Strange Days

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2016年8月02日(火曜日)

荷物を発送

暮らし , , 自転車 ( 自転車旅行検討 ) 23:55:00 天気:嵐後くもり
 午前中、『フィネガンス・ウェイク』などの翻訳で知られる翻訳家、柳下毅一郎死去。フィネガンズ・ウェイクは、あの時代の読書人にとっては義務のように思われたので、買ってはみた。しかし、全く歯が立たず、20ページ位で挫折したことがある。しかし柳下毅一郎氏、俺はガース柳下氏と別人であることを認識しつつ、なぜかしばしば混同するという難儀な認識の仕方をしていた。まあ、どっちも特殊な翻訳分野ではあるからなあ。
 さて、北海道行の荷物のうち、サイドバッグ1面に、着替え類と火器を詰めて、先送りした。これで、現地までは身軽に移動できる。
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2016年2月09日(火曜日)

少し小松左京を読む

暮らし , 21:34:00 天気:晴れ
 寒いねえ。なんとかならんものか*1
 さて、最近、また小松左京の短編集を、ほつほつと読んでいる。長編もあるが、短編を、散文的にほつり、ほつりと読んでいる。
 やはりこの人は、小ネタが冴えるなあ。大ネタの冴えも凄いが、関西人らしく小ネタでプスリと刺しに来るのが可笑しい。文章のキレは筒井に譲るとしても、こういう大ネタ小ネタの豊富さが、小松という作家の懐の深さを、そのまま見せてくれるように思う。著書の年代が80年台でふっつり切れてしまっているのが悲しいが、もっと長生きして、ふと思い直してまた筆を取ってくれたりしていたらなと思う。
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2014年9月03日(水曜日)

もう紙の本にゃ戻れねえ

22:53:00 天気:晴れだ
 久しぶりに紙の本*1を読んでいるのだが、いやあ辛い辛い。
 なにせ、'70年代の古本なのだ。当時は細かい字でびっしり印刷するのが普通なので、まず老眼の進むおっさんにはつらい。しかも、経年劣化により、紙は赤灼けし、文字は薄れている。明暗差が近づいているので、余計に読みづらいのだ。いつもなら、手元のLEDライトスタンドだけで読むのだが、これは無理で、天井の室内灯を全力点灯する破目に。
 こういう時、電子書籍なら、フォントを大きくするなり、コントラストを強調するなりが出来るのだが。
 そんなわけで、もう紙には戻れない気分なのである。
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2014年9月02日(火曜日)

IDカード忘れて、アマゾン考察

暮らし , 思考 , 22:22:00 天気:好天
 昨夜の雨は上がった。そして、適度に涼しいジテツー日和。これはもう、ジテツーするよね。というわけで、久しぶりにEPIC号に打ち跨がり、会社に向かった。
 戸塚駅近くの駐輪場に自転車を入れ、さて歩き用の靴に履き替え、そこでふっと違和感を憶えた。自宅を出る時、歩き用の小型メッセンジャーバッグから、通勤用のTrack35に荷物を移す時、アレ入れたっけ……。あれ、IDカードを。
 ああ、やっぱ無いわ(うつろな笑い)。また自転車で坂を超えるのは嫌だったので、今度は地下鉄で自宅に取って返す。会社に一報入れ、フレックス出勤とした。
 帰宅し、歩き用バッグにIDカードが入ったままなのを確認。そこで、Track35から、Timbuk2のD-LUXに詰め替えた。Track35は、開口部が小さいのと、小物の取り出しが面倒だ。通勤には、やはりD-LUXの方が圧倒的に向いている。
 さて、無事に出勤し、トイレでツイートをちら見したら、地方書店の面白そうなサービスが紹介されていた。個人向けに、アンケートを元に1万円分の選書を代行してくれるサービスだ
 常々、地方の個人書店がこの先生きのこるためには、アマゾンや楽天のようなインターネット通販や、大手書店が提供しにくい、個人向けのコンサルのような形で、なんらかのインテリジェンスを提供するより無かろうと考えていた。この1万円選書は、ある意味ではこの個人向けコンサルの簡易的に提供しようというものだろう。アンケートベースならば、受給者側に深入りせずに、最低限のコンサルで選書が可能なので、1対1の関係を作るまでもなく、広く対応できる。でも、こういう、簡易的なコンサルこそがアマゾンのようなインターネット書店の得意とする分野ではなかろうか。彼らは、購入履歴という重い情報を元に、各種のコンサルを提供してくる存在だ。
 そこに勝とうとすれば、もっと深い関係を作るしか無いだろうと思うのだ。客個人からのアクセスに受動的に反応するのではなく、客それぞれの必要とする情報や知識を獲得すべきタイミングまで図って提案してくる、そういう家庭医的な存在にならなければ、個人商店は巨大な存在を前に消えるしかなくなるのではなかろうか。
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2009年8月31日(月曜日)

厭雨

暮らし , , 自転車 ( 自転車いじり ) 23:10:00 天気:雨
 今日は会社を休んだ。特になんということも無いのだが、このペースでは年休を使いきれないのでな。
 しかし、せっかく休みにしたのに、天気の方が合わせてくれない。ずっと雨、しかも20℃を切る8月とは思えない一日になった。ああ、欝だ。
 気分が欝々するので、自転車パーツ購入を構想してみた。MR-4Fの10速化用に、ブレーキレバー、シフトレバー、リアディレイラーを見積もった。ブレーキを奢らなければ\16000か。しかし、どうせならコーディネートしたい。フレームがオフブラックなので、今は黄色いパーツを組み合わせているが、オフシルバー辺りに変えてはどうかな。これなら、サドルを何とか合わせられそうだ。実は黄色いサドルが市場から根絶してしまっているので、困っていたのだ。今のアリオネが痛んできているのだ。まあ、まだ頑張れそうだし、南会津も目前なので、今回は見送るかな。
 夜まで、本を読みながらゴロゴロしていた。本を読む速度が遅くなってきていることもあり、また読んでいるのが古典中の古典といえる作品で文体に不慣れなこともあり、読むのにとてつもなく時間がかかっている。いつ読み終われるのかね、これは。

2007年1月23日(火曜日)

妖怪ハンター、孔子暗黒伝、暗黒神話、宗像教授

23:08:00 天気:えらい晴れました
 さて、PSP用GPSユニットを買ったのはアマゾンだったので、ついでに本も買っていた。モノは諸星大二郎の「妖怪ハンター」、「暗黒神話」、「孔子暗黒伝」と、星野之宣の「宗像教授異考録」だった。諸星作品は連載当時、あるいは単行本化の際に全て既読だったが、宗像教授モノは初めてだった。
 妖怪ハンター、暗黒神話、孔子暗黒伝と読みながら、『あれ、こんな話だったっけ?』と思った。妖怪ハンターは都合よく事件が起こりすぎだし、物の怪の表現も意外に即物的だ。なんていうか、深みが無い。暗黒神話も孔子暗黒伝もこじつけが鼻につきすぎる。かつては気にならなかったものだけど。まあ読んだのは中坊の頃だったからな。
 でも、そういう部分を漫画的お約束として受け入れてしまえば、稗田礼二郎の遭遇する異界は人間の深遠に潜む闇を見るようだ。暗黒2部作は、もはや人間の感知し得ない全宇宙的な闇を、わずかに垣間見るような思いを抱かせる。昏い冬の夜、外の風の唸りを聴きながら、一人で読むべき本だ。そういえば、暗黒神話の結末は、拙者的に中坊時代に受けたトラウマのNo.1だったな。
 初読だった宗像教授もの。さて、星野の伝奇物とはどんなものじゃろうのお*1。内容的に、邪馬台国はどこですか?的な歴史新解釈物というべきか。あまり非常識な範疇に放り出さず、知性の光の下に置いているのが、諸星作品との違いか。未読のヤマタイカがかなりぶっ飛んだ話らしいので、意図的にそのような構成になっているのだろう。巻は続いているようなので、そのうちに読むつもり。
 しかし、久しぶりに漫画爆読の日になったな。小説と違い、漫画は多量に読めるので、逆に脳がもたれそうだ。
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2006年2月21日(火曜日)

シマダス

22:00:00 天気:くもり
 最近、ふと思い出して、話題の*1『日本の島ガイド『SHIMADAS(シマダス)』第2版』を買った。ちょっと、流行に乗り遅れすぎ。前にぽた郎氏が取り上げておられたな。
 この本、かなり分厚い、一頃流行ったハンディ百科事典風の体裁で、内容も日本の島に関する百科事典といっていいものだ。国内全ての有人島と、主だった無人島のデータがまとまっている。
 なんでこれを思い出したかというと、最近伊豆諸島、更には小笠原諸島に妙に惹かれ、地図などを眺めていたのが影響している。これらの島を眺めていると、周囲の別の島も当然にして視界に入るのである。そしてそれらの中に、見慣れない、奇妙な名前のものも。孀婦岩(そうふいわ)、須美寿島(すみすとう)、ベヨネーズ列岩なんて、命名そのものが奇妙でしょう? これらの島は、伊豆大島の南方*2、小笠原諸島との間にぽつん、ぽつんと点在している。この近辺には海底から立ち上がった大きな海山が点在しているのだが、これらの島はその頂なのだ。孀婦岩なんて、海また海の真っ只中に、忽然と屹立する穂先のような巨岩らしい。どうです、ワクワクするでしょう? それで、そういえば島のデータがまとまった本があるなと思い出したのだ。
 そうした無人島のことは、実はシマダスにはあまり詳しく載ってない。発行元の日本離島センターは離島振興を目的とする財団法人なので、有人島にウェイトが置かれるのも無理は無い。とはいえ、そうした島々のデータも面白い。『周囲40km』なんてあると、自転車でブラブラ走ってみたくなる。『自販機が一台だけ』なんてあると、わざわざそこまで行って買ってみたくなる。『昭和44年以降無人』なんてあるのは悲しいものだ。そして『(無人島だが)恵比寿神社の社がある』なんてあると、愛しい気分になるものだ。誰も居ない島でポツンと人を待っている社なんて、なんとも愛しいじゃないか。
 最近は、寝る前に適当なページを開き、端から眺めるのが日課になっている。僕の日常とはあまり縁の無さそうな島々。だが端から読んでゆくと、思わぬ発見もあるものだ。この分厚い本は、そうした偶然の発見こそが面白い。

2002年5月31日(金曜日)

本を発注

22:00:00 天気:晴れましたが......
 最近、あんまり本屋に行ってない。というのも、めぼしい本は通販で購入してしまうようになったからだ。今日も紀伊国屋ブックウェブでガシガシ購入。いい客だなあ。科学系、自転車系、文芸系の他、最初の頃読んだだけだったナウシカの全巻も一括購入だ。大人買いだなあ。
 問題は、買っても買っても積読になるばかりという現状だが......;-_-)
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2000年5月21日(日曜日)

近場に出かけよう

18:04:00 天気:くもりと晴れの遷移状態
 雨が上がった。空を見上げると雲が多いが、所々青空が見えて、そこだけは五月にふさわしい濃い青空だ。ちょいと出かけた。
 部屋を出た瞬間はいずみ中央からいずみ野の図書館にでも行こうかと思っていたが、立場駅が見えるとそっちに足が向き、湘南台の方に出てしまった。こっちの方がいろいろあって便利なのだ。
 湘南台の図書館では政治関係の書棚でいろいろ読み漁っていたが、異常に熱心に棚を眺め、本を次々抜き出している中年男性に気兼ねして、早々に移った。といっても三歩横に移動しただけだが。この人は要するに政治ヲタクなのだろうか?
 その三歩歩いた場所にあったのが、立花隆の「日本共産党の研究」。手に取って読み始めたが、いや面白いのなんの。高度なジャーナリズムと良質のエンターテイメントは両立しうる事を示しているのだろう。戦前、治安維持法下の共産党というアンダーグラウンドにしかなり得ない存在が、戦時色が濃厚になっていく日本でどうあがき、自滅していったかを解明した大著だ。文藝春秋連載当時から日本共産党自身との激烈な論争(といえるものではなく中傷に過ぎなかったのが残念、と立花は述べているが)を経たこの書は、版を重ねるごとに手が加えられ、戦前の国内共産主義史を研究する上での原典足りうるものになっている。非常に精緻に証拠を集め、確実な解釈を取り、そして新たな思考へと導いていく。一説には、'80年代に入っての日本共産党の退勢は、この本が与えたインパクトによるものだとさえ言われる。田中金脈に対する執拗な追跡が時の総理大臣を退陣に追い込んだことと思い併せれば、立花隆まことに恐るべしとしかいいようが無い。しかも、立花の筆致はなおも中立的なのだ。
 面白いのはその批判本が(主に日本共産党周辺から)山のように出版されていることだ。それほど痛いところを突かれたのだろうかと思いたくもなる。しかし今も論議に耐えうるほどの価値をもっているのは、当の「日本共産党の研究」だけだ。
 図書館は5時閉館なので、その前に出た。
 その足でPC屋に寄り、さらにダイエーの5Fをうろついた。なんとなくFMラジオが欲しかったのだが、思ったより高かったのでやめた。ここでは大皿と食器棚、そしてレジャー用の折りたたみ椅子を買った。折りたたみ椅子は観望の際に使用するつもりだ。
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2000年5月10日(水曜日)

本を買い込む

20:58:00 天気:くもりでしょう
 定時退勤日なので、帰りに戸塚の有隣堂に寄った。「日本SF論争史」が欲しかったのだけど、まだ発売されてないのか見つからなかった。マイナーな本なので、見つけたら買わなければ。
 その代わりに目に付いた本を5冊くらい買って帰った。
 そのなかの一冊は佐藤大輔の「レッドサン・ブラッククロス」パナマ強襲編。えっ、徳間で出してた文庫版のほうはどうなるの? いちおう、文庫版の続き(ソコトラ強襲上陸の直後)の状況なので、連続性はあるようだ。いずれ文庫に落ちるだろう。でも買った。
 SF本としてソウヤーの「フレームシフト」。遺伝子を扱ったSF(もう独立したジャンルが出来るかも)としてよく出来ているという評判だったので買い。
 そしてついに手に入れた「キャッチ=22」。まさか有隣堂に上下揃いで置いてあるとは。これで「キャッチ=22」上巻買占め闇組織の存在は、ようやく否定されたのだろうか。いや、あるいは彼奴らの魔手が及ぶ前に発見できただけなのかもしれない。彼奴らの魔手は次にどの本に及ぶか分からないぞ。
 最後は話題の「作家の値うち」。なんで"値うち"なんだろう。"値打ち"だと読めないからか(そんなばかな)。
 この本は純文学、エンターテイメントの現役作家50人の代表作に点を付けるという、ある意味粗雑極まりない暴挙を試みたものだ。他のジャンル(例えばゲーム)では点数制でゲームを評価する記事などというものはふつうなのだが(ファミ通が走りか?)、文学では滅多にお目にかかれない。しかも100点満点で、評価基準も明らかにされないという粗雑さ。ふつう、個人の主観に完全に依拠するような評価では、評価段階を適当に荒くして幅を持たせるものだ。実際、この本でほぼ同点になっている別個の作品の優劣がいまいち分からない。40点の作品は41点の作品より1点分だけ優れているのか。1点分の優位とはなにか、まるで伝わってこない。そういう精密な評価ではなく、もっと私的な「オレ文学適合度」と解釈した方がまだ理解できる。しかしそれは卑しくも公的に「書評家」と名乗っているものの仕事ではない。これはもう叩いてくださいといわんばかりだ。
 内容的にも村上春樹や石原慎太郎(確かにかっこいい小説を書く人ではあるが)の評価が異常に高い一方、丸山健二や船戸与一の評価が異常に低いのが不思議だ。丸山に関してはまだ理解できるかなと思うのだが、船戸に対する「評価不能(なくらい低い)」という"評価"は何事だ。書評家としての責任放棄も甚だしい。船戸が一定の読者を得ているという現実をどう解釈するつもりなのだろう。単に船戸が体現する「国際陰謀史観ロマンティシズム(?)」を理解する能力がない(正確にはそういう評価をする読者がいると理解できない)と表明しているに過ぎないのではないか。つまり書評家としての一種の敗北宣言ではないか。むしろテキスト以外の影響(例えば船戸に夜這いをかけられたかとか)いったものを疑ってしまうのである。
 このようにあちこちの極地ではかなり破綻してしまっているのではあるが、筆者自身はいずれどこかが破綻するだろうと覚悟しながらの上梓だとも読める。しかしだからといってそれを「読者との評価軸のズレ」に帰するのはいただけない。それを敢えて<絶対>的な評価軸に置換して見せるのが書評家の仕事でしょうに。
 これだけ読むと、買うに値しなかった本なのかということになりそうだが、実は全然そうではない。買ってよかったと思った。書評家としての筆者の評価軸にふらつきがあるにせよ、一人の読書人としてしては質/量共に隔絶したレベルにあるのは疑いようもない。それに、極地以外での諸作品の評価は、概ね納得できるものでもあった(渡辺淳一に対する論評は痛快)。また「読者の評価の手助けになれば」という筆者の言葉を素直に受け取れば、確かに大きな手助けになりそうだ。同時に、あまり意思的でない読者は、この本の評価に支配されてしまいそうだ。
 しかしながら、書評家の仕事の半分が絶対的評価である半面、残り半分は「オレ文学」の評価軸をいかに世間に押し付けていくかという事でもある。そういう意味で非常に分かりやすく増殖しやすい形で「オレ文学基準」を押し出した福田和也という書評家は、確信犯ならば実に強かだといわざるを得ない。ゆめゆめ、飲み込まれないように気をつけながら読むべし。
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2000年4月23日(日曜日)

星空幻想

19:01:00 天気:晴れ
 昨日に続いてだらけきった一日。もうすぐ10連休だからと思うと、なんでも後回しでいいやと考えてしまうのだ。実に無為な日々を過ごしている。
 これではいかんと思いつつ、「臨死体験」を読みきり、さらに日野啓三の「断崖の年」も読み始めた。偶然だが、どちらも死の淵からの生還が背景にある。
 日野は腎臓ガンで比較的早期に摘出手術を受け、その手術の前後に様々な体験をする。死ぬかもしれないという恐怖がもたらす心の変化も興味深い。しかし圧巻なのは、腎臓摘出手術の直後に体験した、意識の異様な変容のほうだった。
 日野は手術前の検査がもたらした精神的苦痛から十分に立ち直れないまま、深い昏睡に落とされる手術を施される。集中治療室の暗い静寂に神経を痛めつけられた日野は、モルヒネがもたらす意識の変容のなかで奇妙な幻影を見る。一つは隣の病棟の屋上、その手すりに並んで腰掛けた、いくつもの人影だ。その屋上には滅多に人が立ち寄らず、まして危険な手すりに腰掛けるものなどいないと日野の理性は承知している。しかしそれでもくっきりと、その人影を幻視してしまうのである。凝視すれば、そのディテールまで明確に観えるくらいに。日野はその人影たちに懐かしいような親しみを感じたという。
 もう一つは空を過ぎっていく動物たちの顔だという。それも赤く点滅しながら飛び交うという、浦安にあるでかいネズミの支配下にあるテーマパークを思わせるような、奇妙にファンタジックな光景だった。
 日野はその顔たちを眺めながら、これが星座の原型だったのではないかと考えるのだ。隣の病棟の人影にせよ、空飛ぶ顔たちにせよ、それらは自らの意識のごく内側に潜んでいるというのだ。そしてそれらは意識のごく薄い表層を食い破って、いつでも飛び出してきてしまう。日野はモルヒネが生み出した激しい幻覚と考え合わせ、人は結局見たいものを見ているのだと考える。そして人が見たいものは、時代によって移り変わってきただろうと。
 中世の(欧州の)農民たちは常に多くの悪魔、天使、聖人たちと畑にいたという。彼らはそれを実際に「観て」いたのだろう。その時代の価値観、論理に照らし合わせれば、それらの実在は非常なリアリティを伴っており、紛れもない現実だったということなのだろうか。
 僕たち現代人も様々なもの(たとえばガイア、たとえば市場、たとえば民主主義)を幻視しており、その実在は多くの人にとって疑うべくもないものだ。しかし後の世ではやはりただの幻想だったと決め付けられることになるかもしれない。
 話はようやく星座の話になるのだが。日野は空を飛ぶ顔たちを幻視したとき、かつての人々はこんな風に、空にうごめく英雄や大熊の姿を見ていたのだと直感した。僕にはこんなあからさまな幻視の経験がないので何ともいえないが、人が見たいものを見てしまうという現象は良く体験するので、日野の所感には違和感を感じない。恐らくそうだったのだろうと思うのだ。そのことは立花隆の「臨死体験」でも語られていることだ。人はしばしば自らの見たいものを見てしまう。人間の視覚は客観的なものではなく、脳という個人的で主観的な器官が処理したものを「観て」いることを意味する。さらに敷衍すると、人にはそもそも客観する能力が無いという結論さえ出てくる。しかし多くの人と見ているものを共有しているように思えるのはなぜだろうか。もしかしたら単なる共同幻想を形成しているだけなのかもしれない。そして星座も、ある時代の人々の共同幻想だったのではないか。いや、幻想というよりは、それも一つの現実だ。
 考えが共同幻想という段階にいたると、もはや何事も直ちに否定することが出来ない気分になってくる。街頭でUFOによる救済という奇怪なものを訴えている人々も、実は彼ら自身のコンテキストでは十分に客観的なのかもしれない。そして彼らを笑っている僕らのほうも、実は別種の共同幻想に囚われているだけなのかもしれない。僕らに可能なのは、それを恐れつつなおも笑うという態度に過ぎないのではないだろうか。
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2000年4月09日(日曜日)

湘南台にお出かけ

20:06:00 天気:晴れ
 昼頃まで寝て、さてどうしようかと思案した。BORG等からの荷物を待っていたのだが、この分では未発送だと推測される。では外出しよう。
 湘南台まで230円。つくづく納得できないのが、あざみ野まで乗っても500円だという点だ。距離的には10倍ではすまない。
 湘南台に出ると、図書館のほうに歩いていった。途中、ちょっとした公園があるのだが、そこでは多くの人々が花見を楽しんでいた。そうか、花見の季節だったんだ。公園のそこここや、隣の中学校に点在するさくらを眺めながら、図書館に向かった。
 図書館では臨死関係の本を探してみた。昨日から立花隆の「臨死」上下巻を読み出していた。500ページ2巻の大著で、この間再放送を見たNHKスペシャルでの取材を起点に書かれたものだ。この中で「死ぬ瞬間」(キューブラー・ロス著)が取り上げられていたので、探し出して斜め読みしてみた。時代はベトナム戦争末期の'69年。「アメリカの20世紀が終わった」といわれた頃だ。様々な価値観が大転換を遂げつつあった頃にこの本が書かれたのは、ある意味で象徴的といえる。
 ロス博士は死病に力尽きようとしている人々にインタビューを試み、その貴重な体験から何事かを学べるのではないかと考えた人だ。最初の頃は現場の医師たちの理解を得られず、インタビューは困難を極めた。しかし少しずつ支持を集めていき、最終的には毎回50人規模のセミナーを開けるまでに発展した。
 ロス博士は人が死を受け入れるまでには五つの心の段階があると説いた。
 最初は否認。自分が死ぬことなどありえないと信じ、死病に取り付かれたことを否定しようとする時期だ。この時期は永続せず、死の瞬間まで否認しつづけることは出来ないとしている。
 次に怒り。「なぜ自分が死なねばならないのか」といったように、自己に死すべき理由がないと捉え、その不条理さを前に怒りという形での発散をせざるを得なくなる時期だ。多くの末期患者が医療の現場で扱いにくい人物となるのは、この時期の存在のためだという。
 続いて取り引き。「せめて子供が大きくなるまでは」あるいは「作りかけの本棚が出来るまでは」といった風に、生あるうちに成さねばならぬことがあると設定し、その間の生を継続できるように訴えるものだ。超越者が相手である場合もあるし、自分の欲求を叶えられる身近な人物である場合もある。~
 続いて抑鬱がくる。死という避けがたい運命を前に、成さねばならなかった事、成したことを思い返して悲しみに暮れる時期だ。
 そして最後に受容だ。死をあるがままの事実として受け入れる。しかし必ずしも死に積極的な意味付けが成されたわけではない。病者の体力的な問題から思考が鈍り、無気力とものぐさのうちに受け入れていることも多い。
 ロス博士のこの分類は、あまりにも物語的に過ぎると感じるが、同時に広く受け入れられている考えでもあるらしい。ターミナル・ケアの現場では、なんらかの指針が必要だということなのだろう。
 こうした分析を元に、死すべき人々と、残された人々への対応を説いたのがこの書だ。ロス博士はその後も死に関する本を著している。
 ロス博士のこうした活動を通じて、ターミナル・ケアという考えが医療の主流に持ち込まれることになったのだ。従来から宗教を中心としたターミナル・ケアはあったが、近代医療においては胡散くらいモノと捉えられていた。近代医療の現場では長い間人の死という運命を受け容れず、戦うことを前提に組織づくられて来た。そこにインパクトを与え、死生観に新しい意味を付け加えたこの書は、歴史的なものとしてもっと評価すべきだろう。
 さて、他に臨死関係はというと、少なくとも宗教、哲学関係には無い。心理学関係でもない。探してみると、医療関係に固まっていた。確かにごもっともなのだが。
 その後、PC屋と本屋によって帰った。おっと、文房具屋でちょっとしたアイテムを購入。原稿用紙などの目隠し用テープだ。剥がしても跡が残らないテープを探したら、たまたまこれだっただけなのだが。実は100EDのタレットからやや重いLVアイピースがすっぽ抜けそうなので、なにか手当てしようと思い立ったのだ。これで固定してみると、かなり強度が増したように思える。剥がしても跡は残らないので、抜き差しするときにも安心だ。
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2000年4月06日(木曜日)

これでもたまにはフィクションも読むのだ

21:00:00
 夕方までドロドロと眠ったので、病み上がりは快適かと思いきや、まるで気分が乗らない。まだ寝たりないくらいだ。自家中毒の前兆と思われるので、茶を喫しつつ本を読んだ。
 読んだのは神林長平の「魂の駆動体」。ホビーとしてのクルマが、それどころか実体としての肉体が捨て去られつつある時代に、その自動車を蘇らせようとして情熱を燃やす老人たちの話が前半。この辺り、個人的には涙無しに読めなかった(いやほんとに泣いたわけじゃないが)。最近になって、天体観望という廃れつつある趣味を得た僕には、この老人たちの生き様は過大なくらいのリアリティを伴って感じられる。望遠鏡自作などという日本では滅亡寸前の趣味を持つ人々も、とても冷静に読めないのではないだろうか。
 後半は遠未来、既に滅亡した人間を研究する翼人の活動を軸に展開される。翼人の一人が人間の肉体を得て、その視点で人間の遺物を研究しようとする。最近、エクリチュールという問題を少し探求しているので、この翼人の思考法はよくわかる。僕たちはどれほど精神が自由だと信じていても、事実は肉体に縛られ、モノに囚われ、言葉に拘束されている。だからこそ精神は自由だという言明が尊いものになるのだが、ともあれ何をするにも晴れ上がり前の宇宙のように、光はまっすぐに進めない。この闇の中で真理を探究するには、真理を曲げて見せている(というか"真理"の外形を定めている)モノどもの形を把握し、それが認識に与える影響を探る必要があるだろう。翼人はヒトの思考法の中心にあるであろう肉体を模倣することで、その闇を突破しようとしたのだ。
 翼人による人間研究は長足の進歩を遂げるが、しかし魂の無い研究用アンドロイドに魂が宿ったことから、事態は急速に発展していくのだ。
 この「魂」という科学の俎上には載りにくいモノを、神林は饒舌なほどの理屈で修飾してみせる。理論というより理屈というべきだろう。人間の動機や生きる意味、そして機械の発展系に過ぎないアンドロイドとヒトとを分けるものとして、ともあれ魂なるものを置くのだ。実体は何でもいい。そして実はヒト(や翼人)はこの魂が目的を果たすために存在しているに過ぎないというわけだ。オブジェクト・オリエンテッドな駆動法なのだ。
 ラストシーンは、この老人たちならば必ず目的を実現したに違いないと思わせ、ニヤリとさせられる。この神林の飄々としたユーモアには、いつもホッとさせられる。
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