Strange Days

2001年05月03日(木曜日)

SFセミナー2001へ

22時09分 SF 天気:雨のち曇り

 今年もSFセミナー2001に出ることにした。
 生憎、今年のGWは雨に祟られっぱなしで、今日も今日とて結構な雨が降っている。かさばることを覚悟して傘を持って出た。
 東京着は12:00頃だったろうか。多少の余裕がありそうだったので、秋葉でちょっと探し物をする。1号機のプロセッサを換えたときに、実はキーボードも交換していたのだ。1号機のコンパクト106(89)キーボードと、PC切換機につながっていたIBMのSpace Saver Keyboardとを交換したのだ。ところが、切り換え機にはWindows OSな機械が多いので、邪悪なWindowsキーがあった方が便利だ。そういうわけで、出来るだけコンパクトな109キーボードを探したのだが。生憎、気に入るものはなかった。妙に丸っこかったり、厚みがあったりして、イメージ通りのものがない。今日はあきらめた。気長に探しましょ。
 さて、今年のSFセミナーも全電通労働会館で開かれることになっている。久しぶりにフィールドに持ち出したロカティオを頼りに、15分ほどで秋葉原駅から到着できた。御茶ノ水駅から歩くのと変わらないんじゃないか。
 既に受付が始まっていたので、受付で4000円を支払って名札と資料をもらう。なぜかプログラムはもらえなかった。ホールに入り、まあ中段の上辺りを占拠して、開幕を待った。
 13:00過ぎ、去年と同じ女性二人組によって開幕が宣言された。この時点で入場者は6割くらいだろうか。雨に祟られたのか、去年より少なかった気がした。この時、司会より「手違いで未着なのでプログラムは後ほど配布」と伝えられた。どんな手違いだ。まあ無くちゃ困るものでもないけれど。
 プログラムの最初は『レキオス』の著者、池上英一氏のインタビュー。良く名を聞く本だが、未読だったので内容はよく分からない。が、この作者のキャラクタが楽しかった。『(とある謎音楽で)トリップして理性を飛ばしてから書く』、『書きながら次の行を想像できるようでは(こういう怪作は)書けない』などなど、聞いている方がクラクラしてくるような発言の連発だ(笑)。シノプシスにこだわりすぎて1行も書けないような小説家予備軍は、もしかしたらなにか掴めた気になれたのでは(なれるかっ)。他にも1500枚を1000枚に削ったとか、かなりクるエピソードが語られた。作品もそういう感じらしいぞ(どんな感じだ)。でも軽薄なキャラクタの向こうに案外にしっかりした覚悟みたいなものも見えた気がする。「登場人物が構造を飛び越える瞬間を信じている」とかな。そういう意味では、インタビュアーの人にもう少し頑張って欲しかった。
 途中と最後にトリップ用謎音楽が掛けられたが、10分聴いていると耳から脳みそが流出しそうな代物だった。
 次は『アンソロジーの新世紀』。最近、創元社から『影が行く』というSFホラーアンソロジーを出した編者の中村融氏、更に同氏とのコンビで河出文庫から『20世紀SF』を出した山岸真氏、加えて河出の編集者伊藤靖氏、司会に創元の小浜徹也という4者がアンソロジーに関して語り合った。
 印象に残っているのは大出版社では上層部は「なにが売れているかも知らない」という発言だった。そりゃいくらなんでもやばい状況だ。いくら会社がでかいといえ、例えばトヨタの幹部が売れてる車種に関して無知だとは思えないからだ。出版業界が特殊なのだろうか。
 「アンソロジーはリスキーだ」というのも印象的。目立つほどには売れないものらしい。
 中村氏は高校の頃から読書ノートを付け続けているそうだ。日付や原題、枚数まで着けているそうだ。この膨大な蓄積が、アンソロジーを編むに当たり役立っているようだ。そうだよなあ、一つのアンソロジーを編むだけで何十という候補が必要になるし、それをすぐに比較できる資料も必要なのだろうから。
 「『20世紀SF』は(博覧強記で有名な)水鏡子を怒らせるようなものにしたかった」との発言も。水鏡子氏は、アンソロジーに編者の個性が読めるようなものが良いと述べているそうだが、それに反して"お得な詰め合わせパック"的なアンソロジーで良いじゃないかと考えたのが『20世紀SF』なのだそうだ。確かに、たくさんのアンソロジーが登場し続けているような状況でなら編者の個性も大切かもしれないが、滅多に登場しない状況では意味がないかもしれない。
 このプログラムで残念だったのは、音声の調整がなってなかったことだ。司会の小浜氏の声はやたら大きく聞こえるのだが、他の三方、特に小浜氏に次いで発言していた中村氏の音声が小さかった。もう少し小浜氏は絞ってよかったのでは。
 この辺まで休憩の度にトイレに行っている。あれ、こんなに水分取ってたっけ。ふと気づくと、入場者は7割くらいにまで増えていた。最初はいなかった左手奥の方にも増えていたので、明らかに増加している。~
 次は『SFにおけるトランスジェンダー』。性別越境者で大学講師でもある三原順子氏(女史、か?)を招いてのインタビューだった。ホモセクシャルとトランスジェンダーの最大の違いは、性別が誰にとって問題かという点にある、とのこと。ホモセクシャルは相手の性別(がたまたま自分と同じ)、トランスジェンダーは自分の性別(が元々間違っていた)という点で異なるとのお話。なるほど。また脳(意識)と身体が性意識を巡ってせめぎ合っているというモデルの立て方も興味深い。
 性はSF的問題として古くから扱われては来たが、三原女史はその探求範囲の狭さに不満を抱いているようだった。例えば谷甲州の『エリコ』は、まさにトランスジェンダーな主人公を置いたことで話題を呼んだ作品だが、SF的舞台設定としても既に古いという。今、男性を女性にほぼ完全に(妊娠/出産を除き)改変することは可能だという。未来の情景として、『エリコ』の描写は既に不適切なのではないかというわけだ。全般的に、SFにおける性の追求は努力不足という感じだ。ティプトリーはどうなんだと思ったりもしたが。確かに、日本のSF作家が性を扱うとき、変な平等主義(あらゆる職種を両性に折半してみたり)を持ちだしてみたり、逆に極端に無頓着だったりする点は気になってはいた。そういう意味では、SFのなすべきことはまだまだ膨大に残されているという指摘だとも思える。
 このプログラムでは、『SFにおける』というのは外してしまっても良かったのでは無かったろうか。トランスジェンダー(というか現代社会での性意識の最先端)に対して、多くの視聴者は無知に近かったはずだ。「性別越境者」なる者が目の前で語るというだけで、十分SF的な事件だったようにも思えた。
 最後は『パラサイト・イブ』、『ブレイン・ヴァレー』などSF的要素の強いホラー小説を発表し、SF読み達に賛否両論を巻き起こした小説家、瀬名秀明氏の講演だった。これはピンでやる、まさに講演スタイルで、プロジェクターまで使用された。
 瀬名氏によれば、自身とSFとの関わりは無くもなかったという。子供の頃、読書の習慣がついた頃にはSF作品にも手を伸ばしていたらしい。しかしなぜかのめり込むことなく、その後は意識することなく様々な本を読んだという。しかし一部のSF作家、特に眉村卓の文体に強い影響を受けていると自己分析している。
 この講演は、(先の三原女史よりも更に)SFの外に立っているという意識を持つ瀬名氏が、SF作家/読者/出版社にSFへの"違和感"を語るという形を取っていた。そのため、瀬名氏は「なぜSF界とその外とは様々なものを共有できないのか」という命題を掲げていた。しかし豊富な内容に対してあまりに時間が足りなさすぎた印象がある。倍の時間をかけねば語り尽くせなかったのではないだろうか。夜の部に参加しなかったのは、ちょっともったいなかったかなと、今回は思った。
 瀬名氏は自分に対する「SFファン」からの抗議の多さに驚いたという。「義憤に駆られているような方もいた」ともいう。実際、抗議の中には『パラサイト・イブ』の非科学的描写が社会的悪影響を及ぼす、というものもあったらしい。これに対し、瀬名氏は「『パラサイト・イブ』はホラー作品だ」と言い切り、SFとしては宣伝などしてないし、評価軸も違うと主張していた。それはSF界からの一方的な言い分だというわけだ。この言い分を飲めば、思うに、これはいささかゆがんだ形のラブコールだったのではないだろうか。つまり、『パラサイト・イブ』ほど売れた、科学的知識も豊富に盛り込まれた作品は、是非ともSFであって"欲しい"という意志表明が、抗議の形を取って現れたのではないか。つまり、これはSF界からの修正要求(SFへの適合性を高めるための)だったのではないだろうか。これに関連して、瀬名氏は「作品の前半、後半で大きな乖離がある」という指摘を不思議に思ったという。どうにも直感的に理解できなかったのだ。しかし、あるホラー映画を見ているとき、敵の正体が割れた場面で観客が失笑したのを目にして、やっとその感覚を理解できたという。前半まではよくできたホラー映画だったそうだが、敵の正体があろうことか"ゴキブリ"だったのだ。そこで観客は失笑したのだが、瀬名氏はこの落差も含めてのホラーだという。たとえ前後に大きな落差があろうとも、それがホラーの文法に従っているのなら問題ないということではないかと受け取った。~
 考えてみると、SFでは科学的な文法がそのまま作品の文法に適用されるから、ある時点までの科学的事実(作品中の)が突如として無視されてしまうようなものは、SF作品として無価値と見なされる傾向があると思う。一方、ホラーは人間の心理に衝撃を与えることを狙ったものだから、たとえなんのただし書きも無しに筋書きががらりと変わったとしても、ホラーとして効果があれば問題はないと見なされるのかもしれない。
 瀬名氏は科学ノンフィクションも手がけているが、それは『パラサイト・イブ』に対する諸反応を見て、フォローアップの必要があると感じたからだという。瀬名氏は業界人にインタビューしたり、ウェブでアンケートを募ったりしてSFを巡る読書傾向を調査したそうだが、それによれば、SFファンは案外に科学ノンフィクションを読んでないそうだ。僕は科学ノンフィクションの方が多いのだが、それでも月に5冊程度だろうか。SFファンは、こともあろうにSF作品そのもので科学知識を得ているのではないかという疑いが出てくる。しかし、なにせ小説なのだから、どのような荒唐無稽な嘘八百が並べ立てられていても、少しもおかしくはない。もしもSFファンが、小説の記述の多くは事実である(べきだ)と思い込んでしまっているのなら、瀬名氏に対する抗議の多さも理解できなくはない。しかし、小説をまるごと作り事として読めないという姿勢は、大きく恥じるべきではないだろうか。
 最後の方で、瀬名氏は「XXはSFである、YYもSFである」という戦略は迷惑だと述べていた。出版、読者層の現状として、SFというラベルは本の評価に対してマイナスになりかねない状況だということらしい。そんな現状で、「XXはSFである」という声は、それによってその作品になにかを付加できないならば無意義ではないかということらしい。これには、SF関係者の一部からも賛同の声が上がっていた。
 僕はまさに「XXはSFである」と指摘し続けることが大切だと思っているので、多少の反論を試みたい。まず読者の立場からすれば、「XXはZZである」とジャンル(前に書いたような、作品の要素としての広義のジャンル)が付加されることに問題を感じない。そもそも、ある本を読むにあたってはジャンルを意識しないか、あるジャンルを意識するかの二つに一つだ。どっちにしても、読書中の本に感じている"価値"に変化があるわけではない。むしろ新しい読み方(ZZならではの読み方)を指摘されたという意味で、読書としてはより豊穣になりうる可能性があると思う。
 一方、問題があるとすれば狭義のジャンル(一冊の本を本屋のどの棚に置くかという意味でのジャンル)への波及だろう。ある本をホラーとして売りたいのに、しかしSF業界からは「あれはSFだ」と攻撃される。これは出版社、小説家とすれば、戦略の混乱をもたらすという意味で迷惑な話だろう。しかし僕は出版社でも小説家でもないので、こういう迷惑などどうでもよいことなのだ。ある本にある(広義の)ジャンルの要素があると感じたなら、そう主張することに特段の問題があるとは思えず、またその主張によって読書という行為がより豊穣なものになりうるとも思う。またあるジャンルにとって利にならなくとも、別のジャンルがそれを利用するという行き方もアリだと僕は思う。ホラー小説にSF的設定が氾濫してしまうのは、まさにそのようなパラサイトの結果だとはいえないだろうか。そのようにしてジャンル同士がせめぎあい、食らいあっても、結果的にパイが大きくなれば業界にとっても問題にはならないだろうと思う。そういう厳しいせめぎあいにSF関係者は非常に寛容だった(もしかしてお坊ちゃんお嬢ちゃん集団だったのかも)のがSFの価値低下(つまり他ジャンルによるSF的価値の濫用)につながったのではないかと思うのだ。そうであるならば、ここでSF側から他ジャンルの利用へと触手を伸ばすということは、実に今とるべき戦略だと思うのだ。そういう意味では、瀬名氏には悪いが、『パラサイト・イブ』への一方的ラブコールも、やり方さえ間違えなければ有効なものに思えてくる。実際、「作品の依頼はSFばかり」という瀬名氏のぼやきにも似た発言は、そうした戦略の正当性を反映しているのではないか。
 瀬名氏はこの日の発表資料や内容を、後日まとめて掲載してくれるという。それを見てから、さらに詳細を追ってみたい。
 会場を出ると、もう19:00だった。そこから秋葉まで歩き、JR経由で帰宅した。来年もまた出席しようと思う。