Strange Days

2000年03月21日(火曜日)

耳に残るあの曲

20時05分 思考 天気:晴れ BGM:TAISO/YMO

 数日前から頭の中をぐるぐる繰り返されている曲がある。ハミングできるくらい曲も音も明瞭に覚えているし、いかにも英語圏のロックらしい歌詞も書き出せそうな気さえする。音的にアンスラックスのような気がするがインペリテリだったような気もする。まあ音的にはスラッシュぽいのだが(アンスラとインペリでは、やすきよとダウンタウンくらい違う)。
 こういう時に頭の中の"音"を取り出す技術はどれくらい可能性があるのだろう。音とはもちろん主観的なものだが、絶対音感とかあるいはもっと素朴に譜面というものが成り立っている事を考えると、ある程度客観的にも成立しているように見えるのだ。人間の頭の中で起こっているあまりに複雑な事件を再現する事は不可能かもしれないが、もしも可能ならば従来の芸術論に大きなインパクトを与えるだろう。音を取り出せるなら文章だって取り出せるはずで、やはり文藝へのインパクトも大きそうだ。
 音楽家にしても小説家にしても、譜面や原稿用紙という客観的なモノの上にごく個人的なモノを展開できるのが面白い。音楽や小説という個人的な世界が、譜面上の音符や原稿用紙の上の文字という抽象的な記号列に置き換えられ、それらはさらに受信者によって様々な解釈をされる事で超個人的な発展を遂げていく。
 まあ記号列というものが客観的な存在であるとするのは一種の信仰なのかもしれないけれど、先の構図からすればこれらがボトルネックになっている事は確かなような気がするのだ。それを脳内の情報(と決め付ける事で科学的価値観に屈従しているのかもしれないが)を直接やり取りする事で、乗り越える事は出来ないだろうか。記号がもたらす客観化を回避する事で、個人的な情報をあくまで個人的なままに受け取れないだろうか。
 しかし個人的な情報はあくまで個人の内部にしか成立していないという観察からすると、いったん記号化しない限り個人の内部情報を他者が受け取る事は出来ないような気もする。つまり生の個人情報を受け取ったところで、それを解釈する手がかりが無い限り、無意味なノイズに過ぎないだろう。記号化は情報を共有化する上で避け難い作業なのかもしれない。

2000年03月15日(水曜日)

速さ

20時48分 思考 天気:曇り

 眠さに死にそうな日だった。ゆっくりフレックスで出勤したかったのだけど、全員出席が求められた予算説明会が朝早くにあったのでそうもいかず、その説明会の途中で眠りこけそうになりながらなんとか乗り切った。
 こういう時に後ろの方から眺めていると、真剣に聞き入っている者、内職している者、寝ている者が一目で見分けられて楽しいもんだ。期末が近づいているせいか、睡眠不足の向きも多いようだ。不思議な事に、同じような生活をしながらも、十分寝足りている人とそうじゃない人の差が生じるのだ。あたり前の事だけど、人は一人一人体質も生活のリズムも違うのだ。本来ならば。
 しかし社会で生活する限り、社会が強制するリズムに合わせて生きていかざるを得ない。例えば、9:00に出勤して17:00に帰るという生活だ(実際にこの通りに生きている人は少ないだろうが)。現代人は都市で生きる限りなんらかの形で生きる速さを強制される事になる(今や田舎も小都市という位置付けに過ぎないのは言うまでもない)。特に企業で生きるサラリーマンにはそれが著しい。僕たちは母親の膝の上を離れて這い始めた時から、いつの間にか本来自分のものでない速さで歩く事を強制されてきた。
 なぜ速さを強制されるのだろう。それは結局のところ文明の本質がそうだからと答えざるを得ない。現代が文明優勢の時代である事はほぼ断言できそうに思う。ふつうは文明対文化という視点は成立し得ないのだが、個人の速さというものに対する作用という点では、この二つは鋭く対立している。
 文明の本質は汎的である事だ。文明とは異なるモノどもに同じ物差しを当てて行く作業に他ならない。そして物差しというものが登場する以上、その物差しで指し計れる数値以外の何者も無視される運命にある。酒池肉林の生活を送り無頼の日々を送るA氏と、花鳥風月を愛で詩的精神世界に生きるB氏は、同じ仕事をこなす以上、企業にとっては同じ人間に過ぎない事を意味する。この事は両氏にとって有利にも不利にも働く。
 しかし高度に細分化された専門分野での仕事を除けば、大部分の企業人が決められた手順をこなす事だけが求められる。どのような作業も、それが決められた基準に沿う事を求められる以上は、ルーチンワークの域を出ない事は言うまでもない。残念な事に、創造性を求められるような作業はごく少ないのだ。となると、どんな人が担当しても、その結果に質的な差は少ないだろう。いや、実は順序が逆だ。質的な差が生じないように、基準に沿って作業する事が求められているのだから。
 質的に差が出ないのなら、量的に差を付けるしかない。時間当たり多くの仕事を処理できる者が有利になる。ここでようやく速さの話に戻ってきた。つまり、企業というものの内部で生きる以上、質的な差などほぼ問題ではなく、量的な差だけが評価される事になる。その結果、多くのごくあたり前の能力しか持たないサラリーマンは、朝早くから夜遅くまで働き詰めになり、道を早足で歩き、発車間際の電車に駆け込んでコートの裾を挟まれる事になるのだ。
 唐突な思い付きを書くと、学校とは、人に社会で(企業で、ということとほぼ等価)生きるための術を学ばせる場所だと思う。事に小中学校では様々な形で速さを守る事を教え込まれる。その意味では学校とはどこまで行っても非人間的な存在に過ぎないのだろうと思う。この事を忘れて、学校を人間の本質を伸ばせる素晴らしい場所である"べき"だ等と規定してしまうと、どんな教育政策もうまく行かないのではないだろうか。学校は概ね会社人間を作る場所である、という確信を持った上で、それでも幾ばくかでも個人個人の抱える差異を残してやろうという方法論以外、教育の現場では生き残れないのではないだろうか。
 こんな事を取り止めもなく、会社のマシンでコンパイル終了を苛々と待ちながら考えていた。恐らく、出来ればこんな事ばかり考えている社員は、どんな会社だって欲しく無いだろう。