Strange Days

2013年08月14日(水曜日)

隠岐ツーリング4日目~島前編

23時26分 , 自転車 ( 自転車旅行記 ) 天気:快晴

 島後はだいたい走り終わったので、今日は島前を攻める。
 島前の主要な3つ、そして島後とを結ぶ航路は、隠岐観光が運航する小型フェリーが往来している。これをうまく結ぶと、海士、西ノ島は渡れそうだ。最初は知夫にも行けそうに思えたのだが、便数的に1日では無理とわかったので、今回は諦めた。
 朝一の海士行きの便に乗り込む。隠岐フェリーのような大型船ではなく、瀬戸内に多い内海用フェリーに毛が生えた程度のものだ。
 フェリーは、いったん島前島後間の外海に出てから、島前の島々が囲む内海へと入る。島前は、実は一つの大きなカルデラを囲む外輪山なのだ。やがて、フェリーは、海士の菱浦港へと入った。ここもよく整備された、小さいながらきれいな港だ。
 次の西ノ島への便の時刻を確認してから、海沿いに、時計回りに走りだした。
 港に小公園があり、そこにこんな像が。小泉八雲夫妻が来島した故事を記念したものとか。おや、吉田くん。
 港からして、水が澄んで美しい。諏訪湾をぐるり回り、その出口近辺の小湾に架かった*1北分大橋からの眺めは素晴らしい。ポケロケを置いて
 島の北辺に向かうと、水田を前に宇受賀命*2神社がある。この祭神も、謂れの分からない、この社だけの神だ。小さな丘陵を背後に従え、前面に水田を置き、その真中を参道が伸びている。神社は色々見て回ったものだが、これほどロケーションの素晴らしい神社は、他に北斗神社くらいではなかろうか。参道入口の鳥居から覗いた時の、左右の水田と真っ直ぐな参道のバランス。そして遠く本殿の高々と見えること。小社ながらも、その佇まいに歴史的な裏付けを感じさせられる。ただし本殿は近年の建立だとか。
 島中央の丘陵を通る車道を走り、南下してゆく。暑いなあ。家並みの間、雑貨屋の前に自販機を発見したので、冷たいのを一本入れる。あちこちに盆踊りの飾り付けがあった。
 役所に近いあたりまで来たところに、隠岐神社がある。承久の変で流されてきた後鳥羽法皇を祭った神社だが、建立は戦前のこと。後鳥羽院の配流地と、火葬した灰を埋めた火葬塚を祭ってある。江戸期には寺が護持していたが、例の隠岐騒動の際にどさくさ紛れの廃仏毀釈に巻き込まれ、ここにあった小社ごと廃されてしまったという。
 神社の向かいには、後鳥羽院資料館があり、法皇ゆかりの品々、絵画を閲覧できる。晩年は、各地から刀匠を招き、御前にて仕立てさせたり、時には自ら鎚を振るったという。想像するに、刀匠は各地の武士勢力と当然密接な関係を持っており、鎌倉幕府への不平不満などの情報も耳に入っていたのではなかろうか。すると、決して再起を諦めたのではなく、執念深くその時を待っていたのかもしれない。その前に、寿命が尽きたわけだが。
 港に戻り、西ノ島へのフェリーに乗る。内海をしずしずと進み、やがて西ノ島の玄関、別府港に入る。渡ったはいいが、あまりに暑いので遠くまで走る気になれない。港周辺をぶらつこうかなと思いつつ、昼食場所も探しつつ入ってみたのが、黒木御所資料館。黒木御所は、ご存知後醍醐天皇の配流地だ。その資料館に入ってみると、意外に狭い空間に、あるのは書画の類のみ。受付で暇していた初老の男性に、有料である旨告げられる。まあ時間潰すかと、入ってみた。
 するとその方は、よほど暇していたのか、『長くなりますが』と前置きして、それらの書画を前に、私見を交えつつの説明を与えてくれた。曰く、後醍醐帝が後鳥羽院と同じ憂き目に遭いつつも再起を果たし得たのは、地元の勢力と友好関係を築き得たからだ、と。
 後醍醐は、どうやら気さくに地元民と接し、時に車座になって酒を酌み交わしたという。その前半生が、辛酸を舐めるようなものであっただけに、こうした低い身分の人々との交流にも躊躇わなかった。それが地元民の崇敬を呼び、島抜けに際して協力を得ることが出来たという。
 また、後醍醐の支持者は本土にも多くあった。後醍醐が御所を抜け出し、一山越えた北西にて船を待つと、時を置かずに三木一草の名和長年が手配したと思われる海賊船が迎えに現れている。これも後醍醐が御所を脱してから使いを出したのでは間に合わず、本土側と入念な事前打ち合わせがあったはず。つまり後醍醐は既に本土と自由に意思疎通できていたはずだ、と。これらの点も、生活のために本土との往来がある、地元民の協力があってのものだろう、と。
 歴史上の事件の舞台になった地で、その背景の一説を聞くというのは面白かった。何でもこの方、マスコミ関係だったのだが、隠岐の島が気に入ってIターンしてきたという。
 この方の勧めもあって、景勝地の摩天崖に登る気になった。摩天崖は、景勝地国賀海岸にそびえる断崖絶壁で、その落差は200mに達する。ということは、それだけ登らなければならない。ポケロケで200mなら余裕だが、この強烈な日射のもとで耐えられるだろうか。
 西ノ島は、大きく東西の山塊に別れており、狭い海峡が貫入している*3。その海峡までの一山の途中で、スーパーを見かけたので軽食を買い込んだ。そして海峡に架かる橋を渡る。
 渡りきり、いったん海岸線に出て、しばし走ると、由良比女神社がある。ここも創建の謂れが不詳で、祭神の正体もいまいち謎な古社だ。いいなあ、こういう神社ばかりってのは。
 神社から西進し、学校と店舗に行き当たった辺りから、いよいよ登坂が始まる。谷あいなので風は通りにくい。汗だくになりつつ登りつめると、トンネルを超えてから一度下がる。このまま登らせてくれよ……。
 国賀海岸が見える辺りまで下り、再び登りにかかる。これが、この旅で最悪の上りだった。なにせ午後の西海岸は日射がまともに降り注ぐわけだし、溶岩台地の荒涼とした斜面には灌木すらまばらだ。つまり、逃げ場が殆ど無い。
 途中で、このへんに放牧されている馬の一家に遭遇。人馴れしているはずだが、念の為に距離を取りつつ徐行。
 この後から、いよいよ灌木も消え失せ、完全にカンカン照りに曝されつつの登坂になる。これが辛いこと。ペットボトル2本分の水を背負ってきたのだが、瞬く間に残り少なくなり、滝は汗のように流れ落ちる。それが目に流れ込んでくるので、不快さはマキシマムだ。
 登るうちに、目的地の展望台が見えてきた。残る高低差は100m以下だろう。だが、あの遮蔽物の全くない場所に登るなんて、自殺行為ではなかろうか。危機を察し、しばし考えこんでから、諦めて引き返した。車も殆ど通らないので、熱射病で行動不能になったら、万事休すだ。
 下りは悲しいくらい早く、しかしその先は超えてきた坂を越え返さなければならずで、悲しい限りだ。真夏のツーリングはやるもんじゃないなあ。
 港まで戻る。昼飯を食い損ねていたし、涼しい場所に入りたかったので、港の前の、ここで飯を食ったら負けっぽい感じの喫茶店で、肉うどんを求めた。適当なうどんの上に適当な肉が載ったこれが、\800。負け感がマキシマムだ。とはいえ、黒木御所資料館のおじさんも言っていたが、島の物価はそもそも高いのだ。取れる物といえば海産物の他はわずかな農作物のみで、海産物以外は一切合財を当該から輸入しなければならないこの島は、土地以外の物価がことごとく高いのだ。
 フェリーまでは時間があるので、港の辺りをしばしぶらつく。港の入口に、まるで塞ぐかのように小島が立ちふさがっている。後醍醐がこの島に流された時、鎌倉幕府の役人が監視哨を築いた島だという。
 帰路のフェリーに乗り込み、西郷港に近づいた辺りで、日が島影に没してゆく。今日も楽しかったが、真夏のツーリングは、高強度の運動を想定すべきではないなと思った。