Strange Days

2001年01月08日(月曜日)

成人の日なのだ

21時53分 思考

 今年の1/15は月曜日なのだが、休みではない。休みは1/8に移動しているのだ。1/15が土日に掛かっているのなら話はわかるが、なぜ1週間前の同じ曜日に移動するのだ? なにか超自然的な力を感じる(爆)。
 今日は手ぶらで戸塚に出かけ、原稿用紙と本を買って、図書館で調べ物をした。原稿用紙は、比較的最近たくさん買い込んだようなおぼろげな記憶があるのだが、昨夜書き物をしようとしたら底を突いているのに気づいたのだ。そんなに書いたっけ? まあ無いものはしょうがないので買いに行ったわけだ。
 図書館ではAI関連の本を読みたかったのに、なぜか葬式仏教批判の本を読んでしまった。著者は日本の仏教界が堕落しきり、死者や地縁のしがらみ、果ては(織田無道のように)霊魂実在説をネタに金を搾り取る魍魎の跋扈する状況を批判する人だ。特に死者をネタに遺族から金を搾り取る事を強く批判している。著者は無宗教式でも、さらには手作りでも葬儀を執り行えることを説明し、まず葬儀を主催する側が従来の仏教支配から脱却することを奨めている。また時代がまさに葬儀の脱宗教化、脱既成化に進んでおり、このままでは遠からず仏教は滅びると言明する。
 僕も、織田無道なんて輩(こだわるようだが、あの人は何故自分を仏教の僧侶だと思えるのだろうか)が跳梁跋扈する日本の仏教界は、一度滅びた方が良い。というより、今を生きる僕たちにとって不要なら、二度と存在しなくなっても良い。恐らく、仏陀自身もそういうだろう。仏教の教義の根源は、様々な執着を絶つ事だと聞いた。ならば、従来の宗教観が変わり、その重みが失せた今でも、既得権にしがみついている仏教界の醜さはなんなのだろう。状況が変わったとき、それを客観視して新しい規範を作り出せるのが仏教でいう智慧ではなかったのだろうか。自己革新できない宗教に人を救う力はない。
 んで、この本の面白かった点は、オウム真理教の麻原との鼎談が載っている点だ。出版は'92年なので、オウムはまだ大事件は起こしていない。しかし筆者は、麻原の強引な仏教解釈に明らかに戸惑って、違和感を表明している。しかしこの時点でオウムの危険性に気づいている気配もない。オウムはどこで間違ってしまったのだろうか。それとも、全ての宗教は同じ危険性を孕みながら、客観的世界との整合性に目を向けることで破綻を免れているのだろうか。
 もう一つ、著者が創価学会を買っている点も面白いと思った。創価学会、特に池田大作氏周辺に大きな問題があることは認めつつ、しかし創価学会が打ち出したいくつかの方針を、高く評価しているのだ。例えば、日蓮正宗との決別は必然だったろうとする。日蓮正宗にも、程度の違いはあっても葬式仏教問題はあり、その歪みに関しては、信者団体である学会側と折り合えなかったのだとする。そして決裂の結果生まれた友人葬という信者手作りの葬儀の可能性を指摘するのである。しかし、その友人葬が近年では廃れてきた点、また正宗側から離反した僧侶に対する態度を決めかねている点など、問題指摘も手厳しい。まあ創価学会という問題の多い組織にも、様々な学ぶ点はあるということだろう。
 しかしまあ、図書館くんだりまで来て、僕はなにを読んでなにを怒っているのだろう。
 帰路、地下鉄で晴れ着の女の子集団と遭遇した。成人式帰りでしょう。あれは貸衣装なのだろうか。