Strange Days

HOME > Strange Days : | タイトル一覧 |
«Prev || 1 | 2 | 3 |...| 477 | 478 | 479 |...| 485 | 486 | 487 || Next»

2000年3月17日(金曜日)

星座を探す

星見 23:53:00
 今夜の観望は晴れた空に助けられて大いに収穫があった。木曜日の雨に大気中の粉塵が洗い流されたのか、透明度はかなり高い。また風が弱かったのでシンチレーションも悪くなかった。こんな夜のオリオン大星雲の眺めは見事なものだ。8"級のシュミカセが欲しくなる瞬間だ。M42も大倍率で安定して見える。
 夜明け前にもう一度空を見た。相変わらず大気は安定しているが、明るい星が少ないので寂しい感じがする。前から4時ごろに東南東辺りに見える赤い星がアンタレスだろうと目星をつけていたのだが、その周囲の星の配置がなんだかさそり座に見えず、その同定に苦労していた。今夜は時間があるので、天文ガイドのとじ込み星図を眺めつつ、ああでもないこうでもないとためつすがめつ見比べた。ずっと西の方に明るい星があって、これがカペラのような気がするのだが、2等星以下の暗い星ばかりなのでなかなかはっきりしない。困りつつ星図と空を眺めていると、ふと非常に特徴的な星の並びを見つけてしまった。ちょうどカペラ(?)とアンタレスの中間付近だ。渡り鳥の雁行のような、五つの星が上向きの矢尻型に並んだ、ちょっと珍しい配置だ。星図を見ると、まさにその通りの並びがある。するとそれを挟んだ二つの明るい星はアンタレスとカペラか。それは予想以上に空に広く、かつ傾いて位置していた。考えてみれば空は球形で、星図はメルカトル図法で製図されたものなのだから、位置的に歪みが出るのは当然だろう。さらにアンタレス周辺の星の並びを眺めて、ようやくそれがさそり座であることを納得できた。サソリは地平線上の家々にしっぽを突っ込んで立ち上がっている。
 ようやく自分が見ているものの正体が知れたので、今見えている南天のM天体を探してみた。有名どころでは、M4がアンタレスの並びにいるはずだが......見えない。それらしいものが見当たらない。ガイドブックによれば、M4は小口径の双眼鏡や、場合によっては肉眼でも見分けられるそうなのだが......。それが見えないということで、本当にこれがさそり座であるかどうかがまたあやふやになってきた。いやまあ、その他の星の並びなどが一致しているので、間違いないと思うだが......たぶん。
 同じようにカペラ周辺のM天体も探しては見たが、これらは仰角30度以下の低い空にあり、なかなか見えてくれない。ベランダからもっと天頂近くまで見渡す方法が必要になりそうだ。さて、どうしたことか。
No comments

2000年3月17日(金曜日)

3/17の暮らし

暮らし 19:52:00 天気:曇りのち晴れ
3連休前日ということで、どことなくざわついた雰囲気の一日だった。休日出勤はしなくて済みそうだ。
No comments

2000年3月16日(木曜日)

今夜の観望

星見 23:51:00
 帰宅した頃には雲が空を覆っていて、観望は無理だと諦めていた。ところが寝る前にベランダに出てみると、いつの間にか雲は駆逐されて晴れやかな星空が広がっているではないか。
双眼鏡でしばらく空を眺めてみた。月はもう西の空に傾いていたが、双眼鏡を向けると眩しいくらいに明るい顔を見せてくれた。それにしても色収差の大きい双眼鏡だ。南西の位置にケンタウルス座と思しき星座がかかっていた。一番明るいこれが太陽系に一番近いアルファ・ケンタウリか。......本当に合ってるんだろうな?(爆) ちょっと無理な姿勢ながら、天頂近くに双眼鏡を向けてみた。いつも見ている高度の低い領域と異なり、小さな星の連なりが絨毯のように見えた。あたり前の事だが、天頂付近は星の光が大気を通過する距離が一番短いので、光が減衰したり発散したりする事が最も少ない。そういうわけで天頂に望遠鏡を向けたいのだが、ベランダからだと手すりに付けるタイプの経緯台が無いと無理だ。秋葉で探してくるか。
No comments

3/16の暮らし

暮らし 20:50:00 天気:雨のち晴れ
 朝起きると、久しぶりに本格的な雨が降っていた。昨晩、寝る前に空を見上げた時、意外に分厚い雲が広がってるのを見て、もしかしたらと思っていたが。
 小田急&JRで通っていた時、ホームに雨が吹き込んできたりしていろいろ不便な思いをしたものだが、地下鉄ではそういう思いはしなくて済む。しかし季節感に乏しいのは否めない。車内広告がわずかな季節感を醸し出してはいるのだが。
No comments

2000年3月15日(水曜日)

今夜の観望はなし

星見 23:49:00
 曇っていたので、今夜の観望は無し。この所、夜になると曇る日が続いている。
No comments

速さ

思考 20:48:00 天気:曇り
 眠さに死にそうな日だった。ゆっくりフレックスで出勤したかったのだけど、全員出席が求められた予算説明会が朝早くにあったのでそうもいかず、その説明会の途中で眠りこけそうになりながらなんとか乗り切った。
 こういう時に後ろの方から眺めていると、真剣に聞き入っている者、内職している者、寝ている者が一目で見分けられて楽しいもんだ。期末が近づいているせいか、睡眠不足の向きも多いようだ。不思議な事に、同じような生活をしながらも、十分寝足りている人とそうじゃない人の差が生じるのだ。あたり前の事だけど、人は一人一人体質も生活のリズムも違うのだ。本来ならば。
 しかし社会で生活する限り、社会が強制するリズムに合わせて生きていかざるを得ない。例えば、9:00に出勤して17:00に帰るという生活だ(実際にこの通りに生きている人は少ないだろうが)。現代人は都市で生きる限りなんらかの形で生きる速さを強制される事になる(今や田舎も小都市という位置付けに過ぎないのは言うまでもない)。特に企業で生きるサラリーマンにはそれが著しい。僕たちは母親の膝の上を離れて這い始めた時から、いつの間にか本来自分のものでない速さで歩く事を強制されてきた。
 なぜ速さを強制されるのだろう。それは結局のところ文明の本質がそうだからと答えざるを得ない。現代が文明優勢の時代である事はほぼ断言できそうに思う。ふつうは文明対文化という視点は成立し得ないのだが、個人の速さというものに対する作用という点では、この二つは鋭く対立している。
 文明の本質は汎的である事だ。文明とは異なるモノどもに同じ物差しを当てて行く作業に他ならない。そして物差しというものが登場する以上、その物差しで指し計れる数値以外の何者も無視される運命にある。酒池肉林の生活を送り無頼の日々を送るA氏と、花鳥風月を愛で詩的精神世界に生きるB氏は、同じ仕事をこなす以上、企業にとっては同じ人間に過ぎない事を意味する。この事は両氏にとって有利にも不利にも働く。
 しかし高度に細分化された専門分野での仕事を除けば、大部分の企業人が決められた手順をこなす事だけが求められる。どのような作業も、それが決められた基準に沿う事を求められる以上は、ルーチンワークの域を出ない事は言うまでもない。残念な事に、創造性を求められるような作業はごく少ないのだ。となると、どんな人が担当しても、その結果に質的な差は少ないだろう。いや、実は順序が逆だ。質的な差が生じないように、基準に沿って作業する事が求められているのだから。
 質的に差が出ないのなら、量的に差を付けるしかない。時間当たり多くの仕事を処理できる者が有利になる。ここでようやく速さの話に戻ってきた。つまり、企業というものの内部で生きる以上、質的な差などほぼ問題ではなく、量的な差だけが評価される事になる。その結果、多くのごくあたり前の能力しか持たないサラリーマンは、朝早くから夜遅くまで働き詰めになり、道を早足で歩き、発車間際の電車に駆け込んでコートの裾を挟まれる事になるのだ。
 唐突な思い付きを書くと、学校とは、人に社会で(企業で、ということとほぼ等価)生きるための術を学ばせる場所だと思う。事に小中学校では様々な形で速さを守る事を教え込まれる。その意味では学校とはどこまで行っても非人間的な存在に過ぎないのだろうと思う。この事を忘れて、学校を人間の本質を伸ばせる素晴らしい場所である"べき"だ等と規定してしまうと、どんな教育政策もうまく行かないのではないだろうか。学校は概ね会社人間を作る場所である、という確信を持った上で、それでも幾ばくかでも個人個人の抱える差異を残してやろうという方法論以外、教育の現場では生き残れないのではないだろうか。
 こんな事を取り止めもなく、会社のマシンでコンパイル終了を苛々と待ちながら考えていた。恐らく、出来ればこんな事ばかり考えている社員は、どんな会社だって欲しく無いだろう。
No comments

2000年3月14日(火曜日)

3/14の暮らし

暮らし 22:46:00 天気:晴れ
 花粉症と寝不足に散々に叩きのめされながらの1日だった。
 今夜の観望は眠かったので無し。しかし寝る前にベランダに出てみると、冬の大三角形が沈んだ後の物静かな星空が広がっていた。こっちの方が悠久の時を思わせて味わい深い。

No comments

2000年3月13日(月曜日)

今夜の観望

星見 23:45:00 天気:晴れ時々曇り BGM:Bound to Fail/Accept
 早く帰れたので、望遠鏡を木星に向けてみた。19:00時点で既に西の空低くにあり、間もなく観測シーズンは終わりそうだ。そのせいか、揺らぎが極めて大きく、像が安定しない。慎重にピントを合わせても縞3本が見分けられるかどうかという程度だった。土星も輪が分離できるという程度。
 もう少し高度の高いオリオン大星雲やM42はマシだったが、トラペジウムの星を分離するのが精一杯だった。しかし大気の透明度自体は高かったのか、心なしか星雲全体に赤味がかかっているようにも見えた。気のせいかもしれない。また外し見で星雲の形を読み取ると、大体写真で見るそれに近いものが見えているように思えた。大口径の望遠鏡ならもう少しいけるかもしれない。
 天頂近く、屋根に隠れるぎりぎりの辺りにすばるとヒアデス星団が見えている。こちらも望遠鏡を向けたらさぞかしいい眺めだろうが、路上にでも持ち出さない限り無理だ。
 日付が変わる頃にベランダに出てみると、もう空を雲が覆い尽くしていた。こりゃあかんとばかりに望遠鏡を仕舞い込んだが、2:00くらいにもう一度出てみると、雲が次第に東に追いやられ、晴れ間が広がりつつあるところだった。もう望遠鏡を出す気にはなれず、双眼鏡でしばらく空をなぞってみた。この時刻にはやはり天頂近くに明るい星が集まっている。Borg100EDもかなりお手軽な望遠鏡だが、もっと軽いのが欲しいところだ。
No comments

2000年3月12日(日曜日)

今夜の観望

星見 23:59:00
 20:00頃に空を見ると、やっと晴れ間が広がっていた。望遠鏡を出して既に高度が低い木星に向けると、高度が低いせいで揺らぎが大きく、縞がかすかに見える程度だった。
 オリオン大星雲も生彩を欠き、M41も見づらい事おびただしかった。一見して空の透明度は高そうだったが、雲が生じ易く朧が広がっていたようだ。
 日付が変わる頃に空を見ると、既に雲が空を覆い尽くしていた。
 天文ガイドやスカイ・ウォッチャーの広告を眺めていて、最近頓にベランダの狭さを克服するアイテムの必要性を、強く感じるようになってきた。一つはベランダの手すりに取り付ける頑丈な経緯台(別に赤道儀でもいいが)。これがあれば奥まった位置に望遠鏡を置いて視界が制限される事無く、空を観望できる。もう一つは全長のなるべく短い大口径望遠鏡。大口径といっても8インチとかになるとハンドリングもままならないだろうから、10cmくらいで十分だ。これで全長が短いとなると、どうしてもマクストフ・カセグレン式などが候補に上がるだろう。実際に10cm級で安価なものもあるようなので、良く見えるかどうかは別として一つ入手したいものだ。
No comments

誰もいない部屋

テレビ 23:55:00
 今夜の誰もいない部屋。最初の部屋は川にこだわるかっぱ好きの住人の部屋。たくさんの写真を参照しながら謎の長い板で仕事をする。石や水にこだわりがあり、地名はかなで正確におぼえておく必要がある。また不動産会社の案内広告を集めている。
 さっぱり分からないので井戸掘り職人としておいたが、答えは絵地図(観光地などで良く売っている)の作者。広い見識と取材を必要とする仕事のようだ。
 最後の部屋は謎の骨ルーム。なにやら面白い形にこだわる人のようで、様々な標本を集めては計測している様子。謎の断面図らしき図面もある。別室にはおびただしい骨の標本があり、住人はその計測を楽しんでいるとか。
 これもさっぱり分からないので骨相学者(そんな学者がいるのならどんな専門分野でも成り立ちそうだが)としておいたが、答えはマネキン原形の造型者。難しい。
 あまりに難しすぎたのか、今夜は全員不正解の連続だった。巨匠山田五郎も形無しである。
No comments

世紀を越えて

テレビ 22:40:00
 世紀を越えて。今夜は続発する巨大事故を取り上げる。
 アメリカではWW2後、特に'80年代に入っての規制緩和以降、航空業界が活性化され、その旅客人口も大きく増大している。それに伴って航空機の墜落事故も増大し、その抑制に大きな努力が傾けられている。
 航空機を作り、運用する技術は長足の進歩を遂げたが、にもかかわらず事故は減少しない。その要因の一つに、航空機の複雑化がある。航空機があまりにも巨大化したため、チェックの手順がとてつもなく複雑になり、どうしても整備不良の見落としが減少しないのだ。戦前のDC-3と最新のDC-11を比べると、その見た目の大きさはもとより、その構成部品の多さに驚くほどの差がある。特に電気/電子部品の増大は、一面で運用コストを引き下げているものの、故障要因の増大をも引き起こすのだ。乗員乗客200名余が死亡したTWA航空機事故でも、原因は主翼部フュエルタンク近くを通った電線の劣化だった。たかが1ヵ所、しかし致命的な場所で起きたスパークが、この大惨事を引き起こしたのだ。
 航空機が進歩できても人間は簡単には変われない。その為にヒューマンエラーによる事故も続発している。アンデス山中で起きた墜落事故では、パイロットの入力ミスが原因と判明した。パイロットは航法支援装置を参照しながら飛行経路を選択する。ところが事故機の場合、飛行中に飛行経路を変更するという作業が発生した。この時にパイロットは中間地点として入力する空港名の省略形として頭文字のみを入力した。ところが頭文字に合致する空港は比較的近隣にもう一つあり、しかも航法支援装置のアルゴリズムとして複数の空港名にプライオリティを付けて処理していた。その結果パイロットが入力した地名と航法支援装置が認識した地名とが異なってしまい、事故機はまるで違う方向のアンデス方面に向かってしまい、ついに山肌に激突してしまったのだ。
 この事故では確かにパイロットが不注意だった点は否めないが、同時に航法支援装置にヒューマンエラーを防ぐ仕組みが足らなかったようにも思える。それ以上にパイロットが航法支援装置に頼り過ぎ、自らの位置と進行方向を十分確認しなかった事が原因だといえるだろう。いずれにせよ機械と人間の双方を改善しない限り、ヒューマンエラーは根絶し得ない。
 本来ならば航空機を安全に運営するべき航空会社、そしてそれを監督すべき役所の腐敗もヒューマンエラーの一種と考えられる。今も記憶に生々しいスペースシャトル・チャレンジャー号の爆発事故は、打ち上げを予定通り実施したいNASAが、事故を予見していたメーカー側に圧力をかけ、打ち上げを飲ませた事に起因している。
 同じ構図は航空機業界にも見られる。フロリダ近郊で発生したValujet墜落事故では、直接原因は整備会社が使用期限切れ酸素発生装置を、適切な安全装置を付けないまま誤って事故機の貨物室に積み込んだ事にあった。しかしこの整備会社に対して、航空会社は必要な安全指導を全く行っていなかった事が判明している。事態を救いがたいものにしているのは、航空会社の安全性をチェックすべき省庁が、政策的に監査を手控えていた点にある。クリントン政権が行った航空業界への規制緩和で目に見える成果を出すために、Valujet社の成長は仕組まれたのだった。
 こうして航空機事故の要因を振り替えると、人間による検証という方法論にも、機械的なチェックによるそれにも、限界がかなり以前から見えていた事に驚かされる。根本的な解決は、人間のように思慮深く柔軟で、機械のように疲れを知らずミスもしない新しい機械知性が登場するまでは不可能なのではないだろうか。
No comments

爆睡の日

暮らし 20:38:00 天気:雨後曇り
 前夜、明け方近くまでチャットして、それから爆睡したので、目覚めたのは2時近くだった。これでも8時間近くは眠った事になる。
 起き出して、さてどこかに出かけようかとぼんやり考えていたが、細々としたどうでもいい事柄どもを片づけているうちに面倒くさくなり、とうとう今日は外にもでなかった。経済的でいいな。
 原稿用紙に向かったり、PCに向かったりしているうちにまたもや眠くなり、もう少し一眠りしてしまった。ますます金のかからない奴だ。しかし平日の深刻な睡眠不足からすると、これでようやく釣り合いが取れるくらいだろうか。
No comments

2000年3月11日(土曜日)

今夜の観望は無し

星見 23:37:00
 また曇り。曇りの日が続きます。
No comments

臨死体験

テレビ 23:34:00
 今夜の「時の記憶」は'91年に放送されたNHKスペシャル、立花隆の取材で製作された「臨死体験」だった。1.5時間の長尺の番組だが、非常に面白かった。
 臨死体験とはなんだろう。それは人が死線をさまよっているときに体験する奇妙な出来事のことだ。近年、医療技術の発達により、少し前なら助からなかったような危篤状態から生還する人が増えている。そうした人々の中に、従来の科学的な説明が当てはまらないような体験をする人も多い。それらの奇妙な体験をまとめて臨死体験と呼ぶ。
 臨死体験の細かなパターンはいくつもあるが、共通して見えてくるパターンもある。
1.肉体から視点が離脱する(いわゆるオカルト用語の幽体離脱)。
2.暗い穴の向こうに明るい光が見える。
3.明るい場所には花園が広がっている(あるいは大変居心地よさそうな場所である)。
4.そこでかつて死んだ肉親と出会うこともある。
5.そこから先に進むが、障壁(川のような場合もある。肉親に呼び戻される場合もある)を前に引き返し、息を吹き返す。
 これらの体験はたいてい宗教的ないしオカルト的意味付けがなされる。しかし近年になって多くの体験が知られるに連れ、科学的な文脈で解釈し直そうという動きが起こっている。
 全米の臨死学会が設立され、そこで数多くの事例が報告されている。学会の設立に関わったある医師は、医療の現場で数多くの臨死体験に接し、その存在には疑問の余地が無いという。死地から生還した患者の多くは臨死体験を口にするという。
 立花もその報告数の多さから臨死体験の"実在"は疑えないという。では臨死体験の正体はいったいなんなのだろう。
 臨死体験者は多くの場合意識不明の昏睡状態にある。従って体験者は外部からの情報を受け取り得ない状況にある。しかし体験者の中には幽体離脱の最中に、当人が知り得ないような事項(たとえば昏睡中の現場の状況や、医師たちの会話、仕種)を言い当てる者もある。そこでこれら臨死体験は現実の体験であるという説が成り立つ。
 一方で臨死体験は脳内の"体験"に過ぎないという説もある。先の昏睡中の体験は、医師たちの会話を体験者が無意識のうちに聞き取ったいたものという解釈だ。しかしそれだけでは説明できないような事柄まで憶えている患者もいる。
 脳内現象説にはある有力な証拠もある。1950年代、北米の脳外科医が、局部麻酔で開頭した患者の大脳に電気的刺激を加え、その時になにを感じているかを聞き取るという実験を行った。すると側頭葉の一部を刺激すると、幽体離脱のような感覚をおぼえる事が発見されたのだ。つまり昏睡中の体験者は、この部分が活性化される事によって、擬似的な体験をしているに過ぎないとも考えられるのだ。また他にも大脳生理学的な手がかりがいくつか得られている。
 ところが脳内現象説には大きな落とし穴がある。昏睡中の体験者の脳の活動レベルは極めて低く、夢を見たり幻覚をおぼえたりする力も無さそうなのだ。また個体の終焉という、種の保存という視点からは無意味な場合に活性化される機能の意味はなんなのだろう。
 臨死体験現実説を取った場合、肉体から抜け出して外部の情報を得る事が出来る"実体"が想定される。大抵の場合、それは古典的な意味での霊魂であると解釈される。こうした2元論を取る人々は、どうも医療の現場に近い人々が多いような節がうかがえる。実体験者という特権的な立場に近い者ほど、そのリアルさを疑い得ないという事を示しているのかもしれない。
 こうした臨死体験のモチーフは、実は宗教にも大きな影を落としている。仏教、キリスト教を問わず、宗教画には光の道というモチーフが数多く登場する。これは臨死体験者が宗教的な影響を受けている事を示しているのだろうか。実はまだ宗教的なカラーに染められていない少年期の臨死体験者も、似たような体験を語っている事から、必ずしもそうとはいえない。逆に宗教の誕生に臨死体験が深く関わっているという説もある。もしそうなら、臨死体験は宗教の誕生と同じくらい古い歴史を持っている可能性はある。
 こうして多くの事例を並べてみても、臨死体験の正体ははっきりしない。明らかに脳内現象説が有力だ。例えば幽体離脱者がふつう知り得ない事項を語るという現象は、実は事後的に記憶された事柄に過ぎないという考えもありうる。また幽体離脱感覚を誘発する機能の存在意義は、例えば通常の生活では別の機能を発揮するものだとも考えられる。また死から生還した人が死を恐れなくなるという事実(後で記述する)から、実は個体の生存に極めて有利に働く機能であるとも考えられる。しかしこれだけでは体験の全てを網羅できるとはいえない。その意味では、臨死体験という魅力的な現象は、21世紀に入っても追求されつづける事になるだろう。
 ところで、臨死体験者の多くが死を恐れなくなるという現象はなんなのだろう。先の生存有利説に従えば、実は進化論で説明可能な形質の一つに過ぎないともいえる。だが臨死体験者が喜びを持って語る様子を見ると、無理に科学的な解釈に委ねなくてもいいのではないかとも思えるのだ。科学的に探求するのは構わないが、それが臨死体験者に「それは脳内の現象に過ぎない」と語る事の意味は果たしてどれだけあるのだろう。臨死を境に新しい肯定的な価値観を持った人に対し、こうした言説はどれほどの価値があるのだろう。科学的な価値はあるだろうが、人間の価値観全てを科学に委ねる必要の無い事は言うまでもない。人間の価値観は常に科学、宗教、その他の論理に関連しながらも、なおもその外に立つものだと思う。僕たちは個人的な経験という計量も一般化も拒絶した物差しに依って生きている。この事実を直視しないで一つの価値観を強制する事は、多くの知性的な存在が見逃しつづけている暴力ではないだろうか。それが臨死体験者にまで及ばない事を祈るばかりだ。
No comments

街道をゆく

テレビ 23:33:00
 今週は肥前の道行き。肥前は古く遣隋、遣唐使船の寄港地として、またその後もモンゴル帝国の来寇やキリスト教伝来など、歴史の波にさらされてきた土地だ。
 1274年、1281年の2度に渡った元寇は、遣唐使の停止以来海外とのかかわりが薄かった日本に、大きな衝撃を与えた。元という世界帝国の持つ論理に対し、日本という狭い島国の論理が衝突し、様々な意味で試された事件だったといえる。幸いにして(なのか不幸にしてなのかはわからないが)元の来寇はいずれも失敗、日本が外国に侵略されるという最初の危機は免れた。元寇が挫折した原因は来寇側が日本近海の暴風を甘く見て、いずれの場合も大風により船団が壊滅するという少し情けない理由だった。しかし元軍が陸に拠点を移さず、船上にこだわったのは、鎌倉武士団の予想を超える勇猛果敢さにあったといわれている。しかしこの時、日本が一時期でも世界帝国の版図に組み込まれる結果になっていたら、どういう事態が起こっていたのだろう。その後の歴史の流れもよほど変わったかと思うのだが。
 肥前長崎といえば南蛮舶来、基督教伝来の故事が憶えられている。最初期のポルトガル人はキリスト教の布教と対で貿易も行っていた。そのために日本で最初にポルトガル船を受け入れた大村氏は、キリスト教の洗礼を拒んだために巨利を得る機械を逃してしまったという。その後、キリスト教の布教が禁止され、日本に帰港できるのが布教にこだわらなかった新教徒のオランダ人に限られてしまったことを思い起こせば、歴史というものの皮肉さにあきれざるをえない。
No comments
«Prev || 1 | 2 | 3 |...| 477 | 478 | 479 |...| 485 | 486 | 487 || Next»