Strange Days

2001年03月31日(土曜日)

NHKスペシャル「星明かりの秘境カラコルム」

23時23分 テレビ

 今夜のNHKスペシャルは面白そうだ。「星明かりの秘境カラコルム」と題し、山岳写真家藤田弘基氏のカラコルム遠征を同行取材したものだ。
 藤田氏は世界中の有名峰を写真にとり続けてきた山岳写真家だ。アルプス、ヒマラヤなどを写真に納めてきた藤田氏は、近年カラコルムに取り組んでいる。カラコルムはパキスタン北部、ヒマラヤの西方にある大山塊だ。ヒマラヤ同様、インド亜大陸がユーラシア大陸に食い込む圧力が生み出す造山運動により、今なお盛り上がり続けている。地理的に交通の不便な辺境地であり、世界第二位の高山K2などが集中しているにもかかわらず、今なお人の侵入を容易には許さない。富士山の倍以上の6000m級の山は数知れずあり、無名峰も多いという。
 去年の初夏、藤田氏は例年のようにカラコルム入りした。藤田氏が最初に向かったのは、カラコルム西部にある5000m級の峠だった。峠といっても稜線のすぐ側は1000mも一気に落ち込む急峻さで、多数のポーターを使って険しい道行きをしなければならない。藤田氏はこの峠にテントを張り、すぐ側の高峰群を写真に収めようとした。藤田氏が得意なのは星空と風景を一緒に写し込んだ星景写真と呼ばれるものだ。藤田氏は特殊なカメラを用意して晴れ空を待ったが、天候が崩れて実に一週間以上も待機する羽目になった。ほとんど命の危険を感じるようなシチュエーションだ。たかが風景写真とはいうものの、これは完全に命懸けだ。
 藤田氏が次に向かったのは、南部のパキスタンに近い高原地帯だった。短い夏の間、この近辺には高地に暮らす人たちが家畜を連れて上ってくる。藤田氏は短い夏に咲き乱れる花たちと星空とを一枚の写真に納めるため、雲の無い夜をまたしても待ち続ける。写真家は瞬間的なシャッターチャンスをものしなければならないことも多いのだろうが、常人の想像を絶するような忍耐も必要なようだ。更には風のない夜に、波一つない湖面に映る星を写し込んだりもした。
 最後に藤田氏が向かったのは、カラコルムの中心に近い、人が足を踏み入れることのほとんどない高原地帯、スノーレイクだった。ほとんど本格的な登山チーム並の陣容でこの高地を目指した。スノーレイクは、険しい峰に囲まれた広い雪原が、まるで雪をたたえた湖のように見えることから付いたという。危険にさらされながらも雪と岩以外なにもないスノーレイクに到達した藤田氏は、思いがけないシャッターチャンスを得た。はるか遠くに見えるK2が夕映えに燃えている様を写真に納めたのだ。K2を西方から望めるポイントがほとんどないので、このような写真が撮られることはまれだという。
 藤田氏は、スノーレイクを見下ろす稜線から、空を行く星、静かに立ち並ぶ山、そして星明かりに映える雪原を写真に収めることが出来た。この写真、どこかで出版されるのだろうか。欲しくなったな。
 それにしても、この藤田氏のハードな遠征に同行したNHK取材班も、これまた大変な苦労をしたことだろう。しかし、一生に一度くらいはこの目で見てみたい光景だ。

2001年03月24日(土曜日)

NHKスペシャル「誕生の風景」

23時30分 テレビ

 今夜のNHKスペシャルは、「誕生の風景」。21世紀の最初の年に、三つの命の誕生の風景を見る。
 世界最先端の医療技術が、命の意味を変えつつあるという。アメリカでは、人工授精技術の進歩が、全く新しい種類の"養子縁組"を成立させている。
 ある夫婦は、長年子供が出来ないという悩みを持っていた。そこで人工受胎(?)という手段を選択した。この方法の目新しい点は、受胎する受精卵の精子、卵子共にこの夫婦のものではないということだ。この受精卵を提供したのは、やはり不妊治療に人工授精という手段を選択した、別の夫婦だった。
 恐らくキリスト教圏に根強い考えだと思うのだが、命の始まりを受精の瞬間だとする考えがある。堕胎に非常に非寛容なキリスト教圏では、胎児を既に人間とみなすという思想が支持されている。ならば、その胎児の始まりである受精卵をも尊重するのは、そうした思想の持ち主にならば自然な考えだろう。
 人工授精では、実際に使われる以上の受精卵が用意される。それらのうち、ごく一部だけが用いられ、残りはたいていの場合破棄される。しかし受精卵を破棄することに、それを人間の始まりだとみなす人々は、耐えがたい罪の意識を持つようだ。そこで、こうして"生まれた"受精卵を生かし、自力では人工授精も出来ない夫婦との間に"養子縁組"を取り持つ組織が現れた。先の夫婦も、そうした組織が仲介して、別の夫婦の不要な受精卵を提供してもらったのだ。しかし、この"養子縁組"は、提供者の夫婦にある種の不安を抱かせた。
 受精卵を尊重して別の夫婦への提供に同意したことから分かるように、提供者夫婦も受精卵を既に人間だとみなしている。少なくとも、それを否定しきれない。その"我が子"を別の、見ず知らずの夫婦に提供することは、果たして正しかったのか。その夫婦にどう扱われるかという不安もあったようだ。むしろ我が子として生み育てるべきだったのではないか。それは別の楽しみを、いわば別の"未来"を見せてくれたのではないか。死児の齢を数えるという言葉があるが、この場合は未生の児の歳を数えて、不安や希望を見出しているわけだ。
 そのような不安に満ちた日々は、やがて新生児の遺伝子解析の結果が出たことにより、終止符を打った。今回のケースでは、対象の夫婦に対して二組の、別々の夫婦の受精卵が同時使用された。そして新生児は、先の夫婦と遺伝上の関係が無いことが明らかになったのだ。この夫は「人生の一部が終わった」と形容した。妻は「ホッとした」といった。それぞれ、遂に生まれ出事の無かった"我が子"の運命に区切りがついたことを感じている。
 裕福なアメリカのキリスト教徒の間では受精卵すら尊重されるのに、同じキリスト教圏のフィリピンでは今、生きている子供たちが深い貧困にさらされている。首都マニラでは、地方から職を求めて集まってくる人がスラムを形成している。スラムに住む子供たちは、その日の食にさえ事欠く有様だ。
 スラムに暮らすある一家は、両親と男の子一人、女の子二人という家族構成だ。父親には定職が無く、時々運転手をして現金を得ているに過ぎない。生活は、この父親の乏しい現金収入にかかっている。
 最近、母親はまた妊娠した。キリスト教圏のフィリピンでは妊娠中絶は厳禁であり、妊娠は即出産を意味する。しかし貧しい暮らしに、4人目の子供は重荷だ。
 国民の平均収入が低く、貧困国とされているフィリピンで人口増加に歯止めが掛からないのは、宗教的な理由により前記のように中絶が困難であるからだ。その一方、避妊に対する意識も低い。
 政府は中絶を厳禁しながらも、人口増加に歯止めをかけるべく避妊そのものは広く普及させようとしている。しかし、国民の側の意識の問題により、あまり真剣には受け取られていない。日本がそうであるように、避妊では男性側の処置が手軽で効果的だ。コンドームの使用は、日本ではほとんどデフォルトと考えてよいくらいに普及している。しかし、フィリピンでは避妊は女性の責任とされ、より確度の低いペッサリーや、危険を伴う避妊手術しか普及して無いようだ。政府の政策に沿って、出産直後になら無料で避妊手術を受けられる。しかし、この女性はそれに躊躇した。一家の主婦である自分が入院している間、家族の面倒は夫が見るしかない。しかしそれでは夫の現金収入が途絶え、暮らしが成り立たなくなる。結局、この女性は避妊手術を諦めた。これでこの先の家族計画が成り立つのか、疑問が残るといわざるを得ない。子供は天からの授かり物、という類の大らかな意識が、あるいは彼らの現実の生活を困窮せしめているかもしれない。
 科学技術が新しい生命を育む一方、その科学技術が命を危険にさらすことも増えている。ロシアのセミパラチンスク郊外の寒村では、悪名高い核実験場の風下にあり、住民が長年にわたって高濃度の放射性物質を浴びてきた。そのことが明らかになったのは、ソ連崩壊後のことだった。
 住民の間には癌に冒されるものが多く、また生まれつき異常を持つ者も有意に多い。
 ある主婦は、こうした環境下で子供を生み育てることに躊躇しながらも、新しい子供を産む決意をした。彼女の長男は、生まれつき脳に障害があり、5歳になっても言葉を話せない。しかし兄弟が出来れば、あるいはより感情が活発になり、言葉を話せるようになるのではないか。そのような望みから新しい子供をもうけたのだ。
 それにしても、最初の家族と、続く二つの家族、そしてそのそれぞれの間の落差はなんだろう。裕福な国に生じたがために、ある受精卵はその段階から尊重される。ある国では生きている子供でさえもさほど尊重されない。こういう格差は、しかし先進国の内部にさえあるものだ。とはいえ、これほどの不均衡が生まれている状況を、命の多様性と捉えてしまっていいのだろうか。三つの事例全てに科学技術が影を落としていることを思うと、冷静に受け取ることは難しい。

2001年03月03日(土曜日)

NHKスペシャル

22時22分 テレビ

 今日のNHKスペシャルは、北海道のヒグマの生態を追う番組だった。
 北海道の知床半島には、数百等のヒグマが生息していると見られている。ヒグマは立ち上がると2mにもなる大型の哺乳類だ。一般に雑食性と知られ、よく動物を襲うものと考えられがちだが、実際には植物の方を好むようだ。
 番組では、去年生まれた子供と暮らす母子の行動を、1年にわたって追跡していた。子熊に"カムイ"と名付けていたが、確かにアイヌの人たちにとってヒグマは神の使いだったのだな。
 日本のヒグマは、北米の近縁種に較べて、生活圏が圧倒的に狭い。北米種のそれに較べ、たった1%程度にしか過ぎないのだそうだ。その為、別のヒグマと出会う可能性が高い。ヒグマたちのテリトリーははっきり決まっているので、その時は侵入者が退避してゆく。しかしそれぞれのテリトリー外にあるリソースの優先順位は、どうやって決まるのだろう。それは隣接する個体同士の順位で決まる。そのヒエラルキーの母集団が良く分からないが、多分ある個体から見て接触する可能性のある個体の全て、というところなのではないだろうか。猿の群れと異なり、実際には行動範囲の決まっている個体が散在する形になっているわけで、接触する可能性の無い個体同士の順位など、ほぼ無意味(というか決定できない)のではないだろうか。
 ヒグマの子育ては2年間に及ぶ。人間以外の動物の能力は、生得的なものがほとんどを占める。しかしヒグマは生まれつき泳ぐことが出来るわけではなく、母親の行動を真似、訓練することで得られるようだ。また川を遡上してくる鱒を捕る技術も、やはり母親の行動を真似ておぼえるようだ。
 ヒグマたちの順列を決めるのは、簡単にいって強さらしい。擬似的な闘争を経て、概ね平和裏に優劣が定まる。殺しあうようなことは少ないようだ。しかしオスによる子殺しなどもあるそうだ。なんかの本に、人間は動物がやらないことをやって、なおかつタブーを定めるということが書いてあった。近親相姦とか殺人とか、人間はそれらをきっちり実行した上で、かつタブーとして規定しているのが興味深い。それらが生得的に実行されない狼やヒグマと、それらをしばしば実行する人間とでは、どちらが高級な動物なのだろうか。
 秋が近くなると、2年目の小熊には親離れのための試練が待ち構えている。恐らく、母親が発情すると、子供を寄せ付けなくなるのだろう。母熊はカムイを突き放し、オスを追ってテリトリーから去ってしまう。ここからカムイが生き残るために闘争が始まった。この時期、川には鱒が多量に遡上し始めており、重要な蛋白源になっている。ところがカムイは技術的に未熟で、鮭をうまく捕らえることが出来ない。闇雲に追いかけるだけで、効率的な狩が出来ないのだ。しかも遡上し始めたばかりの鱒は元気一杯で、未熟なカムイにはとても手が出ない。カムイは海の漂着物で命を繋いでいた。しかし、やがて鱒が産卵期を迎えると、その動きが鈍くなってくる。そうなって初めて、カムイは母熊がやっていたように鱒の動きをじっくり見定めるという戦術を体得した。彼はようやく鱒を捕らえ、飢えを凌ぐことが出来るようになった。
 やがて懐かしい匂いが近づいてきた。雄熊との交尾を終え、発情期を過ぎた母熊が戻ってきたのだ。母子は久しぶりに身を寄せ合い、また共に暮らすようになった。これが不思議な点で、母子の別離はまだ先のようなのだ。しかし冬が来る頃には、この母子も別々に生きるようになる。