Strange Days

2002年07月17日(水曜日)

オーマの正体

22時00分 思考 天気:晴れ時々雨

 朝はくもり、昼になって雨が降り始め、ヤヤヤ、と思っているうちに、今度は日が差してきた。なんとも忙しない天気だ。
 今日は定退日なので、さっさと帰宅する。帰宅するが、夜になって雲が出てきた結果、天体観望というわけにはいかなくなる。また、自転車の方も早朝ラン遂行中なので、夜は我慢だ。となると、本を読むかゲームをするか小説を書くかしかない。
 最近、小説に対するリビドーが減退しているように感じていたので、それを補うべくいくつかの本を買いあさり、読んでいた。ほとんどはノンフィクション系の本なのだが、一つ、大昔に手をつけて、そのまま中断していたある漫画も読んでいる。なにかというと、宮崎駿の「風の谷のナウシカ」だったりするのだが。
 「ナウシカ」は、だいたい土鬼神聖皇帝と絡み始める辺りまでリアルタイムに読んでいたのだが、映画が公開されると急に興味を失って、それっきりになっていたものだ。映画化の前後に休載があり、そこで興味もまた中断してしまったようだ。
 今、改めて、通しで読んでみて、いやはや驚いた。映画とは全然別物になっている。映画ではクシャナは背景や描写に含みはあるが、権力を従えた悪として描かれている。しかし原作(というか時期的には"漫画版"とするべきだろう)では、ナウシカと絡み、土鬼領内での様々な体験を通して、優れた統治者として目覚めてゆく女君主として描かれている。同じようにナウシカも、ただ人々に希望を伝える不思議少女ではなく、絶滅の運命を悟りながら("清浄の地"に生きてゆくことが出来ない以上、人類の滅亡は必然だ)、それでも人々に明日を生きることを説くという重い十字架を背負った、一人の"救世主"として描かれている。
 しかし、もっとも大きくその位置付けが変わったのは、ペジテで発掘された巨神兵、漫画版ではオーマと名づけられた彼ではないだろうか。
 映画では、彼は単なる兵器だ。それも、なんの感情も思考も持たず、持ち主(この場合はクシャナ)の命令通りに"火"を吐き、すべての物を焼き尽くす、究極の兵器だ。
 一方、漫画版では、彼は感情も思考もあり、その上、人の感情や思考を読み取り、思いやりすら見せる不思議な"兵器"として描かれている。さらにいえば、彼はナウシカによって名前すら与えられた。彼は何者なのか。
 オーマは、彼が目覚めたときに、ナウシカを母だと認め、その言(『小さき母の願い』)に従って行動する。ここで、なぜナウシカを"母"と認めたのかという問題が出てくる。それは、作中の出来事を表層的に拾ってゆけば、ナウシカをたまたま最初に目にし(つまりインプリンティングされ)、さらにナウシカが"秘石"を持っていたことで、ナウシカの意味が彼の内部で補強されたように見える。だが、それだけではないのかもしれない。
 ナウシカは彼に「オーマ」という名を与えた。その瞬間にオーマは知恵のレベルが急発展し、人語を解し、発するだけではなく、人の表情を読み、その思考すら推測するようになる。彼は日常的に嘘を吐きつづけているようなトルメキアの王族たちの真意を喝破し、その言質を取って思い通りに事を運ぶ知恵すら身に着けた。オーマは自らを『調停者にして戦士、そして裁定者』と名乗る。そして実際に、トルメキア軍を母国へと追い返す工作をし、戦争を止めさせようともするのだ。彼は「調停する者」であり「裁く者」なのだ。その目的がなんであれ、「調停」し「裁く」ためには、複数の対立する勢力それぞれの位置付け、その価値を理解する、高度な知性を持たなければならない。オーマがかくあるのも当然というわけだ。だがそんな高度な知を獲得するに至ったオーマが、なおもナウシカを「小さき母」とするのは不思議ではないだろうか。彼には、自分とナウシカに生物学的なつながりが無いことなど、すでに分かっているはずだ。実際、オーマは王子たちを「母さんと同じ種族」と呼び、自分とナウシカを生物学的に分け隔てるカテゴライズを行っている。それでも、ナウシカのことを"母"と呼ぶのはなぜだろう。
 恐らく、オーマは高度な知を与えられはするのだが、それに見合った倫理観を与えられていないのではないだろうか。そして、そのように作られた存在なのではないだろうか。
 オーマは、名を与えられる瞬間まで、「小さき母」のいいつけだけを守る、強暴だが幼い存在にとどまっていた。彼は力を制御する動機に欠け、機会さえあればあらゆるものを破壊しようとする。ところが、名を与えられた瞬間から、彼の暴力は抑制され、目的に添って発揮されるようになる。例えば、トルメキアの王子たちの船団を脅迫した時、彼は誰にも損害を与えない明後日の方向に"火"を放ち、警告としたのだ。また、シュワのトルメキア軍の前に姿を現したときも、攻撃を受けながらも止めるように説得し、それが功を奏さないと見たところで初めて"火"を用いた。このように、名を与えられた後で、彼の力には抑制が備わるようになったのだ。
 それでは、オーマの力に抑制をもたらしたものはなんだったのだろう。それは、ナウシカの倫理観では無かったろうか。ナウシカは戦争を止めさせ、無益な殺生をやめさせようとする。そしてシュワの墓所を封印しようとする。こうしたナウシカの意図は、オーマに対して直接的に、間接的に伝えられていたように思う。ナウシカはしばしばオーマの暴力を諌め、力を抑制することの重要さを教えようとする。オーマは、これに驚くほど従順に従っている。そして、彼はナウシカと王子たちとの会話、そしてナウシカのいくつかの命令(シュワまで飛べ)から、その最終的な意図をも理解していたはずだ。彼にとってナウシカは、守るべき対象というより、彼の行動を方向付け、意味を与える存在だったのだ。行動に方向と意味を与えるもの、それは倫理観ではないだろうか。ナウシカは、彼にとって"母"だった。しかしそれは、生物学的な意味ではなく、彼を善導し、彼の行動の意味を与える、倫理的な教師としての"母"だったのではないか。ナウシカは彼に善と悪を教えたのだ。
 こうしてみると、オーマたち巨神兵は、それ自身が自律的に行動するようになるまで、優れた人間の善導を必要とする、いわば教育期間が必ず必要な存在だったのではないだろうかと考えられる。彼らが「裁定者」だったという意味は、おそらくある人間集団の"倫理"を学び、それを実践するための強大な力を持たされているという意味での「裁定者」だったのだろう。裁定の基準は、オーマたちに与えられた教育の結果なのだ。オーマたちは、ボタンを押されれば必ず破壊に至る兵器への反省から、いわば高度な安全装置としての心を持たされた兵器として作られたのではないだろうか。名は彼らが兵器から調停者へと進む、きっかけを与えるものなのだ。
 すると、火の七日間の間、オーマたちが世界を焼き尽くしてしまったのも、彼らを教育した人々が邪悪だったためなのかもしれない。破壊を好む人々がオーマたちに破滅的な倫理観を与えてしまった結果、オーマたちは純粋な殺戮マシンと化してしまったのではないか。あるいは、あまりにも多量のオーマたちが造られた結果、なんら教育を受けていない、善悪の区別の無い彼らが大量に暴走してしまったのではないか。肝心の心が歪むか、無くされるかしてしまった彼らには、世界を破滅させることしか出来なくなってしまったのだろう。
 なんて宮崎駿に聞いたら「んなこと考えるわけねーだろ」といわれそうな妄想だが。しかし、映画版の後で、ナウシカのグランドデザインに修正を加えるとき(「清浄の地」の意味付けの右往左往振りから、それが最後の最後まで続いていたのは明らかだろう)、宮崎駿は案外にこれに近いことを考えたんではないだろうか。ナウシカとの絡みを考えるとき、僕はそういう気がしてならなくなるのだ。