Strange Days

2000年08月19日(土曜日)

NHKスペシャル「4大文明」

23時11分 テレビ

 21:00からのNHKスペシャルは「4大文明」最終回の「エピローグ謎のマヤ・アンデス」。
 今まで登場したエジプト、メソポタミア、インダス、そして中国の4大文明は、いずれもユーラシア大陸の周縁部に栄えた文明だ。これらの文明は長い距離を隔てながらも、陸路で到達できるという有利さから交通があり、それぞれの文明に影響を与え合った。これらの文明に似通った点が多いのは、実はそうした理由からなのだ。
 しかし地球上にはユーラシア大陸周縁部以外にも古代文明があった。それはユーラシア大陸とは広い海で隔離された別天地、アメリカ大陸にだった。
 マヤ文明は中米のメキシコ南部のユカタン半島に栄えた文明で、メソ・アメリカの文明という括りでいえば4500年ほど前に勃興したという。中米という隔絶した地にありながら、4大文明とさほど変わらぬ時期に勃興したという事実が面白い。
 4大文明がそれぞれ大河のほとりに興り、その豊かな水を灌漑で用いるという方法で農業を延ばしたのに対し、マヤ文明は灌漑を一切用いない焼き畑農業を採った。焼き畑農業は乾季の終わりに森を焼き開き、雨期の始まりとともに熱帯の豊富な雨が降り注ぐことで成り立つ。そのため、季節の変わり目を4大文明並みに、あるいはそれ以上に精密に知る必要があり、天文学が発達し、精密な暦が編まれた。そしてマヤ文明は巨大な神殿を築き、そこに無数の生け贄を捧げたのだ。
 マヤ文明が生け贄を盛んに捧げたのは、近縁のアステカ文明を見聞した欧州人たちの記録からもうかがえる(もっとも、マヤに比較するとアステカは「ひどすぎる」ものだったらしいが)。中米における文明は、やはり中米に栄えたオルメカ文明に端を発する。マヤやアステカの暦は、実はオルメカのそれを発展させたものだという説もあり、強い影響下にあったことは間違いない。そしてこのオルメカの頃には既に生け贄の風習があったようだ。中米の文明はある文明が衰退するとその周辺の別の部族が簒奪するという風に回転していったのだが、その結果中米では非常に等質性の高い文明形態が編まれていった。
 マヤの人々は太陽のことを恒久的な存在ではなく、人間からの働きかけがないと衰退してしまう存在だと考えた。太陽も養分を欲しがるというのだ。そして太陽の養分として最適なのが、人間の血だと考えられた。その結果、生け贄が非常に重視されることになる。天変地異があれば、雨が降らなければ、長雨ならば、頻繁に生け贄が捧げられた。
 生け贄が多かったのは彼らが残酷で命を軽んじていたからだとは限らない。メソ・アメリカの生命観の特徴は、この世はヒトをその他のものが取り囲み、対立するというものではなく、それらすべてが同じ世界に属するという点にある。キリスト教的な価値観のようにすべてをヒトの対立項に置くことで軽重を量ろうと考えるのではない。人の命と、太陽の健康とは等価なのだ。彼らは太陽に対して「思いやり」があったのかもしれない。しかし、生け贄にされる方は、いかに宗教的な価値観に裏打ちされていたといえど、やっぱりたまったものではなかったのではないだろうか。なにせ、生け贄は心臓をえぐり出され、生皮をはがれたそうだから。
 マヤ文明自身は西暦800年頃に突然衰退してしまう。番組では人口が増大して食料を賄えなくなったためという説を取っている。しかし異説もある。マヤ文明の暦に秘密があるという説だ。マヤ文明の暦は256年ごとに大きな周期を繰り返している。この大周期が文明の盛衰に当たるという文明観を持った結果、その256年が到来した頃(ちょうどA.D.800辺りだったらしい)に文明の終末を信じて都市から去ってしまったという説だ。もしそうならば、文明観が文明自身の寿命を決めたことになり、大変面白い説だと思う。番組の説に沿っていえば、文明の衰亡を信じた人々、特に農業に当たっている農奴が逃亡した結果、食料調達が不可能になって滅亡した、とも考えられる。また生け贄に勤しんだ結果、文明にとって最大の資源である人間を殺しすぎたとも考えられる。いずれにせよ、マヤ文明も4大文明と同じく人口増による飢饉で亡びた可能性はあるわけである。ここから蘇ったのは中国古代文明だけだ。
 マヤ文明はアステカ文明に受け継がれたが、これもちょうどスペイン人が到来する直前に滅亡状態になっている。
 しかし最盛期にスペイン人の侵略を受け、滅亡してしまった文明もある。インカ文明だ。
 インカ文明は、やはり4000年以上前に勃興したプレ・インカ文明に端を発する。それが長い間に発展し、スペイン人到来の頃、西暦1500年の頃にはアンデス山中にまたがる一大帝国として統一されていた。
 インカ帝国を支えたのは、高度差を利用した農業だった。高地ではトウモロコシやじゃがいも、低地では果物などを作り、栄養を確保していた。さらに、太平洋岸にまで降りて海藻も採っていたらしい。当然、海辺と高地の交易も盛んだったろう。こうして富が蓄えられていったのだ。
 インカの特色は、鉄器も文字も持たなかった点だ。しかし高度な天文学の知識があり、様々な天測用の建築物が建てられた。それが文字の替わりに知識を伝える一助を担ったのだろう。
 インカ帝国の最後は良く知られているように悲惨だ。インカ文明は洗練された技術を持ち、高度な社会組織を持っていたが、こと戦争となると悪逆なまでに強い西欧文明の侵略を受け、ひとたまりもなく亡びてしまった。インカが接触していた文明は、遠距離にまで波及する余力のないメソ・アメリカ文明だけで、それだけに「外部」という意識が希薄だったのだろう。
 人口増による自然破壊で衰亡したメソ・アメリカの文明とともに、インカ文明の最後は文明の本質を垣間見させる。文明とは物差しだ、という説を司馬遼太郎が唱えたが、それに即していえば戦争という物差しの下にインカ文明は西欧文明に敗れたのだ、といわざるを得ない。なぜ物差しとして戦争だったのかといえば、それは偶々だったのではないだろうか。文明が接触するとき、どのような物差しが当てられ、それぞれの文明の「優劣」が量られるかは一様ではないだろう(戦争が多いとはいえるが)。しかし一度交通が成立すれば優劣を定めずにはいられないのが文明の本質だと思う。生まれ出でて以来の孤立で、優劣を量られるという試練を経験しなかったインカ文明の悲劇だったのだろう。
 実は10世紀にはバイキングたちがグリーンランド経由で北米に到達しており、また神話に近いがフェニキア人も北米に植民地を持っていたという説がある。もしそうならば、メソ・アメリカ、さらにはアンデスにまで、これら冒険心に富んだ人々が足を伸ばし、これらの地域の人々が「外部」の実態に触れる機会も皆無ではなかったはずだ。もしもそんなことが起きていたのなら、両米大陸における古代文明の存在も、謎とはならずに済んだのかもしれないのにと残念に思う。

睡眠時間ボロボロ

19時09分 暮らし 天気:くもりですな、こりゃ

 前日、なんとなく寝入ったのが23:00過ぎだったか。なんとなく朝早くに目覚め、呆然と一日を過ごした。今日は外出しないつもりだ。しかし夕方になって食料が尽きていることにはたと気づき、ビルマから敗走する牟田口将軍なみの慌てぶりで買い物に出かけた。