Strange Days

2000年09月24日(日曜日)

テレビ見たよ

22時30分 テレビ

 今夜のNHKスペシャルは、ようやくオリンピック縛りから逃れての新展開だ。というか通常営業なんですけど。今夜はスーダン内戦とその過程で出た多くの難民の命を支える国連援助活動の話題。
 スーダンは北部がイスラム圏、南部が中央アフリカのネイティブ・アフリカ圏と接している。北部にはイスラム化したアラブ系住民、南部にはキリスト教などを信仰する黒人系住民が分布している。これらの人々は、長い間に大きないさかいも無く暮らしてきた。しかし'80年代に北部のイスラム系住民が掌握する政府が、急進的なイスラム政策を推し進めようとしたことから、宗教弾圧を懸念する南部の住民との間に内戦が勃発したのだ。今は南部の広範な地域を拠点とするスーダン人民解放軍と、北部の政府軍とが、南部の都市部を中心に激戦を繰り広げている。以来10年条経過しているが、いまだに終息する気配はいない。
 紛争が長期化している背景には、南部に豊富な石油資源が眠っているという事実がある。これが無ければ、あるいは北部のイスラム政権も、南部の住民にある程度の自治を認めることで終息したかもしれない。しかし石油資源が存在する以上、南部の住民の自治をびた一文足りとも認めるわけには行かなくなったのだろう。
 南部でゲリラ戦を繰り広げるスーダン人民解放軍にも問題がある。彼らが非常に精強ならば南部を完全に掌握することで内戦をこう着状態に持ち込めた可能性がある。しかし装備に勝る政府軍に対して都市周辺でのゲリラ戦を挑むしかなく、また南部の全ての部族が解放軍に同心しているわけでもないため、十分な掌握が出来てないのだ。その結果、南部では熾烈な殲滅戦が延々と続くことになり、都市を追われた住民や、農地の耕作が不可能になった農民が難民化し、食糧事情が極端に悪化しているのだ。そして彼ら難民の命を支えているのが、国連による食糧援助活動だ。
 国連は周辺諸国から、トラックを使って直接食料を難民キャンプに送り込んでいる。その輸送を請け負っているのは、なんと周辺諸国の民間業者だという。この仕事は非常に報酬が大きいので、危険に関わらず請け負っているという。実際、トラック群が行く道は地雷が敷設されている可能性があり、また正体不明の武装勢力による攻撃がしばしばあり、コンボイに死傷者が出ることも度々だという。人民解放軍はこれらのトラックの通行料などを徴収するが、身の安全を保障するわけではない。また政府軍機もしばしば空爆を繰り返すので、四方八方に危険が満ちているといっても過言ではないのだ。
 こうした援助活動は、実は飢餓の長期化を帰って推し進めるという主張がある。番組中でも住民の依存心が強まる一方で、自立する気持ちが薄れていることが描き出されていた。またこうした無償の食糧援助は、これらの地域本来の商業活動を効果的に破壊してしまうという指摘もある。いつぞやの他の番組での話だが、ノーベル賞受賞者の経済学者、セン博士が、「飢餓は食料全量の確保が足らないためだけではなく、流通がうまく機能してないためにも起こる」と話していたのを見た記憶がある。そのような目で見れば、例えばベトナム戦争中でさえもベトナムの農民は危険と隣り合わせのまま食料を生産しつづけていたのであり、その結果ベトナムでは餓死者が出るような飢饉はあまり見られなかった。問題は農民が危険を冒してまで農事に従事できる動機をもてるかどうかだ。そしてさらに効率的な流通機構が整っていれば、これほどまでに深刻な飢餓が長期化することも無かったのではないか。国連の配給する無償の食糧は、農民に死ぬ気で農作業を実施する動機を奪い、さらに戦地での脆弱な流通機構を破壊してしまっているという可能性は否定できないように思う。
 しかし僕だって砲弾が降り注ぐ中での農作業はゴメンだし、実際に飢えている人がいるのに「自分で何とかしろ」とはいえない。難民たちの気持ち、そしてその救援活動に従事する人々の止むに止まれぬ気持ちも良く分かるのだ。
 なんとも割り切れない気持ちだが、この紛争は結局どちらかの勢力が強大化するか、あるいはこれらの土地の価値が下落するかしないと終息しないだろう。煮え切らない紛争を前に、「国連軍の強化」という甘い夢を主張する人々の気持ちも、あながち分からないでもないような気がする。

2000年09月23日(土曜日)

テレビ見た

23時55分 テレビ

 今日も今日とてオリンピックばっか。23:00からの国宝探訪でようやく一息つく。
 今夜は兵庫県にある浄土堂というお堂を取り上げた。このお堂と、そしてそこに収められている3体の仏像が国宝に指定されている。この寺は鎌倉期の東大寺再建に功があった僧、重源の建てたもので、再建資金に充てる浄財を募る際に建てられたものだ。重源はそこで戦乱に苦しむ民衆の声を聞き、当時信仰を集めていた阿弥陀菩薩の来迎をこの目で見たいという願いが大きいことを見抜いた。そしてまさにその阿弥陀来迎を再現してみせた巨大ジオラマが、この浄土堂なのだ。
 重源は宋に渡ること三度という。その宋で見聞した新しい様式を取り入れて建造したのが浄土堂であり、弥勒菩薩像だったのだ。
 浄土堂は外光を巧みに利用している。夕暮れ時、西日が差す頃に西側から外光を取り入れると、その暖色の光が黄金色の弥勒像をまるで後光のように照らし出し、荘厳な光景を作り出す。番組中登場した建築家は、建物と菩薩像がせめぎ合っているという。建物を設計したのは重源だが、弥勒像は各地の仁王像に名を残す運慶の作だ。信仰心に裏打ちされた技術が、気迫のこもった美を後世に伝えることになったのだ。僕もいつかは、夕暮れ時に沈んで行く弥勒像を眺めに行きたいものだ。

2000年09月09日(土曜日)

寝過ぎですよあなた

22時03分 テレビ 天気:晴れ

 前日寝たのが4:00頃だったろうか。目が覚めたのはなんと17:00。それ以前に14:00頃に起きだした記憶は在るのだが、どうもまた寝床に逆戻りしたらしい。これでは日記に「今朝起きたら夜だったので寝た」くらいしか書けないではないか。それにしても、二度寝の快感は捨てがたい。
 スーパーに出かけた。盛んに「食欲の秋」を連呼していたので、思わずキノコだの野菜だのを買い集めて鍋をすることに決定した。季節的にまだ暑かったが、うむ、美味なり。
 思ったより大量になった寄せ鍋を片付けていると、ETVの「国宝探訪」が始まった。今夜は京都の東寺講堂にある立体曼陀羅の話題。
 東寺は京の守りの一角として建立された寺で、空海が責任者に任命された後は真言宗の中心となった。高野山が総本山なら東寺は朝廷との外交機関だったのだろうか。空海と言えば辞を低くして教えを請うた最澄を追い返した鼻持ちならない奴というイメージがあるが、同時に現実的な感覚に優れた活動的な人というイメージも在る。最澄のような(言い方は悪いが)学者バカと異なり、政治的な感覚をふんだんに備えた事業者という側面が非常に強い。日本中あちこちの残る(全部が空海自身の仕業とは思えないが)土木事業者としての彼の足跡を見てもわかるように、なにかの概念に現実的な形を与えるのが得意だったように思う。
 その空海を責任者にしたのだから、東寺に大掛かりな建造物が次々に建立されるのも必然だったろう。意味付けはいろいろ在るのだろうが、とにかく作りたかったというのが本音だったのではないだろうか。その空海が最後に情熱を傾けたのが、唐より持ち帰った曼陀羅を仏像で表現しようという立体曼陀羅だ。これは密教で世界の中心に位置し世界を理解する智慧を表す大日如来を置き、向かって右手に5体の菩薩、左手には同じく5体の明王を配したものだ。1体でも古刹の本尊足りうる程の仏像をこれだけ配したものだから、そのマスの迫力は相当なものだと思われる。当時の人々は、マンハッタンを目にした移民くらいのインパクトを感じたのではないだろうか。
 これらの仏像群には、内部に仏舎利が収められていることが分かっている。唐から持ち帰った貴重な仏舎利を封じたことからも、空海の思い入れの強さが分かる。先に書いたように空海は概念に形を与えることを追求してきた人だったのだから、密教の本質を大掛かりな立体曼陀羅に顕す事はその生涯の集大成のように思えたのだろう。事実、空海は完成を見ずして亡くなったので、結果的にも集大成となった。
 曼陀羅というものが人間の世界認識の根底に関わっているというユングや仏教の主張は怪しいものだと思うが、図形としての曼陀羅には確かにあらがい難い魅力が秘められているようにも思える。空海という人は、その曼陀羅から様々な啓示を受けて形にしていった人だ。そのような定義付けをしたくもなる。

2000年09月02日(土曜日)

ちょっとテレビを見た

23時48分 テレビ

 23:00からETVでやってる「国宝探訪」。今夜は僕にとってはお馴染みの厳島神社と、そこに平家が奉納した写経を取り上げている。このどちらももちろん国宝だってさ。
 厳島神社は参拝する度に回廊の長さにあきれ果てるが、アレは寝殿造りを模したものなのだそうだ。それでぐるりと回り込んだ回廊の内側は、満潮時には海になる。以前は厳島は全島が神聖視され、人が住むことを禁じられていたそうだ。当然、神社の祭主も本土に住んでいるのだが、必要に応じて舟で直接神社の乗りつけられるようになっている。それで回廊が大きく回り込み、本殿の真正面が空いているのだ。
 この厳島神社に平清盛ら平家一門が奉納したのがいわゆる平家納経だ。これは和紙を赤く染め、そこに金箔、銀箔などをふんだんに使った豪華絢爛なもので、平家一門の富の凄さを見せつけるものだ。その製作手順を再現して見せていたが、非常に根気と注意力を必要とする、見ていて胃が痛くなりそうな作業の連続だ。僕にはとても務まるまい。
 この経の一部の地に用いられている波の文様が、この納経から20年ほど前に製作された後白河法皇らによる別の教典のそれと一致することがわかった。この事は、朝廷に仕えていた工芸者集団を、武門である平家が受け継いだことを示している。恐らく、貴族から武士へという権力の推移の様を表しているのだろう。それにしても美しい。