Strange Days

2001年10月28日(日曜日)

NHKスペシャル「宇宙」

23時49分 テレビ

 今夜のNHKスペシャルは「宇宙」第7集、"ブラックホール"の巻。
 宇宙のあちこちに"ブラックホール"という変なモノがあるという知識が一般化したのは、果たしていつのことだったろう。映画やアニメで何度か取り上げられ続けるうちに、その名前だけは知られるようになったように思う。しかし、その正体については、「なんでも吸い込む恐怖の穴」くらいの知識しか流布してなかったのではなかろうか。
 もちろん、学術的にはより厳密にその性質が述べられていた。そもそも、ブラックホールは、自然法則を極端に解釈することから"発見"されたのだ。18世紀の英国人ミッチェルは、光が全て極微の物体、粒子であるという視点に立ち、その動きに万有引力が働くはずだと考えた。当時、光の粒子説と波動説は並立していたはずだ(だよな?)。ミッチェルは粒子派の人だったのだろう。ミッチェルは、光が引力の拘束を受けるのなら、極端に重い星からは光は脱出できず、結果的に星は"光らない"はずだと考えたのだ。そしてそのために星がどれほどの密度を持たなければならないかをも計算した。それは180億t/cm2という途方もない数字になった。それは、計算したミッチェル自身にとってさえも、非現実的な数字に映った。
 ミッチェルの夢想は、しかし現実のものだった。WW2前、後に原爆開発に携わったオッペンハイマー博士は、重い星がその生涯を終えるとき、星の核が途方もない密度にまで収縮する可能性に気づいた。その値は、ミッチェルの計算をも遙かに上回った。ブラックホールの存在は、星の進化過程からも予言されたのだ。しかし、"光らない星"は、通常の恒星と違って発見が難しい。ブラックホールという名前が与えられたのは、その理論的な性質、すなわち光さえも飲み込むという点に由来する。
 光らない星を発見するのは難しい。ブラックホールの発見はずっと後のことだった。生成過程からすればその眷属とも言うべきパルサーの発見を経て、その存在はますます確証されていったのだが。
 1970年代、白鳥座の奇妙な電波源、X-1の研究が熱心に進められていた。これは白鳥座の空域を占める奇妙な天体、いや現象だった。ある位置から極めて強いX線が発せられているのだが、にもかかわらずその発信元となるべく天体が見つからないのだ。そのメカニズムがいろいろ考察された末、有力な仮説としてブラックホール説が提示された。なんらかの天体があることは間違いないが、見えないということは光らない天体だろう。しかしこの激しいX線放射は、その天体が重く、活発に活動していることを示唆している。具体的には、極めて重い、光らない天体が周囲の物質を引き寄せ、角速度を持って天体の周囲を高速で巡るようになる。その時、物質同士が激しく衝突し、強いX線を発するというシナリオが提示された。その重い天体の有力候補がブラックホール、周囲の活動域は膠着円盤と名付けられた。
 やがて、精密な観測の結果、X-1のごく近傍にある重い恒星が、X-1とおぼしき大質量源と共通の重心を巡っていることが確認された。その軌跡から算出されたX-1の質量は、ブラックホール化の閾値を上回っていた。ブラックホールの存在は、観測によっても確認されたのだ。
 その後、同じような研究によって、太陽系近傍にいくつものブラックホールが発見されていった。しかしブラックホールは、星の進化過程の終端に生じた奇妙な天体というイメージで捉えられ続けた。
 そのイメージを変える発見があった。
 銀河系の中核に、巨大なブラックホールが潜んでいるのではないかという説が提出された。天文学者たちは、マウナケア山頂に設置されたケック天文台の巨大な複合望遠鏡を使い、銀河系中核部の星の動きを観測した。AO(大気補正)の名で知られるこの技術は、すばる望遠鏡にも導入された新技術だ。その発端はレーガン政権下で推し進められたSDI構想に発しているというから奥が深い。この新技術によって、遠い銀河系中核部の精密な観測が可能になったのだ。そして観測の結果、やはり巨大な質量を持つ星が潜んでいることが判明した。いわば、銀河系の芯に当たる存在と言えよう。
 このブラックホールを中心に、無数の大質量星が時速数百万㎞という高速で飛び交っているらしい。
 さらに、他の銀河系の中心にも、同じように巨大ブラックホールがあることが判明した。ほぼ全ての銀河系の中心に、巨大ブラックホールが潜んでいるのだ。宇宙の進化史において、巨大ブラックホールは重要な役割を担ってきたと考えられはじめている。つまり、ビックバン後の宇宙で、まずブラックホールが誕生し、それが周囲の質量を引き寄せることで銀河系が誕生したと考えられるのだ。
 だが、ブラックホールが活動し続けると、やがて全ての星がそこに飲み込まれてしまうのではないだろうか。しかし、ブラックホールは活発な時期と不活発な時期があるようだ。ブラックホールはある程度の質量までは活発に活動するが、限度に達すると"眠り"に入ってあまり活動しなくなるようだ。それがどのようなメカニズムなのかは分かっていない。さらに、ブラックホールは蒸発すると考えられている。ホーキング博士が予言したことだが、ブラックホールを取り囲む事象の地平線の近傍で一対の電子/陽電子が生成されるとき、どちらか一方が事象の地平線の外で生成されることがありうる。その時、ブラックホールの内部からエネルギーが持ちだされることになるのだ。このようにして、永遠の墓穴に見えるブラックホールも、やがて蒸発してしまう運命にあるのだ。
 宇宙には、銀河系中核にあるようなそれを遙かに上回る巨大ブラックホールもあるらしい。銀河系は誕生以来一度も他の銀河との衝突を経験していない。アンドロメダもそうだが、きれいな渦巻き模様の銀河系は、いずれもそういう銀河だ。しかし、宇宙では銀河系同士の衝突はありふれている。そのようにしていくつもの銀河系が衝突して出来た銀河系に、楕円銀河がある。楕円形の銀河系は、渦巻き型銀河の何倍もの質量を持つ。そしてそのような銀河系のコアには、その質量に見合った巨大なブラックホールが潜んでいるのだ。
 実は僕らの銀河系もそのような運命が待っている。アンドロメダ銀河と急接近中で、やがて衝突してしまうと考えられている。その時、銀河系中核部のブラックホールも、アンドロメダ銀河のそれと一体化し、新しい銀河系の中核に居すわることになるだろう。

2001年10月21日(日曜日)

NHKスペシャル「日本人はるかな旅」森が育てた縄文文化

23時10分 テレビ

 今夜のNHKスペシャルは、「日本人はるかな旅」第3集、"森が育てた縄文文化"。
 近年、縄文期の遺構の発見が相次いでいる。東京都の多摩ニュータウンからは、大型の竪穴式住居で構成された集落が発見されている。また開発の進む地方でも、新たな遺構が次々に発見されている。旧石器時代の遺構はだいたい夢と消えたが、縄文期の遺跡に関しては数量ともにさらに充実しつつあるのだ。その中には、今までの縄文期に関する常識を覆す発見もあった。青森県の三内丸山遺跡もそのひとつ。
 三内丸山遺跡は、最盛期には五百人ほどが居住したと考えられる縄文期の"村"だ。そこには数十戸の竪穴式住居の他に、巨大な六本の柱で構成された物見やぐら、そして二百人あまりを一度に収容できたと思われる巨大な竪穴式住居も見つかっている。ここは住居というよりは集会所だったと考えられている。つまり、この"村"には既に公共施設が備えられていたのだ。
 この"村"が、豊かな物質的充足を享受していたことをうかがわせる出土品も、数多く発見されている。例えば黒曜石。これは刃物の材料となる。また翡翠は装飾品として珍重されたようだ。また村からは多くの土偶が出土している。このことは、村人は生活に追われる事があまりなく、十分な余暇を得て精神世界の儀式を盛んに行っていたことを示唆している。
 彼らが一種の儀式を行っていたことは間違いなさそうだ。村の中心の広場を囲むようにして、なぜか多くの盛り土がされている。その盛り土からは、どうやら完全品をわざわざ壊したらしい土器のかけらなども出土している。最下層からは古い人骨が出土しており、恐らくは"村"の創設期の住民、村人全ての先祖に当たる人物だったようだ。想像をたくましくすれば、村人はその先祖の功を讃え、定期的に"祭"を催していたのではなかろうか。
 村は入り江を望む位置にあり、入り江に入ってくる日本各地からの舟(黒曜石や翡翠を携えて物々交換にやってきたのだろう)からは、ひときわ巨大な物見やぐらが目に入ったはずだ。外来の人々は、浜を上がって村に近づくに連れ大きくなってくる物見やぐら、集会所を目にし、また立ち並ぶ住居の群れを目の当たりにして、畏敬の念すら覚えたかもしれない。ベトナム戦争に北ベトナム兵として参戦した経験を持つベトナムの作家が、始めてマンハッタンの巨大ビル群を目の当たりにしたとき、『物質文明の迫力を感じた』と所感を述べたのを見たことがある。この村も、そうした物質文明の迫力を体現する嚆矢だったとはいえないだろうか。
 一体、この北の地に、これほどの豊かさをもたらしたものはなんだったのだろう。その鍵は、土壌に含まれている花粉にあった。詳しく分析すると、この近辺に分布していた楢、櫟などの森が、村の興隆と反比例するようにして減少しているのだ。逆に増加した植物がある。栗の木だ。栗は渋抜きの必要がないなど、食用としては非常に効率的な植物だ。栗が自然に増加して、他の照葉樹を圧倒したとは考えられないから、恐らくは村人が木を伐採し、その代わりに栗を植えたのだろうと考えられている。その結果、一か所に数百人もの住民が定住するという、縄文期の常識からは考えられない状況が実現したのだ。
 ところが、この繁栄もやがて終わりを迎える。ある時期に、この村の住民が周辺に散っていってしまったのだ。その謎を解く鍵も、栗の木にあった。この時期の栗の木の年輪を見ると、急に成育状況が悪化したことが分かる。この村は、あまりにも栗に頼りすぎていた。モノカルチャー型経済は効率が非常に優れているが、反面主穀がやられると経済自体が破滅する。それくらいもろいものでもある。縄文期、他の地域では主要な食物の違いはあれど、栽培、採取、狩猟など、いくつもの手段で食料を得ていた。この村は、そうした多様性を放棄したが故に、他の地域を圧する繁栄を勝ち得た。ところが、経済の根幹をやられると、もう抵抗する術を持っていなかったのだ。それゆえに、この村は衰亡せざるを得なかったのだろう。
 何故栗の成育が悪化したのだろう。実はこの時期、地球規模の寒冷化が起こり、平均気温が3℃ほども低下してしまったのだ。その結果、比較的温暖だった青森の地も、栗の成育に適さないほど寒冷化してしまったのだ。
 この経験は、しかしのちの世の人々に伝えられた、と番組では述べていた。富山県で発見されたやや後の時代の縄文遺跡は、数戸程度の集落が三つ固まっている真ん中に、なんらかの作業場と考えられる遺構が位置している。その遺構は、恐らくは栃の実のあく抜きを行うための水利設備だったようだ。しかも、この設備は、三つの集落が協同で管理していたらしい。彼らは、三内丸山の人々のように一か所に固まり、植樹を行って効率的な農業を行う事はやってなかったようだ。しかし、その頃の森に豊富にあった栃の実を処理し、しかも森林に負担をかけない程度に分散して暮らす道を選んだのだ。その結果、たとえ栃の実が取れなくても、その他の狩猟、採取によって暮らして行ける余裕を確保することが出来たのだろう。その代わり、労働集約的な作業のみ、周辺の村々の共同作業で遂行する事にしたのだろう。森に依存しすぎず、しかし社会性は確保するという、ある意味では三内丸山の村よりも高度な組織性を実現したわけだ。この流れは、後の世の村落共同体、そして里山という形で、つい近年まで脈々と受け継がれてきたのではないだろうか。

2001年10月20日(土曜日)

NHKスペシャル「揺れる精神医療」

23時07分 テレビ

 今夜のNHKスペシャルは、「揺れる精神医療」。今年起きた池田小学校の児童殺傷事件は、犯人が以前起こしていた事件において処置入院、退院を経ていたことが明らかになったことから、退院を認めた医療側の責任を問われる展開となった。しかし、医療の現場では、この「処置入院」というものはどう扱われるのだろう。
 処置入院とは、事件を起こした者が、精神疾患につき責任能力がないと認定されたものの、自傷他傷の可能性がある場合に、本人や親族の同意無しに病院に収監できるというものだ。あくまでも緊急的な処置であるという位置づけのようだ。この処置は、"自傷他傷"の可能性と、誰もが持ち冒すことの出来ない(とされている)人権とを秤にかけ、一時的に人権を制限しても止む無しという、応急的な処置なのだ。
 この責任能力の有無と、処置入院の必要性は、警察に委託された二人の医師によって判断される。ところが、その診断時間というのが、せいぜい半日というものらしい。精神医療において、病名の診断には時間を要するものだということだ。ある患者には、複数の症状が交互に現れたりする。僕の今日の日記のここまでの分なんて、隔日で現れる躁病を思わせるものがある(いっておくが、意識的に書いているからね<ってなにを威張ってるのやら)。またまれにしか現れないが、その時に他人を傷つけるなどの凶暴化を伴うものもある。それを即日に診断せよというのは無理な話だと番組ではされている。
 入院した患者は、世間から完全に隔離された隔離病棟で治療を受ける。治療の内容は対症療法的な薬物投与だ。これだけで病因の撲滅は難しい。しかし、症状はかなり抑えることが出来る。しかしながら、自傷他傷の可能性が消えたかどうかは、本人が精神疾患を認識することなどを確認する問診、行動の観察によるしかない。血液を採取して分離器にかければ一発、などというものではないのだ。真の病因が多くの場合不明なため、対症療法はあくまでも対症療法にとどまる。そのため、30年も処置入院を余儀なくされたケースもあったという。ここまで来ると、人権を侵害するしないという以前の問題だ。
 本人に自覚があり、また症状の低滅が明らかになった時、処置入院が解除されるかどうかが再び診断によって決められる。この時は一人の医師が診断してよいことになっている。ここで解除となると、被処置者は晴れて世間に出て行くことが出来る。
 ところが、出て行った被処置者が全快したかというと、そういうわけではないのだ。被処置者は、処置入院解除の時点で、自傷他傷の可能性が無くなった、というだけのことなのだ。症状は抑え込んだものの、疾患が全治したというわけではないのだ。退院後の環境によっては、また症状が昂進して、自傷他傷可能性が高まるかもしれない。退院後も、病院による治療を受けなければ、全快へは至らない可能性が高い。ところが、退院後にまた治療を継続する道を選ぶ患者は、極めて少ないという。そして、完全な治癒を見ないまま社会に出た患者の中から、池田小学校での事件のような犯罪を犯す者が出てくる事もありうる。というより、既に社会はその可能性に怯えていると言ってよいのではないだろうか。
 こうした処置入院のシステム上の問題の一つは、医療の責任が重すぎるというものだ。医療側からではアプローチできない情報もあり、また先に上げたような時間的問題もあり、医療側からだけの判断は難しすぎる。そこで社会的な影響なども考慮するべき司法が加わるべきだという論議がなされている。しかし、医療側が痛切に感じているのは、社会に出た患者のアフターケアの必要性だ。多くの精神病者による犯罪は、彼らが孤立してしまった結果生まれている。池田小学校の例では、容疑者は華々しい精神病歴を持ち、幾度も犯罪、処置入院を繰り返しながら、いわば医療と司法の狭間に浮かぶような形で、いつの間にか世間に舞い戻っていたのだ。十分な治療を施せなかった責任を問われるのはやむを得ないと思うが、今のシステムではその機会が十分与えられていないと医療側は考えている。また精神病者に対する世間の目の冷たさも、やはり孤立化に手を貸しているとはいえないだろうか。
 精神病を患った者による犯罪行為は、人権と治安の危うい均衡を刺激し続けているのだ。

2001年10月13日(土曜日)

国宝探訪 徳川家の財力

23時53分 テレビ

 今夜の国宝探訪は、徳川家光の長女が尾張徳川家に嫁入り道具として持参した通称『初音の調度』の紹介。これは江戸期武士階級の嫁入り道具の形式を決めたとも言われるもの。源氏物語の初音の帖を題材にとり、全て豪奢な蒔絵の装飾を施された美しい品々だ。金、銀、サンゴを素材に、それらを驚くほど多彩で精密な表現により、無限とも言える輝きを表したものだ。当代随一の蒔絵職人集団が、3年近い歳月をかけて作り上げたのだという。これが吉宗以降の、どこか貧乏くさい徳川将軍家の仕業か、と思えるほどの豪華さだ。これを実現した家光当時の徳川家の財力というものは、凄まじいものがあったのだろう。考えてみれば、戦国大名ほどぼろい商売はなかったはずで、その頂点に立った徳川家の富裕も当然のものだったのかもしれない。しかしその徳川家も、100年も経たずに貧窮しはじめるのだ。きっと、このような贅沢すぎる振る舞いが、度を越しすぎてしまったのだろう。無駄遣いはやめよう(今のところ説得力ゼロ)。