Strange Days

2002年11月02日(土曜日)

今夜もオリオン座などを

23時55分 星見 天気:快晴

 日付が変わる頃、ベランダに出てCANON18*50ISを空に向けた。今夜もオリオン座の眺めはすげえ。大三ツ星の周辺など、空に空いた宇宙への窓かといいたくなるほどだ。M42も、蝶の羽のような散光が濃い。冬が近づいてきたな。空気の透明度が違う。こういう瞬間だけ、寒気団様様だと思う。
 M41を探す。こちらも20前後の微光星が、うっすらと見えている。息を詰めて、じっと眺めなければならないくらい、ささやかな散開星団だ。
 目を天頂に転じると、肉眼でもボーっとした光の塊が見える。プレアデス星団。明るい星と暗い星が何十と無く群れているのを見ると、なぜか立体的に見えてしまうから不思議だ。
 最後に、ヒアデス星団を眺め渡す。こいつはワイドビノで見るのが一番楽しい。全天一の雄大な天体だ。冬のこの辺の空は、一年を通じて一番豪奢な眺めだ。もう少し東を見れば土星が、そして木星が見える。土星はようやく楕円が分かるかなという程度だ。しかし木星は、完全に円盤に見え、周囲のガリレオ衛星もくっきり見えた。
 ちょっと暇を作って、望遠鏡で見てみようと思う。

揺れる心

00時00分 自転車 天気:快晴

 ほとんど昼過ぎまで寝て、今週中に失われた体力の回復に努めた。寝すぎて、かえって頭が冴えない。
 昼飯を食いに、TCR-2で長後のCoCo壱番屋にでかけた。パワーが無いときは、麺類よりカレーに限る。
 カレーを食って、境川沿いに北上して、サガミサイクルセンターに向かった。風は弱く、日差しが心地よい。
 No.3でMTBのフレームを眺める。天井から吊ってあるのは、スペシャのM5フレームだ。フレーム単体で10万円だが、SID World Cupが着いて22万程度のものもある。ううん、悩む。別にスペシャでなきゃいかんというわけではないのだが、この時期に出回っているのはスペシャくらいだし、今のMTBもスペシャなので、気分的にはそれを継承したい。
 22万かー、などと思いつつうろついていたら、同じスペシャのブレインショック搭載フルサスMTB、EPICが目に入った。黒い、精悍なモデルだ。これなら23万円。もちろん、すぐに乗れる。パーツもそう悪いものではないようだ。最悪、今のHARDROCK号のものと交換しても良い。
 ブレインショックは、この間のやまみちアドベンチャーに参加したとき、スタッフの御子柴氏も盛んに誉めていたものだ。まあセールストーク分は割り引くにしても、雑誌のレポートを見る限り期待できそうだ。しかも、店にあったのはVブレーキモデルで、重量がディスクブレーキモデルより軽い。カタログスペックで11.3kg。リジッドバイクのHARDROCK号より軽いやんけ。うっかりするとBD-1より軽いかも(セキサイダーが着いてるしなあ)。
 大いに悩みつつ、本店に入った。アパレルコーナーをうろつくうちに、カステリのウィンドブレーク・ジャケットを抱えていた。黄色い奴。薄いのに、風を通さなくて快適そうだ。
 環状4号線経由で帰宅した頃には、既に日が落ちていた。早いなあ。まだ冬至までは一月以上あるのに。

NHKスペシャル

00時00分 テレビ 天気:快晴

 今夜のNHKスペシャルは、アフガニスタンのテレビ放送再開に関する話題だった。
 アフガンには、20年以上前にカラー放送設備が導入されたが(旧ソ連の援助だろうか)、その後は度重なる内戦に設備が破壊され、さらにタリバンによって放送自体を禁止されるという状況に陥っていた。よくタリバンが「厳罰主義で治安を回復させた(から支持を受けていた)という話を聞くけれど、言論という基本的な部分を統制していた状況を見る限り、長い目で見れば結局自壊したようにも思える。
 アメリカの介入によって、(一応)内戦が終結し、テレビ放送もようやく再開される運びになった。
 一時、離散していた技術者も戻り始め、市場にはテレビ受像機が出回っている。アフガンでは、比較的裕福な家庭にとっても、テレビはかなり高価だ。だが、かなりの勢いで売れているという。一応、治安が回復され、生活以外の娯楽に目が向くようになったのだろう。
 タリバンによるテレビ放送禁止の間、技術者、ジャーナリストたちはあるいは別の職に、あるいは難民として国外に逃れ、散り散りになっていた。ある女性プロデューサーは、もともと子供番組の担当だった。しかし、内戦の激化によって、家族ともども国外へと逃れざるを得なくなった。この女性プロデューサーは、避難先のパキスタンでも、難民の子供を対象に取材を続け、ラジオ放送でその状況を訴えていた。
 内戦が終わり、カブールに舞い戻った彼女は、再び子供番組の制作を手がけるようになった。しかし、子供番組のプライオリティは低く、機材が不足している現状では、取材用の機材借り出しも、ままならぬ有り様だ。
 地道な取材を続けるうちに、彼女は地雷の被害に遭う子供が非常に多いことに気づいた。アフガンでは、まず旧ソ連が大量の対人地雷を散布し、それに続く内戦で各勢力が大量の地雷を使用したため、実に数千万発も潜在していると言われている。対人地雷の中には、子供の気を引きやすい形をしたものもある。女性プロデューサーは、地雷の危険を訴える必要があると考え、スタジオ製作の番組を放送した。しかし、一番被害が多発しているのは地方の、テレビ受像機を持ってないような層だろうから、どれほど効果があるものだろうか。
 放送が続いていた頃、テレビの花形はやはり音楽番組だった。中でも著名な音楽家たちが出演する番組、「みんな集まろう」(日本でも同じようなタイトルがありそうだ)は、高い人気を誇っていた。ところが、タリバン政権下では音楽家は活動を禁じられたため、多くは国外への脱出を余儀なくされたのだ。
 内戦終結と共に、やはりこの番組の再開も目論まれた。ところが、音楽家の多くは国外にとどまったままであり、またタリバンによって楽器も破壊されていたため、大きな困難を伴うと思われた。
 一時帰国したかつての出演者を中心に、若手音楽家を加え、やっと番組の再開にこぎつけることが出来た。再び、アフガンに音楽が流れるようになった。
 内戦は、アフガニスタンの諸民族を分裂させてしまった。その爪痕は、テレビ放送ネットワークにも残されている。中央局と地方局の直接配信が、アンテナなどの破損で不可能になっている現在、地方局は独立性を高めている。中央にせよ地方にせよ、その地方の軍閥のカラーが強くにじみ出るようになっている。
 こうした状況の改善には、テレビ放送ネットワークの修復が必要だ。これは諸外国の援助でようやく進み始めている。
 それにしても、旧ソ連の侵攻はあまりに多くの困難を残してしまった。多民族国家を再構築するには、強力な経済の裏づけが必要だ。アフガニスタンの混乱収拾にテレビが一役買うのか、それとも混乱に拍車をかけるのか。現地ジャーナリストたちの頑張りにかかっている。って、なんか紋切り型に締めたりしてな。