Strange Days

2001年02月28日(水曜日)

死にそうに眠いぞ

21時16分 暮らし 天気:晴れのち雨(なんでじゃ)

 どうもこの季節になると眠気が最強に強まるのである。春先は冬眠からの目覚めの季節のはずだが。最近、いくら寝ても疲れが取れない。脂肪肝のせいだろうか。
 昼のうちは晴れていたし、今日は定退日なので星見出来るかと思っていたのだが、夕方から雲が増え始めて、深夜には雨になってしまった。あらら。天候という奴ばかりは、人の思い通りにならないものである。
 夕方から夜にかけてかなり強い風が吹きつづけたが、これは要するに春一番というものなのだろう。

2001年02月27日(火曜日)

M46&M48に再挑戦にょ

23時55分 星見 天気:晴れ

 帰ったのは割に遅くて、眠くて意識が朦朧としていたのだが、空がきれいに晴れているのでC8EXをベランダに出した。
 まずはM42を入れてみた。トラペジウムは四つ明瞭に見える。風が無いのか、冬にしてはかなり像が安定している。試しにSW24.5からUW6.7に換えて見たが、トラペジウムの星たちはかなり収束した像を結んだ。この望遠鏡、かなりよく見えることに最近気づいた。瞳の位置にかなり敏感なようで、覗く姿勢が肝心なのだ。
 次にM41。こちらもかなりくっきり見える。
 さて、まずはM46、M47に挑戦だ。こいつらはシリウスとプロキオンとの間で、大体鋭角の直角三角形を形作っている。プロキオン側に鋭角が来る按配だ。慎重に探してゆくと、やがてこの間も見たM47が目に入ってきた。M47は明るめの星が散在しているので、簡単に導入できる対象だ。ではそのごく近傍のM46は......。これがなかなか見つからない。慎重に辺りを掃天するのだが、それらしい対象が見当たらない。今夜はかなり暗い星まで見えているのだが......。
 アストロアーツのメシエ天体ガイドと本を参考に、辺りをうろついた。やがて実際の星図を眺めて星の並びと見比べ、今の視界の数倍程度の所に間違いなく位置すると断定。その地点に望遠鏡を向けた。......あった。しばらく眺めて、やっと暗い星々の群れを見つけた。サッと過ぎれば見過ごしにしそうな星の群れだ。M47に明るい星が多かったので、ついそのような対象を探していたのだが。これでは空の状態が悪い時に見えないのは当然だ。じっと見つめていると、背景から暗い斑点のような星がポツ、ポツと浮かび上がってくる。そんな感じだ。
 M46とM47の眺めをしばし楽しんだ後、今度はM50を入れた。これは楽勝。M46より多少明るい星の群れだ。
 次に、これもこの間導入できなかったM48に再挑戦だ。M48は、M46&M47と同様にシリウス側に鋭角が来る直角三角形の一点に位置する。こちらも苦労した。ワイドビノでは暗い星までは見えないので、MIZAR10*42で星の位置を確認しながら探してゆくと、やがて暗めの散開星団が飛び込んできた。M46ほどには暗くなく、まあまあ分かりやすい星団だった。これで冬の南天にあるM天体は大体征服したな。あ、系外銀河の類は無理にょ。

2001年02月26日(月曜日)

爆睡希望

21時13分 暮らし 天気:晴れですが

 昨夜は、夕方から3時間寝て、夜遅くにまた寝なおすという変則的な睡眠だった故か、一日中眠気に悩まされる羽目になった。思考が混乱するほどだ。
 今日、帰宅してすぐ眠気に降伏すると、昨夜の二の舞だと思った。珈琲とお茶で遅くまで耐える。こういう生活してるから生活習慣病なんて代物に魅入られるのだな。
 空は晴れているが望遠鏡をベランダに出す暇が無い。
 そういえば、今日は父の命日である。

2001年02月25日(日曜日)

Warp4.51の設定を

23時10分 コンピュータ

 さて、OS/2 4.51の設定を続けよう。コンビニパックはOSだけなので、ツール類は入れなおさなければならない。
 最初にまるごと32ビットCD-ROMから一太郎5、というかATOK8と辞スパを入れ、さらにwith VTパッケージのおまけCD-ROMからあれこれ入れる。足りないものはhobbes辺りから持ってくる。さらにCドライブのデータ類を持ってきて、ほぼ快適に使える状況になった。案外に簡単だったのは、Cドライブに前の環境がそっくり残っているからだろう。
 この状態で3号機のsamba共用ディレクトリにアクセスできることも確認した。非常に快適になった。全体的に高速化されているようだ。
 というところで後はemx関係とX-Windowを何とかすればいいのだ。あ、その前にIBM Worksも入れないと。

今日も湘南台に

19時09分 暮らし 天気:寒い(ちょっと雨っぽい)

 今日も昨日と同じく湘南台に出かけた。昨日、ダイエーをうろついている時に、あれこれ必要なものがあると思ったのだが、持ち合わせが無くて何も買わずに帰った。機能はリュックを置いてきたので、福沢さん収納用財布も置いてきたのだった。
 出たのが15:30だったので、図書館で1時間ほど昨日の続きを読んだ。この時刻には雨がぱらついたり、それが霙に変わったりで、久しぶりの本格的寒さだった。
 さて、ダイエーでお買い物。の前にケンタでチキンカツサンドを食らう。600円弱でこれは高いな。
 ダイエーで買ったのは、安売りの布団乾燥機と、均一コーナーで風呂の蓋と雑巾の5枚組みを買った。前者は天日では干せない羽毛布団のために買ったのだが、能力的に大丈夫かと思うくらい小さい。布団はダブルサイズなので、この乾燥機の乾燥シートではカバーしきれない。まあ分けて乾燥させればいいか。
 風呂の蓋は、今は断熱シートを使った浮かべるタイプのものを使っているのだが、密閉が万全ではないし、汚れやすいので巻き取り型のプラスチック製のものを買った。均一品コーナーを歩くと、あれもこれも買いたくなって仕方なくなるのだが、大物を二つ買ったので今日はこれだけにした。こうやってあれこれ買わせようという戦略なのだろうな。

2001年02月24日(土曜日)

NHKスペシャル

23時08分 テレビ

 今夜のNHKスペシャルは、朝鮮半島の付け根にある白頭山の自然を追う番組だった。この白頭山、山頂までの高さは富士山より低い2700m程度なのだが、裾野が非常に大きく広がっている独特の形をしている。これは大きな山塊が大爆発を起こし、堆積物が一気に崩れたためといわれている。山頂には巨大なカルデラ湖が広がっている。これほどの高所に、これだけの大きさの湖があるというのは珍しい。こうした神秘的な佇まいゆえか、この山は朝鮮民族発祥の地と称されている。歴史的に、ここは朝鮮民族と他の民族との領域を分ける役割を果たしていたので、確かに発祥の地といえなくは無い。というのも、朝鮮民族のルーツは沿海州からシベリアにかけて住んでいたと考えられ、それが朝鮮半島に流入する経路にこの山があるからだ。
 しかし、番組で垣間見える北朝鮮の暮らしは、さほど深刻な食糧難に陥っているとは信じられない。見栄っ張りゆえに体裁を繕ったのか、それとも他の地方とでは格差があるのか分からないが、単純な食糧援助はほぼ無意味なことに思えた。
 白頭山を取り囲む針葉樹林は、実は1000年前の大噴火で壊滅した歴史がある。時に渤海国の滅亡という暗示的な出来事も起こっている。ところが、1000年を経た今、樹海は標高2000m地点まで蘇っている。この森を研究する科学者によれば、数百年後には完全に元通りになるという。2000年で復旧するわけだ。森が蘇るという事件は、一人の人間の認識を超えた迂遠なものに思えるが、自然に取っては2000年程度などなにほどのものでもないのだろう。

コンビニパックを入れよう

21時07分 コンピュータ

 早速、コンビニパックの導入を図った。1号機はファイルサーバとして使っているのだが、裏を返せばシステムが全てCドライブに集約され、後はデータだけだ。データ類を全て3号機のsamba共用ディレクトリに移し(そういえばいつの間にかOS/2から直接接続できるようになったな)、念のためにCドライブのバックアップも取り、いざインストールである。
 コンビニパックは媒体だけしか来ないので、インストールのためには媒体のreadmeファイルをよく読まなければならない。まずはインストール用の媒体を3枚作成し、とりあえずこのままの状態でインストールFDから起動してみた。ダメだ。SCSI接続のCD-ROMドライブを認識しない。そこから試行錯誤が始まった。
 1号機は歴史的事情からSCSIボード2枚差しという変態構成になっている。今回、SCSIなHDDは全く関与しないが、CD-ROMドライブは使う必要があるので、SCSIドライバをインストールFDにコピーする必要がある。このSCSIボードというのがTekramの390U2Bと395Uなのである。前者はUltra2WideSCSIとUltraWideSCSIの、後者はUltraWideSCSIとNallowSCSIのポートを持ち、前者にLVWケーブルでU2WなHDDを、後者にNallowSCSIのCD-ROMとUltraWideなHDD(3号機から最近移植したもの)がぶら下がっている。
 この2枚のボードのSCSIコントロールチップがそれぞれ違うので、ドライバもそれぞれにコピーする必要がある。その分だけFDから不要なファイルを削る必要があるが、これはAdaptec系のSCSIドライバを削ることで対処した。一方、.snpファイルは一切削ってはならないようだ。なぜそうなのかは不明だ。
 最終的には、SCSIドライバもCD-ROMが下がっているものだけ必要らしいと分かったので、インストールFDのconfig.x、config.sysの記述を修正した。あわせて、標準のibms506.addもdanis506.addに置き換えた。
 これでようやくインストールが出来た。入れたのは二つ目のIDEドライブで、Cドライブにはなんの影響も無くデュアルブートできる。
 後は色んなソフトを入れてゆくだけだな。

湘南台に出よう

19時05分 暮らし 天気:雨っぽいですな

 14:30頃、湘南台方面に出かけた。
 まずは3月一杯で移転する(移転先は決まったのだろうか)だし屋で腹ごしらえして、図書館でしばらく自然科学関係の本を読んだ。この図書館、一説には日本で一番利用率の高い所らしい。それがうなずけるほど常に人が多いのだが、今日は寒い雨の日ゆえかそれほどでもない。
 この日に読み始めたのは、立花隆の「マザーネーチャー・トーク」。立花と各界の一流科学者との対談集だ。いろいろメモしながら読み進める。
 閉館時間になったので、湘南台のウェーブ・アイに寄った。ここでUSBケーブルとFD媒体を買った。後で秋葉ホットラインを読んで、ここの経営母体が民事再生手続きを開始したという記事を見つけてびっくりした。そういえば、去年の終わりくらいからだんだん品物が減ってきたような気がしていたのだ。幸い、秋葉の店舗は閉鎖するものの、本拠地である湘南台の店舗は維持する方針だとか。がんばって欲しいものである。
 さらにダイエーに寄って、9割引というやけくそのような在庫一掃セールで何か買おうと思っていたら、瞬く間に売り切れたとかでもう終わっていた。恐らく、午前中は凄まじい騒ぎだったのだろう。

2001年02月23日(金曜日)

コンビニパック到来

23時04分 コンピュータ 天気:くもりですか

 夜遅くに帰宅すると、ドアの郵便受けに抜きにくい郵便物が入っていた。というのは、この郵便ポスト、内側にモノを受けるための覆いがあるのだが、これが割と小さくて長い郵便物が刺さらないのだ。柔らかい物なら押し込めるが、硬いものだと外に半分くらい突き出すという怖い状態になる。このときの郵便物がそれだった。では外に引き出せばよいのかというと、ポストの口ががっちりくわえ込んで、簡単には引き出せない。わざわざ内側からポストの口を押さえてやらねばならないのだ。
 そうやって苦労した郵便物の中身は、恐らくソフトウェア・チョイスの媒体だろうと見当がついた。差出人がIBMだったからだ。
 ドキドキしながら開けた。というのは、MLで「開けたら中に"スカ"と書いた紙が入っていた」という怪情報があったからだ(爆)。いや、たぶん媒体の製造が間に合わなかったとかで、後で送付する旨記述した紙が入ってたんだろうけれど。
 僕もスカかなと思いつつ開けると、製造が間に合ったようでちゃんと媒体は入っていた。OS/2 4.51、いわゆるコンビニパックだ。
 さて、どこに入れてやろうか、と思っているうちに睡魔に襲われたので、今日はここまで。

2001年02月22日(木曜日)

星が見えんがな

23時55分 星見 天気:晴れ(でも黄砂が......)

 一気に多忙になってきた。ずれ込んできたいくつもの仕事が、一気になだれ込んできた感じだ。三月一杯はきつい目に遭いそうな予感がする。
 帰宅したのは23:00前だった。風呂を洗い、夜食を作りながら夜空を見上げると、それなりに晴れてはいるようだ。しかし、なんというかビロードを広げたように白い夜空だった。黄砂のおかげで、大気中の浮遊物が増えているようだ。天文観測にはつらい季節だ。
 それでも100EDを出して、西に傾いているシリウスの方に向けた。シリウスとプロキオンの線上にあるM50を狙った。
 C8EXでは楽勝だったので、超広視界のLVW42だったら超楽勝だと思っていたのだが......。み、見えん。空が真っ白だ!(爆) まだ40度前後の高度はあると思ったのだが、それでもM50は一向に見えない。UW18に換えて丹念に探しても分からない。結構小さな星も見えてはいるのだが。
 M50に敗れた我輩は、風呂に入った後でリターンマッチを試みた。その頃にはからす座が南中していたので、その周辺のM天体をば......。ダメだ。M68もM103も全然見えないでやんの。これはC8EXとの口径差の表れなのだろうか。
 明日の夜、もし晴れたらC8EXでのリターンマッチを誓う俺様であった。

2001年02月21日(水曜日)

宴会だぜ

21時53分 暮らし 天気:曇りのち晴れ

 あまりよく寝れず、ヘビーな気持ちで出勤する俺様。おかげで、仕事中何度も気を失いかけた。家で作ってきた焙じ茶で気力を奮い起こすのであった。
 定時になり、やっと帰って爆睡出来ると思いつつ帰る準備していたら、「今日の宴会出ないんですか?」と声をかけられた。あれっ、確かに宴会はあると思ってたけど、明日でしょう。しかし、実は今日だったのだ。勘違いしてたのね。その結果、20:00頃まで魚介類を喰らいつつ。もっぱらウーロン茶を食う羽目になった。脂肪肝(要するに人間フォアグラ)と診断されたので、暴飲暴食は慎まなければ。
 帰宅して、すぐに睡魔の大群に襲撃された。いともあっさり降伏する俺様。ぐはぁ(吐血)。

2001年02月20日(火曜日)

M47&50

23時55分 星見

 夜、もうすぐ観測シーズンが終わるオリオン座に、C8EXを向けた。今夜は全体的に霞がかかっているのか、どんよりした空気がのっぺりと全天を覆っている。
 こんな状況だが、C8EXで見るM42は、100EDでのそれより明るく見える。トラペジウムも四つ、くっきり分離できる。散光は、背景が明るすぎてあまりよく見えない。もっぱら、M42&43、小三ツ星周辺の小さな星を眺めて回った。最近、C8EXにはMEADEのSW24.5が刺さりっぱなしだ。アメリカンサイズでは一番長焦点で、比較的広視界なので、シュミカセでは扱いやすいアイピースだ。
 M41を見て、それからアストロアーツのウェブページで、M天体ガイドを参照しながら、この近辺のM天体の導入を図った。
 まずはM48だ。うみへび座の頭、というかいっかくじゅう座の真南にある散開星団だ。5.5等星相当というデータから楽勝だと思ったのだが......。み、見つからない。大体、今夜の空ではワイドビノを使ってもいっかくじゅう座の位置すらわからない。ほとんど暗い星が見えないのだ。10分ほど奮闘して、とうとう諦めた。無念。
 しょっぱなからこれかよ。嫌な予感を抱きつつ、次にM46&47に挑んだ。こちらはとも座というさらにマイナーな星座に属す散開星団だ。ともよだったらよかったのにな(謎)。
 こいつの場合、シリウスの東、プロキオンの南といういい加減な探し方でもOKらしい。しかし、ワイドビノでもこの空ではまるで見えない。SW24.5の広視界(といっても1度以下)を恃んで、プロキオンからの線とシリウスからのそれが直行する辺りを、慎重に掃天していった。
 ......あった。突然、星の集団が目に飛び込んできた。かなり目立つ星があるので、一瞬迷ったが、多くの星が集まっているところを見ると、散開星団に間違いない。天体写真を較べてみると、どうやらM47の方だ。結構、明るい星がポツ、ポツと集まっている。その背景にさらに小さな微光星が散りばめられている。見えているのは、全体で20個程度だろうか。かなり崩れた感じの散開星団だ。M7とかM41とかいった端正な散開星団とは別の魅力がある。しかし、散開星団とはこういう見え方だ、というのが分かってないと、あるいは見過ごしにしていたかもしれない。
 ではM46は? その近辺をサーチしたが、確かに微光星が少々集まっているところはあるものの、それがM46かどうかはいまいちはっきりしない。今夜は背景が明るすぎて、6等星相当というM46の方は埋もれてしまうのかもしれない。
 ともかく、M47の位置は大体分かった。これに気を良くして、次にM50を探してみた。これはシリウスとプロキオンを結ぶ線上の、シリウス側の1/3くらいのところにある。そのとおりに探すと、その通りに散開星団が飛び込んできた。これはM41的な見え方の、比較的整った散開星団だった。
 思えば、去年、今ごろの時期、やっぱりこれらのM天体を見ようとして、結局良く分からなかったんだっけ。それは全天における星座の実際の大きさ、M天体の実際の見え方というものが良く分かってなかったからだろう。多少、進歩したようだな。
 とにかく、M天体が二つも見つかって、今夜は気分が良い。明日は、100EDで同じように探してみよう。

なんだかダメな日

21時50分 暮らし 天気:晴れてる(けど霞んでる

 昨日から熱と下痢に悩まされている。熱は突発的にポッポッと出て、すぐに下がるという奇妙なものだ。下痢は、きっと下剤のせいだろう。しかしおなかでガスが異常発生して、毎時トイレに5分はこもるという状況だ。こんなになるなら飲まなきゃ良かったよ。あんまりしんどいので会社を休んだ。
 横になっているとガスの発生が抑えられる気がするので、寝床に横になっていたのだが、やがてまた寝入ってしまった。

2001年02月19日(月曜日)

人間ドックへ

22時48分 暮らし 天気:晴れにょ

 いつもとだいたい同じ時間に起きだし、大森に向かった。今日は初めての人間ドック。ワクワクするなあ(爆)。
 大森の駅前のごちゃごちゃした(なんであれ程錯綜としているのだろう)を歩いて、目的地の病院に着いた。ここは人間ドック専用の病棟らしい。
 受付で名札をもらい、上の階で着がえ、それからあちこちの係員、看護婦の案内で効率よく検査を進めていった。身長、体重、視力、聴力といった普通のものから、心電図、眼底撮像、胸部レントゲン、消化器レントゲン、超音波検診といったものまで、あまり順序無く回されていった。眼底撮像では、ストロボを使って撮像するので、しばらく視界が真っ白になってしまう。そのため、片目ずつ、時間をおいて行われる。消化器のレントゲン撮像の際には、胃を良く広げるために注射(筋弛緩剤?)を打たれるのだが、これが妙に痛い。「痛いですよ」と看護婦が警告するだけのことはある。しばらく揉んでいた。一番つらかったのが超音波検診だ。ソナーの原理で体内の肝臓、膵臓、脾臓などの断面を撮像するものらしいが、検査技師のお姉さんがよりよい映像を得ようとセンサーをぐりぐり押しつけてくるので、くすぐったいやら痛いやらでえらい目に遭った。来年が楽しみだ(なんでや)。
 最後は、すきっ腹に配慮したのか、病院側が用意してくれた昼食を取り、結果は郵送してもらうことにして帰宅した。が、この時飲んだ下剤が効いて、おなかがごろごろ言いまくっている。

2001年02月18日(日曜日)

眠れないので星を見る

23時56分 星見

 明け方4:00くらい、急に目が覚めて眠れなくなってしまった。しばらく寝床でのたうっていたが、ダメだ。こういうときは気分転換に星でも見よう。
 MIZAR10*42を手にベランダに出ると、さそり座が南中間近の位置にいた。さすがにこの口径ではM6、7は見えなかったが、アンタレスの赤い輝き、サソリの目とはさみがきれいに見えた。

星を見る

23時55分 星見

 夜、ベランダに100EDを出し、UW6.7を着けて金星に向けた。金星は、100EDでもかなり明るく見えるが、やはり像が揺らぐのは仕方ないのか。しかし像が安定する瞬間は、C8EXよりよほど長かった気がする。相変わらず鋭い三日月型の姿を見せてくれた。
 LVW42に付け替えてオリオン座を見た。少しかすみがかかっているが、まあまあきれいな像が目に入ってきた。SW18で小三ツ星近辺を彷徨う。M42の南北にある小さな星がシャープに見えた。しかしこの間分離できた南側の重星は分離できないようだ。更にUW6.7でM42を見たが、トラペジウムを四つにやっと分離できるというところだった。M41はしばらく眺めているとようやく細かい星がぽつぽつと浮かび上がってきた。

人間ドック前日

22時45分 暮らし 天気:晴れてるような......

 人間、年を取るといろいろガタが来るものである。そういう経験則を重んずる企業は、35歳を超えた我が輩に人間ドック行きを命じたのである。その期日が明日に迫った。まあ半日コースの日帰り人間ドックなのだが、今までの一斉健康診断に比べて、かなり精密なメニューのようだ。
 消化器系のX線撮像をするせいか、前日の21:00以降は断食せいとある。そうなる前にと思って、20:00頃から豪華な夕食を取った(単なる寿司)。
 これで明朝まで水も無しで過ごさにゃならんのか。とほほほ。

2001年02月17日(土曜日)

星見ます?

23時55分 星見

 今日も今日とて、ベランダに早々とC8EXを出した。時刻は18:00過ぎ。西の空に明るく輝く金星に向けてみた。金星の明るさは木星をしのぐ。良くUFOとして騒がれるくらいだ。視界に入れると、明るく輝く金星が、燃えるように揺らぎながら強烈な光を放っている。うう、筒内気流が......。
 金星は若い月のように細く欠けていた。なんとなく、「2001年宇宙の旅」での土星の眺めのような感じだ。
 次に高い高度にある土星に向けてみた。木星は屋根が邪魔で見えない。また土星も半分位屋根に掛かっている。そのせいか、土星の顔はとても暗いものだった。それでも、かなり高い高度にあった故か、カッシーニの間隙がなんとかチョコ、チョコと見えた。
 一度引っ込み、0:00頃に出てみると、あれもう雲が覆っている。今夜はあきらめて撤収した。

信長の夢・安土城

23時41分 テレビ 天気:晴れ

 今晩のNHKスペシャルは、織田信長の安土城に関するものだった。
 安土城といえば、『安土・桃山時代』などと称されるように、織豊期の代表的な城だが、その実態は知られていない。というのも、この城が完成してわずか数年で、信長が本能寺の変に倒れたからだ。その直後、誰の手によるものかは分からないが安土城には火が放たれ、泡沫の夢のように焼け落ちたという。だからこの城に関する文書は、信長に謁見したフロイスの覚え書き、『信長記』などわずかなものに限られる。
 10年ほど前から、この幻の安土城の城跡を発掘する、大掛かりなプロジェクトが進められている。プロジェクトは麓から始まり、既に天守があった山頂部にまで到達している。その間、従来の見解を覆すような発見が相次いでいる。
 この城は山頂に天守閣、本丸を据え、その周囲に信長配下の武将たちの館と砦が連なる、構えとしては山城のそれをかなり踏襲しているものだ。しかしごく近傍に街道を抱え、城下町が発展していること、また城の外郭が平地に接していたことなどから、平城へと移行する直前の段階を表すものだといわれていた。しかし安土城は、どうやら軍事目的に作られた城では無いようなのだ。
 まず大手門を抜けると、通常の城構えではすぐに隔壁に突き当たり、大きく折れ曲がって、かついくつもの内門に遮られながらようやく本丸に到達する。ところが、安土城では幅広い大手路がまっすぐに上り、本丸にほとんど直結している。これでは防備の役に立たない。
 この謎は、やはり謎めいた本丸の構造を解明することで、やはり解き明かされた。本丸は、通常の武家屋敷と異なり、柱の間隔が長い公家屋敷の構造を持っていたのだ。しかも、天皇の住まいである清涼殿のそれと酷似していた。このことから、信長は本丸へと天皇を迎えるために、わざわざ大手路をまっすぐに引いたのだと推測される。
 天守閣も奇妙な構造をしていた。最近、東京の出版社の資料室から、どこの城のものとも思われない天守閣の図面が発見された。その図面を安土城の天守閣遺構と比較してみると、良く近似している。このことから、この図面は、完成間際の安土城天守閣を採寸したものであると考えられている。
 この図面を見ると、天守閣と本丸の間に、渡り廊下が設けられている。こういう奇妙な構造の城は、他に例がない。これも安土城の遺構と良く一致している。恐らく、天皇を本丸に据え、自らは天守閣で政務を執りながら、必要に応じて往来しようという腹積もりだったと推測される。信長は天皇家を自らの権力構造の中に取り込むつもりだったのだ。
 天守閣の遺構から発掘された、もっとも奇妙なものは、その中心に据えられていたと考えられる穴だろう。先の図面との比較から、これは仏舎利等を納める仏塔の跡だと考えられた。城の中心にこんなものがあるなど、前代未聞ではないか。
 また天守閣はこの仏塔を含む大きな吹き抜けを持つ下層部と、その上に載った上層部とに分けられる。下層部には信長が生活し、政務を執っていたと考えられている。通常、天守閣はせいぜい評定の場、つまり会議室として用いられる程度で、平時には人が住むものではない。最初に天守閣を作った信長自身は、これを生活の場としても使用するつもりだったわけだ。このことから、信長は安土城を軍事目的ではなく、自らが天下布武を進める中心の政庁として使用することを目論んでいたのだと推定できる。
 天守閣の上層部は、なんとも奇天烈な形をしている。まず第6層は全体として8角形をしており、さらに最上層の第7層は正方形で、それらの外観も内観もきらびやかな金箔が張り巡らされていた。この上層部の内部には、当時の名高い絵師たちの仏教、儒教に題を取った絵画が並べられていたという。ここは信長が未来の構想を練ったり、客を招いたりする場所だったのではないだろうか。
 さて、この天守閣のモチーフはどこから得られたのだろう。大きな吹き抜けを持ち、絢爛豪華な装いを施されているという点から、西洋の宗教建築に題を得たのではないかと推測される。
 この天守閣に与えられた宗教的芳香、天皇を間近に置こうという本丸の構えなどから、これらは宗教に縁遠く、天皇に代表される既存の権力に冷淡だったという信長観を変えるものだ、と、番組ではされていた。
 それはどうだろう。従来、信長がかなり宗教的な「第六天魔王」だの「成ろうが三定」などといった言葉を口にしていた形跡が指摘されていた。今回の発見も、その範疇を出るものではないのではないだろうか。天皇家に対する件を含めて、とどのつまりマキャベリスト信長は、ある時は反抗的な宗教を徹底的に弾圧し、ある時は無意味な権威を拒否し、逆にあるときは利用しがいのある宗教や権威を取り込むという風に、その時その時で利用できるものを利用していたに過ぎないのではないだろうか。
 どうも信長は時代の革命児だといわれ過ぎていて気持ち悪い。確かに時代の先を行った面もあるが、例えば楽市が六角氏の施政下で既に行われていたという説もあるように、必ずしも信長が全てを発明したわけではないようなのだ。そもそも、一人の人間がこれほど多くの面で創造的に振る舞えるとは考えられない。恐らく、軍事、政治、それぞれの面で有力なブレーンがあったのではないだろうか。また彼に先取の目があったにしても、それはアレンジャーとして有能だったという評価にしか繋がらないのではないだろうか。
 この先、人間信長の姿が解明されていけば、隠されたブレーンが発掘されるなどして、これまた評価が変わって行くかもしれない。これも歴史の面白いところだ。
 しかしこの番組、何度も放映を延期されてきたのだが、もしかして途中で登場した、なんとも都合よく発掘された天守閣の資料に、一抹の不安があったからなのだろうか。例の"神の手"事件の余波なら、ちょっとばかり笑える話だ。

2001年02月16日(金曜日)

もう夏の星座が

23時55分 星見 天気:晴れ

 夜、帰宅したのは22:00過ぎだった。帰りの道すがら、夜空が暗くて晴れ上がっているのが気になっていた。
 帰宅して、ベランダにMIZAR20*80を出した。その頃にはオリオン座は西にかなり傾いている。そちらに向けてみた。今夜は大気の透明度が高く、オリオン大星雲の散光がくっきり見えた。トラペジウムも像の揺らぎの小ささから見て、かなりくっきり見えたはずだ。もっと大口径の望遠鏡を出せばよかったかと後悔した。でもあまりに寒いのでそれは止め。
 M41をしばし眺め、一度引っ込んだ。
 チャットをはさんで2:00頃にまたベランダに出た。この時刻にはかに座がかなり西に傾き、やや東向きにオフセットされたベランダからは見やすくなる。MIZAR20*80では天頂まで向けられないので、ワイドビノとMIZAR10*42の二丁双眼鏡でかに座を探した。あった。プレセペ星団だ。とても大きな、明るい星団で、42mmの双眼鏡でも良く見える。本当は20*80で見たいものだが、位置的に難しい。外に出ないと。
 またまたチャットに耽溺して、それがようやく終わった5:00頃にまたベランダに出ると、東の方になんとなく見慣れた星の並びがある。双眼鏡を向けると、やっぱりさそり座だった。アンタレスのオレンジ色が、そろそろはっきり見えそうだ。アンタレスの近辺に20*80を向け、目が慣れるのを待っていると、薄ぼんやりとしたM4が見えてきた。目の錯覚かと思うような見え方だ。まだ東の明るい辺りにあるので、光害に邪魔されてしまうのだが、明るいアンタレスを見るとなんとなく夏の気分になれる。ここは零下3度の真冬なんだけど。
 アンタレスからさらにサソリのしっぽの方に移動して行くと、あった、M7だ。高度が全然低いのだが、既にそれなりに星の集団として見える。更に近くにはM6も見える。こちらはまだまだ細やかな星の寄り合いにしか見えない。

2001年02月15日(木曜日)

wakwakサイト開通

23時27分 インターネット

 実はwakwakにも50MB分のウェブスペースの権利がある。
AIRNETとおさらばするので、こっちにもウェブページを作ってみた。
 といっても、内容はBig-Netと同じで、まさにミラーサイトです。
 本当はそっくりそのまま使いたかったのだけど、細かい仕様の違いで、CGI関係はちょいと変えなければならなかった。たとえばカウンタCGIのパスが違ったりするわけだ。そんなわけで、まずトップページは作り直さなければならなかった。
 次に今のWebBBSはCベースなので、TELNETで入れなければ(さらにいえばGCCを使えなければ)使えない。というわけで、BBSはBigの方をリンクした。wakwak自身が提供しているBBSもあるのだが。
 さて、せめてHNSは使えるようにしようと思うので、こちらはmakeしなくても良いhns-liteを入れる予定だ。
 ほいで、新しいミラーサイトはここになる予定(というかもう一応は見えるはずだが)。
 Airnetの方に客は滅多に来ないし、僕のhnsテスト用としてしか使ってなかったな。

どうしてこんなに眠いのかな?

20時26分 暮らし 天気:晴れだぞっと

 眠いのである。前日、9時過ぎから睡魔に完敗して2時間ほど眠り、いったん起き出した後にまた5時間ほど寝たから、7時間は寝ているはずなのである。それなのにまだ眠いのである。眼精疲労がつらい。
 きっと、冬眠の時期なのに無理に起きているからなのだろうな(熊かオマエは)。
 今週末は、爆睡に次ぐ爆睡にさらされることであろう。

2001年02月14日(水曜日)

airnetやめちゃえ

23時25分 インターネット 天気:くもり

 wakwakを使い始めて、そろそろ一月になるけれど、かなり快調だ。思ったようなサーバ激重状況は無い。結局、NTTの地域IP網が問題なので、フレッツならどこでもそうは変わらないのだな。airnetは外して良さそうだ。ということで、近々契約を解除することにした。それなりに使いやすいところではあったな。
 残るはiij4uと@nifty、そしてwakwakか。wakwakでも@niftyでもどちらでもフレッツを使えるので、万が一の時にも問題ないだろう。
 問題はフレッツADSLが普及したときだが、たぶん地域IP網より先に、サーバの方が音を上げるのではないかしらん。

2001年02月13日(火曜日)

忙しい一日

20時24分 暮らし 天気:曇りですぅ

 ドキュメントを読みながら書類作りの一日だった。帰宅して、風呂を洗って、飯を作ってなどとやっているうちに日付が変わる。雑用がちっとも片付かないし、眠いし、寒いしで大変なのであります。しかも昨日分解しかかったCD-Rドライブもそのまま散らばっている。キャーッ;^_^)
 などと本当にどうでもいいような雑事と対決しているうちに、一日はまったりと終わってゆくのであった。

2001年02月12日(月曜日)

逝ったはずだぜHDD

22時59分 コンピュータ

 昨日、Linux機から外したUW-SCSI*2を1号機に着けてみた。1号機はいろんな目論見が外れ、TekramのSCSIボードが二つ入っている変態構成になってしまった機械だ。
 ちょうどUW-SCSIの口が開いているので、ここに取り付けてみた。この機械、Cドライブにシステムの全てを入れ、以降のドライブはデータ専門なので、ドライブレターずれがあっても問題ない。最初、なぜか再起動できなくなってしまったのだが、SCSIホストアダプタの順番を入れ替えると、これもなぜか起動できるようになった。何故だか分からないが、とにかくやりたいことは実現できたのでこれでいいのだ。パソコン呪術師の面目躍如である。
 二つのドライブのそれぞれにパーティションを切り、フォーマットして、合計18GBの領域が追加できた。さらにSCSIドライブを停止させるフィルタドライバを設定し、全てのSCSIディスクが自動停止、再起動できることを確認した。こういう点、まだLinuxが至らない点だと思うな。OS/2だとこんなに簡単に、しかも安全に実現できるのだ。なんだかんだいいながら、ストレージ関係はOS/2が一番扱いやすい気がする。
 今日はもう一つの懸案事項に手をつけた。3号機につけていたNakamichiの外付け7連装4倍速CD-ROMドライブが、CD-ROMをかみ込んでしまったのか動かなくなってしまった。これを何とかしようと考え、分解してみた。
 分解してたまげたのは、このドライブの構成の複雑なことだった。チェンジャ部もさることながら、電源部の構成も複雑だ。大きなトランスやヒューズが入っている。さすがアナログ屋のドライブだと思った。
 なんとかCD-ROMを1枚だけ引き出したが、それ以上はどうにもならない。破壊的に取り出すしかないかも。でもこのドライブ、凄く便利なんだけどな。

2001年02月11日(日曜日)

星見ましょ

23時55分 星見

 夜も更けた頃、ベランダにMIZAR20*80を出した。この双眼鏡で見ると、オリオン座の三ツ星がすっぽり収まるので爽快だ。今夜も少し霞みがかかっている。春が近いせいだろうか。
 M41に向けると、20個くらいの微光星がポツポツ見える程度。シーイングは良くない。
 さらに夜が更けた頃、こんどは月を見にベランダに出た。月はほぼ南中している。20*80で見ると、大体視界の1/4程度に収まる。これくらいでも、ティコの光条はくっきり見えた。
 ちょっと思い出して、テレスコマイクロを取り出してきた。8*20なので小さく、暗いが、月が相手ならかなりいける。
 そんなことをしているうちに、いつの間にか雲が空の半分を覆い始めた。MIZAR20*80でかに座を眺めようと努力して、挫折。やっぱり屋根が邪魔。

湘南台に

20時19分 暮らし

 三日も外に出ないと体が腐りそうなので、夕方近くに湘南台に出かけた。本当はもっと早く出かけたかったのだけど、HDD逝去の余波でこんな時間になった。
 湘南台では、まずだし屋に寄って腹ごしらえ。この店、3月に移転しちゃうんだそうだ。どこに行くんだろう。
 だし屋を出て、図書館に寄る。30分しか居られなかったので、四万十川の民俗研究の本とかを読んだ。"四万十"という表現は、4万石の材木を10回も流せる(ほど木材の豊かな)川、という説が面白かった。紀伊半島の川には、昔は"十万十川"というのがあったそうな。本当はアレクシェービッチ女史の本を読みたかったのだが、ここで閉館となった。
 帰路、ウェーブアイ、ダイエーで買い物。同軸ケーブル10m分やらを買って帰った。

高熱HDD逝く?

15時18分 コンピュータ 天気:くもり

 昼頃のことである。3号機に接続したHDDに格納してあるmpeg画像を視聴していた。みんなの歌をmpeg1にエンコードしたもので、Linux機のraid復活でアクセスできるようになり、安心していたのだが......。
 20分ほど見ていたときだった。突然、Linux機にアクセスできなくなった。Linux機の方の画面に切り替えると、こいつがブラックアウトして気絶しているではないか。すぐに再起動する。プロセッサの温度は危険領域にまで上がってはいない。しかし日立製(前に富士通と書いたが間違い)のUW-SCSIディスクはどっちも目玉焼きが焼けそうなくらい熱い。以前からそういう傾向はあったのだが。LinuxではまだSCSIディスクのスピンダウンの実装が難しいようで、その手のツールで安全に使えるものは見たことが無い。IDEならhdparamというのを使えば何とかなるのだが。
 とりあえず再起動した。が、再起動中、raidドライブのマウント中にやはり逝ってしまう。何度やっても同じだ。昨夜は20分ほど見たけど、こんなことにはならなかったのになあ。一度スイッチを切り、HDDが充分冷えるまで待って試したが、やはりダメなものはダメなのである。論理的に壊れてしまったらしい。2時間ほど悪戦苦闘して、とうとう諦めた。問題のHDD*2を取り外した。起動できないのでは意味が無い。これでこの機械はIDE45GBドライブ単独という豪快な構成になった。
 問題のディスクは、OS/2機で使えるかどうか試してみようと思う。中のデータの大半は遅くない。強いていえばmpegデータは惜しいが、これは元の8mmビデオテープが残っているので、また作り直せばいいや。

2001年02月10日(土曜日)

星見ます?

23時55分 星見

 金の掛からないもうひとつの娯楽といえば、ずばり星を見ることだ。真夜中、ベランダにC8EXを出した。
 この時刻に見えるものといえば、ほぼ南中している月くらいのものだ。月をSW24.5の視界に納めた。が、どうもはっきり見えない。この高度ならそうシーイングが悪くないはずだが。しかし良く空を見回すと、雲がかなり雲が出ているではないか。月の辺りは晴れているように見えたが、実際にはかなり雲がかかっているようだ。四六時中霞んでしまう。UW6.7で細部を眺めようとしたが、ますますはっきり見えない。しかし視界がクリアになる一瞬には、ティコの山脈がくっきり見えた。
 SW24.5でしし座辺りを気ままに歩いてみた。霞む中にも明る星がぽつぽつと見え、春の接近が感じられた。

なにもしない三連休

19時16分 暮らし 天気:晴れでしょうか

 今日から三連休。喜んで鎌倉辺りにでも出かけたいもんだ、本来なら。
 しか~し、あまりにマシン増強に金を使いすぎて、遊ぶ金がない(爆)。全く、全然、少しもない(核滅)。本当にしょうがない三十路なのである。
 無いものはしょうがないので、金の掛からない娯楽に走るのである。例えば寝る(滅)。ダメ人間なのである。

2001年02月09日(金曜日)

dnet Personal ProxyでFirewallを越えるには

23時15分 コンピュータ 天気:晴れ

 気を抜いていたのが悪かったのだが、会社で動かしているdnetクライアントの面倒を見ているPersonal Proxyが、いつの間にか一杯になっていた。残キーは0。処理済のキーはたまっている。昨日はかなり余裕があった気がしたのだが。朝に見るとこの有様だ。油断ならんやっちゃな。
 会社のイントラは外部接続にFirewallを噛ませていて、ブラウザで外に出てゆくにはIDとパスワードの入力が必須だ。以前、Proxyperでこれを越えようと試みたのだが、うまくいかなかった。そこでデータファイルのみを持ち帰り、家のプロキシで送受信するという面倒な状態を続けてきた。
 しかしまあ、いつまでもこんな面倒なことを続けてはいられない。readme.txtを参考にFirewall越えを実現してみた。
 まず"httpproxy"、"httpport"に適切な値を設定する。ここまでは直感的に分かる。これからが問題だ。Firewallに認証させる時のIDとパスワードをどう書くのか。.iniファイルを見ると、"httpid"という行がある。readme.txtによれば、ここに書けばよいということだ。しかし書き方は、Firewallの認証の仕方でいろいろ記述の方法が違うのだ。
 試行錯誤の結果、ここに暗号化したID/パスワード対を書けばよいことが分かった。その暗号化の仕方だが、クライアントの方を使う。クライアントでFirewall越えが出来るように-configの2/6辺りを設定し、dnetc.iniに書き込まれた値をそのままコピーすればよいようだ。同時にFirewallの形態にあわせ、"uuehttpmode"を設定する。これで会社のFirewallを乗り越えられるようになった。

2001年02月08日(木曜日)

外部への接続を減らす

23時13分 コンピュータ

 ルータのログを見ていると、1号機と3号機からやたらと発呼があって、その度にダイヤルアップされている。どうもNTPが主犯らしい。xntpdが、数分間隔で上位のxntpdに接続しているのだ。その機能からすれば当然だし、別にいくら繋いでもフレッツなので問題は無いのだが、セキュリティを考えると不要な接続、特に不随意のそれは避けたい。
 ntp関係のマニュアルを読むと、server指定で2のn乗秒間隔で接続、という風に指定できるようだ。が、これ、nの最大が10なんだな。するとたった17分強までしか指定できないわけだ。これでもまだ短い。
 ちょっと考えて、serverを自分自身にしてして、外部との調停はntpdateをcronで毎日キックすることにした。これでいいのかな。とにかくntp由来のパケットは止まった。
 これで喜んでいたら、翌朝に別のコネクションがやはり頻繁にあることに気づいた。こいつはrc5-64PerProxyで、上位のプロキシに盛んに問い合わせしている。これはproxyper.iniのconnectperiodを3時間程度に取って対処したが、これでいいのだろうか。
 この二つがうまくいっても、別の誰かが接続にいってたりしてな。常時接続は、それなりに気を使うのである。

また雪が

20時12分 暮らし 天気:晴れました、くもりました

 前日の夜中からまた雪が降り始めた。外に買い物に出たとき、雨が傘に当たる「パラパラ」という音が、いつのまにか「サラサラ」に変わり、スーパーに着く頃には傘に雪がこびりついていた。
 また大雪が降って、朝には難儀なことになりそうだと思っていたが、今回の雪は根性無しだったようだ。朝にはすっかり道路も乾き、何の問題も無かった。
 それにしても今年は雪が多いな。最近、例年雪を見ることが稀だったのだが。

2001年02月07日(水曜日)

プロトコルとの戦い

23時10分 コンピュータ 天気:寒い雨空

 昨日からの熱が退かず、会社を休む。体の節々が痛くてヤになるぜ。こういうときでも、PCをいじるだけなら負担にならないので助かる。
 昼過ぎまで寝て起き出し、どうにも調子が悪い我がネットワークの調整に掛かった。
 どういう状況かというと、ファイルサーバとして使っているOS/2機の共有ドライブが、他のWindowsな機械から見えたり見えなかったりするのである。特にWindow95/98/Meの系統から見たときに、なぜか見えたり見えなかったりする。一方、Windows2000からは常時接続可能だ。さらにLinuxな機械からsmbclientを使っての接続も可能。
 OS/2機の足回りは、今はTCPBEUIのみにしてあり、それにあわせて他のWindows機からもNETBEUIを取り除いていた。Linux機で走らせているsambaはSMBこそしゃべるものの足回りはTCP/IPだ(つまりNETBIOS over TCP/IP?)。それに統一したつもりだったのだが......。
 NETBEUIの名前参照の方式は基本的にブロードキャスト式なのだが、ブラウズマスタだとかDNSによる解決だとか色んなケースがあってわけがわからん。ネットへの負荷も軽くは無いだろう。しかし考えてみればルータ越えが出来ないプロトコルは、ローカルなネットワークではセキュアかも知れんな。なんて事を思いつつなぜか常に調子がよいWindows2000機のネットワーク設定を眺めていたら、これ、常にNETBEUIがバインドされているんだな。ためしに外してみると、やはりOS/2機へのアクセスが不可能になった。正確にはIPアドレス決め打ちでならアクセスできるので、名前解決に失敗している模様。もう全ての機械にNETBEUIをぶち込んで、さっくりアクセスできるように戻した。これでWindows2000機からもMeからもアクセスできる。ところが、唯一のWindows95機であるLibretto20から、他のWindows機へのアクセスが出来なくなってしまった。なぜかWarp機へは可能なのだ。調べた限り、TCP/IPでNETBIOSが使用可能になって"ない"と、他のWindows機へのアクセスが出来ないようだ。Windows98以降ではこのチェックボックスは常にチェックされているので、Windows同士は基本的にTNBで会話しているのだろうか。
 ともあれ、ほとんどの機械がお互いにアクセスできるようになった。ところが、今度はOS/2機とLinux機が相互に参照できなくなったのである。どういうこと?(X_X)
 と、ここまで書いて気づいたのだが、もしかしてOS/2機のNETBIOSが、TCP/IPでは使用可能になってないのかもしれない。ネットワーク設定で記述順を入れ替えたらどうなるだろう。
 ともかく、この状態でLinux機上のsambaを起動すると、見事に共有ディレクトリを参照出来るようになった。後少しという感じだ。でも自前でBINDを立てたりNFSでLinux同士の共有を実現したりしたのだが、もうちょっと悩みそうな感じ。

2001年02月06日(火曜日)

XFree86 for OS/2

23時09分 コンピュータ

 鍵盤も受像機も無い5号機とお話しするために、1号機にXFree86を入れた。これは同盟国(独逸)のさる方(猿ではない)がOS/2用の移植版をまとめてくださったもので、Win-OS2の全画面のような感じで起動される。最初、以前ダウンロードしておいた3.3.1を入れてみたら、我がG200では起動できないではないか。Web上を見てみると、最新は3.3.6ベースのものになっていた。入れ換えると、今度は見事に起動した。が、今のところXTermが一つだけの素のXが起動するだけの寂しい状況だ。日本語関係とウィンドウマネージャをなんとかしなければ。というところで力尽きて爆睡。頭が、頭がとろけるのだ~。

高熱に悩まされる

10時23分 暮らし 天気:曇りですか

 朝方、6時間ほどの眠りから覚めると、目がしくしくするのに気づいた。くしゃみがやたら出て、どうもしっかり風邪をひいた模様。困るなあ、今日は会議あるから休めない......。
 ともかく会社に出たが、熱とくしゃみでこりゃたまらんという状況だった。なんとか会議を乗り切り、多少の残業を経て帰宅したが、もうほとんどへばっていた。わしゃもうだめじゃ。

2001年02月05日(月曜日)

Vineをいじる

23時06分 コンピュータ 天気:くもり

 3、5号機が稼動し、ウチには2台のLinux機械が登場することになったわけだ。考えてみれば、稼動しているOSはWindows95が1(最近復活したLibretto20)、、Windows98が3(全部ノートPCだが)、WindowsMeが1(4号機)、Windows2000が1(2号機)、OS/2が1(1号機)そしてLinuxという形勢なので、デスクトップ機ではLinuxが最大勢力になってしまった。さらにノートPC機の一部もLinux化する予定なので、もはや全機中でも最大勢力になるのは必至だ。これは裏方で黙々と動いている機械が多いからというのもあるのだろう。
 さて、2台のLinuxでNISを稼動させようかと思っていたのだが、その前にNFSを稼動させなければと思い、参考書を読んでいるうちに眠くなった(爆)。
 とりあえず風呂に入り、NISはもう少しお勉強することにして、3号機のほったらかしのUW-SCSI2つを何とかすることにした。元々、こいつらはRAID化していたのだが、Vineにはraidtoolsが入ってないので再RAID化するにはそれを取って来る必要がある。起動時に認識してくれても良いと思うのだが......。
 実は旧3号機のシステムディスクは5号機に入れてあるので、マウントしてraidtabをコピーしておいた。さらにraidtools0.9を入手して入れようとすると、MAKEDEVのバージョンが3以上で無いとダメよんといわれる。MAKEDEV3.05を入手し、rpmでインストールしてやり、raidtoolsは無事インストールに成功。先のraidtabを現状のデバイス名に合わせて書き直し、mkraidすると例によって"-fせよ"、さらに"--really-force"せよと警告される。多分大丈夫だろうと思いつつ"--really-force"すると、無事にRAID化され、以前使用していたファイルもちゃんと見えた。ホッ、無事だった。
 後はNIS塗りかと思いつつ先にsambaさせた方が良かろうかとsmbclientを起動してみると、おやこっちからは1号機が見える。逆は名前だけ見える状況なのだが、さて、なにが間違っててなにが正しいのやら。

2001年02月04日(日曜日)

5号機との戦いは続く

23時04分 コンピュータ 天気:まったりとうすぐもりにゅ

 睡魔に負けて中断していた5号機の製作を再開した。問題はディスクの認識がされたりされなかったりする点なのだ。
 まず疑ったのはSamsungのCD-ROMドライブだった。こいつは以前から挙動不審の極みにあり、職質→逮捕は間違い無しの怪しさ大爆発ドライブの決定版だったのだ。なにか大きなファイルを転送すると、かなりの確率で認識されなくなるのだ。どうもファームウェアの問題があるような気がするのだが。
 CD-ROMドライブの予備は他にもある。予備というか余り物だけど。まず4倍速のシングルドライブ。ノート用の薄いもので、普通のベイにつけるとみすぼらしくなるものだが(爆)。もう一つはGateway2000を買ったときについてきた、SANYOの4倍速3連装ドライブ。こっちの方がましだ。
 呪われたドライブを外し、実績のあるSANYOドライブを装着する。よしよし、こっちは安定しているぞ......しかしさっきよりやや進んだところで、やはりドライブが認識されなくなったのだった。しかも何度かやっているうちに、日立ドライブが起動時に謎のビープ音を出すようになった。これは、壊れたか(泣)。予備の予備だったQuantum2.5GBディスクに換えた。どうもうまくいかない。ううむ。
 こういうときはメモリ周りに問題があることが多い。BIOS設定でファクトリ設定を再読み込みし、再起動。状況は変わらない。乱雑に垂れ下がっているケーブル類をちょっと整理してみる。変わらない。
 しばらく思い悩んで、ケーブル自身にノイズが乗っている可能性に思い至った。使用しているのは旧タイプのATAケーブルだ。このメインボードの場合、LinuxではなぜかPIOでしか使えないので(というかNTでもそうだったような)、このケーブルで充分だと思っていたのだ。だがシールドもアースもされてないこのケーブルは、ノイズに非常に弱いはずだ。そこでやや短いケーブルに換えて見た。......イケるやん。この構成でインストールできた。ここで引っかかっていたのか。
 要するにSamsungのドライブは呪われて無かったのだな。疑ってスマン、と謝りつつドライブを戻してやると、Linux起動時には良いが、何か高速で転送するとやはり認識されなくなる。やっぱりオマエは呪われてるのかっ(怒)。捨て捨てである。
 こうして一通りの設定をした5号機だが、今の状況ではE66Tに接続できるのは4台が精一杯だ。そこで5号機はキッチンの脇に置き、LANで繋いで、TELNETで世話することにした。LinuxだとKB/Mouseが無くても起動できるので、こういう点は便利だ(Windows系はKB必須だったような気が)。
 さっそくマシンをキッチンに転がし、TELNETで繋いで設定を続ける。FTPできるようにしないとね、と思いつつ試してみると、出来るやん。しかし同じくVineを入れてある3号機では出来ないのである。なんでやねん。調査の結果、3号機のinet.confを手で弄ったのが災いしていることが判明した。ftpdはinetデーモン様にお任せするのが筋と思っていたので、何の疑問も無くinet.confでftpd(Vineの場合wu-ftpdではなくproftpd)をキックするようにしていたのだ。しかし、Vineでは起動スクリプトで直接キックするようになっている。inet.confのftpdをコメント化すると、3号機でも問題なくftp出来るようになった。
 さて、後はsambaさせようと思ったが、よく考えると5号機にはNISを入れて、sambaはあくまでも3号機にお任せしてしまうのが吉かなと思った。UNIX同士の連携はやっぱりNISでしょうかね。
 というところで寝る俺様なのである。

2001年02月03日(土曜日)

星を見るにょ

23時55分 星見

 今夜も晴れっぽいので星を見た。今夜はMIZAR20*80で空のお散歩なのだ。オリオン座からおおいぬ座にかけてをざっと眺め、高高度にあるかに座に双眼鏡を向けようと思ったが、む、向かない。ひさしに掛かるのと、三脚の構造上の問題でどうしても向けることが出来ないのだ。考えるに、もっと大型の三脚と、MIZARの小型経緯台の組み合わせが、空を眺めるには向いているかもしれない。確か国際光器が扱っていたな。
 今夜も夜空はまったりと薄雲が掛かっているのだが、双眼鏡の視界は明るいのでそれなりに見える。この双眼鏡、29800円だったのだが、値段の割に良く働いてくれる。結構お薦めな品物かもしれない。

余り物で作るPC

22時01分 コンピュータ 天気:晴れているのですが

 去年の年末からの嵐のようなPCてこ入れで、色んなパーツが余ってしまった。パーツが余れば新しい機械をつくるのがこの業界の掟である(そうだったのか)。
 そういうことで、この週末は特に出かけるつもりも無いので、もう一台マシンを組む事にした。目標:パーツの新規購入は一切無しであること。
 余ったパーツは、まず旧4号機がまるまる。3号機のATX化の際に余ったパーツ、そして過去からの遺産(爆)。その中から使えそうなパーツを集めてみた。旧4号機の筐体、これは最初に買ったPCの筐体だ。3号機の以前のメインボードとプロセッサ、MMX Pentiumプロセッサ200MHzのデュアル構成で、256MBのSIMMがぎっしり載っている。グラフィックアダプタはCreativeのRIVA TNTボード、16MBのメモリが載っている。それからDiamond(現Sonic Blue)のVortex2が載った音源、どっちももう手を引いたメーカーだ。それからPlanexの安い100Base-T LANボード、VIAのRhinoが載った奴だ。確か、今3号機に載っているのと同じはずだ。そしてディスクが有象無象である。さらに3号機から外したSilencerAT電源もある。
 筐体をばらし、ブロワーと掃除機できれいにする。大体9年近いほこりがたまっているので、物凄いことになっていた。さすがに何度か清掃はしてきたのだが、とりきれないほこりもたまっていたのだ。それから電源を250WのものからSilencer270Wに交換した。この250W電源も、実は2代目なのだ。初代の200W電源は、ある日とうとう動かなくなったんだっけ。
 電源を換え、メインボードを取り付ける。スペーサーで適当に固定し、ボードはグラフィックボード、LANボード、そして音源ボードだけを入れる。全PCI構成になってしまった。
 ストレージは適当に見繕い、Quantumの4.3GBのもの、Maxtorの2.5GBのもの、日立の4GB(ただし2.5インチ)のもの、そしてどうしても必要になるCD-ROMドライブとしては、4号機で使っていたSamsungの40倍速のものを着けた。が、これが以前から呪われたドライブであるということを、この時点では甘く見ていた。このドライブを使っていると、いきなり認識されなくなるという現象が頻発するのだ。
 がしがし組んで、ケーブルを接続し、いくつかの接続間違いを乗り越えて(滅)起動実験スタートである。最初のうちはドライブのマスター/スレーブ設定を間違えて失敗続きだったが、やがてBIOSからはきちんと認識できた。
 よし、この機械にはLinuxを入れようではないか。そう考えてVineLinux2.1の起動ディスクを作り、起動するのであった。
 ......なんだか全然安定してないや。HDDを認識したりしなかったりで、とてもまともな動きではない。やはりこの呪われたCD-ROMドライブが悪いのか。
 というところで眠くなったのでここまでなのである。案外に苦戦するものです。

2001年02月02日(金曜日)

星を見ましょう

23時55分 星見 天気:晴れているのか

 年も明けて2月ともなると、そろそろオリオン座の南中時刻が早くなる。もうすぐ明るいうちに南中してしまうので、今が見頃だ。
 年が明けて初めて、C8EXをベランダに出した。まずはオリオン座を散歩。
 空の透明度は低く、まったりした薄雲がくまなく覆っている。感覚的には5月の空に似た状況だ。空は肉眼で見ると白く光って見える。光害とあいまって見え味は悪化するわけだ。
 小三ツ星の散光もいまいちだが、さすがに8インチの口径は100EDで快晴の空を見た時より明るく感じる。小三ツ星のM42直下辺りにある星の並びを見ているとき、その一つが重星であることに気づいた。結構離れているので重星とはいわないかもしれない。この望遠鏡、明るさはいいのだがいまいち星像が収束しないのだ。調整してみたいのだが、なかなか良い空に逢えない。
 視界にシリウスを入れ、その燃えるような輝きを珈琲を飲みながら楽しんだ。太陽がこれくらいだったら、色んな意味で太陽系の状況も変わっていたのだろう。
 最後にM41を入れ、見えている星の数をカウントしてみたが、やはり以前に較べて半減しているようだ。透明度が高いといわれる冬空も、こういうときがあるものだ。

2001年02月01日(木曜日)

自殺の罪

23時00分 思考

 知り合いが自殺した。知り合いというのは他でもない、ココからリンクを張っているくらけ氏だったりする。
 昨日、あちゃいん氏のBBSに、そのくらけ氏の知人と名乗る方から、氏の死去が報告されたのだ。最初、新手の荒らしだと思ったのだが、関係者の調べでは残念ながら事実だったということだ。
 くらけ氏と知り合ったのは、確かまだDOS/V全盛(つまりWindows時代)だった'93年頃じゃ無かっただろうか。当時はPC-98の勢力が巨大で、PC互換機など国内では吹けば飛ぶような存在だった。ソフトも英語圏のものは当然多いのだが、日本特有の事情にあわせたものは少なかった。
 これで困ることの一つに、画像表示の問題があった。当時、画像フォーマットはいくつも乱立していた。今でこそJPEGの他はGIF、PNG位と言う状況にまで単純化されたが、当時はMAG、MAKI、Q4、PICなど、いくつものフォーマットが、日本でだけ乱立していた。それらのローダも当然作られてはいたのだが、ターゲットはほとんどPC-9801で、DOS/V(というかPC)に対応したものは数少なかった。特にX68Kで使われていたPICフォーマットに関しては、可逆圧縮フォーマットでフルカラー表示というスペック故人気が高かったのだが、PC上では表示できないという状況だった。かといってWindowsは3.1が出たばかりで、まだまだソフトがお寒い状況だった。
 そんな空白を埋めてくれたのが、くらけ氏のpiclvだった。これはDOS/Vコマンドラインのローダで、PICファイルを再現性高く表示してくれるものだった。こいつのおかげでほぼ完全にPC-9801と縁が切れたのだった。
 非常に嬉しかったので、感想がてら当時健在だったASCII-Netへの転載願いを出したのがくらけ氏との出会いだったかな。くらけ氏は感想を喜んでくれ、また転載も快諾してくれた。
 それからしばらくして、僕は今度はOS/2にはまりだした。そこでNIFTY-Serveの旧OS/2フォーラムに顔を出すようになったのだが、そこでまたくらけ氏を見かけるようになった。勝手に同年代だと思っていたのだが、性向にもやや似たところがあったのかもしれない。そしてくらけ氏と「OS/2用のPICLVを作っては?」などとチャットで話していたものだ。やがてくらけ氏がリリースしたPICL/2は、やはり絶対的にアプリが少ないOS/2での貴重な存在になったものだ。
 そしてやがてインターネット時代に入り、僕は一時NIFTYを止めたのだが、今度はあちゃいん氏のウェブページでくらけ氏と出くわすことになったのだ。このように、我々はありとあらゆるところでばったり顔を合わせる運命にあったのだ。
 故人がどういう経緯で自殺を選んだのかは知らない。そもそも知り合いといいつつ、彼の顔も住所も知らない。だが彼とはやはり知り合いだったとしかいえない。様々な意味で、お互いの属性を知り合っていたのだから。顔を知らないことなど些細なことだったのだ。
 たぶん、彼は僕と同年代だったのだろう、と勝手に考えている。少なくともそのくたびれぶりは僕らの世代に共通したものだ。故人が何を考え、このような最終的結論に達したのかは、もう永遠の謎になってしまった。彼の死に関して一番残念なのは、彼はもうなにものも生み出せない存在になってしまったということだ。もう、僕や他の人々と対話し、そこになにかを生み出すことが出来ない存在になってしまったのだから。自殺というものに罪があるのなら、まさしくそのことに掛かっているのだと思う。なにものとも対話できない存在に自らなる。それは人間としては決してとってはならない道だと思うのだ。
 しかし彼はこの世界から去ってしまった。もう僕の手が届かない彼岸へと去ってしまった。彼の死に関して、僕は涙を流したりするわけではないけれど、恐らくこれからしばらくはそのことを考えることになるだろう。