くもりのち雨

 55回目の終戦記念日だ。明後日から仕事で、明日帰宅は辛いので、今日帰ることにした。
 朝早く(といっても9:00くらい)に目覚め、帰宅のために荷物の準備をしていると、昨日の墓参りに来れなかった次兄が子供連れでやってきた。来たのは一瞬で、すぐに墓参りに出かけてしまった。嵐のようなものだ。
 これで終わりかと思ったら、荷造りして出かけようかと思っていた矢先に戻ってきた。早い早い、1時間半も経ってないぞ。ちょうど出かけるところだったので、兄の車で駅まで送ってもらった。姪っ子たちはどちらもかなり大きくなっていて、上の方は特に人懐っこい。下の子は見たところ引っ込み思案のようだ。まだ小さいせいもあるのだが。上の子は来年小学校だとか。あっという間に大きくなるもんだな。
 帰りの新幹線は自由席だったが、思ったよりすいていて楽勝で座れた。ピークは明日になるだろうとのことだが、今日この程度なら明日のピークもたいしたことはなかろう。
 重い荷物を抱えて横浜に着くと、なにやら雲行きが怪しい。新幹線で静岡を過ぎる頃から空がドヨドヨと曇り始めたのだが、横浜では遂に雨にあった。が、はずれの我が泉区ではなんとか持ちこたえ、濡れずに帰宅できた。助かった。
 帰宅して早速Diablo2をしながら夜空を見上げていたが、遂に晴れることはなかった。

2000年08月14日(月曜日)

墓参

19時02分 暮らし 天気:晴れ

 ここ2、3日は前日中に寝て午前早くに目覚める健康的なパターンだ。日ごろの睡眠不足を取り戻す勢いである。
 今日は呉の奥地のほうにある実家の墓参りに出かけた。墓地は風光明媚な所にあって、頭上を通り過ぎてゆく雲と光が大変美しい。よっぽど儲かっているのだろう、別の山腹も切り開いて新しい墓地が作られていた。
 帰りに中通りに寄ったが、モリスは13:00まだというのにもう閉店! 張り紙も何にもなく、ただ閉店とあるだけだが、きっと盆休みに入ったのだろう。いくら店仕舞いが早いといってもまさかこの時間には閉めまい。
 それから16:00くらいまでは図書館で本を読み漁り、帰宅した。
 帰っても特にやることがないので、帰省中に読むつもりだった科哲関係の本を読み、それから実家の本棚を漁った。するとブルーバックに天文観測の本があるのに気づいた。20年位前の本で、恐らくは僕が実家にいた頃に買ったのだろう。内容的には今でも通用するのには驚かされる。この世界が20年もあまり変わり映えしないことの証明になっているようだ。トピックスといえばCCDとか自動導入とか位で、その間に学術系の大きな進歩に取り残された格好になっている。僕のようなのんびり屋にはかえってありがたいことではあるけれど。

2000年08月13日(日曜日)

太古の望遠鏡発掘さる

20時57分 星見

 夕方、実家の押入れを物色し始めた。20年以上前のことになるが、望遠鏡を買ってもらったことがあった。どういう経緯だったかは忘却したが、当時数万円するものを買ってもらった。今から思えばVIXENが当時から出していた普及品のボトムエンド製品だったろうと思うのだが、とにかく小学生の僕にはうれしいものだった。
 今年に入って突然天文趣味が目覚め、同時にこの望遠鏡のことが頭に浮かんだ。広島にいる次兄に聞いてみたが、どうなったかなー、という反応だった。帰省してその所在を確認したいと思っていた。
 帰省して早速長兄や母に聞いてみたのだが、誰も覚えてない。一昨年から去年にかけていろいろ実家の補修を行ったそうなのだが、そのときにどこかにやってしまったようだ。一番可能性のありそうな押入れの中を捜してみることにした。
 押入れの手前の荷物を運び出しながら進むこと数分、あった......。見覚えのあるダンボール箱が、奥のほうに横たわっていた。それを引っ張り出すのにまた一苦労だ。しかしやがてなんとか引き出すことに成功した。
 中身を取り出す。長年放って置かれたせいか、やはり錆だのカビだの埃だのが甚だしい。それらをできるだけ除去してやると、まあなんとか望遠鏡らしい姿になった。
 この望遠鏡の構成は、口径60mm、Fが910mmというF値の大きな暗い光学系の屈折望遠鏡だ。それが部分微動付の経緯台の上に載っている。経緯台は木製の三脚で支えられている。付属のアイピースはケルナー28mmのねじ込み式、残りは全てツァイスサイズで、ケルナー2mm、オルソスコピック9mm、6mmだ。さらに地上用の18mmとかいうのもある。これに天頂プリズム、サングラスなどが付属する。当時('70年代)の状況では、かなり奢った構成だと思われる。Or6mmをつけると150倍超にもなって60mmには荷が勝ちすぎるが、Fが長いのでなんとかなったのかもしれない。このOr.、目レンズも対物レンズ側も物凄く小さなレンズで、さぞかし視野が狭かろうと思った。
 日が暮れきって、南の空に双眼鏡を向けて、さそり座が明るく見えるのを確認した。家が斜面にあって、ちょうど南側は下りになっているせいか、さそり座が思いがけないほど高い位置にあるのにびっくりした。M7は良く見えるが、真正面に明るい街灯が無神経に輝いているので、今一つコントラストが良くない。これを発掘望遠鏡にK26mmをつけて眺めた。こいつの場合、光路長が長くなりすぎて天頂プリズムは使えない。苦労してあわせたファインダーにM7のある辺りを収め、望遠鏡を眺めてみると、小ぢんまりした視界にM7がきれいに収まっている。しかしまあ、見かけ視野の狭いこと。
 それでもこいつなら太陽を見ても熱くはならないだろうと思ったので、兄に後で送ってもらうことにした。こいつは太陽専用として余生を送らせてやろう。

また街に出る

17時57分 暮らし

 前日は出た時間があまりに遅すぎたので、今日は早々と11:00前に街に出かけた。いつもの中華そば屋モリスはちゃんと営業していた。昼前だったが、店内はすでに満杯。出入り口付近に席を見つけて大盛りを注文した。しかしこの頃から出入り口あたりには待ち行列ができ始め、僕は背後に無言のプレッシャーを感じながら中華そばをすすり込む破目になったのだった。しかし相変わらずの味でうまかった。
 店を出て、図書館に向かった。あまりの暑さに外を出歩く気にはなれない。呉の中央図書館は、さすがに海軍の町にあるだけに艦船、海事関係の図書が一つのコーナーを成している。面白そうな本を拾っているうちに時間が過ぎていった。夕方にまた繁華街に戻り、フライケーキという揚げパンの一種のようなお菓子を買って帰った。あんこを小麦粉の皮で包み、それを油で揚げただけのものなのだが、これがうまい。特に揚げたてを冷たいお茶で食すと絶品だ。油っこいお菓子なのだが、いい油を使っているのかそういうしつこさは無い。あっという間に四つ、五つ食ってしまうくらいうまい。見ていると、一人で20個ぐらい買って帰る人が多いようだ。恐るべし。

テレビ

10時55分 テレビ 天気:晴れました

 それにしても、人はなんだってテレビを見つづけるのだろう。
 実家に帰ってびっくりするのは、母や兄がずっとテレビを見ているということだ。朝起きて、夜寝るまで、外出する時間を除いてずっと見つづけている。いや実際にはあまり見てないのだが、暇なときにフッと空虚な時間があるのを避けたいという心理が働いているのだろう。
 しかし僕だって実家にいた頃はそうだったはずで、いつのまにかテレビを見なくても生きて行けるように自分を改造してしまったらしい。その代わりに時間を埋めているのは、まあやっぱりパソコンなんだろうか。あんまり変わり映えしない面は否定できない。何も無い時間は確かに少し怖いからな。

2000年08月12日(土曜日)

街に出た

20時54分 暮らし 天気:雲が多めだったけど晴れ

 帰郷2日目。昼まで寝ていたら、母がたこ焼きを買ってきてくれた。15個入りで300円。しかも中にスの無いおいしいたこ焼きで、首都圏で売ってるあのまずいたこ焼きは何なのだという気になってくる。
 夕方近くにE950を抱えて街に出た。が、昨夜から奇妙な微頭痛(としか言いようが無い)が続いていて、いまいちこれを撮りたいという気力が湧かない。この暑さも拍車をかけている。
 いつものモリスに寄ったが、16:00だというのにもう終わっていた。早すぎ。
 結局、本屋によって帰宅した。
 夜、兄が月を見るというので持ちかえった双眼鏡を貸した。僕も月をテレスコマイクロで少し眺めて寝た。ずっと寝てばかりの日だったな。

2000年08月11日(金曜日)

帰省する

23時55分 暮らし 天気:晴れ(雲量多し)

 昼近くまでだらだらと寝て、出かける身支度をはじめた。1年ぶりに帰省するつもりだ。生ごみは片付けて、洗濯物は洗って干しておいた。
 出かけたのは3時過ぎだった。今回、MIZAR20*80と三脚を抱えて帰ったので、リュックに加えてなんともかさばるいでたちであった。さほど重くないのが救いだ。
 地下鉄、東海道線では乗客が少なく、あるいは帰省ピークは午前中だけだったのかもと思ってもみたのだが、なにがなにが、新幹線ホームで目にしたのは乗車を待つ客たちの長蛇の列だった。これは座れまいと覚悟した。しかし今日は秘密兵器がある。リュックに折りたたみいすを括り付けてきたのだ。もしものときは、これでデッキに座り込んでしまおうというわけだ。しかし幸いにして、なんとか座席を確保できた。
 それからの5時間半、狭い座席に文字通りすし詰めであった。やがて通路にも乗客が詰め込まれてしまったため、トイレに立つのもままならない。しかしなんとか耐えきって広島に至った。
 呉線で暮れに戻ったのは23:00過ぎ。疲れたので風呂に入り、食事をとり、早々に寝た。

2000年08月10日(木曜日)

久しぶりにモノを買物

20時51分 デジタルギミック 天気:晴れてましたね

 秋葉に数週間ぶりに出かけた。金があるわけじゃないが、いくつか押えておきたいモノがあったからだ。
 まずは電気街口を出て若松方面に。コンパクトフラッシュを買うつもりだった。今持ってるのはDC210と一緒に買った15MBという今やゴミのようなサイズのもので、E950の相棒としてはいささか力不足が否めない。それに記録速度も速いものが市場に出回っているので、とうとう買い替えを決意した。
 若松では64MBのものが18000円弱というところだった。そんなに持ち合わせが無いことに気づいた僕は、東海銀行に寄るべく昭和通り口に回った。
 久しぶりにスターベースにちらりと寄り、M専などで値段を見ながら歩き、結局若松で買った。一緒に買ったのはPalmのトラベルキットという代物だった。これはクレイドルの替りにソケット付きケーブルでホットシンクとリチャージを賄おうというものだ。難をいえば、それぞれの機能のためのケーブルが別である点だろうか。
 さらに千石で東芝のNiMH電池を。これはmp3対応CD-ROMプレイヤーのためだ。既に一式持っているので、同じ物を追加した方が良いだろうと思った。
 帰りに元めんめんの玄麺に寄った。ここに来るのはひさしぶりだが、気のせいか名前が変わってから味が濃くなったような気がする。
空をふと見ると、真っ青に晴れていた空が、いつの間にか曇はじめている。さっさと帰宅した。
 帰宅してそれぞれのモノどもを試してみた。Palmトラベルキットは持ち運びには確かに便利そうだ。小さな収納袋にまとめて収まるし、どっちかが不要というときにはその分だけ軽くなる。使い出がありそう。

2000年08月09日(水曜日)

IP接続開通

22時50分 インターネット

 今日は例のフレッツアイの開通する日だ。帰宅して早速接続環境を作った。NTTから送られて来た資料を基にルータの設定をする。実際にはほとんど設定する項目は無かった。問題はプロバイダだ。
 開通するギリギリまで粘ったのだが、iij4uもairnetもとうとう対応しなかった。前者は八月中には対応するらしいが、後者は不明だ。いずれにしても常用しているプロバイダが未対応なのは痛い。しかし緊急用にアカウントを持っているBiglobeは既に対応している。IP接続メニューの料金も2000円と悪くはない。当面はこっちを使うことにしようと思う。
 さっそくBiglobe経由でつないでみたが、時間帯が夜早かったせいもあるのか、非常に軽くて快適だった。ネットゲームも問題無い。速度的にはまだ満足出来ないが、いつでもつなげていられるというのは使い勝手の点で別次元のよさがある。よっぽど巨大なデータをやりとりするという状況以外は、まず満足出来るのではないだろうか。

嵐来る

19時49分 暮らし 天気:晴のち嵐になりました

 今日で仕事も一区切りがつき、明日からは盆休みだ。久しぶりに帰省しようと思う。故郷でやる花火大会も見たいし。そんな風に思いながら会社を退けると、おや雲行きが怪しいぞ? どうも風が湿っぽい。雨になりそうな気がしたので、本屋に寄ってさっさと帰った。
 帰宅して夕食を作っていると、やはり雨が降り始めた。それもかなりの勢いだ。まあ夕立ちの一種なのだろうが、それにしても勢いがある。そしてやがて雷鳴が轟き始めた。風もでてきて、まさに嵐だ。
 雷の好きな僕は、窓を細く開けて段々激しくなる雷鳴に耳を傾けていた。なんだかわくわくしてくるのだ。地震雷火事親父というが、僕には雷は恐怖の対象ではない。本当に開けた場所で遭遇したことがないせいだろうか。いや、確か釣りをしてて落雷を目撃したこともある。きっと、あまりにも危険が実感できないので、なかなか現実的な恐怖というものを実感できないのだろう。あまりにも日常とかけ離れた体験だ。にも関わらず日常的に発生する事象でもあるのが雷の面白いところだ。そういう意味では地震もそうなのだが、こちらはあの振動だけでも危険を実感できるのが違うところだ。日常的に電気を扱っている人の感想は、また違うのかもしれない。

2000年08月08日(火曜日)

MP3なCD-ROMプレイヤーを活用しよう

20時48分 デジタルギミック 天気:晴れ時々曇り

 以前買ったMP3を直接再生できるポータブルCD(-ROM)プレイヤーだが、少々難があることが分かった。なにかというと、再生時に記録されているMP3ファイルをファイル名順にソートしてしまうのだ。これではこっちが好む順に記録しても、再生時にはチャラにされてしまう。一応プログラム再生は可能だが、100曲を軽く越えるMP3データ群を、しかも曲タイトルなどの手がかり無しでプログラムするのは骨が折れる。しかもプログラムも電源を切ればチャラだ。やってられないのだ。
 そこで数ミリ秒考え、記録時に曲名の頭にこっちが再生したい順に数字を振っておくことにした。"00anthem.mp3"、"01Speed King.mp3"などなど。100曲あるデータ全てに一意に順番付けするのは不可能ではないが大変な作業なので、アーチスト毎にディレクトリに収め、その中で順番付けすることにした。それでもCD-ROMに焼くのは結構大変だった。
 できたCD-ROMを再生してみる。しめしめ、こちらが思ったとおりになった。しかしまあ使えん仕様だ。むりやりMP3を再生できるようにしました、という感じである。
 PC用のプレイヤーのように、曲データファイルが使えるようになれば、柔軟性が高まるのだが。2万円のプレイヤーに文句は言えないかな。

2000年08月07日(月曜日)

一天にわかに掻き曇り

23時55分 暮らし 天気:晴れ時々雨 BGM:Thunder Storm/高中正義

 夕方、徐々に空が曇り始めた。あれ、久しぶりに雲行きが怪しいなと思っていたら、20:00くらいから遠雷がとどろき始め、やがて空に閃光が走り始めた。雨も降ったかもしれない。が、僕はその頃には寝ていたので良く分からん(爆)。
 真夜中に起きだして空を見上げると、とっくの昔に晴れ渡り、木星がまぶしいくらい光っていた。通り雨だったようだ。

2000年08月06日(日曜日)

8/6

22時45分 テレビ 天気:晴れ BGM:HIROSHIMA MON AMOUR/ALCATRAZZ

 またもや爆睡に次ぐ爆睡に尽きた一日。Diablo2やりすぎです、はい。
 さすがに夕方には起きだして、いずみ野方面にちと散歩。本屋に寄って軍事モノのコーナーで立ち読みし、WW2終結時の帝国海軍残存艦艇について当りをつけた。
 帰宅して、夕食を取ってベランダに双眼鏡を持ち出したが、今夜は雲が多くて観望は断念した。そう毎日好機が続くわけがないのだな。
 21:00からのNHKスペシャルは、「オ願ヒオ知ラセ下サイ」。日が日だけに広島の原爆投下にまつわる話題だ。
 広島市街にある袋町小学校は、原爆ドームから500mの位置にある。原爆投下当時、この学校の校舎も大きな損害を受けたが、焼け残った校舎を利用して臨時の救護所が設けられた。
 最近、この校舎がついに取り壊されることになった。そこで壁に塗られた漆喰の一部を剥がしてみると、その下に被爆当時に書かれたと見られる伝言があった。調査のために慎重に壁の上塗りなどを剥がしてゆくに従い、新しい伝言が次々に見つかった。被爆当時、この校舎に人探しの伝言が多数書き出されたことは知られていたが、現代にいたるまで残されていたというのは意外なことだったという。
 広島市のある女性は、その中に姉の名を見出した。その姉は被爆時、路面電車に乗り合わせていたことが分かっている。しかしその後の消息は不明で、今に至るまで生死が確認されていない。女性は、姉が市電から這い出して、川原で息絶えたものと考えていた。それほど苦しむ時間がなかったろうと、そればかりを救いのように考えていた。ところが、やや離れた袋町まで姉が運び込まれていたとすれば話は別だ。姉はかなり苦しんだかもしれない。女性は、そのような複雑な感情を抱いたという。
 しかし、専門家が参加しての解読作業により、実は名前の誤読であることがわかった。そのことを知らされたこの女性はさほど落胆の色を見せなかった。姉はやはりさほどの時を置かずに逝ったのだろうと考えられるからだ。
 誤読された本当の名前の持ち主は、実は袋町小学校の近隣に建つ医院に住み込みで働いていた、別の女性のものであることが分かった。伝言を書いたのは、この女性の世羅郡に住む母親だった。女性の家族は、被爆直後から何度も女性を探しに来たのだが、ついに探し出せず、遂に女性が死んだもの考えるようになった。しかし母親だけは諦めきれず、娘の消息を尋ねる伝言を書き残したのだった。
 情けない話だが、番組を見ながらやはりどうしても目頭が熱くなるの抑えきれなかった。こういう話にはどうにも弱いのだ。被爆直後の極限下で、それでも家族の消息を必死に求める人々の姿には、どうにも心が動かされてしまう。しかしこうした体験を伝えることは、果たして核兵器を無くすという被爆者たちの悲願に、どれほど役立っているのだろうか。
 昨夜のNHKスペシャルで取り上げられたように、核兵器廃絶という目的に大きな意味を持つのは、実は国家と国家の利害を巡っての駆け引きなのだ。新アジェンダ連合を動かしているのは広島、長崎の被爆体験などではなく、核兵器という巨大な火力に自国の国益が損なわれるかもしれないという恐怖なのだ。細かい部分を端折れば、ほぼそういってよいように思う。もちろん、新アジェンダ連合に連なる国々も知識としては日本での被爆体験を心得ているだろう。しかし自国から遠く離れた、しかも過去の死者がどれほど多かろうと、それは自分たちの利益と関わりの薄い事項でしかない。被爆体験という細々とした肉声を除いた数字の塊だけが、これらの国々にとって意味を持つに過ぎない。自国でも同じだけの死者を出すかもしれないという被害可能性だけがこれらの諸国に共有され、非核へと向かう原動力になっているのである。被爆体験は、各国の国益に沿って都合よく類型化されているのだ。
 しかし、実は「被爆体験の類型化」というのは、その発信元である日本でさえも既に進行しているのではないだろうか。僕たちが接する被爆体験は、必ずといってよいほどその悲惨さと残酷さを伝えるものだ。だがなにかがすっぽり抜け落ちてはいないだろうか。それはそのような運命をもたらした者たちに対する「怒り」だ。
 被爆者たちは、そして彼らを目にした人々は、そのような残酷な運命を強いた大日本帝国、そしてアメリカ、さらには当時の世界に対する怒りを抱かなかったのだろうか。そして彼らに直接的に報復しようとは考えなかったのだろうか。
 僕が目にする「被爆者の怒りの姿」といえば、平和公園での座り込みと、世界中の大都市で行われるデモ行進だけだ。だがそれらのお行儀の良い抗議行動が伝えられるものは、「被爆者の悲しみ」といったようなお行儀の良い、清められた「怒り」に過ぎないのではないだろうか。例えばアメリカにとって、自国民でもない日本国民がいかに苦痛を感じようとも、自国の国益になんら影響が無ければ無視しても構わない事項だ。広島、長崎で繰り広げられる抗議行動にせよ、あちこちの政治団体が主催するそれにせよ、アメリカにとっては安保闘争ほどの深刻さすら持たない政治行動に過ぎない。もしかしたら、ある種の風物詩としてすら見ているかもしれない。そして原水禁だの原水協だのといったふうに、政治団体別に無意味に並立する抗議集会の意味付けは、まさにナマの怒りとはかけ離れた純政治的行動に過ぎない。共産党風の、社会党風の「怒り」などにわずかでも意味はあるのだろうか。愚行というほか無い。
 被爆体験にはもっと伝えるべき形があったのではないだろうか。それは例えば、被爆者一人一人が拳銃を手にし、昭和天皇や旧軍部を、そしてアメリカのトルーマン、メイ、アインシュタイン、ファインマン、さらにはエノラ・ゲイの乗員などを暗殺に向かう。そのような直接的な行動でしか伝えられない種類の「怒り」こそが、実は核保有国にとって最大の脅威になりうる「怒り」足りえたのではなかっただろうか。単に「被爆しました。悲しかったです」という作文を送りつけるだけでは、例えばライフ誌のベトナム報道写真ほどの訴求力も持ち得ないだろうと思うのだ。こう考えてくると、被爆体験の持続性というものに対して絶望的な想いを抱かざるを得ない。
 いずれにせよ、被爆者の平均年齢が70歳を越えている今、生の被爆体験が滅却されていくのはもう避けられないだろう。本当に非核の世界を目指すのなら、原爆記念日のたびに金切り声を上げているという様式化された方法論は、いいかげん見直さざるを得ないのではないだろうか。

2000年08月05日(土曜日)

今夜も星を見た

23時55分 星見

 晴天が続いて嬉しい限りだ。今夜も2:00過ぎに木星と土星を見た。今夜はシンチレーションが安定し無いため、どちらの像もゆらゆら揺れて安定しない。しかしシンチレーションが安定した瞬間には、木星の細い縞も土星のカッシーニの間隙もばっちり見える。しかし中学校のネットは邪魔すぎる。

寝る、寝る、ひたすら寝る

19時42分 暮らし 天気:晴れ

 平素の睡眠不足の反動か、とにかく寝て、寝て、寝まくった一日だった。寝たのが明け方だったという理由もあるが(ダメじゃん)、夕方までとにかく寝た。実は昼頃に起き出して出かけようかと一瞬思ったのだが、どうせ間もなく盆休みなので(またこういう理由か)、今週末は睡眠不足解消に注ぎ込んだのであった。
 起き出すとひたすらDiablo2であります。Sorceresを育成し始めた。多少なりともコツを飲み込めたのか、最初のPaladinほどには死ぬこともなく、さほど苦労なく育てている。要するに「必殺技をつかめ」がDiablo2のテーマなのだが(本当かよ)。

2000年08月04日(金曜日)

ちょっぴり観望しました

23時55分 星見

 帰宅して、21:00前にベランダにMIZAR20*80を出した。今夜は透明度が今ひとつでそうはっきりとは見えない。M7もしょぼくれた眺めだ。早々に撤退した。
 間もなく帰省するつもりだが、この双眼鏡を持って帰ろうと思う。100EDでも良いのだが、設置するには多少時間を要するので、たぶんポイントを求めてさすらうだろう帰省時の観望を思えば、双眼鏡のお気楽さが捨てがたい。
 夜中は夜中で2:00頃に木星を100EDで眺めた。今夜は木星の縞は太いのが2本、細いのがあと2本ほど見えた。土星は縞が見え、カッシーニの間隙が見えたかなという程度だった。

アンデスで蝶が羽ばたくとカリブ海で嵐が起きます(ほんとかいな)

10時39分 暮らし 天気:晴れ

 朝、いつもの時間に地下鉄に乗り込んだ。8:00前のこの便は、通常なら席が全部埋まって余る程度の乗客数なのだが、今朝に限って通常の倍、ほとんど立錐の余地もないくらいの乗客で埋まっていた。なにがあったのだ、と思っていた。
 会社に着くと、「東海道線が止まっているので遅れる」云々という連絡が続々と入ってきた。なるほど、それで迂回路としてこっちを使った人が多かったのか。しかし地下鉄の湘南台駅とJRの接続は、戸塚をのぞけば小田急経由になるのでさほど連絡が良いともいえないのだ。僕ならあきらめて「おくれちゃいまーす」と気楽に連絡を入れるだろう。恐るべし、日本のサラリィマン。

2000年08月03日(木曜日)

ちょっと観望

23時55分 星見

 帰宅して、少々涼んだ後でベランダに出た。今夜は風が涼しくて気持ちいい。エアコンが要らないくらいだ(ベランダで寝るつもりなら)。
 80mm双眼鏡を空に向け、いつものようにさそり座からいて座にかけてなぞっていった。今夜はごく薄い靄がかかっていて、シーイングは6/10くらいだろうか。散開星団も散光星雲も、今ひとつ見え方がはっきりしない。それを確認して引き上げた。梅雨の最中ならこれくらい見えれば涙を流して喜んだろうが(笑)。

マシン気絶

10時37分 コンピュータ 天気:晴れですよ

 会社の俺様の机に置かれた機械は、出勤時にいちいち起動するのが面倒かつRC5-64クラックの必要性から常に起動しっぱなしにしてある。地球に優しくない俺様である。
 今朝出勤したとき、こればかりは落としてあるモニタの電源を入れた途端、夏の空を思わせる真っ青な画面が目に入った。落ちとるやん(X_X)>NT
 この機械、最近机の下に本体を入れてしまったせいか、もしかしたら熱気がこもりやすいのかななどと心配はしていたのだ。しかし落ちるとは......。
 前日は定時退勤日で、冷房が早々と落とされる(大変な悪政だと誰もが思ってはいるのだが)ので、他の日よりも室温は高くなっていたはずだ。それに耐えられなかったのだろうか。
 とりあえず起動してダメージが無いことを確認し、念のために本体を金属製のクローゼットとくっつけて熱伝導を良くして置いた。気休めぐらいにはなって欲しいのだが。
 やっぱり夏場は止めるべきかな(面倒だが)。

2000年08月02日(水曜日)

木星を見ましょう

23時55分 星見

 2:30頃に木星に100EDを向けた。昨夜に較べると高度が高く、観望条件としてはかなり良いはずだ。既に中学校のネットの上に昇っている。シーイングは、高空に風があってシンチレーションが不安定なため、8/10程度だろうか。
 木星は思ったとおり昨夜よりも像がくっきりして、表面の縞は数本がくっきりと見え、極寄りの細かい縞も結構見えた。さらに太い縞が地との境界線でうねうねとうねる様も見えるような気がした。100EDでは、今までで一番良く見えた。しかし風のせいか、しばしな像が滲んでしまう。最初はあまりによく滲むのでそんなに風があるのかと思っていたのだが、やがて自分の体から発する熱気で接眼鏡に結露している事に気づいた。そこで団扇で風を送りながら眺めるようにすると、純粋に風によるものと思われる像の揺らぎ以外は改善された。風呂上りだったからな。
 土星に向けた。土星はやはり表面の縞が見えるような気がして、またカッシーニの間隙もかなりくっきり見えた。今夜はタイタンも近傍に光っているのが見えた。なんでも、シーイングが最高な、かつ暗い空の下ならば、輪の他の間隙まで見えることがあるそうだ。横浜の空ではそこまでは望めそうにない。
 後はプレアデス星団を眺めて寝た。

Portable Palm Keyboard

17時35分 デジタルギミック 天気:晴れ

 最近、アスキーからPalmマガジンが創刊された。Palm系PDAを扱う雑誌で、Palm界で有名な人々が執筆している。アスキーからこんなのが出るということは、Palmの地位もいよいよ不動のものになったということだろう。
 ページをパラパラとめくっていて、ハードウェア関係の小物を集めたpageを見ていたら、Portable Palm Keyboardも当然載っていた。買った日のレポートでは「キーボードの折り目に隙間が出来る」云々と書いたのだが、写真ではそれらしいものがない。そういえば説明書にキーボードを左右から押すかのごとき図があってその通りに試みては見たのだが、キーボードがかっちりはまったりしなかった(というか動かない)という経緯があった。
 僕の理解が間違っていたのかと思い、しばしキーボードを眺めてみた。ふと思いついて、PPK本体ではなくキーボード部を左右に押してみると、するすると中央に寄せられてかっちりはまるじゃないか;-_-) この状態ならもちろん隙間が出来ないので、ちょうどThinkPad(大)のキーボードと同じような使い心地になる。しかしこれに気がつかなかったとは......。

2000年08月01日(火曜日)

100EDで星を見た

23時55分 星見

 夜、フローリング部屋に置いてあるGP赤道儀のC8EXを取り外し、100EDに載せ替えた。プレアデス星団のような大型天体を見るのなら、F値の小さなこっちの方が低倍率を得やすい。
 時刻は1:00過ぎ。プレアデス星団はだいたい高度20度程度のところにあり、あまり状況は良くない。しかも例によって隣の中学校のネットにかかっているので、余計良くない。しかしLV40をつけて16倍で見ると、星団全体がきれいに収まって見事な眺めだった。一つ一つの星が、例えばM7などに較べても明るいので、星団そのものの華やかな感じが良い。SW18mmにすると星団に対するカバレージ70%程度になるが、見かけ視野が大きく、少しずつ視点を移動させると次々に明るい星が現れるのが美しい。これ以上の倍率では星団として実感できないので嬉しくないようだ。せいぜい40倍程度までが見頃かなという感じがする。
 次に明るくてどうしても目に入ってしまう木星と土星を眺めた。木星の高度はやっと15度程度というところだろうか。LV5mmを着けて130倍弱で観測してみた。今夜も風が強くてシンチレーションが安定してないので、低高度にある木星はゆらゆらと揺らいでいる。オリジナルの宇宙戦艦ヤマト第2話ラストのように、木星の輪郭は水中の水草のように揺らいでいる。縞はかろうじて2本見える。今夜はガリレオ衛星の他、木星の東側にも小さな輝点が見えたが、偶然別の星と会合しただけなのだろうか。
 土星も似たような状況で、表面に縞が見えるような気がするものの、輪の方のカッシーニの間隙は見えそうになかった。もっと夜が更けて高度が高くならないと、きれいに見えないのだろう。
 今日はこの辺で寝ることにしよう。

8月だ

10時32分 暮らし 天気:晴れ

 今日から8月。July Morningはあまり聴かなかったな。
 夏本番という感じで、蝉の声が鬱陶しく響き始めた。なにも夏場にこんな暑苦しい生き物をのさばらせなくても良いのに。造化の神め、なにを考えているのだ。ミンミンゼミの声が聴こえるだけで、気温が2度は上昇する感じである。