Strange Days

2015年09月21日(月曜日)

高野山に登る 2日目

22時12分 天気:晴れ

 騒音のない、静かな朝を迎える。実は、昨日はやや体調不良気味だったのだが、良質の食事と静かな部屋のおかげか、大いに復調していた。
 まずは、朝のお勤めに参加する。堂に入ると、程なく住職と助手が読経を始める。経は独特の節を付けて読み上げられる。ご聲明といい、元々はインドから中国、そして日本へと仏教経典が伝わる際に、その読経の催事手続きの一環として、その文化毎に再解釈され、伝えられてきたもの。日本には仏教伝来当初からあったものと思われるが、同時期に入唐した最澄、空海という二人の天才によって持ち帰られたものが、天台、真言という2大宗派において伝えられてきたものだ。個人的な感想を言えば、世界最古のドゥーム・メタル。天へと向かうような伸びやかな発声のグレゴリオ聖歌に対して、地を這い場を覆い尽くすような唱法が特徴。これを聞きたかった。近世の歌謡の影響をたっぷり受けた浄土宗、真宗のそれとは違い、唄いというよりは響きを追求しているようだ。この間、昨日申し込んでおいた家族の健康を祈願する護摩祈祷が行われる。確かに祈祷を行ったという証拠の文書をもらえる。
 説法を受けた後、広間でまた精進料理の朝食。実にお腹に優しい。休肝日を設けなきゃなとか、暴飲暴食を戒めねばなとか考えておられる向きは、一度この高野の宿坊に来るといい。
 宿に重い荷物を預け、身軽に高野観光2日目スタート。壇上伽藍を横切る。金堂の南の門は巨大だ。ここが聖俗を分けているのだろうか。
 昨日世話になったファミマから東に向かうと、この高野山の寺宝を収めた霊宝館がある。国宝21点を初めとする、平安期から近世までの仏教美術品、墨跡多数が収蔵されている。
 さて、この高野山の寺域、ずっと西に立つのが大門。車道はこの大門の脇を通っているが、かつての参詣者は山下の平地からここまで上り、大門をくぐって奥の院へと向ったのだ。
 ここらで、早めに食事にしたいと思った。というのも、このまま奥の院へと向かうと、大いに混雑しているはずで、飲食店も非常に混み合っているはずだからだ。この辺りはまだ、人も少ないので、飲食店があれば……。と、大門から引き返していたら、折よく営業している釜飯屋を発見。入店し、あえてうどんにする。釜飯、時間を食いそうだったから。肉うどんは美味しかった。
 奥の院方面に、ゆっくり歩いてゆく。とはいえ、できれば14:00には退散し、山を降りたかった。もう昼前なので、余り余裕はない。しかし、この時にはまだ奥の院を舐めきっていたので、まあサクッと往復すればいいさと気楽に考えていたのだった。
 奥の院入り口まで2km程も歩く。ここから奥の院の最深部まではなおも1km近くあるが、まあ墓があるだけだ。しかし、その墓が問題。
 墓地なので、歩き心地は良くない。そんなことよりも、歩きながらふと墓の傍に掲出されている案内板を見る度に、誰もが知ってる著名人*1の墓だと驚かされるのだ。そりゃ、寄り道して見にゆくよね。
 ここは仙台藩伊達家、つまり伊達政宗の一族が菩提を弔われている。他にも佐竹南部毛利島津などの外様、諸国の松平本多水野などの譜代旗本が、数歩歩く毎に目に入る。看板を見つける度に脇道をそれて見に行ったので、道行が全然捗らない。戦国期勝ち組だけではない。石田三成柴田勝家といった負け組にも、等しく分け与えられているのが、仏教の墓地らしい。さらに、別宗派である法然の墓まである。いい加減というか、寛容というか。
 こんな風に、最初の頃こそは、著名人の墓を見つける度に寄っていたのだが、次第に疲労困憊し、終いには信長秀吉という超著名人の墓すらもおざなりに通りすぎてしまった。ここは危険だ。丸一日費やしてしまいそうだ。
 強引に奥の院に至り、そそくさと参詣を済ませ、大急ぎで取って返す。バスでケーブルカー乗り場まで戻るのだが、乗車率300%くらいで、途中乗車は絶望的なところだった。バスは渋滞に巻き込まれ、「歩いたほうが早いですよ」と運転手が繰り返す始末。しかし、恐らくは寺域内の話で、流石にケーブルカー駅までは乗ってゆくべきだと判断。これは正解で、繁華街を抜けると、普通の速度で山道を抜けてくれ、無事にケーブルカーに乗車できた。そして、来た道を折り返して、横浜に帰還した。
 次は自転車で来たいと思っているのだが、観光に丸一日取りたいので、2泊3日にしたいなあ。