Strange Days

2005年10月23日(日曜日)

幻想への耽溺 シュバンクマイエル展

20時43分 思考 天気:快晴

 晴れた! 久しぶりに、休日がすっきりと晴れた。なにかのご褒美のような、すっきり晴れた青空だ。
 さて、昨日思い出したのだが、神奈川県立近代美術館の葉山館で、シュバンクマイエル展が開催されている。今日はそれを見に行こう。でもあれ、"シュバイクマイエル"って記述じゃなかったのか。外国人名の表記は難しい。
 昼に家を出て、まずは長後のCoCo壱番屋で適当に腹ごしらえ。それから、境川を下っていった。今日はちょっとした荷物を積みたい。それと帰りには暗くなっているかもしれないから、MR-4Fを選択した。久しぶりに乗るけど、フルサイズロードに引けを取らない、軽やかな走行感が素晴らしい。荷物載るし、便利だし、これは手放せないな。売るならBD-1だなあ。BD-1は、もう手を尽くしたという感じで、あまり未練は無い。
 江ノ島に出て、鎌倉までは海沿いに走る。しばらくは内陸側の、鎌倉駅の裏に出るコースも使っていたのだが、結局はこっちの方が気楽だ。車は多いのだが、十分すり抜け出来るスペースがある。
 逗子マリーナ経由で逗子に抜け、後は海沿いに葉山館まで走った。それにしても、凄い快晴だ。
 チケット1000円なりを購入。同館では映画祭も開かれていたのだが、時間が無いので見送った。
 ヤンとエヴァのシュバンクマイエル夫妻は、チェコの映像作家だ。粘土や手書き線画を使ったものが得意で、また人形劇の類も製作している。ディスコグラフィーを読むと、そもそも最初は仮面劇と人形劇を組み合わせた作品の製作から始めたらしい。
 そういう映像作家なのだが、同時に多数の絵画、オブジェも製作している。特にプラハの春が潰えた後は、それを支持していた彼は弾圧の対象となり、創作活動に重い枷が掛けられた。その時期に、多くの絵画を製作していたようだ。
 チェコにはマニエリムスの伝統があり、人形作りに代表される工芸品の存在に象徴されている。一方で、シュールレアリスムの伝統も息づいている。シュバンクマイエル夫妻は、これら二つの伝統を背負って立つ、チェコの代表的アーティストということらしい。
 作品は、まだ会期中なので直接見てくれい。映像作品もDVD化されているようだ。それらを一言でいえば、キモくてえぐい。単に超現実的なだけではなくて、それらのディテールには現実のオブジェクトが見え隠れしている。多くはぬめぬめした生物的曲線を所有している。ことに現実の生物からパーツを借用している作品群ときたら。鳥の胴体に、人間の脳みその頭をつけて、左右に大たい骨を何対も、昆虫の足のように生やした"生き物"なんて。だが、これら『解剖図』、『博物図鑑』シリーズは、キモくてえぐいものではあれ、あまりピンとこなかった。なんでだろうと思いつつ眺めていて、ある作品を見てピンと来た。これらが動いている状態を想像できない、言い換えれば作り物感が強すぎるのだ。その作品は、それが肉をまとい、動いている様を想像できる、数少ないものだった。これはわざとじゃないか。つまり、創造物はあくまでも作り物なのだ。そういう作り手の思慮が窺えるように思えた。
 最初の部屋に、『人間が生き物たちを絶滅に追いやっている今、私たちに出来るのはそれらをアートの世界に再構成して生き延びさせることだけだ』*1なんていうヤンの言葉が掲げられている。なんだってそんな結論に至ったのか、その経緯は分からないが、あるいは彼らが、そしてチェコが担った歴史が、そう確信させているのではないかと思った。特にエヴァには、『芸術は現実を変えうる。なぜならば芸術も現実の一部なのだから』という思想がうかがえる。彼らの表現法であるシュールレアリスムにせよ、マニエリスムとしての立場にせよ、虚構を通して現実を扱う立場といえよう。いえようって、僕がそう思っているだけだがな。そして彼らには、まさに現実を変えた=チェコを自分たちの思う世界へと導く助力になった、という自負があるように思われた。
 美術館を出て、沈んでゆく夕陽と競うようにして、境川へと急いだ。南端の休憩所にたどり着く頃には、既に日は没していた。辺りは既に暗い。ハブダイナモは便利だなと思いつつ、帰宅。走行距離70km弱。葉山館は、中途半端に遠い。

2005年10月02日(日曜日)

猛烈なる安っぽさ~篠原有司男展

19時26分 思考 天気:晴れ

 さて、今日くらいはちょっと走ってこようかな。昼過ぎ、長後のCoCo壱番屋で久しぶりにカレーを食って、境川沿いに下り始めた。自転車はMasterXLだったので、今からでも葉山まで往復するのは余裕のはずだ。葉山の神奈川県立近代美術館葉山館に行ってくるつもりだった。
 しかし、この陽気が俺様の脳髄に染みとおってくる。逗子~葉山の狭い道を、必死に走るのはアホらしい。もういいや、鎌倉館の方に行こう(意志力皆無)。鎌倉館には、まだ入ったこと無いしな。
 鎌倉までは、海沿いルートを走った。鎌倉までは、色んなルートを通ってきたが、結局はここがいちばん楽なのかもしれない。道幅が十分あるのと、ほぼ平坦だからだ。車は鎌倉駅裏に続く道の方が少ないが、狭くて車と張り合わざるを得ないのが難点だ。
 鎌倉館の駐輪場にMasterXLを停め、900円なりを支払って入館した。ちょっとお高い気はしたが、これで別館も入れるのがお得なところ。
 鎌倉館での催しは、篠原有司男展だった。このオッサン知ってるぜ。ペンキまみれになりながら、白いキャンバスをバシバシ殴りつけてるのをテレビでやっていた。
 入ると、いきなり大判のキャンバスにド派手な色彩がぶちまけられたような、奇妙な絵に出くわした。この人、基本的に小さなものはあまり描かないようだ。見ているうちに、頭がくらくらと酩酊してくるような色彩だ。それも、悪酔いの方だろう。
 毒気に当てられながら、次の作品を見る。最初の展示室には、大判の絵の他、大きなモータサイクルのオブジェもあった。これが潔いくらい、正面斜め前からの観望"だけ"考えているような代物だった。すげえデフォルメだなと思いつつ、ちょっと毒気に当てられた気分で次に。
 ほとんど、こういう作品ばかりだった。そして問題のボクシングペイント。なんというか、こんにゃろこんにゃろこんにゃろこんにゃろこんちくしょー、という芸術家の意気込みだけが伝わってくるようなものだった。
 それにしても、全ての作品に共通する安っぽさはなんだろう。木材とアクリルボードと襤褸切れで出来たようなオブジェ、わざわざ見るのが嫌になるようなものばかりを選んだような色彩。
 しかし、見ているうちに、これは芸術家がまさしく意図したものではないかと思い始めた。確かに全てが安っぽい。しかし、そこに置かれている作品の一つ一つには、表層的な安っぽさなど吹き飛ばしてしまうような、中から突き上げてくるような迫力が漲っている。オブジェはそのマスをずっしりと感じさせられるし、絵画は描かれた者たちの烈しい主張に打ちのめされるようだ。後期になるほど、登場人物のモンスター化は進んでいるようで、とうとう目ん玉が飛び出してまでくる始末だ。だが、人間がモノから感じる質感*1は案外に騙しやすいもので、往々にして宛にならんという場面もある。これらの作品群は、そうした表面的な質感を内からぶち抜いて、その主張するところを適当かつ乱雑にワーッと叩きつけるような、異様な迫力がある。『汝、クオリアに騙される無かれ』、という芸術家の強い主張を空耳したような気分になった。お高く留まった高踏芸術の対極にあるだろう。とはいえ、ほとんどの作品を前にしての僕の態度は、アホのようにぽかんと見上げているばかりだったのだが。
 一通り見終わって、外へと抜けてゆくところで、一人のオッサンが館員を前になにやら滔々と述べているところに出くわした。美術館でこれは迷惑だな、と思いつつ、外に出た。そこで気づいたのだが、もしかして、今のオッサンこそが、恐らくは篠原有司男その人だったのでは無かろうか。
 ついでに別館にも立ち寄る。ごく近所だろうと、歩きにくいSPD-SLなシューズのまま、徒歩で向かったのだが、案外に遠い。北鎌倉への道の、傾斜が始まった辺りにあった。
 別館では『彫刻家のペーパーワークと彫刻展』が開かれていた。国内の現代彫刻家たちの作品と、彼らが書いたペーパーワークとが展示されている。彫刻家の中には、もちろんいきなりモノと格闘する人もいるのだろう。でも、多くの彫刻家は、まず頭の中で、そして次に紙の上に、モノとして表現すべき作品の構想を描くのだろう。この展示では、そうした企画としてのペーパーワークも多かった。しかし、一つの作品として独立したものも多かった。
 彫刻家が紙に描くという行為は、多分芸術家としての素養の一つであって、前提条件とさえいえるのだろう。だから、デッサンの一つであれ、もちろん作品としてであれ、プロとしての手馴れた手業を感じさせるものばかりだ。だが、紙に書かれるものには、実際には現実世界では表現不可能なものもあるはず。僕は、そういった彫刻家たちの"粗相"を拝めるのではないかと期待していたのだが、案外にそうしたものは皆無だった。もちろん、作品として描かれたものには、現実には不可能なものも多かったのだが。しかし、あくまでもデッサンの一つとして紙を扱った作家、作品としてモノと同列に扱った作家、様々だったが、モノの質感を越えるものはなかったように思えた。
 日暮れ時の境川を戻り、帰宅した。