Strange Days

2000年12月31日(日曜日)

20世紀最後の一日

21時55分 思考 天気:晴れかな

 とうとう20世紀最後の日がやってきた。それにしても妙なものである。月面基地はできてないし木星の有人探査はおろか月面への再到達もかなっていない。それなのに、10年前からすればそこそこ想像を絶する世界ではないか。少なくとも、10年前にパソコン通信を始めた頃には、世界中にサーバが分散して、そこにさらに無数のクライアントが自由にアクセスできるような状況が実現するとは考えてもいなかった。むしろHSSTだとか海底都市だとかいったような、居住空間の拡大が実現するのだとばかり思っていた。当時地価は異常に高騰していたし、しんかい2000/6500が実現し、NASAのXシリーズもぼちぼち再始動の気配を見せていたからだ。ところが20世紀最後の10年間に拡大した空間は、完全に人工の空間であるインターネット空間だったのだ。これを『仮想空間』だの『サイバースペース』だのと名付けても、拡大しつつあるモノの本質を、何一つ捉えてい無いような気がする。完全に仮想の世界ではないし、かといって現実世界の影にすぎないという捉え方も単純にすぎる気がする。インターネット空間と形容するより他にないのではないだろうか。実のところ、ITが隆盛を極めることで、なにが豊かになったのかいまいちピンとこないのだ。確かに情報の切り口は増え、以前より遙かに利用しやすくはなった。だが総体として新しい見地があったとは言い切れないのでは無いだろうか。インターネット空間で増大しているのはその領域ではなく、実はディテールである。そんな気がする。
 もちろん、インターネットを背景に新しい潮流、例えばLINUXに代表されるオープンソースの流れのようなものは立ち上がってきた。しかしオープンソースの思想的原形としてのフリーソフトウェアは遙か以前から存在していたし、それがインターネットと不可分だったわけではない。古手のパソコン通信のユーザや、初期のインターネット(日本ではJUNETと呼ばれていた頃)の参加者は、ソフトウェアの回覧という催しに参加した人も多いのではないだろうか。これはパソコン通信にせよインターネットにせよ、そもそも基盤となる回線が遅く、貧しく、大量のデータをやりとりするコストがあまりに高価だった時代によく行われていたもので、大量のソフトウェアやデータを媒体に納め郵政省メールでやりとりするというものだった。あらかじめ参加者を募り、一筆書きになるように、全参加者が次の参加者への郵送料だけ負担する形で実施されることが多かったように思う。僕もこれで最初期の日本語ポート版FreeBSDを入手したし、同時期にやはり最初期のLINUXの回覧も行われていたと思う。むろん、この手段では日数がかかるし、メディアの破損などのリスクもあり得るしでリスクがある。従って速い回線を得られないときの次善の策ではある。LINUXなどのオープンソースの急激な発展は、素早くデータをやり取りできる高速回線の普及に強く依存してはいる。しかしながら代替え手段がなかったわけでは無いという意味で不可分ではないと思うのだ。そんな風に回顧して行くと、インターネットでITが興隆を極めるようになったとはいえても、それが全人類的な利益を生み出しているとか、インターネットが21世紀の世界の中核技術になるとは単純にいえない気がするのだ。
 よく21世紀をインターネット時代だなどと軽々しく口にする人がいるが、20世紀を電話の時代だったなどと総括できないように、強力ではあっても単なる基本的技術の一つを占めるに過ぎないものに終わるかもしれない。むしろ21世紀には、さらに想像を絶するモノが立ち現れてくるのだ。そう覚悟した方が良さそうではないか。

2000年12月26日(火曜日)

子供には現実を教えよ

23時56分 思考

 gooのニュースチャンネルを見ていると、「マスオサンタに抗議殺到」という見出しが目に入った。なんでも、クリスマス前後のサザエさんで、マスオさんがサンタクロースのふりをしてタラちゃんの枕元にプレゼントを忍び込ませる、という筋の話があったそうだ。これ自体、なんということも無いごく普通のお話だと思う。ところが、この放送の後に視聴者からの抗議が殺到したという。記事によれば、大半は「子供の夢を壊さないで」という親たちからのそれだったという。
 しかしながら、ばかげた話ではないだろうか。いまだに(煙突から不法侵入して有価物件を年少者の枕元に不法投棄してゆくという)古典的なサンタクロース像を信じている子供などどれくらい居るだろう。今では小学生低学年の子供だって、ゲームボーイでRPGをプレイしているのだ。彼らは世界が様々な「お約束」で成り立っていることを、ちゃんと見抜いているのだ。もしもそのような環境に置かれて、なおかつ古典的サンタクロース像を信じているのだとすれば、それはよほど迂闊で現実世界への注意力が欠如しているか、あるいはなんらかの理由で異常に強い宗教的信念を持ってしまったかのどちらかではないだろうか。
 現代において、古典的サンタクロース像を守りつづける意義が、どれくらい残されているのだろうか。むしろ、そのような"純真な"子供は、いざ現実にサンタクロースが実在しないと知ったときに、世界の現実と自分自身の認識の巨大なギャップに悩んでしまうのではないだろうか。こころある大人は、むしろこのような番組の視聴をきっかけに、サンタクロースがどのようなお約束の下に"存在"しているのかを、子供に話してやるべきではないだろうか。
>いつまでも子供たちにサンタを信じていてほしいと願う親の気持ちの表れだったようだ。(日刊スポーツ12/26紙面より)
などと願う気持ちは分からないではないが、そんな子供はバモイドオキ神でも創造するか、ものみの塔にでも入るかしか精神の平安を保てなくなるのではないかと思うのだが。

2000年12月22日(金曜日)

年内最後の仕事と千年期末

23時49分 思考 天気:果たして晴れであろうか

 午前中に二つ仕事を済ませた。どちらもほぼ紙の仕事なのだが、これがあちこちの部署のエゴまるだしのフォーマットばかりで楽しい。いや楽しくない。どうにも不条理な感じを拭いきれないからだ。
 とにかく物件を関連部署に送り、年内の仕事は残すところ後一つ。これが20世紀最後のお仕事になるだろう。はぁ、やっと一息つける。もう少し感慨のようなものを抱くべきなのだろうが、西欧文明人でも何でもない俺様には、この世紀なる概念などどうでもよいものだ。
 っておい、それは本当のことか? 現代の日本人など、西洋文明圏以外のどこに属しているというのだ。西洋文化さえも半ば受容しいるではないか。むかし、アパルトヘイト下の南アフリカで、名誉白人扱いだった日本人は"イエローバナナ"などと双方から侮蔑されたそうだ。外見は黄色人種だが、中身は白人化しているというわけだ。これくらい今の日本人を的確に表現している言葉はないかもしれない。しかし、それは日本人だけだろうか。朝鮮人だって、中国人だって、やっぱり程度の差はあれイエローバナナ化しているのだ。それと同じように、黒人だってアラブ人だって、実は西欧化が進んでいるかもしれない。
 西欧文明の黄色化、黒化も進んでいるかもしれない。それが端的に現れているのが、グローバルスタンダードなる言葉で無思慮に表現されている、価値観のモノシリック化だと思うのだ。
 この傾向は21世紀になっても、いや21世紀にこそ急進して行くのだろうな。嫌な時代になったもんだ(でもケーキは食うぞ)。

2000年12月15日(金曜日)

20世紀も大詰め

22時10分 思考 天気:晴れどえす

 いよいよ20世紀もお終いだ! いや別にうれしいことは無いはずなのだけど、どこか晴れやかな気持ちもある。思えば、20世紀は長かった。なんと100年もあったのだ!(間違えでは無いな) いいかげん、みんな20世紀には飽き飽きしていた頃だろう。ちょうど折り良く世紀が変わることに、みんな基本的には賛成なはずだ(というか賛成もくそもあるのか)。
 来年は良い年でありますように(そろそろ鬼も笑うまい)。

2000年12月13日(水曜日)

分煙してよ~

22時07分 思考 天気:晴れでしょっ

 今日は定時退勤日だったので、さっさと会社を退けて図書館に。「ミステリーストーン」という石にまつわるエピソードをつづったエッセイを読んだ。ある種の鉱物が薬剤に使われている(例えば石炭が腹下しに使われるとか)というのは知ってはいたが、他にも想像以上に広範に用いられているらしいと知った。例えば、クッキーには石英の一種が練りこまれているとか。そういえば、中国辺りの固い豆腐(司馬遼太郎は土佐にもあると書いていたが)にも石膏が使われていたような。
 図書館からの帰り道、ドトールで一服していると、煙い煙い。周囲は無遠慮に煙を吐き出すスモーカーで一杯だ。隣に座っていた編物している女性も窓を開けたがっていたな。喫茶店のような場所で、どうして分煙が徹底できないのか不思議だ。まあ、この店は凄く狭いので物理的に無理なのかもしれないが。そもそも、喫煙者たちは自分が吐く煙が周囲にどんな影響を与えているか理解できているのだろうか。僕の父が凄いヘビースモーカーだったので、実は僕自身は結構平気なのだが、しかし体調が悪い時は本当にきつい。税収のことを考えると喫煙文化の撲滅はまあ先延ばしにしていいのだが、分煙の徹底と吸殻の投げ捨てを撲滅することは社会の急務である、と個人的な怨恨から思うのである。

2000年12月11日(月曜日)

日記を書くこと

23時04分 思考

 それにしても、連日連夜、良く書くことがあるもんだ。12/5の日記は記録ものだが、他の日にも何某か書きなぐってきた。この他にも結構創作も書いているわけだから、良くも書くことがあるものだと我ながら呆れる。これが金になればなあ。しかし金になるならこんないい加減な妄想ばかり書き連ねるわけにも行かないだろうと思ったりして。
 考えてみれば、日記は僕にとって第一義的に日々の備忘録であり、また未来に繋げるための思考の過程を残すことであり、また演じることだ。演じるものはなんだろう。誠実で前向きな1市民かな :) 同じようにWeb日記を着けている人たちも、毎日起こったことの全てを正直に書き連ねているわけではあるまい。いずれにせよ演じるという要素はWeb日記に不可欠であり、そもそも日記というものは誰かに必ず読まれるものなのだから(自分だけにせよ)、日記者は結局自分を含めた観客を相手に何事かを演じる者に他ならないのだろう。

2000年12月10日(日曜日)

ちょいと戸塚へ

17時00分 思考 天気:晴れ時々雨

 昼前には目覚めた。昼過ぎまでうだうだとDiablo2をプレイしていたが、前に較べてかなり安定しているような気がしてきた。CD-ROMドライブを交換する前は、時によっては1時間以内にハングアップの憂き目に遭っていたのだが、昨日交換してからはそういう目に遭っていない。まだプレイ中にガクガクした動きを見せることはあるが、まあ許容範囲だろう。色んな手を打った効果が出てきたのだろうか。
 そんなことをしてたら15:00を回ってしまった。慌てて身支度をして部屋を出た。
 戸塚に出て、図書館で本をむさぼり読む。最近、通常は神聖不可侵なものとして扱われている「人権」が、では何者によって保障され、かつまた必要に応じて国家による制限が可能になるのかという疑問を持っているので、その筋の本を読んでいる。
 ざっと概観した限り、憲法などの法律で明文化され、取り扱われている「基本的人権」と、その背景に言及される「人権思想」は別物らしい。前者は個人が社会共同体の一員として義務を負い、その代わりに権利を得るという社会契約論に基づいている。Civil Rights、日本語では公民権とか市民権とかいった言葉で表されているモノだ。しかし後者はやや毛色が異なる。というのは、この「人権思想」、つまり人間の基本的な権利には人間によって奪ったり拡張したり出来ないものがある、つまり「神聖不可侵」なモノを含んでいるという思想を実現するには、どうしても人間以上の何者かの存在と、それによる保証を必要とするからだ。僕たち日本人の場合は、それを「社会」だと素朴に考えてしまうのだが、しかし個人の権利の集合体に過ぎない「社会」なら、そこに生じる全ての権利を自由に制限したり抹消したり出来るはずではないだろうか。個人、さらにはその集合体である社会の枠外からの保証があるからこそ、抹消することが出来ない権利が生じるとは考えられないだろうか。
 考えてみれば、その創生期において「人権」が神聖不可侵なものとされなければならなかった背景には、当時(例えば権利章典が書かれた当時)の権力、つまり王権に対抗する必要があったからだと思う。そして王権をも上回る権力の持ち主として想定されたのは、神ではなかっただろうか。つまり当時の王権神授説を逆用し、王権をも自由に授与できる神が人間に与えたものなのだから、「人権」は王権によって左右することは出来ないとされたのだろう。このようにして、当時正統とされた王権を保証する力を利用することで、人権思想は自らを正統化できたのではないだろうか。
 こう考えると、アメリカが人権思想を建国の基本思想にしながらも、20世紀まで黒人のCivil Rightsが制限されてきた謎が解ける。つまり人権はそもそも人間によって左右できないのだから、全ての"人間"(有色人種は19世紀まで人として扱われなかったわけではあるが)が生まれつき持っているような「人権」としては不可侵であり、そもそもいかなる制限も不可能なので政府の責任も生じない。しかし「基本的人権」は個人が社会と契約した結果生じるものなのだから、責任能力がない(とされていた有色人種などの)人間に対しては制限できるとしたのではないだろうか。その結果、教会では共に友愛を謳いながら、その外では1級、2級市民として公民権を軸に争っていた謎が解けるように思う。
 翻って日本国憲法を読むと、そこには色濃い「人権思想」が見える。憲法で様々な保証の対象とされているのは「基本的人権」だが、財産権などが滅多やたらと個人の権利に軸を置き、公共側の比重が軽いのは「人権思想」の影響だと思う。元々、土地などの財産は個人の寿命を超えて永続するものであり、それは対社会レベルの効果をも視界に置かなければならないだろう。ところが日本では個人の権利が声高に主張されるあまり、本来公益として捉えて推進されなければならない公共施設の建築が困難になる。例えば各地で頻発しているゴミ処理場問題もそうであり、また成田空港建設時のドタバタもそうだろう。さらにいえば、国家によってさえ左右できない権利が個人にあるという思想からは、国家の重量を軽視する思想をも生じさせるのではないだろうか。先鋭的な市民運動家に見られる主張、「国家などいらない」というあまりに無理のある主張(では村は、家族は?)は、こうした背景からしか生まれないのではないだろうか。というのは、共産主義思想は人民の総意である国家が全てを決定するという思想であり、そもそも「神聖不可侵」なものなど生じない。旧ソ連での独裁の歴史、そして中国での死刑の凄まじい多さは、人間の価値など国家のそれに較べれば紙切れ一枚ほどでしかないという、共産主義思想の本音をあらわしていると思う。つまり、日本の市民運動の背骨には、共産主義思想は通ってないと思うのだ。
 んで、読んだ本の中で面白かったのは、「アメリカ憲法には人権思想が見られない」というものだ。当のアメリカ人には、「人権思想」と「基本的人権」の差異が自明のものだったらしく、用心深く「人権思想」を取り除いている。下手に「人権思想」を明記すると、国家が個人の総意を越える権限をもつか、国家を超える権限の担い手を想定するかの二つに一つしかなくなる。近代国家を成立させる上では危険なことだ。それなのに日本国憲法では人権思想が色濃く見られ、それだけではなく憲法の条文中で言及さえされている。この謎は、日本国憲法の起草者やマッカーサーが、半ば宗教的な意味での「人権思想」の信奉者だったことで説明できる。さらにいえば、日本国憲法において「戦力の放棄」という画期的な条文が明記されたことも、人権思想によって説明できそうだ。つまり、人間に人権というものを保証する超人格的な実体が存在するからこそ、戦力を放棄しても平和を維持することが出来るというわけだ。
 しかしながら、現代の日本人に超人格的な実体など想定できるだろうか。超国家的な権力の担い手など。例えば日本の裁判所で「神でも仏でもいいからあなたが絶対的に信頼する超越的な存在に宣誓せよ」と言われれば、ほとんどの人は宣誓を拒否するのではないだろうか(いやシリウス星人とかチャネリング友達に喜んで宣誓する人もいそうだが)。日本人は宗教意識が薄いといわれつつ、様々な宗教行事を催す人間集団だ。しかしその「薄さ」の実態は、「世界の全てを決定する超越的存在」の存在を信頼できないという点に掛かっているように思える。そのことは、多分キリスト教徒の少なさが傍証していると思う。そういう日本人に、ナマの「人権思想」は向いてないのではないだろうか。
 むしろ個人と国家との関係性を明らかにし、その諸権利、諸義務の積極/消極的保証内容を列挙した方が良いと思うのだが。これは憲法改正程度では難しそうだな。
 図書館を出て、ドトールに寄ってシグマリオンで日記を書き、さらに本屋に寄って帰宅した。

2000年12月05日(火曜日)

少年犯罪にどう対応するのか

23時55分 思考

 以前から「犯罪者、特に少年犯罪者はその後どうなるのだろう」ということに関心があった。刑事法学的には、犯罪者はその罪の重さによって刑が定められ、その刑を終えて世に出てきたときには更生して真人間に戻っているとする。まあその間に収監者の態度を計るような仕組みもあるわけだが、平たく言えばこういうことになるだろう。だが本当に更生しているのだろうか。そういう疑問は誰だって持っているはずだ。
 一応、性犯罪者の再犯率は高いとか、そういう統計的なデータはある。しかし僕は個々の犯罪者が、その後どのようにして更生できたのか、あるいはできなかったのか、そのナマの実態を知りたいと思った。
 まるでそんな声が届いたかのように、テレビ朝日のニュースステーションで、かつてあった殺人事件の加害者と、被害者の遺族のその後を追うという企画があった、らしい。らしいというのは、検索にヒットしたのはその番組を見た視聴者からの声を集めたページで、当の番組は先週のうちに放映されてしまっていたからだ。そんなわけで、直接の感想ではなく、その番組を見た視聴者の反応を見ての感想ということになってしまう。
 その番組では、事件の経緯、加害者の一人が語る事件当時の心の動き、そして少年院を出所してからのことが、本人の口を通して語られたらしい。また別の加害者の一人が家に閉じこもって、家族にも社会にも向き合えていない現状が語られたようだ。
 そのページでは、様々な点に非難が集中していた。事件について語った加害者("彼"とする)があまりに淡々と事件を客観的に語りすぎた点、そんな彼が今は結婚して子供まで設けている点、遺族が当初「放映しないで」と申し出たのに番組の放映が強行された点、そして番組側の総括があまりにもありきたりな点に、多くの人が怒りを表明していた。僕はそのページの意見を一つ一つ読み、時々熊のようにうろうろと歩き回りながら、しばらく考え込んだ。

 この事件は有名なので、ある年齢以上の人は知っているだろう。数人の少年たちが、何の関係も無い一人の少女を拉致し、一月あまりも性的な暴力を加えつづけ、挙句の果てに殺害して死体をドラム缶に詰めて捨ててしまったという事件だ。およそ良心というものを持つ人間には想像することすら耐えがたい、無惨な事件だった。この少年たちは野獣のような存在で、完全に狂っていた。
 多くの視聴者の意見のうち、かなりの部分を占めるのは「どうして犯罪者をのうのうと生かせておくのか」というものだった。「社会に出すべきではない」、「同じような目にあわせてやりたい」という声が多かったように思う。このような声が出る背景には、現在の少年法や刑法への不信があると思われる。視聴者からの反応に多量に含有されていた「厳罰主義」の主張も、そうした不信を背景にしている。
 少年への厳罰を望む声が大きいのは、こうした犯罪少年たちに二度と社会に出てきて欲しくないという希望を表しているのではないだろうか。というのは、厳罰主義には限界が無いからだ。たとえば今回の少年法の変更で、逆送致処分の下限年齢を14歳に改めたが、それでも14歳以下での凶悪犯罪を起こす特異例は発生するはずだ。するとそうした特異な少数例がマスコミによって扇情的に取り上げられ、さらに引き下げるような圧力が生じるはずだ。しかしこの方向には限界がある(年齢には下限があるので)ので、次は拘置期間の延長という方向に必然的に向かうだろう。実際、前記の視聴者たちの声には、拘置期間を延長せよという主張の方が圧倒的に強い。すると拘置期間を延長する方向に働き始めるだろう。しかし厳罰、というのは、ある基準に比べて厳しいということだ。この場合、今まさに実施されている処置に比べて、さらに厳しいものを望むことに他ならない。すると以前より厳罰化された新基準よりさらに厳しいものを望む主張が現れ、さらに厳罰化が進められてゆきかねない。その結果、少年たちが僕たち(特に厳罰主義者)の前に現れることはずっと先か、あるいはその機会がなくなるだろう。厳罰化を主張する人々の根源には、そのような希望があるのだと思う。「殺人犯はたとえ少年でも死刑にせよ」という主張が散見されるのは、こうしたニーズの極限にあると思って良さそうだ。
 厳罰化のもう一つの意味は、その犯罪責任の按分を本人に多く負わせることにあると思う。犯罪の主体は個人なのだから、その個人が責任を免れうるとは考えられない。しかし、その周囲の環境、特に人間関係というものを無視して本人責任を設定するのも馬鹿げた話だと思う。
 実は本人の責任を強調することは、そう強調する人を含む社会による関与、責任を低減させることを意味するのではないか。つまり、当人の責任を極めて大きく捉えようとする声は、実は自分自身がこの事件のプロモーターに回っているという事実を否定しようとする心理の現われではないだろうか。僕らにだって同じ社会に生きる他人、特に少年たちに様々な注意を促す義務があるはずだ。「罪は罪」と叫ぶ(そう、ほとんどすべてが怒りに満ちた"叫び"なのだ)人々は、自分自身はそういった義務をまったく果たせていないという負い目を否定するために、そうしているのではないだろうか。
 もちろん、環境の責任を重く見すぎることは逆の効果もあるだろう。事実は二つの立場のどこかにあり、犯罪に環境が関わっていること自身は否定しようが無い。

 特に厳罰化を望む人たちの意見を読んで驚くのは、事実関係をまったく調査していないらしいということだ。たとえば、少年法改正反対を主張する人々に対し、「人権屋」というラベリングを行い、そして「被害者の気持ちをまったくわかっていない」と一刀両断にする。しかしその人権屋(とされるのは例えば日弁連だろう)ほど被害者救済の必要性を痛感している人々はいないのではないかと思う。というのは、少年法や死刑廃止の論議に絡めて、被害者救済の具体的方策を示すのは、必ずといっていいほどその"人権屋"の方だからだ。特に今回の少年法改正問題に絡めて、被害者保護の重要性が反対派から示されなかったことは無いといってよいように思う。確かに、"人権屋"の名にふさわしい人権ゴロとでもいうべき連中も多いだろう。だが具体的で論理的な被害者救済策を示しつづけているのは、日弁連のような"人権屋"の方なのだ。

 では「厳罰化」を主張する人々はなにか言っているだろうか。ほとんどすべての場合、被害者救済=厳罰化ということらしい。他に主張らしい主張は無いからだ。厳罰化を進めれば被害者救済は成ると、とてつもない単純さで信じているようだ。今回の少年法改正案がいい例だ。被害者側への言及は、わずかに検察による事実関係の開示という、すでに実施されていることの明文化だけに過ぎないのだ。だがこんな馬鹿な話はあるだろうか。被害者の権利が侵害されているのに、加害者の権利を蹂躙すればそれで被害者が救済されるなど、教育を受けてきた大人たちが本当に考えることなのだろうか。被害者の救済には、その失われてしまった権利を回復するしかない。そのことは少しでも考えてみれば容易に思い至るはずだ。
 では当の被害者団体が掲げる要求はどうだろう。その主張を読むと、実は「厳罰化」という項目は重要度が低いものなのだ。被害者が望むのは、被害者自身の名誉の回復と、社会からの様々な援助、そしてなにより真実を知ることなのだ。「厳罰化」はほとんどオプショナルな項目とみなしてかまわない。むしろ、適正な処罰が行われているという確証を求める心理が、被害者たち自身を厳罰化に言及させているのではないかと思う。
 「厳罰化」を叫び、こうした被害者団体の要望を支持していると表明する、怒りに満ちた「1市民」(彼らは多くの場合こう名乗る)たちは、実は当の被害者団体の要望にまったく不勉強、無頓着で、実際には己の闇雲な欲求に従って主張し、その出汁に被害者たちを使っているだけなのではないか。この図式はあるものとそっくりだ。己の欲望に忠実に、他者の希望や真実を踏みにじり、その欲求を満たす。そう、あの少女をレイプして、挙句の果てに殺害した少年たちと、この怒る「市民」たちは、その本質においてまったく同一の存在ではないのか。

 しかし「厳罰化」に本当に抑止効果があるのなら、採用に吝かではないという声もあるし、決して無視できないと思う。この場合、好例としてはアメリカの場合を挙げるべきだろう。アメリカでは、'80年代に少年に対する刑罰の強化が行われている。それは効果があったのだろうか。効果ありとする意見もある。例えば、'90年代に入って少年犯罪は確かに減少しているからだ。しかしそれは、犯罪件数だけを取り上げた乱暴な論議なのではないだろうか。そういう指摘は日本だけではなく、アメリカでもなされている。例えば'80年代に施行された法律が、'90年代に入って突然効果をあげ始めたのはなぜなのか。むしろ別の要因に起因するのではないかという意見が多い。そして'80年代からの状況を、人口動態、犯罪の質的変化を視野に入れて統計を取ると、むしろ増えているのではないかという指摘も多いのだ。'90年代の現象に関しては、アメリカの景気動向によるという説が有力だ。このようにして、アメリカの状況を見る限り、厳罰化は逆効果、せいぜい中立的だという意見が有力だと見ている。'90年代の現象は、少年犯罪の発生率には環境の問題が大きく関わっているという主張を裏付けるものでもある。
 そもそも、日本で本当に少年犯罪が増加しているのだろうか。確かにここ数年の傾向を見ると、増加しているようだ。しかしそれは直前に'90年代初頭のピークがあり、その直後の底を打った状態から観測した結果だ。少年犯罪が猛威を振るった'80年代初頭の状況からすると、まだまだ低水準なのだ。しかも近年の少年犯罪はグループ型であり、検挙者数は増加しやすいという背景もある。被害者数は、むしろ減少しているという指摘もあるくらいだ。こうしてみると、特異な少年犯罪は発生しているものの、総件数として増えているとは単純にはいえない。

 以上のように概観してみると、「厳罰化」による抑止効果には、大いに疑問符がつく。そもそも、「厳罰化」という代物が、本来ならば別個の問題である被害者救済と絡めて(さらには同一視されて)語られるのは、被害者救済という問題の真実から目を逸らすガス抜きに過ぎないからなのではないだろうか。
 では日本の少年法には効果がなく、悪法であるという主張はどうだろう。まず、効果は「ある」のである。日本の少年の犯罪率、さらにはその先にある20代の青年の犯罪率は、実は先進国中際だって低い。特に少年の犯罪率は、少年法が施行された昭和20年代以降、低下の一途をたどってきた。いくつかのピークはあるものの、低減傾向は疑うべくもない。青少年の犯罪防止には、少年法は非常な威力を発揮しつづけているのである。むしろ、今回の変更以前の少年法の枠内で、様々な運用状況を改善すれば、さらに効果を挙げることができたという指摘もある。また少年院を経た少年たちは、社会に出て再度犯罪に手を染める確率が25%程度と低い(刑務所を経た成人の場合は45%近く)ということも挙げられる。凶悪犯罪に限れば、ほとんどゼロに近い。
 このように少年法は非常に有効な法律であるといえる。悪法とは思えない。むしろ、現行の刑法に少年法の教育主義的な理念を盛り込めないかとすら思える。
 少年法にせよ、刑法にせよ、その目的は、被害者と加害者のどちらも社会から排除することではないはずだ。一人でも多く、健全な生活を送れる個人を増やすこと。それが法の目的とすべきものではないだろうか。

 ニュースステーションに出演して、自らの口で語った"彼"が、あまりにも客観的に、紋切り型に語りすぎたという印象を持った人は多かったようだ。確かに、今の"彼"が改心しているかどうかは分からない。しかしそれは、例えば刑務所に収監するようにしても同じ事ではないだろうか。例えば殺人を犯した犯罪者の全てが7年の刑期で改心するなどとは、誰にも言い切れないはずだ。さらにいえば、例えば殺人を犯した少年を、20年ほど刑務所に放り込むことにしたとしよう。出所した彼は、しかしまったく反省の色がなかったとすると、やはり被害者は救われないのではないだろうか。必要なことは、犯罪者が確かに改心したかどうかを継続してチェックする仕組みであり、さらにその情報を被害者に確実に伝えてゆく仕組みではないだろうか。それは厳罰主義では決して達成できないことだ。"彼"に関して、さらにはいまだに自らの罪に向き合えていないというDに関して思うのは、今の法体系は犯罪者の心の問題に対して課題を抱えているということだ。Dのような個人が社会に出てしまうのは問題だと思う。特に被害者が救われてないと思い、加害者の処遇に疑問を投げかける背景には、確かに改心したかという情報が、というよりもそもそも加害者の情報が何一つ入ってこないことにあるのだと思う。被害者は、加害者を社会からスポイルすることよりも、その加害者が自らに与えた損害を悔い、立ち直ることの方を望むことが多いのではないだろうか。もちろん、怒りに任せてその抹殺を心から望みつづける被害者もいるかもしれない。しかし現状、そのような被害者も多いことの背景には、被害者に対するケアがほとんど機能していないという事実があるのではないだろうか。社会からの物心両面の支援さえあれば、被害者たちにもより理性的な思考が可能になるはずだ。
 "彼"が他人事のように語ったということは、実は僕はそれでいいと思う。まだ"彼"は、自分の罪を罪として受け止めきれてないのかもしれない。しかし事件の事実を語るということは、必ず彼の思考に影響を及ぼすはずだ。何の思考もなしに論理的に話せるはずがない。大切なことは、それをただ一度の免罪符とせず、幾度となく語らせつづけることではないだろうか。そしてその語りの中から加害者の現状を抽出し、適切な指導を与える社会での受け皿が必要になるだろう。そのような「社会に出てからのフォロー」が、加害者には必要であり、またそこから得られた情報の全て(例えば加害者は被害者を逆恨みして更に加害する可能性があるなど)をプライバシー保護の名のもとに封印するのではなく、適切に被害者に、さらには社会に伝達する仕組みが望まれているのだと思う。

 "彼"が家庭を持っているということ、それは確かに苦い現実ではあるけれど、"彼"が一人の人間である限り避けがたい事態ではないだろうか。むしろ、そのようにしてごく普通の幸福を持ちうる個人へと回復することこそが、真の改心の前提になるとはいえないだろうか。なんの幸福も知らない野獣のような生き物に、そもそも"反省"など出来るだろうか。自分が踏みにじったものの重みを知らない限り、真の改心はありえない。確かに彼らは、一人のなんの罪もない少女の尊厳の全てを踏みにじり、その命まで奪った。だが彼女の尊厳と命の回復が、加害者たちの権利、財産、生命を奪うことで達成できるのか。簡潔にいえば、彼らを殺して少女が生き返るのか。もしもそうならば、加害者たちの処刑を実行しても構わないと思う。なぜならば、なによりも必要とされるのは被害者の損害の回復なのだから。そこには厳然とした優先順位がある。だが加害者たちを蹂躙することが被害者の権利回復になんら影響を与えない以上、無益な行為も制限も行うべきではない。

 番組が遺族の要望に逆らうようにして放映されたということ。これは問題だと思う。いかに報道目的とはいえ、加害者をセカンドレイプするような報道は許されるものではない。遺族の痛みを和らげるような番組に出来たはずだ。逆に遺族の痛みを増幅させたのだとすれば、番組制作者たちは無神経の謗りを受けてもやむを得ないだろう。被害者のプライバシーを守る仕組みが必要だ。

 番組の総括がありきたりだったという指摘。これはまあニュースステーションなので(笑)しょうがないのではないだろうか。しかし前記のような遺族への酷い仕打ちを除けば、番組を放映した価値があったことは、視聴者の反応の大きさが物語っているように思える。

 ざっとまとめてみる。まず「厳罰主義」は被害者救済を意味しないし、犯罪防止に役立つかどうかも疑問だ。また加害者の、特に少年のそれの真の反省のためにも役に立たない。これらの目的の達成には、むしろ加害者を立ち直らせ、その過程で奪ったものの重さを認識させる長期的な指導が必要になるだろう。例えば再犯可能性があるような場合(番組中のDのようなケース)、再度収監して教育することも考えなければならない。Dのことを考えると、そのケアを家族にだけ押し付けるのには限界があり、よけいに再犯可能性を高めることになりかねない。殺人の場合には、一生に渡って教育が行われるべきだと思う。そのような社会での受け皿(現状の保護観察制度のようなもの)を拡充することが望まれる。
 被害者の救済のために、加害者の権利を奪うことは意味がない。被害者が望んでいるのはその尊厳と権利の回復、そのための社会からの物心両面の支援、そして加害者が確かに罪の重さを認識し、悔いているという確証だと思う。そのためには、まず現状野放し状態のマスコミによる被害者のプライバシー侵害を禁止しなければならない。また被害者、そして遺族に対する金銭的な支援、心のケアが必須だ。なかんずく子供を失った親たちの場合、その生きる意志を回復させることが急がれる。さらには前記のような加害者に対する指導の経過を、被害者に対して適切に伝えなければならない。場合によっては、被害者と加害者が直接対話することも考えられるだろう。

 犯罪を犯した少年たちは、まだ生まれ変われる余地を大きく残している。彼らを刑務所に長期にわたって閉じ込めておくことは、彼らを犯罪者のまま固定してしまうことになりかねないのではないだろうか。そしてそれは社会にとって良いことなのだろうか。それが本当に社会正義の実現につながるのだろうか。
 一つの事件が起きた時、望まれることは別の事件を作り出すことではなく、繰り返さないことだと思う。繰り返さないためにはその事件の記録を被害者の涙、加害者の権利もろとも封印することではなく、その事件から多くの教訓を抽出し、社会全体で共有することが望まれるのではないだろう。そしてそれは被害者のプライバシーを蹂躙することなく達成できると思う。またそうでなければならないのではないだろうか。