Strange Days

2001年05月27日(日曜日)

NHKスペシャル「宇宙 未知への大紀行」

23時40分 テレビ

 今夜のNHKスペシャルは、「宇宙 未知への大紀行」第2週。"地球外生命を探せ"の巻。
 近年の生命科学の進歩は、人類の生命観に大きなインパクトを与えている。従来、生命など存在しないと考えられていた超深海、極地、さらには大深度の地中から、従来ではその存在が考えられていなかった生命たちが見つかっている。それぞれ、過酷極まりない環境に適応した生命が息づいていたのだ。
 これに意を強くしているのが、地球外生命に思いを馳せる科学者たちだ。彼らは地球の外に生命が存在することは"当然"だと主張する。しかし、その形態、生態は、人間の想像を越えるものになるだろうと考える科学者が多い。
 天文物理学的な分析などから、宇宙には生命が利用しうるリソースが、想像以上に豊富に存在していると分かっている。ある種のアミノ酸が星間物質の中に多量に蓄積されていることは、第1週でも取り上げられた。火星の地表に多量の水があったことは、既に事実として明らかにされつつある。今も、その地下には氷が埋蔵されていると考えられている。木星の衛星エウロパは、多量の氷に覆われた大型衛星だ。このエウロパの表面に走る、無数の亀裂を観察した研究者は、この亀裂の形成に液体の水が必要であると主張している。もしそうなら、少なくとも亀裂が形成される瞬間には液体の水が存在することは明らかであり、さらには氷の下に広大な"海"が広がっていると主張する向きもある。隣のイオの内部が木星の潮汐力で融解し、無数の硫黄火山が形成されているように、エウロパの内部も高温になっているはずだと見積もられているのだ。
 木星、土星などのガス巨(惑)星に、ガスで浮力を得て大気中を漂う生命を夢想したのは、確かカール・セーガンだったのではなかったかな(スターリングも「スキズマトリックス」で登場させていたっけ)。彗星のような氷塊の内部には、宇宙線との反応で酸素などの生命が利用可能なリソースが生じ、その上に特異な生態系が築かれているかもしれないと考える学者もいる。もちろん、SF作家たちは更に奔放な想像を働かせているのだけれど。
 一部科学者たちの楽観的な予想を支えているのは、宇宙の広大さと生命のしぶとさだろう。つまり地球上の苛酷環境でも繁栄する生命が見つかるのだから、宇宙全体からすればそれよりはるかに快適な環境は数多くあるはずであり、故に生命は宇宙に普遍的に存在しているはずだ、と。地球外生命の存在を確信する科学者の中には、「その存在確率は"1"(つまり100%)だ」と主張するものまでいる。こうなると、僕としては地球外生命探査は一種の宗教活動か、と揶揄したくもなる。
 なるほど。宇宙は広大で、生命の材料には事欠かないだろう。生命が存続できる環境も無数にあるには違いない。それならば、なぜ生命活動そのものを見つけることが出来ないのだろうか。それほど普遍的に存在しうるのならば、なんらかの形で生命現象そのものの証拠(例えば、生命活動によってしか生成されえないような複雑な分子)が見つかって良いはずではないだろうか。その理由を"宇宙の広大さ"に求めてしまうのは、僕にはあまりに無責任な態度に思える。もしかしたら、生命という現象が、本質的に不安定なもので、永続し得ないものなのかもしれないではないか。地球が貴重な例外だったのか、ありふれた一例に過ぎないのかは、いまだただ一つの観察事例(つまり地球生命)しか持たない僕たちには、答えを出しようのない問いだ。そもそも、僕たちは生命の"発生"しうる条件を充分に把握しているだろうか。地球生命発生のシナリオでさえ、二転三転しているのだ。「それほど容易に生命が生じるのなら、なぜ科学者の試験管の中で発生しなかったのか」という聖書至上主義者の指摘は、まあ措くとしてもだ。
 こうした地球外生命の存在論議に影を投げかけるのが、フランシス・ドレイクの公式と呼ばれる、銀河系に相互通信可能な文明が同時にいくつ存在しうるかを導く、例のアレだ。ドレイクに悪気は無かったのだろうが、なんとも意地悪げな公式ではないか。大半が人類にとって未知の変数で成り立つこの公式は、地球外生命の存在を確信する人々にとって希望の星となりうる。徐々に科学的に明らかになりつつある変数を埋め、残りは思い思いの数値で埋めてゆく。なんとか科学的に推定できるのはfp(惑星系を持つ恒星の比)までで、以降は全て"思い思い"としかいいようがない。確固たる根拠がないからだ。その結果、楽観主義者のはじき出した数値には希望的観測が満ち溢れている。公式の結果は"1000万"とするものもある。逆に悲観論者の答えには"1"(つまり地球だけ)というものもある。なんだか、楽観主義者は鼻でもほじりながら、利き腕とは逆の手で鉛筆を握り、机に投げ上げた足で紙を押さえながら適当に変数を埋めていったような感じがする。逆に悲観論者は、公式を一瞥すらせず、厳しい表情で言下に「"1"だ」と言い切った、などと想像したくなる。ドレイクの公式って奴は、なんだかむやみにこうした楽しい想像を誘発するのである。こんな想像をするのは僕だけだろうか(そうだろうな、たぶん)。
 ともあれ、実際に地球外生命の存在が確認されない限り、このいる/いない論争は決して根絶できないだろう。たぶん、楽観主義者と同じくらいの割合で、へそ曲がりな悲観論者(僕みたいな)もいるのだろうから。
 いるかいないか分からんが、それを直接探してみようじゃないか、というプロジェクトがSETI。かれこれ30年の歴史を持つこのプロジェクトは、インターネットの普及によって新たな段階に突入しつつある。それがSETI@homeだ。これはSETIの最前線を、アレシボ/大学間から、全世界の一般家庭に広げようという試みともいえる。近年、各個人が持つパーソナル・コンピュータの遊休時間を統合し、膨大な計算能力を持つ仮想スーパーコンピュータを成立させる試みが、相次いで実行されている。SETI@homeは、こうしたトレンドに乗るものだ。アレシボで受信したある周波数帯の電波信号を、小さな単位に切り分けてインターネットで配布する。そしてあちこちのコンピュータに仕込まれたクライアントで、遊休時間を使って解析、結果はやはりインターネットを通じて集めるというものだ。SETIというテーマの明快さもあり、非常に多くの参加者を集めている。もっとも、僕はSETIにそれほど血道を上げなければならない状況か、という点が疑問なので、あえて参加してないのだが......。
 たぶん、地球外生命の実在が確認されたとすれば、それは今世紀(いやいつの世紀でも)最大の事件となるだろう。人類に与えるインパクトは計り知れない。しかし、逆にその非在が明らかになることも、やはり巨大なインパクトを与えるだろう。いや、恐らく、後者のインパクトの方が大きいはずだ。いずれにせよ、地球外生命探査というテーマは人類の関心の焦点となりつづけることは確かであり、恐らくは何世紀にも渡って追求されてゆくことだろう。人類が存続するならば。

白昼ポタリング

19時38分 自転車 天気:くもりのち雨

 蒸し暑い夜だった。思わずタオルケット一枚で朝まで過ごした。今朝は朝方になっても気温がそれほど下がらない。
 さて、昼頃に、昨夜深夜ポタリングで通ったルートを、もう一度なぞってみた。迷子分は除いてだけど。
 さすがに昼に走ると、景色がよく目に入って気持ちがいい。しかし車も人も多いので、そんなに飛ばすことは出来ない。痛し痒しである。
 昨夜のように汗だくになってしらゆり公園に至り、細い道を下っていった。人通りがあるので気を使うが、しかし夜道の怖さはないので楽でもある。汗を飛ばしてくれる風が爽快ナリよ。
 このコースだと一周5km。アップダウンがあるので運動量に少し上積みも期待できる。今後はこっちのコースを行ってみようと思う。なんて思ってたら、今夜は雨でやんの。