Strange Days

2000年11月19日(日曜日)

NHKスペシャル「世紀を越えて」

23時25分 テレビ

 今夜のNHKスペシャルは後半に入った世紀を越えて新シリーズ。教育に的を絞ったシリーズだ。今夜はアメリカで広がる新しい学校の形態、チャータースクールに関するレポートだ。
 9年前、アメリカで画期的な法律が制定された。誰でも政府機関の許可を得られれば、"公立学校"を設立できるというものだ。こうして設立される学校をチャータースクールという。チャータースクールは設立されると生徒数に応じた多額の助成金を得られる。それが基本的な運営費になるのだ。それが学費収入を主体に成り立つ私学との違いなのだろう。従って、ふつうの公立学校と同じく生徒の負担は軽い。そのような有利さと引き換えに、教育委員会からの厳しい監査が入る。この監査で学校として不適当とされれば、設立許可を取り消されてしまうのだ。
 チャータースクールの設立の原動力となったのは、アメリカでは'70年代から顕著になり始めた教育の危機に立ち上がった、父母たちの努力だった。自分の子供が画一的な学校教育に馴染めず、あるいは登校拒否に陥ってゆく。そういう現状を自ら解決しようと、自分たちの手での教育を目指す運動が起こった。それが'90年代に入って結実したのがチャータースクールだったのだ。共和党政権下で誕生したチャータースクールは、クリントン政権下で急速に普及した。既に全米の公立学校の数パーセントを占めるまでに至っている。チャータースクールは通常の公立学校と異なりカリキュラムを政府に縛られないのが特徴だ。ある学校ではアートを積極的に取り入れている。また別の学校では時間割を完全に無くしてしまった。逆に日本の有名私学を思わせるハードスケジュールを組んだ学校もある。その代わり、その結果に対して厳しい責任を負わねばならない。いわば教育の網の目を被せることを主任務とする通常の公立学校は、最低限の規格を守ればその廃止を問われることがない。しかしチャータースクールでは、その自主的に企画された教育が不十分であると裁定されれば、即廃止の運命にある。事実、そのようにして消えていった学校も少なくないという。このようにして父母に私学、通常の公立学校、そしてチャータースクール(さらに在宅学習という選択肢もあるらしいのだが)という多用な選択肢を与え、その義務である子供の教育を活性化させようというのがチャータースクールの狙いだ。増えつづけるチャータースクールは他の公立学校に対策を迫っている。その結果、様々な試みがさらに広がってゆく情勢にあるという。
 日本でもチャータースクールを作りたいという声が高まっている。その一つの試みが藤沢市で続いているようだ。自由度の低い公立学校の枠内での改革に限界を感じた教師たち、既存の学校に不満を抱く親たちが集まり、チャータースクール設立に向けた話し合いや運動を続けている。その中心になっている教師は、かつて公立学校での改革に参加し、担任制を廃したグループ指導制による学級崩壊を救ったものの、「担任を廃止するなんてとんでもない」といった匿名の(というのが卑劣だが)電話などにより、翌年には元の担任制に戻さざるを得なかったという経験をもっている。匿名の、いわば無責任な声により新しい試みが潰されたのは残念だ。その反面、この事件は担任制という旧来の手法に対して、例え無根拠ではあっても信頼感があり、またそれを変えることに対する感情的な反発があるということを示している。これはむしろ、公教育というものが保守的な立場に立たざるを得ないという、越えられない限界の存在を示しているのだと思う。だから、その「外」で新しい教育を追及しようという姿勢は正解だろう。しかしまだまだ文部省などの反応は鈍い。政治家の関心を呼び始めているものの、立法への道はまだ遠いという感じだ。
 チャータースクールの成立には異存はないものの、少し気がかりなことがある。僕は学校には訓練の場、特に動物的な本能に反して成立している現代社会への適応の場としての意味があると思うのだ。卑近な例を引けば、時間割という奴は、統一された時系列に沿って調整されている実社会への適応訓練という意味が大きいのではないだろうか。人間に、生まれつき時間に合わせて生きてゆくという本能があるわけではない。あのくだらな~い「前へ倣え」だの組み体操だのにも、いわばある型に人を嵌めてしまうという意味付けが大きかったはずだ。その型を取り払って、果たしてこのクロノポリスを生き延びる人間が形成できるだろうか。アメリカでチャータースクールの試みが始まってまだ9年。それが社会にどんな影響を与えてゆくのか、まだ確かではない。チャータースクール制の導入は、その影響を見極めてからでも遅くはないのではないだろうか。などと結局文部省のお役人と似たようなことをいってしまったりして。
 しかし、今我が子を抱えている親たちには切実な問題だろうと思う。彼らにとっては、今まさに問題の真っ只中にいるわけなのだから。そんな、いわば現実にドロップアウトしてしまった子供を抱える親たちのために、限定的にでもチャータースクールの試みを始めることは、意味があるのではないだろうかと思った。

ハンズ再襲撃と自転車通販

22時24分 自転車

 またハンズを襲撃した。今日はかなり買う気で自転車売り場に向かった。昨日確認したシルバーのBD-1に目をやると......あれ、これBD-1Cじゃないか。BD-1のステアをもう少し立てましたというモデルだ。うーん、これでもいいが、ちょっとポジションがママチャリ的になりすぎる。そこで店員に在庫を確認すると、あいにくBD-1は品切れだという。入荷は12月かなあといったところらしい。価格を確認すると、定価販売だった。ううむ、とりあえず買わないで帰宅した。
 帰宅して、一寝入りしながら考えた。いや考えないでなんとなく決めた。ここは通販で見積もりを取ってみよう。ということで、前から目をつけていた自転車通販サイトでBD-1の見積もり依頼を出してみた。BD-1に様々なオプションを着けて、かなり奢った構成になってしまった。うーむ、最初はDAHONのそこそこのグレードのものでも良かったかなと弱気になったりして。

昨日のことだが

20時22分 音楽 天気:くもり

 そうそう、昨日のハンズ初襲撃の帰路、戸塚駅でちょっとした催しと遭遇したのを思い出した。横浜市交通局の主催で、ほのぼの駅コンなる小コンサートが開催されていたのだ。あちこちの駅で催されているようだ。僕が行き会った頃は第1部が終わって駅長がなにやら挨拶していた。プログラムを見ると第2部はゴスペルのグループとなっていた。ちょっと楽しみにして待っていると、やがて若いもんが10人ばかり壇上に上がった。ノリのいい、というよりむりやりノッているような人々である。少しイタイなあと思っていたら、「ゴスペルとはGod Spellのこと」という前説の後で歌い始めた。しかしそれが色んな意味でイタイものだった。まず相当無理しているとわかるのである。テレビでよく見るゴスペル隊の連中は大体ガタイもでかい黒人のおばちゃんが混ざってて、とても人間とは思えない声量で朗々と歌ってくれるのに聞き惚れるほどだ。しかし平均的日本人に過ぎないこの人々は、やはり平均を少し上回る程度の声量しか出せない。それをがんばって無理やり大きな声を出しているものだから、余裕が無いのである。また駅の構内で堅い壁と大きな開口部に囲まれているという状況は、特にコーラスのような声楽には向いてないと思われる。固い壁からの反射はピーキーで耳障りな音を作り、開口部は音を吸い込んで余韻を作り出さない。実際、1曲は我慢して聞いたが、それ以上足を止めるに値しないと思ったので、本屋に向かってしまった。帰りにまだやっていたら見ようかと思ったが、30分ほどで終わってしまったようだ。
 しかしまあ、確かに不利な状況ではあるけれど、本場のゴスペルグループならどうするだろうと思った。こういう場所ではやらないというのも選択肢だが、一つにはむしろ声量を絞るというのがあるのではないかと思った。声を出せば出すだけピーキーで耳障りな反響も増えるわけだから、それは声量を絞って抑える。そして抑えた分だけ声を自由にコントロールする余裕が生まれるわけだから、それで微妙で豊かなハーモニーを作り出して行くのではないだろうか。イアン・ギランだって、そうやってパープルの色んな曲に合わせて声を作っていったわけだから。基本的に、昨日遭遇した集団は経験不足なのが一目瞭然だった。経験を積めば、ただ声を出すだけがゴスペルじゃないと分かったはずだろう。ってゴスペルの何たるかをしらない俺様が断言していいのか? とにかく、TPOに合わせた歌いを出来てなかったのは確かだと思う。経験を積んで欲しいものだ。やる気は満々だったわけで、その点はとても好印象だったから。