Strange Days

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2006年3月28日(火曜日)

スワニスワフ・レム逝去

SF 11:02:11 天気:くもり
 レムも長命な人だったよな。82歳だったそうだ。
 昔、SFマガジンで『造船所のドックで巨大コンピュータを建造する』なんて話にぶっ飛ばされて以来、レムはどこか特別な作家だと認識していた。気軽に手を出すと返り討ちに遭うぞ、というか。
 どんなつまらない小説を読んでも、その小説になにかを問いかけられている印象は抱くものだが、レムはそれがとりわけ強い作家だったと思う。
 これで復刊フェアとかやってくれたら、とりあえず手に入れられるだけ買っておこうと思っている。レムは不滅かもしれないが、文学界が滅亡しそうな勢いだしなあ。

2006年1月28日(土曜日)

元FSF同窓会(良く考えたらmixi)

SF 23:40:00 天気:晴れ
 MR-4Fで帰宅すると、急いで家を出た。時間がなかったので着替えないでジャージのまま行くかと思ったのだが、それはどうかと思い着替えて出る。時間が押してる。案の定、立場で地下鉄を乗り逃がした。アイヤー(;._.)
 しかし戸塚でリカバリに成功。首尾よく湘南新宿ラインを捕まえた。
 新宿に出る。人の多さにどうにかなりそう。自分から好んで出かけたくなる場所では無いな。紀伊国屋に立ち寄り、会場の店に向かった。
 今日、ここであるのは、かつてNIFTY-Serve*1で猛威を揮ったSFフォーラム*2の同窓会だった。SFフォーラムは、惜しまれつつも去年閉鎖されていた。NIFTYの文化系フォーラムでは際立ってアクティブだったのだが、残念だ。そして、残念だと思う人々がmixiで再会し、では同窓会という口実で宴会しましょうということになったわけだ。
 店員に案内されると、既に濃度*3の高そうな人々が集まっていた。どうも多くは顔見知りらしい。しかし我輩、かつてお会いしたのは東部戦線氏他数名。それも一度きりという薄さだ。しかも隣に座った男性が、その東部戦線氏だとは、話してみるまで気づかない不甲斐なさであった。
 ちょっと疎外感を感じつつも、しかし共通の話題を持っている強みからか、それなりに打ち解けた感じにはなっていった。あんまりSFそのものの話題ではなくて、既にSF界の古老になりつつあるとか、XXはなにやってんのとかいった、ゴシップが多かった。その点、業界人の多さを感じた。
 しかしまあ、最近本を読んでない*4僕は、SF再入門するつもりで、最近の動向を聞きたかったのだが、そういう方面には向かなかった。もっぱら、誰かが持ってきたW-ZERO3に感激していた気がする。うーん、買う気が失せていたけど、やはり買おうかな。
 鍋やサラダを片付け、マサマサ氏のそれは作っただろうといいたくなる*5「パソコンのサポートセンタにこんな面白い電話があったよ」話に突っ込みを入れているうちに、時間。それなりに楽しめたな。
 しかし、新宿はちょっと遠いよ。むしろ金曜日の夜辺りの方が、俺的には休日の予定を組みやすいんだがなあ。
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2005年5月03日(火曜日)

SFセミナー2005

SF 20:57:00 天気:晴天
 3年ぶりにSFセミナーに参加してきた。
 今年は昼を挟んで4コマ、結構な長丁場だった。
 10:00の開場直後に着き、適当な席を占める。
 10:45に最初のプログラムが開始された。『正しいライトノベルの作り方?――疾走する作家、桜庭一樹のスタイル』と題し、新鋭のライトノベル作家、桜庭一樹女史*1のデビュー前後の話、創作スタイルを聞く。
 正直、あまり興味なかったので、半分寝ながらの聴講*2となったが、別の雑誌間でも編集者間の交流があったり、作家志望者同士の引き合いがあったりするという話は興味深かった。
 ただ、司会の不手際もあり、また司会と桜庭女史の声が少し通りにくかったこともあり、少々眠気を誘われたのも事実だ。
 ここで昼食時間。適当に御茶ノ水駅前に出たら、サンダース大佐と目が合ってしまったので、物凄く久しぶりにケンタでお昼となった。ここ、高くつくから嫌なんだけどなあ。
 会場に戻り、少し昼寝していたら、午後の部開始となった。2コマ目は『異色作家を語る』。浅暮三文氏、中村融氏、牧眞司氏らが、『異色作家』というくくりで、日本では面々と編纂されてきている異色作家アンソロジーを中心に語る。
 異色、という限り、本流、もあるはずだ。主流文学に対する伴流文学のようなもので、正があるからこそ異に意味がある。しかし今、文学全体の状況を俯瞰すると、その主流たる部分が沈没気味ではないか。だというのに、日本では、古くは早川の『異色作家アンソロジー』に端を発し、今も売れ行き好調な異色作家モノがもてはやされている。なぜか。
 という方向には、残念ながらあまり話は進まず、各自が好む異色作家や、異色作家観を告白しあう場になってしまった。これはこれで興味深い。
 中村氏が、手がけた『二人ジャネット』の書評を一覧して、落胆したという話が面白かった。中村氏はずばりネタバレした*3後で、『誰も(こういう正しい解釈に)行き着かなかった。テリー・ビッスンは日本人には理解できない』と読書人たちを切って捨て、『もうビッスンはやらない』と宣言したのには、ちょっとだけ喝采を送りたい。『世界の果てまで何マイル?』でも、『俺たち(私たち)はなにを読んでしまったんだろう、今、どっちを向いているんだろう』と言いたげな、腰の引けた書評が多かったことを憶えている。きっと汲み取るべき寓話性に満ちているに違いない世界を、『なんだか不思議な小説』といった理解を拒絶した適当なラベリングと共に投げ出した責任を、世の書評人たちがこういう形で被るのは当然の結果だろう。あ、なんだか切腹しちゃった気分。
 3コマ目は『SFファンの引越し』ということで、SF者、いや紙魚者ならば誰でも頭を悩ますに違いない、大量の本を抱えたままの引越しに関する話題だった。僕の場合、本はここ10年で購入が激減したし、実家にかなり置いてあるので、手許には1000冊も無いに違いない。それでも、引越し荷物のかなりを占めるには違いない。これに自転車関係が加わると、もうカオスとしか形容しようがない状況がやってくるだけだ。
 壇上のSFファン代表は、先ほども出た牧眞司氏、サイコドクターこと風野春樹氏、徳間でアニメージュの編集長らしい大野修一氏、そしてSF関係のAVコレクターとして名高い門倉純一氏の4名だった。
 独身の大野氏以外は、いずれも一戸建てを購入して転居している。風野氏は、14畳ほどの書庫を用意し、移動式書架を設置したという。これで数万冊はいけるだろう。でもじきに限界だという話にはびっくり。
 門倉氏は、新居の地下にAVルームを設けたのだが、コンクリートを打って、水抜きが終わるのを待って、などと1年がかりだったそうだ。
 大野氏の場合、より広い場所に引っ越したのはいいのだが、引越し後の今も多くの本がダンボールの中に入ったまま積みあがっているそうな(その状況)。斜線の部分がダンボールと書架なのだ。実際には足の踏み場も無さそう。
 牧氏も最近になって書庫を増築したらしい。旧来の書庫の外に、さらに増築したのだとか。住むために家を建てたのか、本を積むために建てたのか、なかなか考えさせられる話だった。
 最後の4コマ目が、『鈴木いづみRETURNS』ということで、スキャンダラスな生き方を(ある意味)貫いた鈴木いづみを、作家として再評価しようというもの。大森望、高橋源一郎、森奈津子が語った。というか、専ら大森 v.s. 高橋。高橋氏は、やはり語りが上手く、話に引き込んでゆく力がある。そこに大森氏を当てたのは、今日の人材の中では、適切な人選といえたのではないか。
 鈴木いづみの場合、僕はSFマガジン掲載の短編と、『恋のサイケデリック』くらいしか読んでない。一部の作品に鮮烈に現れているのが、ジャーゴンの氾濫による異化作用だ。高橋氏は『ガジェットが氾濫して』と形容したが、むしろジャーゴンというべきじゃないかと思う。モノではなくてコトバなのだ。文章にぞりぞりと挿入される耳慣れない言葉によって、鈴木いづみは世界を変えて見せているわけだ。
 高橋氏は、『いづみはGSとか好んで書いてるけど、本当は好きじゃなかったのでは』と指摘した。鈴木いづみの視点は、そういえば冷めている。なにか熱中しているらしいものを語っていても、エバンジェリストというよりはレポーターというべき冷め方だ。だからだろうか、彼女の作品に強い作り物感を覚えたのは。
 終わってみると、森女史がもう少し突っ込んでくれたらよかったのにと思ったりした。まあなにやら鈴木いづみのテキストがかき集められ、出版されている最中なので、今は再評価が端緒についたばかりというところなのかもしれない。
 セミナー会場を後にし、JRでうとうとしているうちに帰宅した。来年は出られるかな。
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2005年4月01日(金曜日)

4/1に出張して

SF 14:08:20 天気:晴れてる
 仕事で、急遽愛知万博会場に向かわされる破目になった。まあついでに会場を見て回られたらいいなと思いつつ、新幹線に飛び乗った。うっかり天井に跨ってしまったので、動力線に頭が当たりそうで恐い。花粉症で寝不足だ。前を走る警告掛の『電車がきまっせ、危のおまっせ』を子守唄に、しばしうとうとする。危うく落ちるところだった。今日の到着率は50%くらいだったろうか。保線の人たちが大変な目に遭ったことだろう(自分への戒め:新幹線は乗るものであって跨るものではない)。
 名古屋着は、到着直前に名駅ツインタワーが人型への変形を開始したため遅れる。ホームできしめんを啜っていると、ちょうど頭上を跨ぎ越えるところだった。カメラ持って来ればよかった。西上中の東京都庁ビルを迎撃するのだそうだ。
 急用だったので、名駅からは早馬を乗り継いで会場に向かった。会場近くのITタコ部屋で無事ブツ(末端価格20億円分ほど)を引き渡した。みんな、すっきりしてくれればいいのだが。
 時間が余ったので、万博を見て行くことにする。ゲートの検査は厳しくて、人工物は全て取り上げられた。直腸検査の時に髭の剃り跡も青々しいマッチョな方々に取り囲まれたのには参った。ニヤニヤしながらパンツ下ろすんだもんな。
 素っ裸にされて会場内に放り込まれると、小手調べにイラク館を見て回った。そこここで車爆弾を実演中で、観客もろとも吹っ飛ぶ様は大迫力だった。段々観客が減っていくのを気にしながらもシアターに入り、米軍の協力で公演中の湾岸戦争ショーを観た。実弾をたっぷり使用したショーは、既に迫力という概念を越えている。クライマックスの燃料気化爆弾による旧イラク軍戦車隊殲滅の場面では、シアターそのものを消滅させるという荒業で観客の度肝(と命)を抜いた。
 瓦礫の下を這い出してイラク館を後にする(既に建物そのものが崩壊しているようだった)。
 次は目玉の北朝鮮館だ。まず平壌の柳京ホテルをそのまま移築したという威容に驚かされる。軽量化のために外壁は一切施さなかったようだ。ぼーっと見上げていたら、上層を観覧中の客が風に飛ばされ、時々パラパラと降ってくる。清掃のおじさんは『今日は天気がいいので多くて』と苦笑いしながら、片付け役のハイエナを放していた。
 さすがに上層に上るのは恐かったので、下の方で北朝鮮の演劇を見る。金日成と正日という偉大な親子の葛藤を、迫真の演技で演じきっている。演じるのは平壌から特別に運ばれてきた金日成、正日像だった。高さ40mという巨像が自在に動くだけでも驚くべきことだが、それが権力者親子の葛藤を演じきり、さらにはクライマックスの近親相オカマにまで発展する様には、ノンケな俺も大興奮だ。
 次は日本国辱マンガ館に寄ってけっこう仮面ショーを見たかったのだが、残念なことに避難命令が出されてしまった。名駅ツインタワーが東京都庁ビルを迎撃するらしい。遠くから迫る爆音に追われながら、短い名古屋滞在を終えざるを得なかった。今度はちゃんと観て回りたいな。
 今日はちゃんと仕事もして有意義な一日だった。おっと、最後に一つ、嘘を書いちまったい。

2004年10月13日(水曜日)

翻訳家/SF作家、矢野徹氏逝去

SF 23:55:32 天気:雨は上がっている
http://slashdot.jp/article.pl?sid=04/10/13/1250231&topic=1&mode=nested
 ああっ、矢野さんまで……。
 まだハインラインの未訳作品だってあるのに、あなたが今逝ってしまって、どうするんですか。せっかくワールドコンが日本で開かれる日が来たってのに。
 心よりご冥福をお祈りします。こりゃダメージ大きいよ。久しぶりにカムイの剣でも読み直すかね。

2004年9月07日(火曜日)

ワールドコンがやってくる

SF 11:34:57 天気:朝一でにわか雨、後晴れ
 なんと、ワールドコンが日本で開催されるのだげな。そういう時代になったのか、というより、大丈夫かという危惧があるなあ。
 昔、NIFTY-Serve(@NIFTYの前身)のSFフォーラムで『やりたいけど受け入れるだけの態勢は取れないよな』などと話していたのを思い出すな。どうやって解決するんだろうな。人材豊富なコミック界から応援を呼び寄せるというのはどうだ*1
 しかしこの記事読んでいて初めて知ったのだが、来年の日本SF大会*2もやっぱり横浜で開かれるんだとか。一度出なければと思っていたので、今度は出るかな。
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2004年4月21日(水曜日)

SFセミナーが5/1開催になってる

SF 09:42:30 天気:いいってば
 しまなみ行きでは、大半のメンバーと5/1に別れ、単独で松山に立ち寄った後で、そのままフェリーで呉に帰ることにしていた。例年、5/3に東京で開かれてきた、SFセミナーという催しに参加するつもりだったからだ。
 去年はいまいち興味を惹くトピックが無かったので、参加しなかった。しかし今年は、山田正紀インタビュー、SF周辺の話など、面白そうな企画が組まれている。これは参加せねばと思っていた。
 ところが、昨夜前記ウェブページを読んでみると、今年の開催は5/1に前倒ししている。前倒しですか。その日は、まさに松山に向かうことになっていた日だ。これじゃあ参加は無理だ。とほほ。
 どっちかといえば5/4とか5とかの開催の方が嬉しいのだが、会場の都合もあるのだろう。もしも来年も同じ日程が組まれるのなら、多分また参加を見合わせるしかないな。
 うーむ、誰かにビデオ撮りしてもらうかな(そんな物好きな知り合いはいないが)。
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2002年11月05日(火曜日)

シェフィールド逝く

SF 00:00:00 天気:相変わらず良し
 「マッカンドルー先生お大事に」じゃなくて「マッカンドルー航宙記」、「ニムロデ狩り」などのSF作品で著名だったチャールズ・シェフィールド氏が亡くなったそうだ。緻密なハードサイエンス描写が得意で、なおかつ9月に逝ったフォワード博士よりは人を描けている作家だった。
 フォワード、シェフィールドと、ハードSF界の2大巨頭が相次いで逝ったわけで、因縁めいたものを感じなくもない。
 さらば、マッカンドルー先生。

2002年5月03日(金曜日)

今年も出席、SFセミナー

SF 22:00:00 天気:くもり?
 今年もSFセミナーに出ることにした。今年は13:00からなので、少し遅め、11:00過ぎに家を出た。
 御茶ノ水まで出て、全電通労働会館に向かう。開講15分前くらいだったが、既に50%くらいの入り。
 受付を済ませ、少し上の方に席を取る。ほどなく、開講(だよな、セミナーなんだから)。
 今年は男性二人組みが進行役だ。1コマ目は、「かめ、くらげ、たぬき、北野勇作」と題し、最近なんとなく名が知られてきた、また日本SF大賞受賞者でもある作家、北野勇作へのインタビュー。内容的に、このタイトルはまったく違和感無かった。つまり、北野勇作とは、かめ、くらげ、たぬきと併記してもなんら違和感の無い人だった。
 北野氏が生まれた町には本屋が無く、隣町の小さな本屋が数少ない書源(っつうのか)だったという。この点、歩いて繁華街に出ればいくつも本屋があった僕の方が、恵まれていたようだ。
 働きたくなくて大学へ、楽そうな仕事へ、そして作家へと志向していったそうだ。やはり、ゲージュツカにとっては怠惰こそが原動力たりうるのだな。
 北野氏の作品、前になんか買ったまま積読になっていたような気がする。
 2コマ目は「SF入門というジャンル」。日本SF作家クラブが編纂した「SF入門」出版の動機を、その中心となった川又千秋、巽孝之、牧眞司、小谷真理らが語るというもの。
 前半、というか大半は巽氏の語り、続いて牧氏による日本で出版されたSF入門書の紹介、小谷真理女史による編集裏話に費やされた。川又氏はあまり発言しなかったな。というか、そんな時間的余裕が無い駆け足の企画だった。
 このSF入門、作家による作家視点でのSF紹介というものだという。いわゆるSF入門(SFガイドでもいいが)が、読者の視点から書かれているのに対し、この本はSF作家が自分たち(あるいは同僚たち)の仕事を概説するというスタイルになっているらしい。小松左京の「SFセミナー」でSF理解を深めた僕とすれば、なかなか興味深い本になっている模様。
 3コマ目は「立ち上がれSF新レーベル」と題し、SFを視程に置いた各社レーベルの担当者に話を聞くというもの。
 角川春樹事務所、徳間、早川といった、おなじみの顔ぶれに混じって、祥伝社が混じっているのが目新しい。祥伝社はSFプロパーでこそ無いが、半村良、平井和正といったSF畑の作家の新刊を数多く出版している。特にSFにこだわってないが(積極的に取り込んでいるわけでも排除しているわけでもない)、中篇を書ける人材を集めたらSF畑からの人材が多かったとのこと。
 最後のコマは「小説の可能性を求めて。奥泉光インタビュー」と題し、SF的アイデアをいわゆる主流文学に積極的に取り込んでいる作家に、SF界からのインタビューを試みるという企画。例年、最後の企画は面白いが、今年も興味深く見た。
 奥泉氏は「近代文学における自然主義」への違和感を表明していた。文学における自然主義というのが不勉強でなんだか分からなかったが、ようするに出来るだけかなに開いた、すらすら読みやすい文体を持つ小説群のことを指しているのだろう。例えば「五月に入り、空気はますます温み、空の青さも深まってきた。恵子は~」などという文章の"不自然さ"に耐えられないのだという。情景の説明があって、その後に登場人物の説明が入るというのはごくありふれた手法だ。察するに、自然主義(文学)というものは、そのような導入部を設けることで、登場人物が"居ること"への不自然さを和らげる、という特徴があるのではないだろうか。しかし、どんな導入部を設けても、どんなに工夫しても、その"恵子"が作中に置かれるという"作為"は消せない。奥泉氏が表明した不自然感とは、そのようなものを差すのではないかと思った。それくらいなら、いきなり「恵子は~」と始めたほうが、まだ我慢できると奥泉氏はいう。そのジャズへの耽溺振りも含めて、興味深い作家だった。
 閉会後、秋葉に寄ろうかとも思ったが、特に用事も無いので直帰した。
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2001年12月31日(月曜日)

恒例FSF年越しチャット

SF 23:55:00
 今年もFSFで年越しチャットだ。一応説明しておくと、FSFといっても髭面のおっさんが首領を務める某組織ではなく、@NIFTYはSFフォーラムのことだ。このフォーラムのチャットは以前から激しく、特に年越しチャットは例年50人以上参加してなにがなんだかわからない状況になっていたのだが......。
 22:00過ぎ、物凄く久しぶりにFSFに入ってみた。今年、特に気になっていたのは、例のso-netとの合併の噂だ。このことについてもなにか聞けるかなと思った。
 しかしだ、この時間になってもチャット参加者はゼロ。例年なら(といってもここ数年は知らんが)この時間には20人くらいいてもおかしくない。もしかしてFSF1ではなく2や3だろうかと思ったのだが、そちらにもいない。なんと。@NIFTYのフォーラムは、こんな風に衰退していたのだな。
 やがて、ようやく見なれた顔が登場。七色いんこ兄であった。再会を喜び、同時にFSFのあまりの変化に驚きあった(いんこ兄も久しぶりだったようだ)。しばらく話しながら、もしかして二人で年越しに突入かと思っていたら、23:00前からようやく人が増え始める。懐かしい面々が次々に登場する。ああ、なんだか同窓会みたいだ。FSFで過ごした時間が、まるで走馬灯のように駆け巡る(危ないから止めとけ(by よみ&とも))。しかし、それでも最高で22人程度しか集まらなかったのだ。ああ、往時のFSFは何処。
 後で思い返してみるに、主だった運営陣が参加していなかったようだ。so-netとの合併報道の直後、SysOpeが召集されて何がしかの話し合いの場が持たれたといわれているので、そこで@NIFTYからなんらかの申し渡しがあったのかもしれない。
 ともあれ、例年恒例の行事を済ませ、新年あけおめなのである。
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2001年5月03日(木曜日)

SFセミナー2001へ

SF 22:09:00 天気:雨のち曇り
 今年もSFセミナー2001に出ることにした。
 生憎、今年のGWは雨に祟られっぱなしで、今日も今日とて結構な雨が降っている。かさばることを覚悟して傘を持って出た。
 東京着は12:00頃だったろうか。多少の余裕がありそうだったので、秋葉でちょっと探し物をする。1号機のプロセッサを換えたときに、実はキーボードも交換していたのだ。1号機のコンパクト106(89)キーボードと、PC切換機につながっていたIBMのSpace Saver Keyboardとを交換したのだ。ところが、切り換え機にはWindows OSな機械が多いので、邪悪なWindowsキーがあった方が便利だ。そういうわけで、出来るだけコンパクトな109キーボードを探したのだが。生憎、気に入るものはなかった。妙に丸っこかったり、厚みがあったりして、イメージ通りのものがない。今日はあきらめた。気長に探しましょ。
 さて、今年のSFセミナーも全電通労働会館で開かれることになっている。久しぶりにフィールドに持ち出したロカティオを頼りに、15分ほどで秋葉原駅から到着できた。御茶ノ水駅から歩くのと変わらないんじゃないか。
 既に受付が始まっていたので、受付で4000円を支払って名札と資料をもらう。なぜかプログラムはもらえなかった。ホールに入り、まあ中段の上辺りを占拠して、開幕を待った。
 13:00過ぎ、去年と同じ女性二人組によって開幕が宣言された。この時点で入場者は6割くらいだろうか。雨に祟られたのか、去年より少なかった気がした。この時、司会より「手違いで未着なのでプログラムは後ほど配布」と伝えられた。どんな手違いだ。まあ無くちゃ困るものでもないけれど。
 プログラムの最初は『レキオス』の著者、池上英一氏のインタビュー。良く名を聞く本だが、未読だったので内容はよく分からない。が、この作者のキャラクタが楽しかった。『(とある謎音楽で)トリップして理性を飛ばしてから書く』、『書きながら次の行を想像できるようでは(こういう怪作は)書けない』などなど、聞いている方がクラクラしてくるような発言の連発だ(笑)。シノプシスにこだわりすぎて1行も書けないような小説家予備軍は、もしかしたらなにか掴めた気になれたのでは(なれるかっ)。他にも1500枚を1000枚に削ったとか、かなりクるエピソードが語られた。作品もそういう感じらしいぞ(どんな感じだ)。でも軽薄なキャラクタの向こうに案外にしっかりした覚悟みたいなものも見えた気がする。「登場人物が構造を飛び越える瞬間を信じている」とかな。そういう意味では、インタビュアーの人にもう少し頑張って欲しかった。
 途中と最後にトリップ用謎音楽が掛けられたが、10分聴いていると耳から脳みそが流出しそうな代物だった。
 次は『アンソロジーの新世紀』。最近、創元社から『影が行く』というSFホラーアンソロジーを出した編者の中村融氏、更に同氏とのコンビで河出文庫から『20世紀SF』を出した山岸真氏、加えて河出の編集者伊藤靖氏、司会に創元の小浜徹也という4者がアンソロジーに関して語り合った。
 印象に残っているのは大出版社では上層部は「なにが売れているかも知らない」という発言だった。そりゃいくらなんでもやばい状況だ。いくら会社がでかいといえ、例えばトヨタの幹部が売れてる車種に関して無知だとは思えないからだ。出版業界が特殊なのだろうか。
 「アンソロジーはリスキーだ」というのも印象的。目立つほどには売れないものらしい。
 中村氏は高校の頃から読書ノートを付け続けているそうだ。日付や原題、枚数まで着けているそうだ。この膨大な蓄積が、アンソロジーを編むに当たり役立っているようだ。そうだよなあ、一つのアンソロジーを編むだけで何十という候補が必要になるし、それをすぐに比較できる資料も必要なのだろうから。
 「『20世紀SF』は(博覧強記で有名な)水鏡子を怒らせるようなものにしたかった」との発言も。水鏡子氏は、アンソロジーに編者の個性が読めるようなものが良いと述べているそうだが、それに反して"お得な詰め合わせパック"的なアンソロジーで良いじゃないかと考えたのが『20世紀SF』なのだそうだ。確かに、たくさんのアンソロジーが登場し続けているような状況でなら編者の個性も大切かもしれないが、滅多に登場しない状況では意味がないかもしれない。
 このプログラムで残念だったのは、音声の調整がなってなかったことだ。司会の小浜氏の声はやたら大きく聞こえるのだが、他の三方、特に小浜氏に次いで発言していた中村氏の音声が小さかった。もう少し小浜氏は絞ってよかったのでは。
 この辺まで休憩の度にトイレに行っている。あれ、こんなに水分取ってたっけ。ふと気づくと、入場者は7割くらいにまで増えていた。最初はいなかった左手奥の方にも増えていたので、明らかに増加している。~
 次は『SFにおけるトランスジェンダー』。性別越境者で大学講師でもある三原順子氏(女史、か?)を招いてのインタビューだった。ホモセクシャルとトランスジェンダーの最大の違いは、性別が誰にとって問題かという点にある、とのこと。ホモセクシャルは相手の性別(がたまたま自分と同じ)、トランスジェンダーは自分の性別(が元々間違っていた)という点で異なるとのお話。なるほど。また脳(意識)と身体が性意識を巡ってせめぎ合っているというモデルの立て方も興味深い。
 性はSF的問題として古くから扱われては来たが、三原女史はその探求範囲の狭さに不満を抱いているようだった。例えば谷甲州の『エリコ』は、まさにトランスジェンダーな主人公を置いたことで話題を呼んだ作品だが、SF的舞台設定としても既に古いという。今、男性を女性にほぼ完全に(妊娠/出産を除き)改変することは可能だという。未来の情景として、『エリコ』の描写は既に不適切なのではないかというわけだ。全般的に、SFにおける性の追求は努力不足という感じだ。ティプトリーはどうなんだと思ったりもしたが。確かに、日本のSF作家が性を扱うとき、変な平等主義(あらゆる職種を両性に折半してみたり)を持ちだしてみたり、逆に極端に無頓着だったりする点は気になってはいた。そういう意味では、SFのなすべきことはまだまだ膨大に残されているという指摘だとも思える。
 このプログラムでは、『SFにおける』というのは外してしまっても良かったのでは無かったろうか。トランスジェンダー(というか現代社会での性意識の最先端)に対して、多くの視聴者は無知に近かったはずだ。「性別越境者」なる者が目の前で語るというだけで、十分SF的な事件だったようにも思えた。
 最後は『パラサイト・イブ』、『ブレイン・ヴァレー』などSF的要素の強いホラー小説を発表し、SF読み達に賛否両論を巻き起こした小説家、瀬名秀明氏の講演だった。これはピンでやる、まさに講演スタイルで、プロジェクターまで使用された。
 瀬名氏によれば、自身とSFとの関わりは無くもなかったという。子供の頃、読書の習慣がついた頃にはSF作品にも手を伸ばしていたらしい。しかしなぜかのめり込むことなく、その後は意識することなく様々な本を読んだという。しかし一部のSF作家、特に眉村卓の文体に強い影響を受けていると自己分析している。
 この講演は、(先の三原女史よりも更に)SFの外に立っているという意識を持つ瀬名氏が、SF作家/読者/出版社にSFへの"違和感"を語るという形を取っていた。そのため、瀬名氏は「なぜSF界とその外とは様々なものを共有できないのか」という命題を掲げていた。しかし豊富な内容に対してあまりに時間が足りなさすぎた印象がある。倍の時間をかけねば語り尽くせなかったのではないだろうか。夜の部に参加しなかったのは、ちょっともったいなかったかなと、今回は思った。
 瀬名氏は自分に対する「SFファン」からの抗議の多さに驚いたという。「義憤に駆られているような方もいた」ともいう。実際、抗議の中には『パラサイト・イブ』の非科学的描写が社会的悪影響を及ぼす、というものもあったらしい。これに対し、瀬名氏は「『パラサイト・イブ』はホラー作品だ」と言い切り、SFとしては宣伝などしてないし、評価軸も違うと主張していた。それはSF界からの一方的な言い分だというわけだ。この言い分を飲めば、思うに、これはいささかゆがんだ形のラブコールだったのではないだろうか。つまり、『パラサイト・イブ』ほど売れた、科学的知識も豊富に盛り込まれた作品は、是非ともSFであって"欲しい"という意志表明が、抗議の形を取って現れたのではないか。つまり、これはSF界からの修正要求(SFへの適合性を高めるための)だったのではないだろうか。これに関連して、瀬名氏は「作品の前半、後半で大きな乖離がある」という指摘を不思議に思ったという。どうにも直感的に理解できなかったのだ。しかし、あるホラー映画を見ているとき、敵の正体が割れた場面で観客が失笑したのを目にして、やっとその感覚を理解できたという。前半まではよくできたホラー映画だったそうだが、敵の正体があろうことか"ゴキブリ"だったのだ。そこで観客は失笑したのだが、瀬名氏はこの落差も含めてのホラーだという。たとえ前後に大きな落差があろうとも、それがホラーの文法に従っているのなら問題ないということではないかと受け取った。~
 考えてみると、SFでは科学的な文法がそのまま作品の文法に適用されるから、ある時点までの科学的事実(作品中の)が突如として無視されてしまうようなものは、SF作品として無価値と見なされる傾向があると思う。一方、ホラーは人間の心理に衝撃を与えることを狙ったものだから、たとえなんのただし書きも無しに筋書きががらりと変わったとしても、ホラーとして効果があれば問題はないと見なされるのかもしれない。
 瀬名氏は科学ノンフィクションも手がけているが、それは『パラサイト・イブ』に対する諸反応を見て、フォローアップの必要があると感じたからだという。瀬名氏は業界人にインタビューしたり、ウェブでアンケートを募ったりしてSFを巡る読書傾向を調査したそうだが、それによれば、SFファンは案外に科学ノンフィクションを読んでないそうだ。僕は科学ノンフィクションの方が多いのだが、それでも月に5冊程度だろうか。SFファンは、こともあろうにSF作品そのもので科学知識を得ているのではないかという疑いが出てくる。しかし、なにせ小説なのだから、どのような荒唐無稽な嘘八百が並べ立てられていても、少しもおかしくはない。もしもSFファンが、小説の記述の多くは事実である(べきだ)と思い込んでしまっているのなら、瀬名氏に対する抗議の多さも理解できなくはない。しかし、小説をまるごと作り事として読めないという姿勢は、大きく恥じるべきではないだろうか。
 最後の方で、瀬名氏は「XXはSFである、YYもSFである」という戦略は迷惑だと述べていた。出版、読者層の現状として、SFというラベルは本の評価に対してマイナスになりかねない状況だということらしい。そんな現状で、「XXはSFである」という声は、それによってその作品になにかを付加できないならば無意義ではないかということらしい。これには、SF関係者の一部からも賛同の声が上がっていた。
 僕はまさに「XXはSFである」と指摘し続けることが大切だと思っているので、多少の反論を試みたい。まず読者の立場からすれば、「XXはZZである」とジャンル(前に書いたような、作品の要素としての広義のジャンル)が付加されることに問題を感じない。そもそも、ある本を読むにあたってはジャンルを意識しないか、あるジャンルを意識するかの二つに一つだ。どっちにしても、読書中の本に感じている"価値"に変化があるわけではない。むしろ新しい読み方(ZZならではの読み方)を指摘されたという意味で、読書としてはより豊穣になりうる可能性があると思う。
 一方、問題があるとすれば狭義のジャンル(一冊の本を本屋のどの棚に置くかという意味でのジャンル)への波及だろう。ある本をホラーとして売りたいのに、しかしSF業界からは「あれはSFだ」と攻撃される。これは出版社、小説家とすれば、戦略の混乱をもたらすという意味で迷惑な話だろう。しかし僕は出版社でも小説家でもないので、こういう迷惑などどうでもよいことなのだ。ある本にある(広義の)ジャンルの要素があると感じたなら、そう主張することに特段の問題があるとは思えず、またその主張によって読書という行為がより豊穣なものになりうるとも思う。またあるジャンルにとって利にならなくとも、別のジャンルがそれを利用するという行き方もアリだと僕は思う。ホラー小説にSF的設定が氾濫してしまうのは、まさにそのようなパラサイトの結果だとはいえないだろうか。そのようにしてジャンル同士がせめぎあい、食らいあっても、結果的にパイが大きくなれば業界にとっても問題にはならないだろうと思う。そういう厳しいせめぎあいにSF関係者は非常に寛容だった(もしかしてお坊ちゃんお嬢ちゃん集団だったのかも)のがSFの価値低下(つまり他ジャンルによるSF的価値の濫用)につながったのではないかと思うのだ。そうであるならば、ここでSF側から他ジャンルの利用へと触手を伸ばすということは、実に今とるべき戦略だと思うのだ。そういう意味では、瀬名氏には悪いが、『パラサイト・イブ』への一方的ラブコールも、やり方さえ間違えなければ有効なものに思えてくる。実際、「作品の依頼はSFばかり」という瀬名氏のぼやきにも似た発言は、そうした戦略の正当性を反映しているのではないか。
 瀬名氏はこの日の発表資料や内容を、後日まとめて掲載してくれるという。それを見てから、さらに詳細を追ってみたい。
 会場を出ると、もう19:00だった。そこから秋葉まで歩き、JR経由で帰宅した。来年もまた出席しようと思う。
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2001年4月12日(木曜日)

SFの要件

SF 19:46:00 天気:晴れ
 このウェブページの創設以来、「SFとはなにか」という問題に度々肉薄してきたわけだが(どの辺がだ)、未だに分からない部分は多い。が、少しずつこうではないか推測できる部分は増えてきた。今日はその辺を暫定的にまとめてみようと思う。~
 SFとScienceが極めて強く結びついていることは疑問の余地が無いように思う。例えば市場に科学技術が援用された小説(『パラサイト・イブ』、『二重螺旋の悪魔』など)が登場した時、「それはSFではないか」という論議が必ず発生する。このことは、逆説的にだが、SF小説の前提として「科学技術の援用」というものが一つあるからだといえないだろうか。この点に関しては、あまり異論があるとは思えない。異論があるとすれば「ファンタジーはどう扱う」かという点だろう。これはまたいつか、別途述べることにしたい(このまま忘れたりしてな)。~
 「科学技術」がSF小説の前提とすると、しかし「科学技術を援用した実録小説」はどうなるかという問題が発生する。例えば本四架橋の人間ドラマを書くとすれば、必然的に本四架橋で用いられる様々な科学技術を取り上げざるを得ないだろう。しかし「実録小説」であるならばその細部まで"事実"が入り込んでいるはずだ。フィクションが作用する余地は少ないように思う。それをSF小説と呼べるかどうかは疑問だ。例えば「アポロ13号」を題材にした小説はいくつかあるが、それらをSF小説と呼ぶことには抵抗がある。事実、それらはSF小説と呼ばれることが無いように思う。だからSF小説には、なんらかのフィクション(虚構)が必要なのではないか。~
 虚構は、非真実と同義ではない。非真実は単に!trueだが、虚構とは全体が非真実であってもその内部では論理が一貫しているものだ。つまり全体を!(true)として括れるものではあっても、その内部での関係性はtrueであるもののことだ。~
 SF小説への虚構の関与の仕方には二通りあると、とりあえず考えてみよう。一つはSF小説で前提としている科学技術が虚構であるもの。もう一つは小説にかかれているストーリーが虚構であるものだ。後者を敢えてSF小説から外そうという意見もあるようだが、僕はこれもSF小説の範疇にあると考えたい。というのは、科学技術というものは敷衍性が極めて強く、「Aが実用されるならBも実用される」という形で、一つの『科学知識|科学技術|科学思想』が確立されれば、また別種の『科学知識|科学技術|科学思想』もまた成立すると予見されるものだからである。これは科学そのものが予言性を強く持つという性質に由来している。つまり、『科学技術の虚構性』は、実はあまり強度に関係が無い。そもそも、小説という形を取る以上、その前提とされる論理と、語られる内容とは、きれいに分離できたりしないだろう。この両者は不可分であると見なすならば、SF小説とは「科学技術を前提とした、虚構性のある小説」ということになる。これがSF小説の最低要件だ。~
 しかし、もしもこのように置いたならば、少し困ることがある。というのは、「科学技術を前提に置き、ストーリーに虚構を含む小説」ということなら、世の中の小説の大半が含まれてしまうからだ。~
 サン・テクジュペリの「夜間飛行」は、航空機という新しい科学技術が勃興しつつある時代を背景に、その科学技術を手に果敢に冒険に挑むパイロット、その家族、そしてそれらの人々に一見冷酷に当たりつつ、実は深い人間理解に根ざす高い精神性から理想を具現しようとする支配人とが織り成す、人間ドラマの傑作だ。この「夜間飛行」から"航空機"や"地球に関する科学知識"のみを取り除くことは出来ない。というのはパイロットたちの冒険心、支配人の対人観の背景には、科学知識の強い関与があるからだ。ここでは、人間という全人的存在の成立に、科学知識が不可欠な前提として立ち現れている。従って、「夜間飛行」という小説は科学知識(技術)が大前提にある小説であり、SF小説として読めてしまうということになる。いや、そもそも現代の小説で、全人的存在から"科学"を欠落させて成立しうる小説が、どれくらいあるだろう。つまり、小説と呼ばれるものの全体集合の大きな部分を、僕たちは"SF小説"として読めてしまうということになる。~
 僕はそれで構わないのではないかと思う。ここからはジャンル論が関わってくる。ジャンルというものは人工的な概念だが、斯界においては2種類のそれが混在しているということに注意しなければならない。一つは出版社、流通、購買者の利便に沿って"冊"を単位に分けられるジャンル。もう一つはその"冊"の内部の構成要素に着目する、小説の要素としてのジャンルだ。前者によれば、一冊の本は一つのジャンルにしか置けない。後者によれば、一冊の本をどのようにでも分類できる。ふつう、「SFの衰亡」というものが語られる時、前者の分類による。つまり、本屋のSFコーナーが縮小したとか、本の帯にSFの二文字が見られなくなったとかいった類のものだ。しかし後者のようなSF的要素というものに目をやるとき、市場にはSF小説が溢れているといえる。今、"科学"を排除した小説がどれほど成り立ちうるか。僕たちの日常生活そのものが科学的営為を大前提にしているのだ。よほど注意深く創作しない限り、どのような小説であれ"科学"による関与を免れ得まい。つまり、「SFの衰亡」なるものが語られる時、それを肯定するものも否定するものも、実は商業的なジャンル主義の奴隷に成り下がっている事に注意しなければならないだろう。後者として取るならば、恋愛小説や推理小説がそれぞれ兼用しうるように、多くの小説がSF小説として読めてしまうことに、なんら問題が無いことが分かるだろう。~
 それではSF作家/読者が意識するSFの"コア"とはなんだろう。科学の性質の一つに、強い予言性がある。ある科学知識について、ある条件が成り立つならば、ある状況が発生することを予言できる。例えばCO2による温室効果という知識があるとき、大気に占めるCO2の濃度が上昇することが発生したならば、地表での平均気温の上昇が観測されるだろう。このような"予言"が小説のテーマとして立ち現れている小説を、僕たちは"SF小説"と呼んでいるのではないだろうか。逆に"予言"がストーリー上の単なる必要性により語られる場合、それは"SF小説"とは呼ばれないように思う。『パラサイト・イブ』がいくら最新の遺伝子学を引用したものであろうとも、小説自身がなんらかの科学的予言をテーマとしていない限り、(いわゆる)ジャンルSFの書き手や読み手が受け容れるのに抵抗するだろう。『パラサイト・イブ』がジャンルSFの担い手に複雑な反応を引き起こしているのには、こうした背景があると思う。~
 ジャンルSFは実に様々なものを予言している。その中には軌道エレベーターや遺伝子クラック、不死人類のようなガジェットもあれば、人間の深刻な認識論的変化もある。A.C.クラークは『幼年期の終わり』で宗教の終焉や、隔絶した科学知識をもつ存在の理解不能性を書いた。小松左京は『果しなき流れの果に』で全宇宙的意識の進化の中に善悪の二項的対立、調停の必然を描いた。このようにSFはしばしば"予言"する。しかし予言するがゆえに、その的中率が比較的簡単に測られるという性質がある。認識論的変化は哲学的命題であり簡単には測れないが、各種ガジェットの実現や近未来の社会的現象の類ならば簡単に図れる。SFがしばしば"子供だまし"とされるのには、このような背景があるように思う。恋愛小説や推理小説に結果的な真偽を問うことは無意義だからだ。~
 まとめると、SF小説とは「科学技術を前提に置き、ストーリーに虚構を含む小説」である。そしてその結果として、SF小説はなんらかの"予言性"を持つことになる。そしてその"予言性"が作品のテーマに強く関与している時、僕たちSF読みはそれをSF小説であると見なしているのだろう。~
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2000年5月11日(木曜日)

アクセス倍増

SF 20:01:00 天気:くもりでしょう
 昨日、ふと日記ページのアクセスログを見ると、新規訪問者がなぜか倍増しているではないか。しかも見慣れないページから飛んできているようだ。
 そのリンク元がSFセミナー関連レポート リンク集なのだ。どうも5/3の日記が検索にヒットしたので加えてもらえたらしい。しかもリンクの方には短評が載っているので、どうやら中身を読んで確認までしているらしい。いささか恐縮である。
 それにしてもSFセミナーなどというマイナーそうな集まりのしかも人のレポートを読みたがる人が、思ったよりたくさんいると知って心強い(あるいは怖い)。
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2000年5月03日(水曜日)

SFセミナー

SF 21:30:00 天気:くもり時々雨
 前日あまり眠れなかったが、9:30には家を出た。今日は御茶ノ水でSFセミナーがある。それに参加しようということになっていた。
 出掛けにふとPHSを見ると、参加者の一人、みつまめ嬢から掛けてきた痕跡があった。掛け直すが、この時は通じない。JR戸塚駅で待っているときにようやく捕まった。なんでも、飼っているウサギが病気で集合時間に間に合わないとか。焦っていた(なにせ電車が進入中)ので、了解とのみ返答し、電車で御茶ノ水に向かった。
 御茶ノ水駅前の丸善近辺で、他の参加者と落ち合った。一人はわざわざ北海道からやってきた(SFセミナーが目的というわけではないだろうが)笑夢君、もう一人はいつでもいつもやってくるミツルんだ。三人揃ったところで適当に飯を食いに店を探し始めた。
 入ったのはパスタ屋。ここで適当なパスタを頼んだところで、ある重大な事実を思い出した。今朝、出掛けにパスタを食ってきたんだ。飽き飽きしながらも全部平らげる(笑)。
 12:00になったので受付が始まっているはずだ。セミナー会場に向かった。セミナー会場にはまだ人影まばらで、受付が始まったばかりという感じだった。ここでみつまめ嬢から再びTEL。セミナー開始時間(13:00)までに間に合いそうにないので、行けたら行くけど途中入場するので先にどうぞとのこと。ウサギ君、お大事に。
 会場は500席くらいのホールで、上の方に席を確保して即売会場の方を回った。古書としてサンリオ文庫を久しぶりに見かけた。ステンレス・スチール・ラットは全部揃っていた。ふと横を見ると、白髪頭の丸っこい爺さんが......ああ、野田大元帥閣下だ。なんとも人なつっこい感じの人だ。その場でサイン本が売り出されるが、大元帥の本は既に持っていたのでその場を辞す。
 13:00になって、ついにセミナーの始まりだ。女性二人組の進行で開始が宣言され、まずは角川春樹 v.s. 大森望のデスマッチだ(違う)。
 角川春樹氏は全身から幻魔的オーラを発しつつ、SFの時代の再来を宣言していた。対する大森望氏は過去の角川商売への批判を滲ませつつ応酬する。なかなか見ごたえのある一戦だった(プロレスじゃない)。
 角川氏いわく、「小松左京賞は俺が無理やり認めさせた」とか。小松左京もやはり生きているうちに自分の名前を架した賞など作りたくは無かったのだろう。
 10分の休憩のうちにトイレと飲み物をどうにかして、次は「ブックハンターの冒険」と題して牧眞司がSF古書を巡る冒険を語る語る。古書狙いの人々にはたまらない話題だったろう。
 続いては本日もっとも楽しみにしていた巽孝之/牧眞司の「日本SF論争史」。名前しか知らない「山野/荒巻/柴野論争」、「ニューウェーブ論争」、そして「SFクズ論争」を視界に収め、それらの主要なテキストをまとめた巽&牧の同名本を題材に、日本SF界の暗黒面(笑)を語った1時間だった。聞き手の森太郎氏のボソッという突っ込みが良かった。「論争は所詮数種類のパターンしかない」という指摘は、概ね多くの人の意識にあっただろうが、非常に胸に落ちるものがある。
 ここで30分の休憩を挟み、次は新人作家3人(藤崎真吾/三雲岳斗/森青花)による「新世紀のSFに向けて」。実は誰も意識的にSFを書いているわけではなく、結果的にそうなってしまっただけというのが実に興味深い。
 最後はあんまり期待してなかった「妖しのセンス・オブ・ワンダーへようこそ」。アニメ監督の井上博明氏が同じくアニメや特撮作品の脚本を手がけている小中千昭氏に聞くという形で進行していった。
 実はこのセッションが一番面白かった。小中氏はコアなSFへの興味より、演出家として視聴者に何を伝えるかを重視している人だ。SFという手段も恐怖やセンス・オブ・ワンダーというモノを効率的に伝えるための道具に過ぎないと考えているようだ。彼はそのためにはSF的な約束事(概ね科学知識に等しい)をもあえて無視するという。演出を手がけた作品のSF考証が足りないと非難されたこともある。小中氏はその事に触れて「なんらかの理屈をつけなければならなかった」という反省の弁を述べてはいる。しかしそれはSF的な約束事を守れなかったためではなく、理屈がつかないという状況を嫌う一部の視聴者が入り込めなかったかもしれないという点に立脚しての反省だと受け取った。本来、物語というモノはそうあるべきではないだろうか。つまり伝えるべきモノがあって、それに見合った手段が選択されるべきなのだ。その意味では市場に氾濫する"SF"とは手段に過ぎず、目的として選び取られた"SF"がどれくらい存在するのだろうか。いささか心もとない限りではある。
 この後、久遠さん周辺の人々が渋谷で集合するということになっていたのだが、あまりに精神的疲労が濃かったのでまっすぐ帰宅した。角川春樹氏の毒電波に当てられたらしい。
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