Strange Days

2001年08月31日(金曜日)

また宴会するずら

19時15分 暮らし 天気:雨ですか?

 先週辺りに、久遠氏のチャットで「バルチックカレーをむさぼりくわんかね?」と誘ったところ、オフの告知を方々に出しておいてくれた。本当にまめな性格だなあ。しかしなんと、赤井女史が参加するということになったらしい。ううむ、おやじ集団なら適当な飲み屋に雪崩れ込むことも可能だが、赤井女史が参加してくれる以上はそれなりの店を探さねばなるまい。ということで、現在、秋葉周辺でよさげな店を探索中。こりゃあ、神田に出た方が早いかな。まあなんとか目星はつけたが。
 しかしこのバルチックカレー、その名から様々な憶測を呼んでいるのである。いわく、「バルト諸国が日本国内で諜報活動するためのアジトだ」とか「日本海海戦に敗れたロシア兵たちが日本に帰化した名残」とか「海戦に敗れたロジェストベンスキー中将の末裔が経営している」とか。いやみんな僕がいってるんだけど。
 しかしまあ、バルチックカレーのホームページを見る限り、単なるチェーン店みたいだが。
 ともあれ、濃いメンバーとのおしゃべりが楽しみだ。

2001年08月30日(木曜日)

アルコールでへろへろ

23時55分 暮らし 天気:曇ってるみたい

 今日は月末に離任する上司の送別会で、戸塚駅東口にある魚民という飲み屋で飲む飲む。最初からピッチが早めだったせいで、終わる頃にはへろへろになっていた。まず、眠い。座ると眠り込むに違いないと思い、地下鉄では空席があっても立ったまま立場に向かった(これはまあいつもそうだが)。帰宅すると、案の定爆睡モードに移行。4時間ほども寝てしまった。
 起き出して、風呂に入り、ちょっと外に出てみると、雲が多い。いつもこうだ。すっきり晴れ上がった夏の夜なんて、今年は数えるほどしかお目にかかれなかった。横浜という土地がそうなのかもしれない。
 間もなくコケコッコータイムという頃に再びふとんに。

2001年08月29日(水曜日)

ごま味噌うどん試作

22時09分 暮らし 天気:曇りですか

 秋になって暑さも一段落したら、携帯ストーブを持って外でお食事、なんて考えている。キャンプもいいな。
 道具が揃ってないうちは簡単な調理しか出来ないだろう。また出来るだけゴミが出ないようにしたい。するとパスタや麺類に、適当にトッピングしたものがよさげ。しかし単なるパスタはゆで汁を捨てなきゃならない。その点、うどんやスープスパの類は、そのままスープに出来るので良さそうだ。基本はここに置こう。
 これから外気温は下がる一方だから、体が温まるものにしたい。思い浮かぶのは、会社の食堂で食ったごま味噌うどん。これは出し汁にごまと味噌で味付けした、体が温まるようなものだった。まずはこいつを試作してみよう。
 まず出し汁を張って、すりごまを適量投入する。げっ、多すぎた。小さじ一杯程度で十分みたい。さらに味噌も大さじ一杯程度投入。多すぎるとただの味噌汁になっちまう。次にうどん。これは本当は乾燥うどんから戻してやらなければやらないが、今日は冷凍うどんで代用する。うどんが煮えたところで卵を投入。これで栄養的にはかなり高レベルになるだろう。最後にねぎを添える。持ち運ぶときは、ごまと味噌をすり鉢ですって、そこにねぎを練りこんでやるとよさげ。
 味は、まあいけるんでないか。少なくとも、寒いときにすすると体が暖まりそう(しかし夏に食っても)。今度は携帯ストーブを買って試してみよう。

2001年08月28日(火曜日)

連夜の鍋にお疲れ

21時08分 暮らし 天気:晴れ時々曇り

 昨日に続き鍋。今日で食いきるつもりなので、全食材を投入したところ、昨夜以上の分量になってしまった。ぐはぁ、食いきれるかな。
 なんとか平らげ、ちょっと横になっていると、いつの間にか日付が変わっている。宇宙の神秘だ! 3時間ほど寝てしまったみたい。慌てて起き出して、風呂に入ることよ。
 やっぱ、平日の鍋はやめた方が良さそうだ。往生するわ。

2001年08月27日(月曜日)

横浜そごうのサイクルコーナー

23時45分 自転車

 午後、新川崎に出張して、そのまま直帰することにした。往路、横浜駅で物凄い混雑に巻き込まれた。なんでも、集中豪雨のために下り線が徐行しているんだとか。その帰路、横浜そごうに寄って、スポーツ用品売り場をうろついてみた。案内板を見ると、一応サイクルコーナーもあるようだ。そこは面積こそ狭いが、案外に多くの車両やパーツが置かれている。値段はどうかな。
 ロードバイクとしてはTrekの2000年モデルなんかが置いてあった。置いてある車両の大半はMTBだ。意外に、フォールディングバイクは一台も無い。
 パーツ類も豊富なので、他の店で見つからなかったらここで探すのも良いかも。

疲労のたまった週明けは

20時44分 暮らし 天気:曇りだか晴れだか豪雨だか

 土日と元気に遊んだ週明けは、全身に倦怠感が漂っている。っつうか、遊びすぎなんだよ! この疲労感は、VAAMを使わなかった報いかもしれない。VAAMを飲みながらだと、ここまで疲労がたまらなかったからだ。いまさらながら、あれは威力があるんだと痛感することよ。
 疲労を吹き飛ばすべく、せめて夕食はたっぷり取ろうと思い、スーパーをうろつく。うむ、白菜があるな。鍋にしようか(こんな暑いのにか)。うむ、暑いしな、鍋にするか(熱死する気か)。ということで鍋にした。まだ8月だぜっ!
 予想通り、暑さに死にそうになりながら作り(台所は冷房が無いので)、涼しい部屋でたいらげた。一人で食うには食材が多すぎる。週末にやるべきだな。

2001年08月26日(日曜日)

NHKスペシャル「宇宙 未知への大紀行」

23時42分 テレビ

 今夜のNHKスペシャルは「宇宙 未知への大紀行」シリーズ5回目、「150億年の遺産」。
 金はその安定性と希少性から、長らく人類の富の象徴として扱われてきた。その金を、もしも他のありふれた金属から作り出せれば、莫大な富を得ることが出来る。そう考えた人々は、金を生み出す技術、錬金術を追求した。錬金術は現代に連なる近代科学の嚆矢であり、経験主義的な知識体系の夜明けを告げるものだった。が、錬金術自体はその最終的成果を経験することは無かった。
 金のような重い元素を作り出すには、莫大なエネルギーが必要であることが分かっている。元素から別の元素を作り出すには、元素同士を核融合させるか、金より重い元素を核分裂させるかするしかない。しかし、最も軽い水素同士を核融合させるのにも、莫大なエネルギーが必要になる。核融合炉は人類が長年追求してきた夢だが、今に至るまで実用化の目処は立ってない。ましてや、遥かに重い金を生み出すことなど、実験室レベルの技術でしかない。
 そもそも、金はどこで生み出されたのだろう。
 19世紀、あるドイツのレンズ職人は、後に吸収線として知られる現象を発見した。白色光を特定の元素のエアロゾルなどに通過させると、その元素固有の波長の光を吸収し、その結果としてスペクトルに黒い線が現れる。これを利用すれば、遥かに離れた恒星の組成を知ることが可能だ。
 宇宙黎明期の天体(つまり地球から遥かに離れた天体)を観測すると、重い元素が極端に少なく、ほとんど水素とヘリウムのみで構成されてることが分かった。50億年程前に誕生した太陽が重い元素をふんだんに含んでいるのに対し、宇宙の黎明期にはほぼ水素とヘリウムしか無かったのだ。
 宇宙を探査してゆくと、惑星状星雲という奇妙な天体が散見される。これは明るく輝くガスの広がりで、中心に燃え尽きた矮星があることから、太陽の8倍程度の質量までの星が死を迎えた姿だと考えられている。太陽のような主系列星は、その中心部は巨大な圧力と温度になる。この環境で、水素は核融合を起こし、ヘリウムへと変化する。こうしたサイクルは水素の供給がある限り続くが、末期には水素を燃やし尽くし、今度はヘリウム同士、ヘリウムと水素とが核融合して、ベリリウムや炭素などのより重い元素が生成される。ヘリウムによる核融合はより高温を生み出すので、恒星中心部の圧力は上がり、結果的に外層部をさらに遠くに持ち上げることになる。これが赤色巨星と呼ばれる状況だ。こうして、水素から比較的軽い元素(確かNaくらいまで?)までを生み出した後、ついに中心部の核融合は限界に達し、停止する。すると恒星は中心部が収縮し、逆に外層は中心部からの重力による束縛が無くなるので、急激に拡散してしまう。これが惑星状星雲の正体なのだ。このとき、拡散してゆくガスに、この星が生み出した元素たちも混ざって拡がってゆく。
 しかし、これだけではより重い元素を生み出すことは出来ない。より重い元素の生成には、より重い天体が必要になる。
 太陽より8倍以上重い恒星では、中心部の温度と圧力もさらに上昇する。この種の天体でも最初は水素の核融合により輝く。そしてそれが燃え尽きると、さらに重い元素を融合させてゆくのも同様だ。しかし、内部の圧力が非常に高いため、軽い星の場合と異なり、重い元素をも次々に融合させてゆく。そのサイクルは、鉄を生み出すまで継続してゆく。
 鉄は、さらに核融合させるのに必要なエネルギーが非常に高く、また入力された以下のエネルギーしか戻さない(つまり常にエネルギーを吸収する一方になる)ため、ここでついに核融合は停止する。この時、非常に高圧で、大きく広がった中心部が、圧力を失ったため、中心に向けて一気になだれ落ちる。そしてその時、燃え残った軽い元素などが一気に核融合するのだ。それにより多量のエネルギーが、一瞬のうちに生み出される。超新星爆発だ。定常的な核融合反応など比較にならないほどの莫大なエネルギーが、この瞬間に解放される。そこに生み出される超高温、高圧の中で、ウラニウムに至る非常に重い元素も生み出される。そして超新星爆発の爆風で、周囲に拡散されるのだ。
 こうして宇宙空間に次第に蓄積された重い元素は、星間物質が収縮して新しい星が生み出される際にも含有される。こうして、太陽など比較的若い星には重い元素がふんだんに含まれることになるのだ。そして我々生命の構成物質としても利用されるのだ。
 しかし、これだけでは十分に説明できているとはいえないという意見もある。超新星爆発だけで生み出されたにしては、金などの重い元素が多すぎる。宇宙にはより巨大なエネルギーを生み出す場所があるに違いない。
 天体物理学者の中には、中性子星同士が融合する際に、莫大なエネルギーが解放されるという可能性を指摘する者もある。超新星爆発の結果、その中心部に中性子星という星が残される場合がある。この中性子星は、あまりもの高圧のために原子と原子の間の隙間が無くなり、電子は陽子に吸収されて中性子となり、結果的に中性子のみで構成されるにいたった異様な世界だ。この中性子星同士の出会いは極めて稀だろうが、その際に解放される巨大なエネルギーの中で、金などの重い元素が多量に生み出されると考えられている。
 超新星爆発は、星の誕生をも促進する。宇宙空間には希薄な星間物質が存在しているが、超新星爆発があると、その圧力波の先端で物質が圧縮される。これが何回か繰り返されると、やがて自律的に収縮するほどの濃度に達するのだ。銀河系には、こうした超新星爆発により生じた、いわば星の鍛冶場とでも言うべき球形の星の揺りかごが、いくつも発見されている。僕たちの太陽系も、あるいはそうして別の星の死によって生み出されたのかもしれない。
 宇宙には水素もヘリウムも大量に残されているが、理論的にはそれは徐々に消費され、重い元素で満たされてゆくことになる。これは宇宙の加齢というものなのだろうか。

町田に行く

20時40分 自転車 天気:晴れ

 このところ、週末は充実してるんだかしてないんだか、よく分からない状態だ。心身の疲労という点では充実してるんだろう。が、やったことといえば、闇雲に走り回ったというだけ。昨日の東京ポタなんてその際たるものだ(東京駅から上野なんて、JRであっという間だ)。しかしまあ、日々新しい発見がある。凄く些細なものばかりだけど。
 今日もスペシャライズドのMTB(最廉価グレードのハードロック)で町田へとでかけた。本当の目的は相模サイクルセンターにあったのだが。
 ハードロック号には以前からフロントバッグを取り付けてあったのだが、取り付け角調節のために取り付け部を加工したところ、この間の鎌倉行で下を向いてしまった。ピアノ線で釣ったのだが、うまくなかったようだ。今度は園芸用のつまみ付き縒り線ワイヤをボルトにはさむ形で固定した。ちょっと下がり気味にはなるが、テンションがかかっていい感じ。またMTBなので2.5気圧くらい入れていたタイヤも、ほとんどオンロードばかりなので3.5気圧まで上げてみた。走りが軽くなった気がする。が、乗り味はかなりゴツゴツするようになった。
 MTBを境川まで走らせ、境川サイクリングロードを北上してゆく。前は休み休みだったけど、今日は25km/h前後を維持したまま、一気に突っ走った。なんだか、徐々に自転車足になってきた感じ。坂道もかなり平気だ。
 途中、相模サイクルセンタへの分岐に差し掛かったが、後で寄ろうと思ってそのまま通過した。そもそも、寄ろうと思ったのはハートレートモニタ(リスト式の奴)を買うつもりだったのだが。これっきり忘れてしまい、帰路にも寄ることは無かった。
 町田までは1時間強程度。信号待ちでボトルを取る程度だったのだが、喉はそんなに渇いてない。自転車喉になってきたようだ(なにそれ)。
 町田の市街地は、小田急の線路を挟んで向こう側にあるから、なんとかして線路を越えなければならない。その踏切を探して、しばしうろうろする。最終的には、陸橋で超えることが出来たのだが。その途中で、自転車屋を発見。雰囲気的にスポーツ車を主に扱っていそうな店だった。しかし、店の前に常連と思しき人々がたむろしていたので、今日は通過する。
 町田駅周辺に出て、ハンズに入ってみた。以前、近所の古淵に住んでいたのだが、その当時はここに来たことがあったろうか。
 2Fをうろつく。自転車コーナーは横浜の1/4くらいしかない。店員が一人、Bromptonを一生懸命に調整していた。側に待ち受け顔で立っている男性が買ったようだ。
 近くのドトールでアイスコーヒーを買い、しばし休息を取った。
 ハンズのはす向かいに、5階建ての巨大100円ショップがある。100円ショップというと、戸塚の駅前にあるかわいい奴くらいしか知らなかったから、このでかさにはたまげた。というか、100円の商品ばかりをよくも集めたものだ。気が付いたらチャック式ビニール袋を三つばかり買っていた。なんに使うのだ?
 ダイソー(今店名を思い出した)を出て、再び境川サイクリングロードを南下し、長後街道へと戻った。ここで帰宅しようか、それとも戸塚に行こうかと迷う。戸塚にあるスポーツショップでアウトドア関係の品を見てみようかと思ったのだが、結構疲れてもいた。そういえば、VAAM切らしてるんだよな。しかし、結局は戸塚までさらに走ることにした。
 戸塚に行く道すがら、ミネラルウォーターのペットボトルを売っている自販機は無いものかと探した。が、小さなボトルしか売ってないみたい。結局、途中のコンビニで買った。
 西友の隣にあるスポーツ用品店で、アウトドア用の携帯ストーブなんかを眺める。ちょっと野外でのささやかなお料理なんぞに憧れ中だ。トランギアのアルコールランプが、携帯に凄く良さそうだけど、置いてない。LPガスベースの奴も思ったより軽い。けどかさばりそう。
 帰路、ユニクロに寄り、買う気は無かったけどTシャツなんぞを買ってしまった。
 疲れた体を引きずり、帰宅。

2001年08月25日(土曜日)

東京ポタ

20時39分 自転車 天気:晴れっ!

 前日思いついた、東京ポタリングを決行してみたことよ。
 久しぶりに秋葉原に行ってこようかと考えていたら、東京駅から自転車で行けば面白そうだと思うようになった。基本的に歩いて行ける距離だから、きっとあっと言う間だろう。その後は上野方面に足を伸ばし、更には新宿に向かって、皇居を一周して東京に戻る。そういう遠大な構想を立ててはみたのだが......。
 昼前に腹ごしらえして、BD-1で戸塚まで走った。交番横の駅入り口でBD-1を折り畳み、ホームまで持って上がる。改札口が地下か2Fかというのはちょっと辛くないか。しかし、BD-1を折り畳んで、ホイールを尻に載せる感じで運べば、意外に楽だと気づいた。
 東海道線の列車では、大荷物(BD-1)を抱えているので、わざわざ先頭車両に乗ったのだが、東海道線の旧型車両は最前部にも座席があるのだった。空いていたので出入り口脇のベンチにもたれかけさせるようにして置いたが、混雑しているときには要注意だ。
 東京駅に着き、北口(というのか北東にある口)の前でBD-1を組み立てる。いや、折り畳んでいたんだから"展開する"のが正しいのか。まあ、概ね北東に走れば秋葉だろう、などと楽観的に走り出した。
 東京はビルの林だった(当たり前だ)。そこら中にビルが立ち並んでいる。その中を走るのは、いつものサイクリングとはちょっと趣が違う。概ね歩道を走って行けたが、車道に降りなければならないこともしばしばだった。また、意外なことに歩道への上がり口の段差が、田舎の広島に較べても高いのだ。小径車のBD-1では、ちょいとリム打ちが心配になる。特に今はPanaracerの18インチ(Max40PSI)なので、ちょいと低圧気味なのだ。
 すぐ着けるだろうと思いつつ走っていたが、あれれ、前方に堀が見えてきたぞ。皇居に出てしまいました(爆)。なんというか、東京の道は迷路だな。
 ロカティオとにらめっこして、再び走り出した。首都高沿いに走った方が良さそうだ。この作戦は当たり、やがて神田駅が見えてきた。神田を通過し、さらに走ると、見慣れた秋葉原の通りに出た。ここで昭和通口の東海銀行により、ちょいと金を下ろしておく。秋葉に寄ったのには、VJE-デルタの最新バージョンを入手するという目的があったのだ。自転車だとやっぱり速い、スターベースを冷やかし、あっと言う間に中央通に出た。しかしこの辺で人込みに巻き込まれる。自転車だとやっぱり遅い。
 T-Zone本店に着き、ガードレールにBD-1を磔の刑に処し、上階に上がる。が、VJEが見つからない。というか、日本語入力(IM)そのものが売ってない。ATOKはあるが、これはJustsystemのコーナーにあるだけなのである。どうやら日本では、IMの市場そのものが消滅してしまったらしい。IMといえばInstant Messangerだもんな。許すまじMS-IME。さらに九十九本店を襲うも、やはりIMそのものを売ってない。なんてこった。
 気落ちしつつも、さらに北上する。次は上野を襲うつもりだ。って、なにかい、僕は官軍かい。
 上野は広い公園という感じで、緑に囲まれた施設が点在している。しかしその向こうを見ると、高いビルの列が走っている。なんとも不思議な眺めだ。公園内の道をゆっくり走る。気持ちいい。
 この辺で16:00を過ぎてしまう。うむ、これでは新宿行きなんて無理だ。せめて不忍の池を、と思い、BD-1を適当に走らせた。
 不忍の池には、家族連れなんぞが群れていた。しばし水辺で和む。何か水鳥が、のんびり翼を休めていた。
 帰路は東京駅まで走ることになる。適当に走って、下り坂では思い切り重いギアで踏みまくる。45km/hは出ていたか。なんだか、MTBより速度は出しやすいぞ。たぶん、タイヤが1.5インチ幅と接地面積が狭いせいだろう。最高速で四つ辻を駆け抜け、ふと気づくとそこは秋葉だった。
 やがて東京駅にたどり着き、またBD-1を畳んで、東海道線で帰った。戸塚からは自走で戻る。
 案外に楽しかったな。また来週にでも来てみよう。

2001年08月24日(金曜日)

Kyrix&Delphi無償公開

21時38分 コンピュータ 天気:晴れ

 以前から気にしていたことだが、Borland(またこの名に戻っている)のヴィジュアル開発環境、DelphiとKylixそれぞれの無償公開が始まったようだ。これらの開発環境はいずれもPASCALベースのもので、Windows向けがDelphi、Linux向けがKylixという事になる。無償でダウンロードできるのはエントリー版のみで、より高度な開発を行うための上位版は有償ということになる。Jbuilderでは以前から同様に公開されていたが、他の環境についても公開することになった。ちょっとしたプログラムを組む程度のホビープログラマーなら、たぶん間に合うのでは。上位版は、企業での開発がターゲットだ。
 JBuilderの時もそうだが、当面はFTPサイトが混雑しそうだ。雑誌の付録にならないかな。
 でも、僕はPASCALの経験がないので、C++Builderを公開してくれた方がうれしいのだけど。

2001年08月23日(木曜日)

Java講座

20時37分 コンピュータ 天気:晴に晴れておるわい

 今日から二日、会社の教育でJavaの講義を受けることなっている。
 Javaなんて普段使ってるじゃ~ん、などと嘗めきっていたら、全然知らないことが結構出てくるんでやんの。クソッ、こんなテクがあったなんて、などと後で地団駄踏むようなものも。ふつう、僕らのような検査屋にとっては「動けば正義」だからなあ。こうやって正統なテクを学ぶのもよい機会かもしれない。
 それにしても、JbuilderみたいなGUIベース開発環境が、いかに多くの作法を隠蔽してくれているのか、改めて教えられた思いだ。

2001年08月22日(水曜日)

オリオン座とご対面

23時55分 星見

 雨は夕方には早くも上がり、雲に切れ目が目立ち始めた。しかし、さそり座が南中する頃になっても、雲は大量に残っている。どうも真夏の観望は雲に邪魔されることが多い。
 夜、3時ごろになって、もしかしたらと思ってアパートの前から東天を見た。やはり、ほとんどきれいに晴れ上がっている。18*50ISをそちらに向けた。
 目に付くのはヒアデスの雄大な広がりだ。おおう、やはり台風一過、抜けるような透明度だ。ヒアデスの背後に広がる微光星の群れが、ヒアデスを構成する明るい星を際だてている。プレアデスはさらに華麗に輝いている。いつもが7姉妹の舞踏会だとすれば、今夜はその他大勢も含んだ大舞踏会だ。
 目を天頂の方に持って行くと、やがてヒアデスに勝るとも劣らない星の群れが目に飛び込んできた。一瞬、別の大型天体かと思ったが、単にペルセウス座辺りの、星が多い場所を見ているに過ぎないようだ。今夜のシーイングと、天頂近いという有利さが相乗して、思いがけない眺めを与えてくれたらしい。
 地平線近くに輝く明るい星は、きっと木星だろう。ゆっくり視界に納めると、ガリレオ衛星込で見えてきた。しかし、その近くにいるはずの土星は目に入ってこない。
 プレアデスがこんなに高く上がっているということは。もしかしたらと思って地平線近く、南の方を探してみると、ありました大三ツ星が。オリオン座とこの夏始めてのご対面ね。小三ツ星を探し、M42を視界の中心に置いた。まだ高度が低いせいか、散光はそれほどでもない。これから、次第に力強く輝くようになるだろう。

台風一過......か?

17時34分 暮らし 天気:雨だ、強い風だ、が、暴風ではない

 前夜、夜通しNHKの台風情報を見てしまった。台風情報、萌えるよな。「うぉ、とうとう紀伊半島に上陸か!」とか。サッカーなんぞよりはるかに面白い。サッカーと違って、こっちが死ぬかもしれないんだからな!(それ、うれしいか?)
 朝、外は相当の風が吹きすさんでいる。この中を歩いて行くのはごめんだ。よって会社に「休むね」と電話を入れた。
 ワクワクしながら(なんでや)外の風音に耳を傾けていたが、全然強くなる気配は無い。むしろ、次第に弱まっていった。台風は確かに東京湾を横断していった。が、なんとその前に勢力を弱めていたのである。なんという腰抜け台風。そしてその前に会社を休んだ俺様、なんという腰抜け野郎だ。唖然とした。

2001年08月21日(火曜日)

台風......来るのか?

22時33分 暮らし 天気:くもりでしょ

 なんだか半信半疑だが、そろそろ台風が来るようだ。最近の台風は迷走傾向が強いようだから、果たして真っ直ぐやって来るのだろうか。しかし、乾電池の類が良く売れてるらしいのには笑った。いや、笑ってないで僕も買うべきか。

2001年08月20日(月曜日)

休暇も終わって

22時32分 暮らし 天気:晴みたいなくもりみたいな

 長い休みも終わり、ボーッとしたまま会社に出勤する。そしてボーッとしたまま仕事を片づける。なんかポカミスやってそうで怖い。
 南海を北上中の台風がやって来るような来ないような......。日本経済がはっきりしないせいか、台風さえも迷走してしまうようだ。

2001年08月19日(日曜日)

NHKスペシャル 「日本人はるかな旅」

23時31分 テレビ

 今夜のNHKスペシャルは、日本人の源流を探るという新シリーズ第一回。
 "日本人"と通常僕たちが簡潔に表現する集団について、ふつうは単一民族だと考えられている。これは民族という概念の曖昧さにも原因があるのだが、有史以来の移住者を"渡来者"として簡単に識別できてきた事情もあるのだろう。だが、日本人は有史以前から"単一民族"だったのだろうか?
 従来、日本人の源流のうち、最大の集団は南方から来たとされていた。南方や中国大陸から数次に渡る移民の波があり、縄文人の源流が醸し出されたのだとされてきた。ところが、最新の遺伝子解析は、全く予想もしなかった結果を提示した。現代日本人の遺伝子をサンプルし、それを世界中の諸民族と比較した結果、その最大のルーツが南方ではないことが分かったのだ。北方、それも極寒の地であるシベリアに、そのルーツがあったのだ。シベリアはバイカル湖の周辺に暮らす少数民族と、日本人の遺伝子が、もっともよく一致したのだ。
 そのことは考古学的にも裏づけられている。2万年も前、バイカル湖周辺にはマンモスを狩る狩猟民が暮らしていた。極寒の地ではあったが、短い春にはたくさんの植物が芽吹き、それを求めて大型動物が集まることもあり、獲物には事欠かなかったと思われる。彼らが大型動物、特にマンモスを狩るのに用いたのが、細石刃と呼ばれる特異な様式の石器だった。これは黒曜石など剥離性の高い鉱石から、細く鋭い刃を押圧式に取り出し、動物の骨で作った穂先にはめ込むというものだ。これにより、分厚いマンモスの毛皮を貫いて、狩りをすることが可能になったのだ。そしてその細石刃は、日本でも見つかっている。このことから、バイカル湖周辺に暮らしていた集団が、あるときに日本にまで移動してきたことがうかがえる。
 バイカル湖周辺の集団は、ある時に突然居住の痕跡が途絶えてしまう。その頃、地球全体を大きな気候変動が襲っていた。氷河期の極寒期に入ったのだ。大型動物は、緑を求めてシベリアを去ってしまった。狩猟の対象を失った人々は、新たな獲物を求めて移動を開始した。それが原日本人誕生の背景だった。
 その頃、極端な低温に極地や高山の氷層が分厚くなり、その分海面が低下した。その結果、日本列島には歩いて渡れる状況だったのだ。そして人々は徒歩で北海道までやって来たと推測される。しかし、津軽海峡は狭い割りに水深が深く、この時期にも干上がらなかったと思われる。しかし、氷河期の低温はこの海峡をも凍結させていた。人々は歩いて本土に渡った。本土に渡った人々は、あっと言う間に九州最南端にまで達したと思われる。
 その頃、本土は氷河期の低温により亜寒帯気候下にあり、大型動物の生息に適した針葉樹林のステップが広がっていた。狩りの獲物には事欠かなかったと思われる。ところが、やがて氷河期が終わりを告げた。すると再び急激な気候変動が始まったのだ。50年ほどで7度も気温が上昇したという。この大変動は、大型動物の多くを絶滅に追いやった。人々は、今度こそ本当に狩りの対象を失ってしまったのだ。新しい気候に適応しようとする戦いが始まった。人々は大型動物しか狩れない細石刃式の槍を捨て、小型の矢尻を備えた弓矢を生み出した。これで小型ですばしこい動物を狩り、食料としたのだ。しかし小形動物では食料の全てを賄えない。人々は、豊富な木の実に目をつけた。
 当時、森に多量にあるのは、ドングリや栃の実だった。これらは炭水化物に富み、主食とするには栄養的には十分だった。ところが、渋みが強く、そのままでは食料に出来ない。それを解決するために生み出されたのが、煮炊きのための土器だった。
 土器は、中国は東北省周辺で1万数千年前に生み出されたとされている。この辺りでは、豊富に取れる魚の油などを貯めておくための、いわば貯蔵のための土器だった。それが日本に伝わると、必要に応じて煮炊きに適した構造に作り替えられたのだ。器を極限まで薄くし、火で炙るのに適するように形を整えられたこの土器は、日本独自のものだ。世界的に見ても、これほど古くにこれほど完成された土器を生み出した土地はない。文明圏、メソポタミアやインダスで土器が用いられるようになるのは、はるか未来のことだ。日本人の創意工夫は、このころから始まっていたようだ。そしてこの土器は、縄文式土器という世界的に見ても特異な文化様式を生み出して行くのである。
 この番組、もしかして遺跡捏造事件に対する回答として作られたのかとも思える。日本人のアイデンティティが問われている今、はるか過去の出来事に目を向けることは、有意義に違いない。

夏休みも終わって

21時30分 暮らし 天気:晴みたい

 夏休みも今日でおしまいだ。ちょっとブルーな気持ち。
 ぐっすり眠って、昼過ぎに起き出した。それから部屋の前に自転車を出し、それぞれに整備する。汚れや、汚れたオイルを落とし、新しいオイルを差しておいた。久しぶりにMTBに乗ると、前サスのストロークの違いがやはり分かる。BD-1も、もう少しストロークがあれば。
 しまなみ海道走破中にロードレーサーが気になっていたので、手頃な値段のを探してみる。手頃といっても、20万円くらいは出すつもり。ああ、一昨年くらいに20万円出すといえば、ノートPCを新調するくらいのことだったんだが。今は望遠鏡か自転車かになってしまった。こんなに趣味が激変するとはなあ。思えば、これも寮を出てアパート暮らしになったせいだろう。スペースがあるので、色々ものを置いておける。
 ロードレーサーとしては、ビアンキのやシュウィンのものが気になる。出来るだけ軽く、9kg切るくらいのがいいや。コンポはシマノの105かアルテグラがいいかな。ある程度高レベルなものを試してみたい。カンパニョロのも考えたが、補修を考えるとどうだろう。価格的にはジャイアントのTCR-1なんて凄くそそるんだけど。
 まあ買うなら2002年モデルが出そろう秋口ぐらいだろう。そしたら相模サイクルセンタ辺りで型落ち品とかを物色すれば、安いのが入手できるかも?
 その次に狙うのは、BikeFridayのAirLlamaだ。こいつは超軽量、コンパクトで、スーツケースにも収容できるくらいに分解できるサス付きATBだ。BD-1の能力を、そのまま拡大したようなバイクだ。またよくできたトラベルコンテナシステムも適用出来る。輪行時には折り畳んだり、あるいは分解してコンテナに納めることが出来、走行時にはそのコンテナをトレーラーとして牽引することが出来る。これは旅行を考えると凄くよく考えてあると思う。コンテナ自体が重そうだが、これには車輪をつけて転がすことが出来るので、それほどでもないかもしれない。
 望遠鏡でも気になるものがそろそろ出てきているからなあ。それにつけても金の欲しさよ。

2001年08月18日(土曜日)

NHKスペシャル 「いのちの言葉」

23時27分 テレビ

 今夜のNHKスペシャルは、ALS(筋委縮症)に冒されて、全ての表現の術を失った男性が、それでも脳波を介した"声"で周囲の人々と語り合うというレポート。
 ALSは、全身の筋肉が突然無力化するという恐ろしい病気だ。海外では車椅子の物理学者、スティーブン・ホーキングがその患者として著名だ。マイケル・フォックスもそうだったろうか。いずれにせよ、国の内外とも相当数の患者が存在している。その原因は不明で、治療の可能性は未だにゼロに近い。
 筋肉が無力化するということは、言葉を発したり、文字を書いたり、目くばせしたりという、人間のもっとも単純なコミュニケーション手段が行使できなくなるということだ。ホーキングは比較的幸運にも(といっても程度の問題ではあるが)指先の筋肉が使えたので、最初の頃はキーボードを介してコミュニケートしていた。しかし症状が進むと、視線を使った入力しか用い得なくなってしまった。このように、症状が進むに従ってコミュニケートがどんどん困難になってしまう。
 番組で取り上げられた男性は、そうした症状がもっとも進んだ例だ。指先はおろか、まぶたの筋肉すら弛緩してしまっているので、もはやあらゆるコミュニケート手段を失ってしまったのだ。それではどうやって外部とコミュニケートするのか。
 ALS患者は、しかし大脳を中心とした思考能力だけは全く損なわれることがない。そのことは、意識を集中した際に起こる脳波の変化は健常者と変わりないことを意味する。そこでこの脳波のピークを捕らえ、それを"ピッ"という音声信号に変える装置が考案された。これにより、少なくともその瞬間、質問者に対して同意したか否か程度の意思は表明できる。これにより、この男性は、「暑いか」とか「XXが見えるか」という程度の質問には答えることが出来るようになった。
 それにしても、思考能力が衰えないという点が、ALSの悲劇性をより強調しているように思う。肉体が生命維持や表現のためのものではなく、いわば精神の牢獄と化してしまうのだ。自分からはいかなる働きかけも出来なくなる。そしてそれを眺めているだけの"意識"......。なんという恐怖だろう。これほどの重い十字架を背負ってしまった人というのは、他にはあまりないだろう。もしも僕がそうなったのなら、むしろ発狂してしまうかもしれない。
 しかし、ALSは自殺する能力すら奪ってしまう。ALS患者は、あらゆる能動的な能力を失うという点で、際だった特徴を持っているといえるだろう。その生命の維持もなにもかも、他の誰かに委ねなければならないのだ。
 この男性は、先の装置が取り付けられるまでの数年ほど、外部にいかなる意思表示も出来ない状況が続いた。それ以前、無力化の進行に伴い、人工呼吸器の取りつけが必要になり、声を失うという経験をしていた。その時、この男性は呼吸器の取り付けに難色を示していた。これ以上、家族の重荷になりたくないと思ったのだ。しかし妻は呼吸器取りつけを望み、結局その通りになった。その前後から男性の"言葉"が荒れ始めた。周囲の医師、看護婦、そして家族に当たり散らしたのは、次第に失われて行く能力への恐怖だったのだろうか。しかし、視線を介したコミュニケートすら不可能になることで、遂にそれさえも失われてしまった。
 "声"が失われていた数年の間、妻は独りで怖かったという。果たして今していることが夫にとって良いことなのだろうか......。そういう疑問に悩まされたのだ。脳波を使った"声"は、それを解消してくれた。
 この装置を使って、より積極的な意思表示が出来るようにもなった。側で50音を順に読み上げ、目当てのところに差しかかったところで男性が意識を集中、"ピッ"という音を出す。それを拾って行くことで、文章を組み立てることが出来る。YES/NOどころか、"言葉"さえも取り戻したのだ。男性は、ごく単文で表現できる創作として、俳句を作るようになった。そして最近、その作品集を出版するに至った。
 言葉を取り戻す事は、男性と周囲の関係を再構築するのにも役だった。
 夫婦の次男は、子供の頃に父が周囲、特に看護婦に当たり散らす様を目撃して以来、この「嫌な男」をほとんど無視して過ごすようになった。彼には父の反応が理不尽なものに見えたのだ。彼は父が、これほどになってまで果たして生きていたいのかどうかが疑問だった。ところが、"声"を取り戻してしばらく経って語った父の言葉が、彼に衝撃を与えたのだ。長い沈黙の果て、父は「生きたい」と語り始めたのだ。「これほどになってまで生きたいなんて」と、次男は素直に驚きを感じたという。それから、彼は父に興味を持って接するようになった。
 長女は逆に、父が周囲に当たり散らす様を見て、医療の現場での至らなさを感じたという。彼女は現在、看護婦を目指している。
 このように、ALSの恐ろしさは、"声"を奪ってしまうことだと思う。他の病気やケガならば、他の手段で補うことも可能だろう。ところがALSは、あらゆる能動的な能力を奪ってしまうので、それが困難なのだ。脳波を使った"声"は、それを乗り越える数少ない可能性の一つだ。ホーキングがいうように、「ALSでできなくなることはそんなにない」が、それもなんらかの表現手段があってこそだと思う。ALSの治療を可能にする遺伝子医療がどれほど急進展するか分からないが、それまではこうした機器が患者の精神を救うことになるのだろうか。

神奈川に帰宅

20時26分 暮らし 天気:晴やら雨やら

 まだ体に疲労がこびりついている感じだが、今日帰らなければならない。月曜日からまた会社だ。
 11:00頃にBD-1で本通りに出て、モリスに寄ってみた。ちゃんとやってる。いや、当たり前なんだけど。これが当面最後のチャンスなので(次に帰るのは暮れ正月だし、その頃には正月休みに入ってるかもしれない)、当然入る。入り口近くの小カウンタに陣取り、大盛を待っていると、驚いたことにこの時間なのに待行列が出来始めた。といっても、5人待ち程度だが。さすがに何十分も並んで食べるほどではないと、この辺の住民もわきまえているのだ。
 しかしうまいなあ。あちらに戻ってもしばし思いだすことがある味だ。
 実家に戻り、出立準備をして、15kgくらいあるバックパックを背負って駅に向かった。もちろん、この段階ではBD-1にまたがっている。バックパックが疲れた肩に食い込む。
 呉駅前でBD-1を折り畳み、輪行準備をしていると、おじさん二人がもの珍しそうにのぞき込んできた。「これなに?」、「自転車ですよ」という会話があり、BD-1を見せてあげると、「便利そうやねえ」などと感心していた。自転車を持ち運ぶという行為は、やっぱり奇矯に映るらしい。
 新幹線の指定席を取れていたので、ゆっくりとホームに上がり、列車を待った。人は思ったより少ない。BD-1は車両最後部席の真後ろに置けた。これで一安心。
 のぞみの窓から見える沿線の空は、ほとんど鉛色、ところによりかなりの雨が降っている。しまなみを走るときにこれだと危なかったかも。いや、あの殺人的な炎天と比べれば......どうだろう。
 日が暮れきった19:00頃に帰宅した。

2001年08月17日(金曜日)

今治から松山に

20時23分 自転車 天気:晴れ(雲量やや大)

 朝、8:00前に起床。昨日、宿に着いた途端に爆睡したためもあり、目覚めは割とすっきりしている。窓を開けると、相変わらず雄大な来島海峡大橋が目に入ってくる(当たり前だ、寝てる間になくなっていたら怖いぞ)。
 朝食は7:00~9:00なので、すぐに1F食堂に向かう。朝食はバイキング形式で、既に満員に近い有り様だ。ちょっと時間を置いて席を取り、適当な品を取って食した。相変わらず食欲が無い。が、冷やしたうどんがうまい。讃岐が近いせいか、うどんのレベルが高いのか。
 食後にコーヒーで一服。走っているときはコーヒーなどの糖分が多いものはあまり飲まないので、朝一のカフェインは心地よいものだ。
 9:00頃にチェックアウト。ちょっと制限はあるが、ロケーションも内容も良い、お得な宿でした。
 BD-1で、昨夜ちょっと放浪した海岸沿いの道に降りていった。当たり前のことだが、歩いて15分くらいかかった所を、自転車だとあっという間に通り過ぎてしまう。
 今治の市街まで、海岸沿いに走ってゆく。漁港と岸壁が交互に現れ、消えてゆく。人通りも店も少ない。やがて遠くに高いビル群が見え始めた。あれが今治の市街地だろう。自転車をちょっと内陸に向ける。
 運河のような川沿いを走り、碁盤の目のような通りに沿って、民家が建ち並んでいる辺りに差し掛かった。おや、この辺は......。なんとなく見覚えがある。実は僕の母方の祖父が、亡くなる前に住んでいたのがこの辺のはずなのだ。しかし、ここだという確証は無い。さらに走って商店街に出た。ここも見覚えあり。
 港に走り、自販機で冷たいものを買い、急激に上がり始めている気温にうんざりしながら、しばし小休止。ふと思いついて実家に電話を入れた。住所がどこだったかを聞き出そうと思ったのだ。が、誰も出ない。
 少し考えて、そういえば四辻の角に蕎麦屋(更級)があり、そこでよく素麺を食っていたことを思い出した。更科、更科、と呪文のように唱えつつ探し始める。
 走ってゆくと、また見覚えのある家並みに出た。そしてこれも記憶にある寺の門も発見。ここから東に一本くらいずれているはずだ。通りを一本分東に走り、また南下してゆくと、ほらあった、更科だ。そしてそこからちょっと進むと、見覚えがある祖父宅の、いやもう人手に渡っているから元祖父宅か、への細い路地が見えた。ちょと入ってみると、そこには確かにかつての祖父宅が建っていた。懐かしいなあ。ちょっと改装されて、かつての玄関は塞がれ、別の位置に新設されているようだ。
 懐かしさに浸りながら立っていると、通りすがり風のおじさんが急に声をかけ、「あなたが悩んでいるのなら......」などと始めた。宗教の勧誘だな。「結構です」ときっぱり断ると、あっさり引き下がった。まあ悪い人ではなさそうだが。なにか家出中年にでも見えたか。
 さて、次は港だ。子供の頃、夏休みは祖父の所に遊びに行く習慣だった。そして港に出かけ、長い防波堤で釣り糸を垂れるのが楽しみだった。しかし、しばらくぐるぐる走り回っても、ピンと来る場所が無い。適当なところで腰を下ろし、コンビニで買ったおやつを食った。
 次は松山に行こう。しかし松山の地理がとんと分からない。今治は漠然とした記憶があったのだが、松山はどうも路面電車に乗った記憶しか残ってない。そこで本屋に入り、地図をあさってみた。なんとなく位置関係は分かったが......。まあ詳細は観光案内所かどっかで地図をもらおう。そう思った僕は、輪行すべく今治駅に向かった。
 今治駅は長い編成の特急も停まるが、基本はごく短いホームがあるだけで、のどかなローカル駅だ。港湾設備の発達振りに比べると、落差が大きい。
 松山行きの列車に乗り込んだ。これがワンマン運行の1両編成で、整理券を取る方式だった。整理券が要る電車にははじめて乗ったよ。いや、広島の路面電車もそうだったか。
 このワンマン号で、ひたすら単線な線路を走る。のどかな風景が外に続いている。線路は海岸線に出たり、山中を走ったりしながら、松山を目指した。
 車中、荷物の関係で最後部に乗ったのだが、僕の近くにはねーちゃん二人組みが、後部ドアの近くには髪も髭もぼさぼさの爺さんが立っていた。この爺さんが、めったやたらと人に話し掛ける。それも「俺の母ちゃんは中国人だ」とか、「北条市はつまらんところよ」とか、およそ他人には愚にも付かぬことばかり口にする。その上、なにを話しているのか良く聞き取れない。当然のことだが、誰も相手にしていない。しかし、爺さんにとって一番反応が良かったのがさっきのねーちゃん二人組みだったのだろう。爺さんはこの二人にばかり話し掛けるようになった。爺さんの話に内容が無いせいで、会話はほとんど成り立ってない。しかしそれでも、やがて爺さんが松山の手前の駅で降りる事が明らかになり、その事からなんとか会話らしきものが成り立つようになった。といっても「ここはXXか?」、「まだよ」などというレベルではあったが。しかし、無理やりにでもコミュニケートしてしまえたねーちゃんたち、恐るべしである。コミュニケートできなければ凄く変な爺さんだが、コミュニケートすることで変な爺さんというレベルまで、潜在的危険性を緩和してしまえる。いやまあ、変さがちょっと違うくらいではなるけれど。しかし野獣が家畜になるくらいの違いはあった。
 やがて列車は松山に着いた。駅前で観光案内版を探したが、構内には無い。ちょっと外れた場所にあった。ふむふむ、路面電車の線路を伝ってゆけば、道後温泉に簡単に行けそうだ。そこまで、BD-1を走らせた。
 松山市内は道幅が広く、歩道も広いので自転車で快適に移動できる。30分程度で道後温泉に到着した。商店街の入り口にBD-1を止め、歩いて道後温泉本館まで向かった。
 本館の写真をとり、しかしこの暑さでは温泉に入る気になれず、結局そのまま引き返した。もう少し涼しい季節に来たならば。
 近くの喫茶店に入り、カウンターにいるご婦人に松山港までの道を聞いてみた。すると、道後温泉の前から、概ねまっすぐ走ってゆけば良いのだと分かった。また自転車を止めている辺りに、観光案内所があることも分かった。早速、地図をもらいにいった。ついでにフェリーの便も調べた。松山近郊には、松山観光港、堀江という二つの港があるが、呉経由のフェリーがあるのは観光港の方だ。そこまでBD-1を走らせる。
 もらった地図を見る限り、国道をずっと走ってゆけばいいらしい。走ってゆくと、ほとんど下りで、時々上りがある。しかし体力はかなり回復しているので、そんなにきつくはない。快調に飛ばし、長い下りでは一番重い8速ギアを踏んだりした。45km/h以上出ていただろうか。BD-1では、ちょっと飛ばしすぎ。
 国道の案内表示に松山観光港の表示が常に出ていたので、道に迷うことは無かった。しかし次第に道が細くなり、しまいにはちょっと山寄りかなという場所を走り始めた時には、正直心配になった(笑)。
 しかし、やがて無事に松山観光港に到着。ロビーで呉行きのフェリーを尋ねると、どうやら200mも離れた場所に券を買いにいかなきゃならないとか(車両つきだとそうなのか)。そこでそこまで走ると、妙に急いだ雰囲気で車両ゲートを案内された。どうも次の便の出港時刻が近いようだ。BD-1を走らせ、フェリーに滑り込んだ。ほどなく、出港。
 客室に上がり、周囲に見える島々を18*50ISで眺めつつ、ビールで一杯。くぅ、たまらんっす。しかし、周囲の島のどこにもギャルの群れはいなかった......。
 やがて16:00前に呉港着。そのまま自走して帰宅した。ああ、楽しかった。

2001年08月16日(木曜日)

しまなみ海道に(輪行)

23時30分 自転車 天気:激晴

 前日、一睡しか出来ず(1時間程度かな)、まるで遠足に出かける寝不足小学生のような気分で起きだした。朝5:00過ぎ。眠気を抑えつつ、出立準備をした。母が起きてしまったので、タオルをひとつもらっておいた。
 5:45頃出立。駅に着き、さっと輪行準備をして、改札口をくぐるも、電車は行ったばかり。30分ほど待つ破目に。その間、途中のコンビニで買ったおにぎり弁当をぱくついた。
 やがて電車に乗り込み、尾道まで1時間半かけて走る。窓の外には鄙びた風景が流れて行く。この辺も、海岸沿いに走ると、それなりに気持ちよさそうだ。
 やがて尾道に到着。時刻は8:00をちょっと過ぎた辺り。さて、どこかでルートマップを入手せねば、と思いつつ駅前でBD-1を展開した。周りを見ると、やはり輪行組らしい人々が、同じように自転車を組んでいる。ロードバイク、あるいはスポルティーフが多いようだ。どうやら同好の士で集合している模様。僕は一人旅で、BD-1があっと言う間に組み上がったので(そりゃそうだ)、さっさと走り出す。
 まずは観光案内所に行ってルートマップをもらおう。そう思って走り出したはいいが、観光案内所の類が見つからない。駅の西側にあったのだが、まだ開いてないようだ。しばらくぐるぐる走り回り、困り果てて交番で尋ねてみた。すると、やはりまだどこも開いてないみたいだ。交番の裏にもあるそうなのだが。しかし、親切な警官は、そこにあったしまなみ海道のパンフレットを一部くれた。これでようやく詳細なルートを確認できたのだ(というか、事前調査が杜撰すぎ)。

・向島(海路、平坦な道、因島大橋)
 尾道駅の真正面から向島へのフェリーが出ている。海峡の幅は1kmも無いくらいで、運賃は大人100円+自転車10円。折り畳むのもあほらしいほどの安さだ。フェリーは操舵手と甲板員の二人で運行されている。僕が乗ったフェリーは、小さな入り江(運河にも見える)の奥まで入って行く便だったが、おかげで走行距離が多少短縮された。
 上陸すると、鉄工所やら倉庫やらが立ち並ぶ、地方の工業区画という趣の場所だった。さてさて、たぶん、どこかにサイクリングロードを示す標識があるのだろう。桟橋からまっすぐ内陸に走って行くと、交通量の多そうな幹線と行き会った。その両脇の歩道は、自転車でもそれなりに走れそうな広さだ。とりあえず車道の脇を進んで行くと、すぐに歩道に緑でペイントされた標識に気づいた。いわく、「↑今治 しまなみサイクリングロード」。これに従えばいいのだな。楽勝じゃないか。この時はそう思った。
 ところが、この標識があまり多くないのだ。結構長い間、これを目に出来ない状態が続くので、「この道で合ってるのか?」と、凄く不安な状態になることもある。人間の心理を突いた的確な攻撃だ(なにがだ)。結論からいえば、「出来るだけ歩道を走り標識を確実に拾うようにして走れば問題ない」という事になった。標識を見逃したことは無かったので、確実なルートではあるのだろう。かえって気を回しすぎて、わき道を行ってしまったりしたことがあるくらいだ。標識の指示に従えば問題はないみたい。
 道は平坦で走り易いが、日影が全くないのには参った。体がジリジリとあぶられている感じだ。
 走りながら、島のスケール感が全く掴めてないので、果たしてどこまで走ればいいのか不安だった。が、やがて海岸線遠くに、大きな橋が見えてきた。あれが因島大橋だ。
 ここまで、僕以外のチャリダーはほとんど見かけない。が、海岸線で休んでいると、何人かの人々が(主にママチャリを駆って)追い抜いて行く。どこからともなく集結しているという感じ。他のルートもあるのか。
 さて、橋へのアプローチは、自転車の場合は車とは違うルートを取る。傾斜を出来るだけ緩やかにするためだ。
 巨大な因島大橋を頭上にやり過ごし、少し走ると、山に向けてアプローチへの入り口が続いていた。そこにBD-1を乗り入れた。傾斜は10%だそうだが、それでも長いときつく感じる。途中の展望台で一休みしちゃうぞ、もう。
 展望台から見上げる因島大橋は迫力十分だ。E950では広角側でも画面に収まりきらない。ワイコンを持ってくればよかった。
 展望台で休んでいる間に、男女二人のカップルが、MTB&ママチャリで、軽快に登って行く。ほとんどなにも持たない軽装だ。あれなら楽だろう。
 さて、再び上り始めた。10kgを越える装備が足に響く。それでもなんとか、橋の側に上り詰めた。因島大橋は原付き以下の車両と歩行者は、車道の真下にある専用道路を走る。こういう構成の橋は、しまなみ海道では唯一のものだ。こういう感じ
 この歩道、自転車と歩行者が一緒に通る右側の通路は幅が狭く、やや危険な感じがする。

・因島(ややアップダウンのある平坦な道、生口橋)
 考えていたより時間を要しながら駆け抜た。各橋の愛媛県側には、賽銭箱のような塩梅で料金箱と案内板が置かれている。係員はいない。あらかじめ小銭をたっぷり用意しておいたので、特に困ることはなかったが、小銭が無い人は困るかも。対岸では爽快な下りになる。しかし、せっかく高度を稼いだんだから、このまま次の橋まで下らず走れるルートは作れないもんかね。
 因島もひたすらこぎ続ける。時間的にどれくらいかかるか不安だったし、また向島に渡るまでのロスが気になっていた。
 やがて生口橋に到達。アプローチは、素直に押して上がりましたぜ。ここは車道と並んで歩道があるタイプ。やはり頭上に空が広がっている状況の方が爽快だ。

・生口島(平坦な道、多々羅大橋)
 生口島ではルートから外れ、島の南側を走った。多少なりとも短縮になるかと思ったのだ。その代わり、平山郁夫美術館などにはお目にかかれない。また大した短縮にもならないようだ。
 この辺りで既に、熱中症の予兆が現れていた。警戒怠るべからず。体がへばる可能性を承知の上で、冷水をがぶ飲みする。少しでも体温を下げたいのだが。
 こっちはルート標識がないので、ひたすら海沿いに走るばかりだ。観光とはかけ離れた、鄙びた風景が続く。お日さまもますます燃え盛っている。暑い。脳みそが沸騰し始めている。
 ここで道沿いにコンビニを発見、冷たい物を求めて入ってみた。このコンビニには、無料の休憩所も併設されている。単に別区画に椅子を並べただけの物だが、とりあえず日ざしを遮れて、エアコンもまあまあ効いている。この時点で、この休憩は凄く効いた。最後まで走れたのは、ここでかなり休めたからだと思う。ありがたかったよ。おにぎり2個とゼリー食、麦茶を喫しつつ一休み。おにぎりがまずい。死ぬほどまずい。僕は過負荷に曝されると、食欲が一気に減退してしまうのだ。きっと塩味が効いておいしいに違いないシャケお握りも、こんな状況ではもさもさした粘土の塊に等しくなる。それでも食うのだ。この先もこぎ続けるエネルギーが要るのだ。無理やりに一つだけ食い。後はゼリー食で賄う。
 再び走り出す。元気一杯、とはいかないが、今にも死にそう状態からは回復している。しかし、すぐに太陽に脳みそを煮られ始める。水ぶっかけで対抗だ。しかし休憩で得たエネルギーは間違った方向に爆発した。やたら怒りが湧いてきて、わけの分からないことをずっとつぶやいている状態になったのだ。いわく、「漕がないと進まないんだよ」。いわく、「人生と同じなんだよ」。いわく、「漕がなきゃ始まらないんだよ!」。こんなところで人生幸朗師になってどうする。それは分かったからさっさと進め、といいたくなるような事をつぶやきつつも、距離は着実に伸びて行く。怒りの一部は、とりあえずペダルに伝わったようだ。
 この生口島南ルートを行く間、同じチャリダーには一人として行き会わなかった。観光ルートからは外れているせいだろう。それと、あまり距離も短縮できない。が、その割りにルートとしては走り易かった。急ぎの旅なら、こっちの方がいいかもしれないぞ。
 やがて、彼方に多々羅大橋が見えてきた。生口橋と似たような構造の橋だが、こっちは世界最大の斜張橋だということだ。太い鋼索が橋梁の頂点に向かって集束して行く様は、なんともいえない迫力がある。とても人間の建造物だとは信じられないような迫力だ。

・大三島(平坦な道、大三島橋)
 この辺りで中間に達しているくらいだろうか。あと三つの島があるが、大三島、伯方島は通過するルートが短いので、大島だけが問題といえる状況だ。やっと、少しばかりゆとりを感じ始めた。というか、体が重くなり始めてスローダウンしただけなのだが。おかげで妄言垂れ流しは収まったが。しかしまあ、後はゆっくり走っても良かろう。
 大三島は本当に短い。他の島に較べれば。しかし、次なる橋まではそれなりに走る。無言で走る(というか独り言いいながらだと気持ち悪くないか?)
 大三島橋への上りで、向こうから下ってきた女性に「こんにちはー!」と声をかけられた。とてもさわやかな気分で手を振り返した。そのエネルギーをちょいと分けてもらった感じ。ああ、僕もああやって自然に声を出せれば。
 大三島橋はアーチ橋で、幾何学的な造形が美しい。この橋では右半分がまるまるバイク、歩行者専用で、とても走り易かった。

・伯方島(アップダウンあり、伯方・大島大橋)
 伯方島も行く距離は短い。少し丘を越える塩梅ではあったが、ここも割と順調に通りすぎた。しかしながら、後で伯方の塩ソフトクリームを試してみればよかったと思った。次の機会は途中で一泊するつもりで、ゆっくり見て回りたいもんだ。
 ここで印象的な出来事があった。
 ちょうど伯方・大島大橋の真下辺りに差しかかった頃だった。大三島橋からの下りを抜けた辺りで、自販機が数台並んでいる一角。そこからちょっと離れて、20代くらいの男性が、自転車をそこに転がしたまま休んでいる風だった。僕は気にせずその前を駆け抜け、道路の対面に渡り、ちょっと一休みしようとBD-1を停め、その自販機で水を買い、一息入れた。ここを登りきれば大島だけなので、もう間違いなく完走できる。そう思っていた。
 しばらく体温が下がるのを待っていたら、その男性がやってきて、「なにか先のとがった物を貸していただけませんか」と声をかけてきた。とがった物? なんでも、足にマメが出来てしまったので、潰したいのだとか。あるとすれば、Palmのスタイラスペンに内蔵しているリセットピンだけだ。それを貸してあげると、その男性は両足に出来た巨大なマメを潰した。これじゃ走るのは無理そうだ。「大丈夫ですか?」と声をかけると、「せっかくここまで走ってきたんですが......」と、残念そうだがリタイヤすることにした、と答えた。なんでも、青春18切符で尾道まで来て、僕と同様に自走で今治を目指していたんだとか。僕のBD-1を見て、「その自転車だとどこでも持っていけていいですね。家にはMTBがあるんですが......」と、とても残念そうだ。そうだろうなあ、ここまで来て。ここからバスなどで帰るつもりだという。
 その男性と別れ、僕は伯方・大島大橋へのアプローチを上り始めた。この時点で上りは辛いが、さっきの男性のことを思えば走れるだけましだ。そういえば、僕の場合、足の裏にだけは負担がかかってない。いかに踏んでないかが分かるってもんだ。
 伯方・大島大橋は、ふつうのつり橋だった。しかし島を一つ踏みつけているような塩梅だ。

・大島(かなりの丘越え、久留島海峡大橋)
 最後の大物、大島に到達した。ここは島の真ん中を道が突っ切っている。距離的には楽そうだった。が、この突っ切りがくせ者だった。そう、本四架橋公団の攻撃は、ますます激しくなってきたのだ。やつらもここを越えられると後がないと知っているのだろう(いや別に越えられてもかまわんだろう)。その攻撃は、今までになく熾烈な物になった。
 まず、日ざしが最強に強まった(それは公団のせいじゃないな)。ジリジリとあぶられ、腕などは徐々にやけどするのを感じるほどだ。また、この大島のルートは、なんとかなり長い丘越えをしなければならない。ここに来て体力が、いやむしろ生命力が落ち始めているので、この丘越え攻撃は辛い。それでも押したり、走ったりしながら、なんとか丘を越えていった。前方から、ロードバイクやMTB、果てやママチャリに乗ったおばあさんまでが、軽快に駆け降りてくる。恨めしい限りだ。っていうか、下りを押して歩いてたらそれは怖いぞ。
 もう僅かな上りでさえ辛いのだ。おのれ公団、許すべからず(それは逆恨みだよ)。日なたで日干しになっているミミズたちの骸を横目に、その仲間入りしかねない状況で坂を越えた。今度来たときは、遠回りになっても海岸沿いに行こう。
 坂を越えればこっちの物だ。全速で重いギアを踏みまくる、という体力は、しかしもう底を突いていた。それでも、来島海峡大橋へのアプローチに、遂に取り付いた。
 来島海峡大橋は、しまなみ海道中最長の橋なので、そこへのアプローチも雄大なものだった。これで終わりかと思ったところで、さらにループが続いている。その手前、最後の展望台に停め、そこにある自販機で喉を潤した。ここを越えればサンライズ糸山だ。長かったなあ。
 僕は最後のループを回り、遂に橋の上に到達した。そうだ、遂に公団に勝ったのだ、と、その瞬間は愚かにも感動したものだ。だが公団の最後の抵抗は、僕の予想を超えて熾烈だった。
 なんと、橋そのものが上りになっている!(愕然) 3連の吊り橋という性格故か、橋の真ん中に向けて明らかに盛り上がっているのだ。体力の落ちまくった現状ではこれはきつい。3速でもきついくらいで、のろのろとあがくようにして進んで行くのみだ。だがここに及んで挫折することは決して許されることではない。日本の男の子は潔く腹を切って汚名をそそぐより他にない。腹を切るのは痛そうなので、ここは断固として公団に泣いてもらうぞ。踏め、踏むのだ。死ぬまで踏むのだ。
 アーチ状に傾斜している関係で、進むに従って徐々に傾斜は緩くなり始める。漕ぐのをやめると、橋の差しかかりではものの2m程で停止したものだが、それが3mになり、4mになるに従って、幾何級数的にペダリングが楽になって行く。わはは、わははははははは、勝利の時は目前だ。もはや公団に打つ手はない。あの鋼索が一番下がる地点、すなわちこの橋の中央を越えたときこそ、我が勝利の時なのだ。チャイコフスキーの"1812"のクライマックスのように、勝利の砲声がとどろき渡るのだ。それが公団崩壊の時だ(いや、そんな目の敵にする理由あるのか?) 様々な人々の人々の顔が浮かぶ。軽快に下りながら元気を分けてくれたお姉さん(お兄さんも続いていたが目に入らなかった模様)、志半ばで挫折した18切符の彼、そして軽やかに行き違った多くのチャリダーたち。そしてルドルフ・シェンカー、永山則夫、小野小町ら、強敵(おとこ)たちの顔も脳裏をよぎった(ってなんでじゃ。知り合いでもなんでもないじゃん。だいたい小野小町は女子じゃ)。もう半分位妄想に満たされた頭で、遂に橋の中心を越えた。後は放っておいても下って行くだけだ。そうだ、僕はヴィクトリーロードを進んでいるのだ。この橋の後半は、我が勝利をたたえるためにある(今そう決めた)。この苦難に満ちた旅を終えた僕の前に、もはや恐れるものなど何一つないのだ。

・糸山展望台~サンライズ糸山
 アプローチを抜けると、糸山展望台への道があった。上りです。もう勘弁してください(身も世も無く泣き崩れ中)。ゲロを吐きそうになりながら、それでも上り気味のトンネルを越えた。ああ、坂さえなければ、100kmなんて楽勝なのに。坂が、坂が怖い。幸い、上りはあっと言う間に終わった。
 展望台に向かい、エアコンの効いた案内所でしばらくクールダウン。はあ、本当に体がどうにかなりそう。時刻は16:00前というところ。今からサンライズ糸山に入っても、16:00過ぎというところか。
 展望台にある案内板でサンライズ糸山の位置を確認し、またしてもさっきのトンネルを越え(もううんざり)、そこからは下り一本でサンライズ糸山に到着した。走行時間は7時間。実質は5時間半くらいか。良く走ったもんだ......。さすがのVAAMにも全身の倦怠感はぬぐえない。
 チェックインし、自転車をロッカールーム(自転車用のロッカールーム)に入れ、部屋に入る。ここ、4人部屋なんだね。それを一人で占有するのか。ちょっと罪悪感が。しかし素泊まりで4000円という設定は安すぎる。今度は誰かと来よう。
 ここでうっかり爆睡してしまい、気がつくと20:30を過ぎていた。ああ、レストランのラストオーダーが終わってる。このままでは飯を食えない羽目になるぞ。そこでちょっと外に散歩がてら、出かけてみた。しかしまあ、周囲になにもないこと。どうも市街地から外れているようで、自販機以外にはなにも見つからなかった。焼き鳥食いたかった。
 まあ、食欲もあまりないことだし。ここはビールでカロリー補給だ。ミネラルウォーターをつまみに、ビールで喉を潤す。くぅ、うますぎ。風呂は大浴場があるのでそちらに。大きな風呂ではなかったが、足を伸ばせるのでユニットバスより遙かに快適。
 やがて夜も更けてみたので、しばらく警告灯に彩られた来島海峡大橋を愛で、長かった一日を終えた。寝るぞ~。

2001年08月15日(水曜日)

しまなみに備えて一休み

21時30分 暮らし 天気:晴

 明日はいよいよ、しまなみ海道走破の日だ。それに備えて、今日は体力の回復に務める。自転車で近所を散歩する程度。持って行くもの、残して行くものを選り分け、フロントバッグ、バックパックに分けておく。フロントに重い物を積むと、ハンドリングが相当重くなるので、軽くてすぐ必要になる物を前、そうでない物を後ろに詰めた。まあ、坂道も楽々な程度かな。
 しかし、台風が来るかと警戒していたら、猛暑復活とは......。
 散歩で図書館に立ち寄ったとき、一休宗純に関する本を読んでみた。五山はもとより、同じ林下の僧達にも向けられた侮蔑の言葉は、そもそも師の鉢を継ぐに当たり、兄弟弟子との確執の中で過激化したものだという。ちょっちせこいぞ一休さん、などと思うものの、ささいな不正にも全く我慢が出来なかったからこそ、あれほど破天荒な生き方が出来たんだろうな。ちょっと凡人には近寄りがたい世界だ。
 そういえば、今日は終戦記念日。

2001年08月14日(火曜日)

今夜の夜空はすげー

23時55分 星見

 帰宅して、さすがに少し疲れたので、うとうとしていた。ふと、ポートピアで見た青空を思い出した。夕方にあの空なら、今夜の夜空は久しぶりに期待できるのではないか。18*50ISを取りだし、南の空に向けた。
 空に目をやってすぐ、さそり座がくっきり見えるのに気づいた。最近に無い見え方だ。18*50ISを適当に向けると、小さな散開星団らしき塊が見えた。これは......双眼鏡を振って位置を確認する。やっぱり、NGC6087だ。18*50ISでも驚くほどくっきり見える。その上の方にあるさそりの尻尾を捕まえ、M7を導入してみた。凄い。視界一杯に微光星が広がっている。ゼリービーンズをぶちまけたようだ。これだけ見えることは、100EDを使ってもそうは無かった。M6もしっかり見える。
 この分ならと、M4を視界に入れると、あっさりとその朧な光の染みが目に入ってくる。M22だって見間違え様が無いくらいはっきり見える。M8は微光星がたくさん固まって、そこに散光のベールが掛けられている。
 ここ、真正面に街灯があってベストなコンディションじゃないんだけどな。今夜のシーイングはほとんど10/10くらいだったようだ。

ド田舎を走る

19時27分 自転車 天気:快晴

 今日もしつこくポートピアパークに走った。昨日のビールグビーウマーッ攻撃を忘れられなかったのだ。
 快調に自転車を走らせ、ポートピアに14:00過ぎに到着した。さっそく売店に走り、生ビールを調達、海辺のテーブルでグビー、ウマーッ! 喉越しがたまらん過ぎる。
 いい気分になって海を見ていると、桟橋の方に江田島からのフェリーが入ってくるのが見えた。そうだ、今日は江田島を走るつもりだったのだ。~
 早速桟橋に行ってみた。料金は大人250円、自転車は100円。案外に安い。早速、券を買い、フェリーに乗り込んだ。どうやら人員よりは車両の運搬が主らしく、車両デッキは一杯だが、上の客室はガラガラだ。車両の乗船料は、確か1500円くらいだったはずで、ずっと割りのいいのは確かだろう。
 やがて船は江田島は切串という港に入った。少し拓けた地だ。ここから北の方に、海岸線に沿って走ってみた。なんにも無いところだ。走っても走っても道があるだけ。所々に家並みと店舗があるくらい。しかし、案外に自販機が目に付く。飲料水の確保には苦労しないですみそうだ。行けども行けども道があるだけだが、道は案外に綺麗に舗装されていて(それにしてもこんな綺麗に舗装する必要があるのか?)、自転車で走るには非常に気持ち良い。
 20分ほど走り、山陰になっている岸壁にBD-1を止め、おやつをぱくつく。なんとなくおなかが不安。ビール+ポテトが胃の中で膨れている雰囲気だ。おまけにジンジャーエールをグビグビ飲んでるしな(ならヤめろ)。
 足元の砂浜には、波が寄せて引いて行くだけ。風がのんびりと周囲を巡っている。まったくなんにも無いところだ。しかし一息つくには良いところではないか。
 少し離れた砂浜では、どうやら家族連れが海水浴を楽しんでいるようだ。逆方向に少し歩くと、小奇麗な、大きな家がある。最初、こんなところに喫茶店でもあるのかと思ったくらいだ。しかし、人家であっても、やっぱりこんなところに、と思う。
 やがて、帰りの便の出船時刻が迫ってきた。来た道を戻り、再び船でポートピアパークに戻った。ポートピアの芝生に座り込んで、しばらく傾いて行く日を追い、やがてそれにも飽きたので、BD-1を駆って家路を急いだ。

2001年08月13日(月曜日)

夢の跡 呉ポートピアパーク

20時25分 暮らし 天気:快晴

 10:00くらいに起き出して、さて何しようと思った。昨夜辺りに音戸の瀬戸方面か呉ポートピア方面かどっちかに走る予定を立てていた。気分的にはポートピア方面を目指したいところだ。その前に腹ごしらえ。中通りに出かけ、三日連続でモリスのそばを食った。明日から三日間、盆休みに入るそうだ。これが最後のチャンスだった。
 帰宅して、やはりポートピア方面に出かけることにした。音戸の瀬戸は、越えるのが面倒そうだ(渡し舟に乗らなきゃならないし)。
 フロントバッグを装着し、バックパックを背負い、呉市街の西端にある三条通という小さな商店街を海岸まで走った。海岸では幹線を避け、しばし一本隣の細い通りを走る。これは正解だったようだ。車がほとんど走ってない。やがてその通りも途切れ、幹線を進まざるを得なくなる。幹線の歩道を走るのだが、起伏が大きくて走りにくい。通行が少なく、車道を走るよりはましなのは確かなのだが。やがて小屋浦に抜けるトンネルとの分岐に到達した。このトンネルを自転車で通行できるかどうか未知だったし、結構長いトンネルだったので、海岸沿いの迂回路を進むことにした。まずはコンビニでおやつを仕入れておいた。
 迂回路を進む。ここは低い峠越えの坂道なので、ちとしんどいのお。しかし楽勝で越えると、やがて小屋浦駅を右手に見ながら通過。再び幹線と合流し、この辺からはあまりに歩道が通りにくそうだったので、もっぱら車道を突っ走った。やがて次のトンネルが現れる。ここを越えると、かるがという海水浴場がある。トンネルは細いので歩道を進まざるを得ない。トンネルの脇の歩道は、照明が明るかったので案外に通りやすかった。でも細くて怖いな。トンネルを抜けると、左手にかるがビーチが見えた。僕が子供の頃は、こんな小奇麗な場所ではなく、岩がごろごろしている岩場に仕切られた、小汚い短い砂浜だったのだ。バブルが僕らの思いでの地を、こんな小奇麗な別の場所に変えてしまったのだ(いやまあ別にどう変わってもかまわない場所だったけど)。
 かるがビーチは芋洗い状態で、寄っても楽しくなさそうだ。パスして、その先で自転車専用道が始まったところで、ガードレールを越えて岸壁の縁に腰掛け、おやつをぱくついた。BD-1もガードレールのこちらに止めた。軽いことは良いことだ。しかしまあ、肌がじりじりと焼けるような暑さである。
 時計を見ると、家を出て30分しか経ってない。もう少し進んで、やはりポートピアパークに行く事にしよう。
 再び車道に装備を運び込み、自転車専用道路を進んでいった。専用っていっても、車道の脇に線が引いてあるだけだが。しかし幅は十分なので助かる。
 しかし自転車道は、次なるトンネルの手前で終わっていた。ここも歩道を進む。照明が無いのでやや怖いぞ。
 トンネルを越えると、その向こうにデザイナーがホテル・カリフォルニア(むろんイーグルス)のジャケットとにらめっこしながらデザインしたような、呉ポートピアパークの建物が見えてきた。
 さてさて、自転車はどこに止めよう。メインゲートの脇に、ちゃんと駐輪場が設けられていた。しかしBD-1を盗まれると嫌なので、いつものチェーンロック(太)の他に、チェーンロック(長)を使って、近くの柵に括り付けておいた。ううむ、まだ不安だ。
 メインゲートを潜って中に入った。呉ポートピアだった時代には、入場料が必要だったのだが、市の公園になった今は、もちろん無料だ。今は評判がいいというが、そりゃただだからなあ。しかし、ただにしては過ごしやすい、いい施設だ。
 大観覧車などの遊戯施設は無くなっているが、真中に浅いプールがあって、子連れの客が子供たちを遊ばせている。その脇にある、目立ちまくるホテル・カリフォルニアへのオマージュ棟(1Fに店が入っている)を抜けると、海が見えた。向こうに見えるのは江田島、その手前の海を、広島/呉/松山を結ぶ高速船が、物凄い騒音を立てながら進んで行く。あんなうるさかったのか。
 海岸では釣りをしてもよさそうだ。なんか喉が乾いたので、お店で生ビールを買ってキューッとやる。ウマーッ。うますぎる。昼間から酔っ払う俺様。この時点で、これ以上先に進む気力を失ってしまう。
 ふと周囲を見ると、自転車を持ちこんでいる人も多いようだ。そもそも、敷地内にはBMXのトライアルフィールドがあるくらいだ。早速BD-1を拘禁から解き、敷地内に招き入れた。
 広い芝生の脇にある東屋で、ベンチに寝っ転がっている人がいたので、こちらも真似して寝っ転がった。快適だ。ベンチに日が差すようになったので、その辺の日陰になっている芝生に転がった。目を開けると青い空が、上半分を東屋の屋根に、そして真中を近くの植樹に切り取られて、しかし左右一杯に広がっている。爽快な眺めだ。その空を見上げながら、時間が過ぎて行くのを楽しむ。最近には無い時間だ。
 しかし風が来ないなあ、と思った僕は、今度は岸壁に面したレストルームに移動し、またしてもまったりとしたときを過ごす。そして気が向いたら、またまた芝生に寝っ転がりに行く。そんな事を繰り返しながら、2時間以上は過ごしてしまった。
 やがて、17:00になった。おうちに帰る時間だ(今決めた)。明日は天応桟橋から江田島に渡ろうと思いつつ、来た道を戻り始めた。
 帰路も往路とほぼ同じ道順だったが、道なりに進んで行くと、あれぇ、往路は避けた呉警固屋トンネルに向かっているぞ。見たところ、ここも他のトンネルと同じように歩道が設けられている。車道を行くのはきつい(煽られるし)。ここも歩道を通ろう。そんなわけで、長い(といっても200mくらい?)トンネルの歩道を進んでいった。これがもう、怖いのなんの。長いトンネルの途中では、意図的に照明が落とされているのだが、おかげで自転車の進む歩道の路面が良く見えない。なんかくぼみがあったら一発転倒だ。恐々進み、ようやくトンネルを抜けた。
 ほっと一息。外の空気が冷たくて心地よい。ちょっと一息入れようと自転車を止めたとき、後ろブレーキの引きが異常に短いことに気づいた。ブレーキ部を見ると、シューがグラグラになっている。見たところ、単に固定が緩んだだけのようだ。ツールで締めなおすと、問題無く走れる。しかし、なんで緩んだのか。
 実家の近くの薬屋で、ゼリー食とVAAM水と日焼け止めを購入。しまなみに備えて。

2001年08月12日(日曜日)

姪っ子襲来

20時23分 暮らし 天気:快晴だぞっと

 帰省中は暇があったら寝ているせいか、前夜は3:00近くまで悶々として眠れなかった。その割に起きたのは10:00頃で、快適な目覚め。さて、今日は兄夫婦がやってくることになっているのだが。
 もう一眠りしようか、などと考えていたら、やがて階下(2階で寝ていたので)が賑やかになった。ほどなく、姪っ子たち襲来。長兄は子供たちに甘いせいか、大人気だ。僕もどうやら顔を憶えられた模様。兄夫婦は車で出発し、母と僕はタクシーで墓地に向かう。長兄は、と聞いたら、「原付にガソリン入れにいったから、そのまま行くじゃろう」とのこと。しかし後で聞いたら、長兄にはそんなつもりは無くて、帰宅したら誰もいなくて慌てたとか。
 墓地に着くと、既に兄夫婦が掃除に精を出していた。姪っ子たちもいっぱしの役に立っているようだ(やっぱり危なっかしいけれど)。そのうち長兄も合流した。
 今年はやることが無くて楽でいいわ、などとデジカメを唸らせつつ怠けていたら、新手の集団がやってきた。叔父夫婦だった。従姉妹も子連れで参加している。みんな僕と会うのは久しぶりだ。従姉妹に子供ができているのも知らなかった。
 墓前に別れを告げ、墓地の下にある懐古調食事処に入った。そこで鍋焼きうどんを食らう俺様! 夏はパワーだ!(最近性格変わってきてないか?)
 汗だくになりつつ平らげ、車の乗員定数の都合で、帰路は僕のみバスで下山することにした。バスは10分毎くらいにあるので、すぐに市街地に舞い戻っていた。
 図書館に入り、しばし読書。与那国島の海底遺跡(様地形)に関する新書があったので、また読んでみた。例の木村教授による著作だ。去年の時点での最新情報が載っている。
 この海底遺跡様地形に関して面白いと思った記述は、地質学者など自然科学系の専門家に支持する声が強いのに対し、考古学者などからは常に懐疑的な声が強いという点だ。たぶん、木村教授が挙げる個々の証拠を分析的に見れば納得できるのだが、その存在丸ごと、つまり1万年以上前の大規模な遺跡という存在そのものを見るとき、あまりにも突飛で納得しがたいということではないかと思った。木村教授は個々の証拠を挙げ「これは自然には形成され得ない」という説明をする。それに対する反論もあったように思うのだが、まとまった形で発表されたものは無いように思う。そういう物を、誰かが出すべき時期にあると思うのだが。
 その足で市街地に寄ってみると、もう14:00過ぎなのにまだモリスが営業している! 最近は昼過ぎには閉まるだのなんだのと聞いていたからな。今日もおやつにモリスの中華そばを一杯。うめぇ。親爺さん、年取ってめっきり老け込んだようだが、まだまだ頑張ってほしいもんだ。
 さらに、家で食うつもりでフライケーキ6個を買って、それをぶら下げて二河川縁にある共済病院の前を歩いていると、なぜかそこの駐輪場に立っていた長兄とばったり出くわしてしまった。なんでも、次兄夫婦がまもなくここにやってくるとか。えらい偶然だ。
 ほどなく、姪っ子たちを連れて次兄夫婦、母がやってきた。駅前のそごうで買い物をするんだとか。餞別に、姪っ子にフライケーキをくれてやり、兄らと別れを告げて一度帰宅した。
 夕方、散歩に出かけた。BD-1を市民プールやら陸上競技場がある辺りに走らせた。陸上競技場の東側に、ささやかな水場が設けられている。初夏には蛍なんかも見られるそうだ。下流の方にある浅い、広い池に、一匹の錦鯉が悠然と泳いでいた。この池の主なのか、まったく悠然たるものだ。池の縁に座り込むと、その振動を感じたのか、偶然か、すぐ目の前まで寄ってきた。じっくり観察する。体のあちこちにうろこの剥離はあるが、大事にされているのかそれ以上の傷は無い。やがて鯉はまた悠然と泳ぎ出したので、僕もまた歩き去った。
 BD-1を中通りに走らせ、さっきフライケーキを買ったばかりなので、こんどはびっくり饅頭という名の二重焼きを買った。二重焼きとしてはかなり大判だ。それを抱え、さらに自販機で茶を買い、またかもめ橋まで行って、夕暮れに沈む港を見ながら、おやつをぱくついた。おおすみはまだ停泊している。その手前を、一隻のDDが入港して行く。最初、艦首が鋭いクリッパーバウに見えたので、くも型かあめ型かに思えた。でも良く見るとゆき型だった。有能そうな船だよなあ。こんな船をさっさと廃艦にしてしまう日本って、やっぱり金満大国なのかな。

2001年08月11日(土曜日)

故郷の街を走る

22時21分 暮らし 天気:晴れ(雲量大)

 前の晩は日付が変わる前に眠り、今朝は10:00に起きた。最近に無く健康的なパターンだ。
 11:00頃、母に「昼はなに食べる」と聞かれたので、モリスに食いに行くことを思い出した。ここで食い逃したら、帰郷した意味が無い(いやそこまでは)。
 BD-1を飛ばして(注:本当に飛んだわけではない)、中通のアーケードにちょいと止め、モリスで大盛りといなり寿司を食った。いなり寿司には具が入っている! なんで驚くかというと、ずっと前は具の無い酢飯とゴマだけの超シンプルなものだったのだ。それが超あっさり味の中華そばと絶妙にマッチしていたのだが。これも時代の流れというものか(そうか?)
 モリスの中華そばは相変わらずのうまさ。しかしそのうまさは、例えば100km彼方から客を引っ張ってくるような訴求力に富んだものではない。逆にあらゆる虚飾が殺ぎ落とされているから、例えばどぎつい家系ラーメンと並べると「なんだこれ」と思うくらいそっけない。そこがたまらなくいいのだが、例えば観光客がやってきて、試しに口にしたところで「うまいね」で終わるような気がする。いろんな「うまい」の中に埋もれてしまって、また来たいなどとは思わないのではないか。家系ラーメンのあざといまでに演出された"うまさ"のように、強烈な印象を残さないのではないか。でも地元民からすれば、毎日口にしてもまったく飽きがこないのが嬉しい。実際、この店は、高校の頃に毎日通っていたとか、昼食に毎日という近所の人がとても多い。そのままその味を忘れられず、機会があれば寄るようになる。僕みたいにだ。盆正月、帰省のときに寄る人がとても多いのだそうだ。こういう意味では、あまり例の無い、強力な地元の味だと思う。もしも"ひろしまラーメン"なんて企画があったら、僕はここを推すね。いや、他に例の無い味だし、即効性が無いから受けないだろうけど。
 モリスを出て、フライケーキを10個買って帰った。これも地元民には有名なお菓子だ。揚げパンの一種なのだが、下品になる手前の上品な甘さが絶品。
 実家に帰り、だらだら昼寝していたら、横浜で出しておいた荷物が届いた。早速フロントバッグを取り出し、取り付ける。うむ、カコイイ。しかし雨具だの工具だのを格納したフロントバッグは重く、かなりフロントヘビーな印象になった。回転モーメントが大きくなったので、ハンドリングの感覚がやや変わった。
 フロントバッグにデジタルカメラ、18*50ISを放りこみ、BD-1を走らせた。呉の西に走る二河川を遡り、二河峡というマイナーな景勝地に向かった。ここは小学校の頃の遠足や遊び仲間などで何度も来たことがある。
 記憶に残る二河峡には、たしか高いところにあるつり橋と、入り口辺りに茶屋があったはずだ。しかし両者とも見当たらない。つり橋はもっと奥のほうにあるから見えないのだろう。茶屋が無いのは寂しい。ここでコーヒー牛乳かガラナ(売ってるのかよ)を飲もうと思ってたのに。ミルクセーキとかな。
 仕方なく途中の自販機で買ったアクエリアスをぐい飲みしながら、どう見ての岩の原に過ぎない二河峡を眺めた。昔はもう少し水が多くて、岩も綺麗に並んでいたような気がするのだが......。大雨やら地震やらでやられたのかもしれない。そういえば、地震でやられたという家屋を、あちこちで見かけた。
 二級峡を後にし、二河川沿いを下っていった。ここでサイクリングコンピュータがおかしいことに気づいた。そんなに飛ばしてないのに30km/h出してることになってる! 後で調整しよう。
 二河川を下り、東岸の先端に防波堤が延びている。ここには良く釣りに来たものだ。しかし、その手前に立っている合同庁舎から防波堤に出られそうに無い。壁で囲ってしまったようだ。前は入りたい放題だったからなあ。しかし、海岸沿いは公園になったはずだ。不審に思いつつ近所をうろうろしていたら、「お兄さん、それチタン?」と、いかにも左官屋の仕事帰りという雰囲気のトラックに乗った茶髪二人組みに声をかけられた。「いや」と答えると、「普通のBD-1? ええね」。へへへへと思わず笑みがこぼれる俺様だった。
 かもめ橋という一番下流にある橋にBD-1を止め、海のほうを眺めた。おや、おおすみが停泊してるぞ。かなり沖の方だが、特徴的な全通甲板と、艦橋構造物の前後に設置されたCIWSが良く見えた。18*50ISを取り出して、さらにじっくり眺めた。こいつは、確かに「空母を作るつもりありません」なんていっても信じてもらえないよな。形からくる印象は強力で、いくら甲板に航空機を発着させられるだけの強度が無いといっても、このいかにもな形状を前に説得力を減じられるのは仕方ないだろう。
 目をさっきの合同庁舎に転じると、件の防波堤近辺で盛んに工事が進められているのが見えた。どうやら公園は造成の真っ最中のようだ。その庁舎の向こうに、護衛艦の上部構造物が見えた。どうもきり型の1隻と、FRAM改装したつき型護衛艦のような気がした。あとで思ったのだけど、最新世代のあめ型(むらさめ)だったかもしれない。
 さっきのサイクリングコンピュータの件を思い出し、周長を確認してみた。1650mm、いいな。ん、待て待て、1350mmが正しいんだぞ? 道理でおかしな表示になるはずだ。
 もう少し街をうろついた。港まで走り、呉と松山間の便を見た。ふむ、2時間おきくらいにフェリーとスーパーフェリーが出ているようだ。スーパーフェリー? なんじゃそれは。まあともかく、車を載せるくらいだから自転車も問題はあるまい。しまなみ海道走破の帰路は、松山に寄って道後温泉でウハウハしてからフェリーで帰ることに決定。
 それから図書館にも一瞬だけ立ち寄る。ほほお、この図書館は20:00まで営業しているのか。こいつは便利そうだ。

2001年08月10日(金曜日)

自転車持って帰省しよう

22時19分 暮らし 天気:晴れだか曇りだか雨だか豪雨だか

 9:00ぐらいに起き、帰省の荷物をまとめた。前夜、自転車のフロントバッグや着替えなどのかさばるものは、宅急便で送ってしまったので、TP235やカメラなど重くて小さ目のものが主体になった。ああ、こっちの方を送れば良かった。
 いろんな準備を済ませ、出かける前に吉野家で並280円を食らった。
 アパートから立場駅までBD-1を走らせ、折りたたんだ。ここからは地下鉄で新横浜まで向かい、JR新横浜駅で新幹線に乗り換えた。思ったより人手が多く、ここから名古屋までは立ちっぱなしだった。BD-1は輪行袋に入れてデッキの手すりの下に置いた。安定しているようだ。
 名古屋でかなりの乗客が降りたので、座ることができた。ここからはさほど混雑することは無かった。
 車窓の外の天気はころころ変わる。といっても、曇り空が鉛色になるか、明るくなるかという程度だったのだが。それが、京都を過ぎた辺りから、雨に見舞われるようになった。新幹線の運行も遅れ始める。明石以西で豪雨があり、列車が止まっているらしい。おかげで、列車が広島に着いたのは30分遅れだった。
 ここからは呉線で呉に向かう。どうも太田川で花火大会があったらしく、逆方向に向かう列車の乗客が、異常に多かった。
 呉着は暮れ切った19:00過ぎ。みどりの窓口で帰りの切符を購入しようとしたら、ピックアップした便は売切れだったのだが、その間ののぞみにちょうどキャンセルがあったため、確保できた。ラッキー。
 呉駅から夜の街にBD-1を走らせる。呉市街は、道路と歩道の段差が大きく、BD-1では少々走りにくい印象がある。
 実家に帰り着き、飯やら風呂やらでくつろいで、早々に就眠した。

2001年08月09日(木曜日)

鎌倉リベンジ行

21時18分 自転車 天気:くもり時々晴

 昼前に目覚めた。今日は鎌倉に再挑戦するつもりだ。
 前回は熱中症とハンガーノックにやられてしまったが、今回は曇り空なのでその分楽そうだ。また新兵器もある。明治乳業のVAAMだ。こいつは脂肪を効率的に燃焼させてくれる成分が含まれているので、サイクリングのように有酸素運動を主体とするスポーツでは、大きな威力を発揮する、らしい。
 今日はハードロック号の出撃だ。こいつの輪行袋はまだ買ってないので、こいつで行く限りは帰路も自走せざるを得ない。そういう不退転の決意で望む俺様だった(まあしんどくなったらそこでさっさと引き返すつもりだったが)。
 アパートを出たのは13:30くらい。まずは境川サイクリングロードまで走る。狭い多いの長後街道が一番疲れる。サイクリングロードに入って、快調にぶっ飛ばして、藤沢市内に入る。国道を通って江ノ島駅へと。この辺でも以前と違って全くしんどくない。いいぜ、このまま行こう。やがてあっと言う間に江ノ島駅に。駅近くのコンビニでおやつを仕入れておいた。
 江ノ島近辺は、やはり平日だからか、前と違って人手が少なく、通行しやすい。駅前の通りを抜け、海に至った。海沿いの道に自転車を走らせる。一つ目の坂を越えると、長い砂浜が目に入った。そこに自転車を停められそうな場所があったので、道を横断するために押しボタン式横断歩道の押しボタンを押した。これが物凄く長い。5分くらい経って、やっと青になった。イミナイジャ~ン。その前に、車の切れ目で渡る方がよかった。
 渡った先にある、砂浜に下りる階段の上の小スペースに自転車を止め、おやつをぱくつく。海からは風があり、その辺で泳ぐ連中もすがすがしい光景だ。たぶん海保のパトロールなんだろう、頭上をアエロスパシアルのヘリが何度も過った。
 まったりとしばし和み、さてどうしようかと思った。交通量が多いので、道路の向こうに渡るのは面倒くさそうだ。このまま帰っちゃうか? なんてことを、砂浜に降りたりしながら逡巡し、やがて車の切れ目を見つけて向こう側の車線に渡った。
 ここからは快調に自転車を飛ばし、やがて鎌倉に到着。若宮大路に入り、自転車を押したり乗ったりしながら、鶴岡八幡宮に到着した。
 鶴岡八幡宮では、祭りでもあるのか、参道にたくさんの灯籠が並んでいた。その多くには絵や書が書きつけてある。
 八幡宮には参らず(すいませんMTBを置いていけないもんで)、清めの水で手と顔を洗う。冷たくて気持ちいい!
 さて、ここからは戻りだ。そろそろ日が差していて、熱中症になりそうだったので、持ってきたダイエー88円ミネラルウォーターを頭にぶっかけてみた。これはいい。風で熱気が吸い取られるようだ。さらにVAAMを一本飲み干した。
 若宮大路を由比ヶ浜まで戻り、そこからは今度は海側を走って戻った。前回は鎌倉から輪行して戻ったので、こちらを進むのは初めての経験だ。こちら側はそれなりの遊歩道が続いていて、自転車を走らせやすい。ただし、稲村ヶ崎までだ。ここからは狭い歩道しかないので、車道を進む方が有利になる。
 やがて江ノ島口に到着。国道467号線に戻る。
 境川サイクリングロードへと戻る途中、アクシデントに見舞われた。街中の信号待からの発進時、なぜだかなぜか転倒してしまったのだ。それに驚いたのか、発進しないで止まっていたトラックの運ちゃんに、苦笑いしながら「ゴメンゴメン」する俺様。世間のいい笑い者だ。
 自転車を起こし、気を取り直して、と。ぅゎぁ、左のブレーキが逝かれてる! ブレーキレバーからケーブルが外れているのだ。幸い、右ブレーキは無事なので走れないことは無い。しかし、左ブレーキは効きにくい=コントロール用なので、ストップ・アンド・ゴーの多い街中では怖い。藤沢市内をサイクリングロードまで進む間、半分位自転車を押していた。
 サイクリングロードに入り、湘南台に向かうことに決めた。これを買ったマルシュで直してもらうのがいいだろう。だがどれくらいかかるだろうか。今日中に直らないのなら、明日帰省するつもりだから、受け取れるのは20日以降ということになる。明日朝一で受け取るか。などとシミュレーションしながら、マルシュに向かった。
 湘南台に入り、マルシュに行くと、ちょうど店長が店先に居たので故障箇所を見せた。店長は早速直し始める。「いつまでかかります?」と聞く雰囲気ではない。5分後、「直りました」と店長。そんな簡単だったのか!(びっくり) むしろ対応に困る俺様だった。「いくらになります?」と聞くと「いいですよ」と店長。ありがたいことにただで直してくれた。感謝しながら家路を急いだ。
 帰宅したのは18:30くらい。暗くなったらライトはどうしよう(バッグがあると前を照らせない)と心配していたが、暗くなる前に帰宅できた。走行距離は53km弱。VAAMが効きまくったのか、疲労感はほとんどない。これなら90kmなんて楽勝だ。
 期待のフロントバッグは、出発時には威勢よく上向きだったのだが、帰宅時にはカクンと下を向いてしまっている。締め方が緩いのかと思ってペンチでさらに締め上げると、ピアノ線がポキンと折れた(はからずも笑)。帰省から戻ったら再挑戦しよう。

2001年08月08日(水曜日)

今節のみんなの歌

23時55分 音楽

 今月分のみんなの歌もビデオ撮りできたので、前節分と込で紹介しちゃおう。
 前節分。
 「優しさ」 南家こうじの絵がいいね。男の子かわいい(オマエはショタだったのかっ)。
 「Paikaji - 南風」 どうやらフォリナーらしき子供たちの合唱が、奇妙な異化作用を持っている。
 「YAKUSOKU - 父に贈る手紙」 状況が見えないが、父は亡くなっているのか?
 前節再放送分は、みんな既出。
 今節分。
 「ひよこぶたのテーマPART2」 もう最高。子供と一緒に歌うとよさげな歌詞に、楽しいクレイアニメの絵付き。傑作かもしれない。
 「OFF STAGE」 ちょっぴりアダルトな歌。
 「よこはま詩集」 みなとみらい博は終わったはずだけど? 女の子、背が高いねえ。
 今節再放送分。
 「南の島のハメハメハ大王」 もう最高(こればっかりだよ)。思いだすなあ。ひよこぶたとかこれみたいなナンセンスソングに弱いみたい。
 「しっぽの気持ち」 南家こうじのアニメが良い。谷山浩子の描く女の子像って、一歩間違えるとサイコだよな......。

フロントバッグ入れ換えにょ

22時12分 自転車 天気:くもり

 明日から11連休だ。ようやくCode Red過も収まった職場のコンピュータをほとんど停め、定時にさっと退けた。ハンズに寄る必要があるのだ。
 この間、通販で買ったフロントバッグだが、ステムの延長方向にしか向かないことが分かり、ステムの無いBD-1はもとより、ステムが傾斜しているハードロック(Specializedの最廉価グレードの馬車馬MTB)号に付けても、フロントバッグが天を向いてしまう。これをさすがにカコイイなどとは思えない(そもそも前がよく見えない)ので、なんとか改造することにしたのだ。欲しいものはワイヤー。
 ハンズの上の階でワイヤーを物色する。最初は縒り線のワイヤーを探したのだが、案外に単品では置いてなかった。加工が難しいからか。代わりにピアノ線と太めの針金、そして縒り線式ワイヤを使った園芸用吊り線を購入した。さらに地階で26インチのチューブも購入した。やっぱ、持ってないとまずいよな。
 帰宅して、まずはBD-1へのフロントバッグ取りつけ。今着いてるバッグとは取り付け部の幅が違うので、ライトやらボトルケージ(代わりのボトル袋)を取り外し、着脱部を装着する。この着脱部、ワイヤをステムに回し、その長さで取り付け角を調節できる構造だ。なので、ステムが無いBD-1でも、ちゃんと適正な角度を保つことが出来る。このバッグ、下面にライトを取り付けることが出来る。フロントバッグを取り付けると、それが邪魔になってライトが遮られてしまう。そこでバッグの下にハンドルバーと同程度の太さのプラスチック部品を取り付けることが出来るようになっている。ここにハンドルに着けるのと同じ要領で取り付ければいいのだ。しかも着脱式なので、不要なときは簡単にとり外せる。おかげでハンドルバーを占有していたライトを移すことが出来、多少場所が空いた。これなら、もう少し長いグリップを着けられるかも(今は切り詰めてます)。
 続いてハードロック号のフロントバッグ改造。まず着脱部の下部でステムを支えるプラスチック製締め具を切除する。そもそも、この部分がステムを一定の位置で締めるようになっているので、どうしてもステムとの角度も一定になってしまうのだ。切除した締め具に代わり、ピアノ線で両者を拘束した。手許に3種類のワイヤがあるわけだが、強度的に一番強いこいつでまずは試してみる。加工しにくかったが、なんとかペンチで締め上げて、それなりの位置に決まった。近所を走ってみたが、短距離では正直あんまり分からない。もっと長距離を走ってみなければ。明日は鎌倉にリベンジする予定なので、その真価が問われるだろう。でも鎌倉まで走って壊れたらヤだな。

2001年08月07日(火曜日)

涼しいなあ

20時11分 暮らし 天気:くもり

 8月に入り、突然夏が終わったかのような、涼しい日々が多くなっている。今年の酷暑で干からびるかと思っていたのだが、夕方以降は過ごしやすくて助かる。昼の間曇り空なので、地面が熱を吸収してないせいか、夜には非常に涼しくなるのだ。昼も30℃を越えるかどうかぐらい。40℃がどうだといっていたのが嘘のようだ。
 夜はエアコンを止め、窓を開けて、風を呼び込んでいる。しかし、今夜は雨が多少ぱらついたようで、隔日でやろうかと思っていた15km走行は止め。

2001年08月06日(月曜日)

Code Red(X型)襲来

23時10分 コンピュータ

 会社のテスト機の多くは、MS系OSが載っている。今日の午前中くらいから、どうも会社のネットワークが重くなっていると思っていた。それが昼過ぎには、ルータを越えてはいけないくらい重くなってしまった。もしやと思い、テスト機に入れてあったapacheログを見てみると、やっぱりポート80にアタックが来ている。Code Redの変種みたい。その後、社内システム部に連絡を取ろうと四苦八苦(なにせ、電話番号はイントラでないと参照できない)していたら、アタックは増える一方。やっと連絡を取ると、あちらも現象を確認していた模様で、ほどなく『IISは全部停めろ』という前代未聞のアナウンスがあった。しかし、アタックが減る気配は無かったので、たぶん、自分の機械にIISが入っているということに気づかない人が多かったのだろう。IISなんてうっかりインストール時にほいほい"Y"連打してると入っちゃうような代物だから、後で忘れちゃう人は多いんだろうな。
 僕の環境でも、IISはたまたま停めていただけなので、感染しなかったのも偶然にすぎない。ああ、こんな危険なOSと手を切れる日はいつなんでしょう。

ヒロシマの祈り

20時09分 思考 天気:曇り

 なんだか眠れずに明け方にはごろごろする羽目に。どうも眠るタイミングを逸したような。
 会社にうすぼんやりしながらでかけ、食堂で朝食をとりながらテレビを見ていたら、高校野球の始球式かなんかで、原爆記念日に付き黙祷、というのをやっていた。そういえば、平和大行進とかいう催しも耳にした。原爆記念日は夏の風物詩化している。
 自分が広島出身で、日教組の洗脳工作(笑)に苦しめられてきたせいか、長崎や広島で起こった事件を、その悲劇性を認めながらも、やや冷ややかに見てしまう。正確には、"あの日"以降に起こった事件を。原水禁と原水協の分裂劇は、歴史に残るお笑いといえるだろう。イデオロギーの前には、核兵器による死者など物の数ではないのだ。なにしろ、旧ソ連では、スターリンによる粛清だけでも、WW2時の日本人戦死者を軽く上回る人々が死んでいる(統計によって数値は違うが、最低でも600万人は死んでいるらしい)。つまり、イデオロギーの殺傷能力は、核兵器のそれなど軽く凌駕しているといえるのではないか。なんてのはブラック過ぎるだろうか。
 もちろん、だからといって長崎や広島でたいした理由も無く死なねばならなかった、あるいは後遺症に苦しまねばならなかった人々の悲劇性が、いささかでも薄まるわけではない。いやむしろ、南北戦争からこちら累々と積みあがってきた何億という死者の中にあって、その位置を確かに確定できるからこそ、8/6、8/9の死者たちの悲劇性は、やはり際立っているといえるのではないだろうか。そこにはドラマがある。そしてそうだからこそ、様々な修飾が、後世の僕らによって施され、利用されうるのである。
 今年も様々な形で、"人類史上最初の核兵器による死者"と"その日"が利用されている。そのほとんどは、イデオロギー的な修飾を免れてはいまい。せめて、その利用目的が正しくありますように、そう祈りたくなる。
 しかし、たとえこの一週間ほどの間に営まれる様々な行事が、それを主催する人々の思惑に縛られてしまうにせよ、それらに通底する祈りには、無死の、純粋なものが含まれているはずだ。その思いが通じる日は来るのだろうか。広島の外に生きる人々にとって、夕食ほどの注意も喚起出来ないに違いない諸行事を見ながら、なんとなく歯がゆく感じるのは僕だけだろうか。

2001年08月05日(日曜日)

自力で相模サイクルセンターに

23時16分 自転車 天気:くもり

 ハッと目覚めると、もう14:00前。今日こそはみなとみらいを走ろうと思っていたのだが。
 仕方ないので、しばらく地図を眺め、久しぶりに相模サイクルセンターに、それも自走で行こうと思い立った。距離は10km足らずのはず。
 プロアトラス2000を見ながらルートを参照したが、かまくらみちをまっすぐ北上するルートが早そうだ。が、あの細いかまくらみちを行くのはちと不安。まあ他のルートも似たようなもんだろう。
 MTBを駆って、かまくらみちを北上していった。交通量が案外に少なくて助かる。交差点では車がたまるが、ある程度先に通して、後からゆっくり走っていった。
 かまくらみちを進んで行くと、地図の上では三叉路にぶち当たり、その角に目印の小学校がある。その通り、小学校があったが、不安だったので近所の公園で休止し、ロカティオで座標を見た。すると電池切れで地図をダウンロードできないんでやんの(はからずも笑)。こいつ、ここ一番というときに役にたたんなあ。まあ、先に存在していた分の地図を見る限り、目的地の三ッ境はごく近くだ。
 そのまま進んで行くと、警察署の近くで別の幹線に出会った。もしやと思い、ビルが多い方に歩いて行くと、すぐそこに三ッ境駅、さらに相模サイクルセンターがあった。近いなあ。30分しかかからなかった。
 相模サイクルセンターではフロントバッグを探したが、これというものがない。でもここ、バーディとかブリヂストン/モールトンとかいった小径車も扱い始めたようだ。ブリヂストン/モールトンのハンドルバーの短さに吃驚。他にもおいしそうな特殊ロードバイク(26インチを履いた奴とか)がゴロゴロしている。今度、ロードバイクを買うときは考えよう。
 帰路は来た道を戻らず、そのまま西進する。やがて境川にぶち当たり、おなじみの境川サイクリングロード(というかこの界隈では単なる川沿いの道)に合流した。ここからは30km/h未満、20km/h以上くらいを維持して、長後街道との合流点まで突っ走った。が、なんかもの足りない僕は、そのまま湘南台へと出た。
 湘南台ではダイエーに寄って、また88円均一品から便利そうなのを買う。金を使わずモノ買い欲をなだめるにはこれに限る(爆)。それから、替えのグローブがないと不便だと思い、マルシュにも寄った。ところが、ここでちょうどよさげなフロントバッグを見つけてしまった。取り付け角度をワイヤーの長さで調節できそうなタイプだ。というわけで、ここでついにBD-1に着けられそうなワンタッチ着脱式フロントバッグを入手できたのだ。しかし、どうやって持って帰ろう。少し悩んで、結局はキャリアにくくりつけて帰ることにした。
 帰って、雑用を片付けていたらもう真夜中でやんの。バッグの取りつけは明日だ。

2001年08月04日(土曜日)

またか! 自転車オプション取りつけ

23時40分 自転車

 帰宅して、しばらくすると、サイクルベースあさひに発注していたブツが届いた。着脱式のフロントバッグ、リアキャリアバッグ、ワイヤー錠、ハンドルバーに着けるタイプのボトルケージ、などなど。早速取り付ける。
 フロントバッグはBD-1に着けるつもりだった。が、このバッグの着脱部、どうもアヘッドステムしか考えてないようだ。BD-1には着かない。ではMTBに着けるか。こっちはステムが起き気味なので、フロントバッグを着けるとバッグが天を向いてしまう......。ダメじゃん。まあ、実用的には問題はないが......。なんだか、フロントバッグは負けっぽい。
 さらにボトルケージも今のハンドル部大混雑状態では着きそうにない。ぐはぁ、また負け。負け王への道まっしぐらである。
 リアキャリアバッグはさほど問題ない。しかし、BD-1に着けると、サドル背後のリフレクタが隠れてしまう。とりあえず、キャリアの後端にパッシブ型(ちゅうのか?)のリフレクタをガムテープで貼っておいた。もう少しまともな止め方を考えないとな。
 ワイヤー錠は、BD-1のハンドルバーに、前向きに取り付けた。こうしか着きそうにない。ううむ、どいつもこいつも今ひとつだ。ハンズで適当な材料を集めて、もっと収まりよくしてやろう。
 この後で、不調だったサイクロコンピュータを修理した。前に延長したワイヤのはんだづけ部分を押すと、出鱈目な数値が表示されるので、たぶんケーブルの問題だろうとにらんだ。熱収縮チューブを切開し、はんだづけした部分を開く。あれ、そういえば、この部分はむき出しの導線が、露出したまま平行している。もう一か所の方は、ショートしないようにちゃんと段差をつけている。なんだかしらんが、こっちはそれを怠っていたらしい。早速、片方のワイヤを切り詰め、段差をつけてはんだづけし直した。これで問題はないだろう。

都会のオアシス

18時37分 自転車 天気:くもり気味

 ぐっすり十時間ほども眠り、起きたのは14:00過ぎだった。ううむ、早起きできたら輪行して横浜~みなとみらい、あるいは秋葉~新宿を走ろうかと思っていたのだが。
 ざっと地図を眺め、また市の交通局がまとめたお散歩手帖を参考に、今日は舞岡公園に行ってみることにした。
 舞岡の地下鉄駅まで行き、そこから南下すればよいはずだ。MTBで出発した。
 MTBにはバッグ類をほとんど着けてない(サドルバッグだけ)ので、カメラなどはメッセンジャーバッグに入れて背負った。をを、なんかかっこいいぞ>俺(馬鹿)
 まず戸塚まで走り、一号線の踏み切りからユニー方面に曲がる。ここでちょいと川沿いに進んでしまったが、実はそのままユニー方面に入るといいみたいだ。しかし、この先が相当の坂。坂が嫌いな僕は、狭い歩道に辟易しながら、ほとんど押して上がった(ダメじゃん)。しかし坂を越えると、爽快な下りが待っているぞ。と、その前に、近くのコンビニでおやつと飲み物の調達だ。
 長い坂道を下る。実はスピードメーターが壊れていたので、スピードも距離も分からないでやんの。
 坂道の先に、舞岡の駅がある。そこで南に曲がる。だいたい南の方にあるはずだ。その通り、大きな木々の塊が見える。だがどこから入ればいいのだ......。
 しばし迷いながら走り、団地らしきところに出た。お散歩手帖("横浜散歩大好き"という)によれば、なんとなく公園は北西にありそうだ。そこでなんとなくそっちに行きそうな道をいったら、やがて公園の門にたどり着いた。後で分かったのだが、実は走り回っている間に、公園への入り口の前を通りすぎていたらしい。ちゃんと標識が立っているのだが、見逃してしまったのだ。
 そこは舞岡公園の北東の入り口で、旧民家風のトイレと東屋がある。高い鉄塔が建っているが、説明によれば櫓に似せたスピーカー塔だという。東屋の奥には道が続いていて、脇に水田が作られている。市民が稲作を体験できるように作られたものらしい。MTBを入り口前に停めて、中に入った。
 人気はほとんどない。僕が入り口をくぐったとき、東屋で休憩している男性がいただけだ。ずっと遠くから話し声も聞こえるが、姿は見えない。静かだ。
 休憩所の看板を見て、小山の上に続いている階段を登った。頂上には、確かに休憩所らしき簡素な東屋があった。そのベンチに腰かけて、買ってきたみかんゼリーとカフェオレを取り出した。静かだ......いや、なんか騒がしいぞ。どうも、今夜辺りに盆踊りでもあるらしく、なんちゃら音頭の類がガンガンかかっている。俺様にふさわしい、情けなくも笑える状況だ。
 しかし、 こんな光景が横浜市内で見られるとは。向こうの山まで人工物がほとんど見えない。ちょっとしたオアシスという感じ。眺めが気持ちよい。そのせいか、ただのみかんゼリーがおいしく感じられた。日はまったりと暮れて行く。ベンチに、足を投げ出して座り、遠くで鳴いている蝉の声に耳を澄ませた。
 帰路はまた坂道をのろのろ登り、戸塚経由で帰宅した。その道すがら、中田の方や立場駅の近くで、盆踊りの準備をしているのを目撃した。そういう時期なのだ。

2001年08月03日(金曜日)

暑さも一休み

20時33分 暮らし 天気:曇ってますか?

 今日はくもり気味のせいか、気温がやや低く感じられる。今週頭からは、連日30度超の猛暑に苦しめられてきたが、これで一息という感じだ。今週末にかけて、この過ごしやすい状態が続くらしい。お日さまさんさんというのは夏らしいけど、水遊び以外にゃ暑すぎる。これくらいがちょうどいいにゃ。はっきりいって、平日は雨でも全然かまわんぞよ。
 夜、MTBで運動公園の周りを15kmくらい走った。グラウンドに併設されている駐車場に、中高生とおぼしき一団が5人ほど、スケボーに興じている。まあ、まだ宵の口だからいいけど。さらに、別の場所でも座り込んで話に花を咲かせている連中が。警察のパトカーが巡回していたが、今の季節は掻き入れ時なのだろう。

2001年08月02日(木曜日)

まだ続くかこの忙しさ

23時33分 暮らし 天気:晴れやんけ?

 盆休み前のラストスパートとでもいうのか、今日も今日とて夜遅くまで残業三昧なのである。生活するのに精いっぱいという感じである。ああ、潤いがないっす。でもでも、これも盆休みにしまなみ海道を走るためなのだ。ガマン頑張るんです。
 しかし、混雑するであろう新幹線で、どうやってバーディを持ち帰ろう。結構頭が痛い問題だ。ゴルフバッグやスノーボードみたいに、宅急便で送れるようになれば一番いいのだけど。

2001年08月01日(水曜日)

暑さが戻る

20時32分 暮らし 天気:晴れ中

 先週末、土日は涼しくて快適だったが、もう夏が戻ってきてしまった。ほんと、たまらんよ。帰宅すると部屋にこもっている"暑さ"が襲い掛かってくる。
 今日は早く帰れたのだが、それを逃れる意味もあって、帰宅してすぐBD-1を外に出した。これで運動公園(立場北方の新公園はこういう名称らしい)周りを、しばしぐるぐる走る。踏まないで、回すように、という感覚が、最近になってやっと分かってきた。回しながら休むという技も分かってきた。しまなみ海道に通用するかな。最近は、少々では心拍数が上がらなくなってはきたのだが(でも坂はダメだダメだ)。
 部屋に戻って、ふと横になったら次の日になっていた。宇宙の神秘だ!(またそれかよ)。