Strange Days

2000年08月27日(日曜日)

世紀を越えて

22時35分 テレビ

 今回の「世紀を超えて」は、超微細機械の話題だった。
 日本ではその全長がミリ単位、構成部品に至ってはマイクロメートル単位の「マイクロマシン」の研究が進んでいる。マイクロマシンの研究は'90年代初頭に一部の学者たちが研究会を作り、進めてきたものだ。この微細な機械の製造には、マイクロプロセッサの製造技術が応用されている。つまり感光、エッチングという工程をいくつも組み合わせ、最終的に超微細な部品の製造を実現するのだ。
 マイクロマシンはどのような用途に使われるのだろう。まず医療への応用が期待されている。医療の現場では、手術の際に患者に与えるダメージを減少させることを目論み、できるだけ切開が少なくて済むマイクロマシンの開発が急がれている。さらに体外からの切開では到達が難しい体内奥深くへのアクセスや、脳内の動脈瘤などの微細な患部へのアクセスへの適用も考えられている。また原発の内部など、人によるアクセスが難しい入り組んだ場所への適用も考えられている。特に原発の熱系統などの過酷な場所では、微細な損傷が大きな事故につながる可能性が高い。そこで微細な損傷の検知も可能なマイクロマシンへの期待が大きいというわけだ。
 アメリカではさらに小さなナノマシンの概念が取り上げられている。'60年代にファインマンが予言したように、いまや原子一個の操作すら可能になっている。そこでこの原子配列の加工技術により、原子数個で構成されるほどの微細な部品を作ろうという試みが続けられているのだ。原子数個というサイズの部品になると、原子そのものが内部構造をもっている関係で原子同士はある程度自由度のある結びつきをする。そのため、ナノマシンが動作する状況のシミュレーションを見ると、ナノマシン全体がうねうねと動き、なにや生物的でいかがわしく感じられるのが楽しい。
 ナノマシンはやはり医療への適用が考えられている。これほどのサイズになると細胞一つ一つの処置が可能になるので、人体内部で絶えず欠損し、癌化の危険性がある損傷細胞を修復することが可能になるという。
 それにしてもこれほど小さな機械になると、その存在を検出したり排除したりするのが難しくなるだろうと思われる。万が一暴走したらどう対処するつもりなのか、応用の可能性はようやく検討され始めたばかりというのが実情だろう。

2000年08月26日(土曜日)

サイエンスアイ

23時55分 テレビ

 23:30からのサイエンス・アイは例の国際宇宙ステーションの話題だ。これはNASA、ESA、NASDA、そしてロシア宇宙局などが参加している恒久的な宇宙ステーション計画のことだ。ロシアの財政難などによりかれこれ2年以上遅れている計画だが、番組を見た限りではロシアだけを責めるわけにはいかないようだ。最初の一歩から、すなわちレーガン政権下でFreedomとして企画されたときから、ボタンの掛け違いは始まっていたようだ。当時のNASAは計画を生き残らせるため、意図的に見積額を低く算定したのだ。そして実は技術的にもNASA単独では遂行できないことが明らかになった。スカイラブ以来、長期滞在の経験がないアメリカは、恒久的な宇宙ステーションの実現に必須な空気、水のリサイクル技術を持っていなかったのだ。つまり、計画の実現にはロシアの参加が不可欠だったということになるのだろう。また資金的にもアメリカ単独ではまったく賄えないことは明らかだった。アメリカが広げた大風呂敷を実現するために、他の国の参加は必然だったのだ。やれやれだ。

2000年08月20日(日曜日)

NHKスペシャル「世紀を越えて」

23時15分 テレビ

 今夜は久しぶりに「世紀を越えて」があった。新シリーズではテクノロジーの発達に焦点を合わせるようだ。
 去年、日産から新型車の発表があり、世界中の自動車関係者の注目を集めた。注目を集めたのは、実は新型の変速機だった。この車は新しいタイプの無断階変速機(CVT)を搭載していたのだ。
 CVTは90年代に入って相次いで登場したが、その概念は古く、自動車の登場とほぼ同時だったといってよい。動力軸の終点と駆動軸の始点に円盤を取り付け、その二つを直行させて接触させる。その接触点を変えることで駆動力を無断階に伝達できるというのが原型だ。しかし初期のCVTは伝達部分の磨耗が激しく、車の能力が向上するに従って姿を消した。
 '70年代、オイルショックがCVTの再登場を促した。当時も今も変速機の主流はギアを使った機械式変速機だが、これは大動力の伝達にも耐えられるものの、機械内部での動力ロスが大きいという欠点があった。これを改善すれば莫大な量の石油を節約できると見たアメリカは、国を挙げてのCVT開発に乗り出したのだ。
 この動きを日本のメーカーも見ていた。動力ロスの少ないCVTを実用化できれば、自動車の燃費をさらに伸ばせる。メーカーの一つ、日本精工でも、若手技術者をCVT開発要員に当てて、独自に開発を始めた。
 CVTにはいくつもの形式がある。'90年代初頭に富士重工が開発したのはベルト式の物だが、これは大動力の駆動には向かないとされる。またベルト自身のフリクション・ロスも大きい。伝達に流体を使う形式も考えられるが、原理的に動力ロスが非常に大きくなってしまう。CVTは結局隔たった動力軸と出力軸の間をなにで繋ぐかが問題になる。日本精工が選んだのは、アメリカの発明家が研究していたローラーを使用する形式だった。二つの軸の端に取り付けたディスクで二つのローラーを挟む。このローラーの角度を変化させると、それぞれのディスクでの接触位置が変化する。これにより各軸間の伝達比を自由に変化させることができる。日本精工の技術者はこの発明家との共同研究を進めた。
 最初の試作機を搭載しての耐久試験は、しかし潤滑油に起因する障害で失敗に終わった。このCVTでは特殊なオイルを使って各軸、各ローラー間の焼きつきを防ごうとしている。オイルは各部品の接触面に膜を作り、ごく小さな間隙を確保することで接触を防ぐ。しかしこのままでは部品間にすべりを生じ、動力の伝達ロスが大きくなる。この発明の核心はオイルの性質にある。すなわち高圧がかかると固化する特殊なオイルを使い、肝心の接触部ですべりを防ごうというものなのだ。ところがこのオイルは超高温、高圧になる接触部の過酷な状況に耐えられず、分子がばらばらに切断されてオイルとしての用を成さなくなってしまったのだ。
 日本に帰国した技術者は、より耐久性の高いオイルを求めて日本石油の技術者とコンタクトを取った。この技術者は潤滑性の高い新型オイルを相次いでリリースしていたのだが、過酷条件で確実に「滑らない」オイルの開発という要求に驚いたという。しかし500に上る物質の分子形状を洗い直し、検討に検討を重ねた結果、意外なヒントにより滑る/滑らないという二律相反する性質のオイルを開発することに成功した。ヒントは作業服に縫い付けられたマジックテープだった。マジックテープは水平方向に引くと決してはがれないが、垂直に引くと簡単に外れる。このマジックテープの接触部の形状をヒントに、新しい潤滑油の開発が成されたのだ。
 このオイルを得たCVT開発は新しい段階に進んだが、ここでまたしても新しい課題に直面した。このオイルを用いての耐久テストを実施中、部品の破損という深刻な問題が発生したのだ。原因は部品を形成している鉄の質にあった。当時最高級の鉄を用いていたのだが、それでも僅かな不純物が混入している。通常の部品としてならなんら問題にならない程度の不純物が、CVT内部の苛酷環境では破断を生むのだ。
 この問題は素材のメーカー、山陽特殊製鋼に委ねられた。高純度の鉄は、溶解した鉄に吸引ポンプを差し込み、含有している酸素を吸い出すことで得られる。しかしこの吸引ポンプ差込のとき、径の大きな吸引ポンプにスラグが取り込まれ、これが溶け出してしまうことで不純物を残す要因となっていた。この問題は現場の職人のアイデアで解消されたという。吸引ポンプに薄い金属で出来た覆い(陣笠という)を着けるのだ。この覆いは溶解した鉄に差し込んだときに、表面のスラグを取り除けてくれるが、間もなく完全に溶解してしまう。この結果、吸引口にはスラグが取り込まれず、高純度の鉄を得ることが出来た。
 いわば究極のオイル、究極の鉄を得たことで、CVTはいよいよ実用間近と思われた。この頃には日産が研究に参加し、実用化に向けて走り出していたのだ。ところが、ここでまたしても大問題に突き当たった。
 日産は大出力向けのこの方式のCVTを、自社の大排気量車に搭載したいと考えた。そこで小型車向けに考えられていたプロジェクトを改め、大動力を伝達可能な設計に改めた。そしてこれを耐久試験にかけたところ、今度はローラーの破断という恐ろしい現象に見舞われるようになったのだ。現象的には、ローラーの破断面に白色組織と呼ばれる変質が表れていた。
 全ての関係者による原因究明が進められた結果、意外な事実が明らかになった。このCVTのために開発された新型オイルと、強い相関を持つことが分かったのだ。日石の技術者は丹念にチェックを行い、最後にようやく原因を突き止めた。オイルの添加物に問題があったのだ。
 オイルは基本となる潤滑油の他に、その性質を改善するために様々な添加物が加えられる。日石では耐久テストに向けての最後の調整として、硫黄化合物の一種を添加していた。ところがこの物質が苛酷環境で変質し、ローラーの表面を侵し、その内部に水素を浸透させてしまったのが白色組織の成因と考えられた。そしてこの化合物を別の物質に変えたところ、ついに問題は解決された。CVTはようやく実用化されたのだ。
 このCVTは市場に出るなり大きなインパクトを与えた。しかし既にCVTという技術に対する開発競争は激化している。このCVTはライバルメーカーによって調査され、これに打ち勝つ技術の開発が進められているのだ。この開発競争無くして20世紀における技術の進歩はあり得なかったろう。しかしその行き着く先を誰も考えてないのが面白い。速く走ることに夢中で、どこに向けて走っているのか、誰も確信していないのだ。果たして21世紀にも同じ傾向が続くのかは、まったく予見できないことだが。

2000年08月19日(土曜日)

NHKスペシャル「4大文明」

23時11分 テレビ

 21:00からのNHKスペシャルは「4大文明」最終回の「エピローグ謎のマヤ・アンデス」。
 今まで登場したエジプト、メソポタミア、インダス、そして中国の4大文明は、いずれもユーラシア大陸の周縁部に栄えた文明だ。これらの文明は長い距離を隔てながらも、陸路で到達できるという有利さから交通があり、それぞれの文明に影響を与え合った。これらの文明に似通った点が多いのは、実はそうした理由からなのだ。
 しかし地球上にはユーラシア大陸周縁部以外にも古代文明があった。それはユーラシア大陸とは広い海で隔離された別天地、アメリカ大陸にだった。
 マヤ文明は中米のメキシコ南部のユカタン半島に栄えた文明で、メソ・アメリカの文明という括りでいえば4500年ほど前に勃興したという。中米という隔絶した地にありながら、4大文明とさほど変わらぬ時期に勃興したという事実が面白い。
 4大文明がそれぞれ大河のほとりに興り、その豊かな水を灌漑で用いるという方法で農業を延ばしたのに対し、マヤ文明は灌漑を一切用いない焼き畑農業を採った。焼き畑農業は乾季の終わりに森を焼き開き、雨期の始まりとともに熱帯の豊富な雨が降り注ぐことで成り立つ。そのため、季節の変わり目を4大文明並みに、あるいはそれ以上に精密に知る必要があり、天文学が発達し、精密な暦が編まれた。そしてマヤ文明は巨大な神殿を築き、そこに無数の生け贄を捧げたのだ。
 マヤ文明が生け贄を盛んに捧げたのは、近縁のアステカ文明を見聞した欧州人たちの記録からもうかがえる(もっとも、マヤに比較するとアステカは「ひどすぎる」ものだったらしいが)。中米における文明は、やはり中米に栄えたオルメカ文明に端を発する。マヤやアステカの暦は、実はオルメカのそれを発展させたものだという説もあり、強い影響下にあったことは間違いない。そしてこのオルメカの頃には既に生け贄の風習があったようだ。中米の文明はある文明が衰退するとその周辺の別の部族が簒奪するという風に回転していったのだが、その結果中米では非常に等質性の高い文明形態が編まれていった。
 マヤの人々は太陽のことを恒久的な存在ではなく、人間からの働きかけがないと衰退してしまう存在だと考えた。太陽も養分を欲しがるというのだ。そして太陽の養分として最適なのが、人間の血だと考えられた。その結果、生け贄が非常に重視されることになる。天変地異があれば、雨が降らなければ、長雨ならば、頻繁に生け贄が捧げられた。
 生け贄が多かったのは彼らが残酷で命を軽んじていたからだとは限らない。メソ・アメリカの生命観の特徴は、この世はヒトをその他のものが取り囲み、対立するというものではなく、それらすべてが同じ世界に属するという点にある。キリスト教的な価値観のようにすべてをヒトの対立項に置くことで軽重を量ろうと考えるのではない。人の命と、太陽の健康とは等価なのだ。彼らは太陽に対して「思いやり」があったのかもしれない。しかし、生け贄にされる方は、いかに宗教的な価値観に裏打ちされていたといえど、やっぱりたまったものではなかったのではないだろうか。なにせ、生け贄は心臓をえぐり出され、生皮をはがれたそうだから。
 マヤ文明自身は西暦800年頃に突然衰退してしまう。番組では人口が増大して食料を賄えなくなったためという説を取っている。しかし異説もある。マヤ文明の暦に秘密があるという説だ。マヤ文明の暦は256年ごとに大きな周期を繰り返している。この大周期が文明の盛衰に当たるという文明観を持った結果、その256年が到来した頃(ちょうどA.D.800辺りだったらしい)に文明の終末を信じて都市から去ってしまったという説だ。もしそうならば、文明観が文明自身の寿命を決めたことになり、大変面白い説だと思う。番組の説に沿っていえば、文明の衰亡を信じた人々、特に農業に当たっている農奴が逃亡した結果、食料調達が不可能になって滅亡した、とも考えられる。また生け贄に勤しんだ結果、文明にとって最大の資源である人間を殺しすぎたとも考えられる。いずれにせよ、マヤ文明も4大文明と同じく人口増による飢饉で亡びた可能性はあるわけである。ここから蘇ったのは中国古代文明だけだ。
 マヤ文明はアステカ文明に受け継がれたが、これもちょうどスペイン人が到来する直前に滅亡状態になっている。
 しかし最盛期にスペイン人の侵略を受け、滅亡してしまった文明もある。インカ文明だ。
 インカ文明は、やはり4000年以上前に勃興したプレ・インカ文明に端を発する。それが長い間に発展し、スペイン人到来の頃、西暦1500年の頃にはアンデス山中にまたがる一大帝国として統一されていた。
 インカ帝国を支えたのは、高度差を利用した農業だった。高地ではトウモロコシやじゃがいも、低地では果物などを作り、栄養を確保していた。さらに、太平洋岸にまで降りて海藻も採っていたらしい。当然、海辺と高地の交易も盛んだったろう。こうして富が蓄えられていったのだ。
 インカの特色は、鉄器も文字も持たなかった点だ。しかし高度な天文学の知識があり、様々な天測用の建築物が建てられた。それが文字の替わりに知識を伝える一助を担ったのだろう。
 インカ帝国の最後は良く知られているように悲惨だ。インカ文明は洗練された技術を持ち、高度な社会組織を持っていたが、こと戦争となると悪逆なまでに強い西欧文明の侵略を受け、ひとたまりもなく亡びてしまった。インカが接触していた文明は、遠距離にまで波及する余力のないメソ・アメリカ文明だけで、それだけに「外部」という意識が希薄だったのだろう。
 人口増による自然破壊で衰亡したメソ・アメリカの文明とともに、インカ文明の最後は文明の本質を垣間見させる。文明とは物差しだ、という説を司馬遼太郎が唱えたが、それに即していえば戦争という物差しの下にインカ文明は西欧文明に敗れたのだ、といわざるを得ない。なぜ物差しとして戦争だったのかといえば、それは偶々だったのではないだろうか。文明が接触するとき、どのような物差しが当てられ、それぞれの文明の「優劣」が量られるかは一様ではないだろう(戦争が多いとはいえるが)。しかし一度交通が成立すれば優劣を定めずにはいられないのが文明の本質だと思う。生まれ出でて以来の孤立で、優劣を量られるという試練を経験しなかったインカ文明の悲劇だったのだろう。
 実は10世紀にはバイキングたちがグリーンランド経由で北米に到達しており、また神話に近いがフェニキア人も北米に植民地を持っていたという説がある。もしそうならば、メソ・アメリカ、さらにはアンデスにまで、これら冒険心に富んだ人々が足を伸ばし、これらの地域の人々が「外部」の実態に触れる機会も皆無ではなかったはずだ。もしもそんなことが起きていたのなら、両米大陸における古代文明の存在も、謎とはならずに済んだのかもしれないのにと残念に思う。

2000年08月13日(日曜日)

テレビ

10時55分 テレビ 天気:晴れました

 それにしても、人はなんだってテレビを見つづけるのだろう。
 実家に帰ってびっくりするのは、母や兄がずっとテレビを見ているということだ。朝起きて、夜寝るまで、外出する時間を除いてずっと見つづけている。いや実際にはあまり見てないのだが、暇なときにフッと空虚な時間があるのを避けたいという心理が働いているのだろう。
 しかし僕だって実家にいた頃はそうだったはずで、いつのまにかテレビを見なくても生きて行けるように自分を改造してしまったらしい。その代わりに時間を埋めているのは、まあやっぱりパソコンなんだろうか。あんまり変わり映えしない面は否定できない。何も無い時間は確かに少し怖いからな。

2000年08月06日(日曜日)

8/6

22時45分 テレビ 天気:晴れ BGM:HIROSHIMA MON AMOUR/ALCATRAZZ

 またもや爆睡に次ぐ爆睡に尽きた一日。Diablo2やりすぎです、はい。
 さすがに夕方には起きだして、いずみ野方面にちと散歩。本屋に寄って軍事モノのコーナーで立ち読みし、WW2終結時の帝国海軍残存艦艇について当りをつけた。
 帰宅して、夕食を取ってベランダに双眼鏡を持ち出したが、今夜は雲が多くて観望は断念した。そう毎日好機が続くわけがないのだな。
 21:00からのNHKスペシャルは、「オ願ヒオ知ラセ下サイ」。日が日だけに広島の原爆投下にまつわる話題だ。
 広島市街にある袋町小学校は、原爆ドームから500mの位置にある。原爆投下当時、この学校の校舎も大きな損害を受けたが、焼け残った校舎を利用して臨時の救護所が設けられた。
 最近、この校舎がついに取り壊されることになった。そこで壁に塗られた漆喰の一部を剥がしてみると、その下に被爆当時に書かれたと見られる伝言があった。調査のために慎重に壁の上塗りなどを剥がしてゆくに従い、新しい伝言が次々に見つかった。被爆当時、この校舎に人探しの伝言が多数書き出されたことは知られていたが、現代にいたるまで残されていたというのは意外なことだったという。
 広島市のある女性は、その中に姉の名を見出した。その姉は被爆時、路面電車に乗り合わせていたことが分かっている。しかしその後の消息は不明で、今に至るまで生死が確認されていない。女性は、姉が市電から這い出して、川原で息絶えたものと考えていた。それほど苦しむ時間がなかったろうと、そればかりを救いのように考えていた。ところが、やや離れた袋町まで姉が運び込まれていたとすれば話は別だ。姉はかなり苦しんだかもしれない。女性は、そのような複雑な感情を抱いたという。
 しかし、専門家が参加しての解読作業により、実は名前の誤読であることがわかった。そのことを知らされたこの女性はさほど落胆の色を見せなかった。姉はやはりさほどの時を置かずに逝ったのだろうと考えられるからだ。
 誤読された本当の名前の持ち主は、実は袋町小学校の近隣に建つ医院に住み込みで働いていた、別の女性のものであることが分かった。伝言を書いたのは、この女性の世羅郡に住む母親だった。女性の家族は、被爆直後から何度も女性を探しに来たのだが、ついに探し出せず、遂に女性が死んだもの考えるようになった。しかし母親だけは諦めきれず、娘の消息を尋ねる伝言を書き残したのだった。
 情けない話だが、番組を見ながらやはりどうしても目頭が熱くなるの抑えきれなかった。こういう話にはどうにも弱いのだ。被爆直後の極限下で、それでも家族の消息を必死に求める人々の姿には、どうにも心が動かされてしまう。しかしこうした体験を伝えることは、果たして核兵器を無くすという被爆者たちの悲願に、どれほど役立っているのだろうか。
 昨夜のNHKスペシャルで取り上げられたように、核兵器廃絶という目的に大きな意味を持つのは、実は国家と国家の利害を巡っての駆け引きなのだ。新アジェンダ連合を動かしているのは広島、長崎の被爆体験などではなく、核兵器という巨大な火力に自国の国益が損なわれるかもしれないという恐怖なのだ。細かい部分を端折れば、ほぼそういってよいように思う。もちろん、新アジェンダ連合に連なる国々も知識としては日本での被爆体験を心得ているだろう。しかし自国から遠く離れた、しかも過去の死者がどれほど多かろうと、それは自分たちの利益と関わりの薄い事項でしかない。被爆体験という細々とした肉声を除いた数字の塊だけが、これらの国々にとって意味を持つに過ぎない。自国でも同じだけの死者を出すかもしれないという被害可能性だけがこれらの諸国に共有され、非核へと向かう原動力になっているのである。被爆体験は、各国の国益に沿って都合よく類型化されているのだ。
 しかし、実は「被爆体験の類型化」というのは、その発信元である日本でさえも既に進行しているのではないだろうか。僕たちが接する被爆体験は、必ずといってよいほどその悲惨さと残酷さを伝えるものだ。だがなにかがすっぽり抜け落ちてはいないだろうか。それはそのような運命をもたらした者たちに対する「怒り」だ。
 被爆者たちは、そして彼らを目にした人々は、そのような残酷な運命を強いた大日本帝国、そしてアメリカ、さらには当時の世界に対する怒りを抱かなかったのだろうか。そして彼らに直接的に報復しようとは考えなかったのだろうか。
 僕が目にする「被爆者の怒りの姿」といえば、平和公園での座り込みと、世界中の大都市で行われるデモ行進だけだ。だがそれらのお行儀の良い抗議行動が伝えられるものは、「被爆者の悲しみ」といったようなお行儀の良い、清められた「怒り」に過ぎないのではないだろうか。例えばアメリカにとって、自国民でもない日本国民がいかに苦痛を感じようとも、自国の国益になんら影響が無ければ無視しても構わない事項だ。広島、長崎で繰り広げられる抗議行動にせよ、あちこちの政治団体が主催するそれにせよ、アメリカにとっては安保闘争ほどの深刻さすら持たない政治行動に過ぎない。もしかしたら、ある種の風物詩としてすら見ているかもしれない。そして原水禁だの原水協だのといったふうに、政治団体別に無意味に並立する抗議集会の意味付けは、まさにナマの怒りとはかけ離れた純政治的行動に過ぎない。共産党風の、社会党風の「怒り」などにわずかでも意味はあるのだろうか。愚行というほか無い。
 被爆体験にはもっと伝えるべき形があったのではないだろうか。それは例えば、被爆者一人一人が拳銃を手にし、昭和天皇や旧軍部を、そしてアメリカのトルーマン、メイ、アインシュタイン、ファインマン、さらにはエノラ・ゲイの乗員などを暗殺に向かう。そのような直接的な行動でしか伝えられない種類の「怒り」こそが、実は核保有国にとって最大の脅威になりうる「怒り」足りえたのではなかっただろうか。単に「被爆しました。悲しかったです」という作文を送りつけるだけでは、例えばライフ誌のベトナム報道写真ほどの訴求力も持ち得ないだろうと思うのだ。こう考えてくると、被爆体験の持続性というものに対して絶望的な想いを抱かざるを得ない。
 いずれにせよ、被爆者の平均年齢が70歳を越えている今、生の被爆体験が滅却されていくのはもう避けられないだろう。本当に非核の世界を目指すのなら、原爆記念日のたびに金切り声を上げているという様式化された方法論は、いいかげん見直さざるを得ないのではないだろうか。