Strange Days

2001年11月25日(日曜日)

NHKスペシャル「宇宙 未知への大紀行」

23時37分 テレビ

 今夜のNHKスペシャルは、「宇宙 未知への大紀行」第8集、"宇宙に終わりはあるか"。
 僕たち人間がどこから来てどこへ行くのか、それは様々な思想、思考体系にとって、そして人間の活動を通して永遠のテーマといえよう。そしてそれは、宇宙の終末はどうなのか、という大テーマへと必然的につながってゆく。
 かつて、人類は宗教を通し、さまざまな終末に思いを巡らせた。キリスト教者のヨハネ(聖ヨハネ)は、地上に怪異が溢れ、空からは星が降ってくるという終末の光景を語って見せた。
 現代の天文学、物理学は、宇宙の"一生"をある程度解き明かし始めている。
 宇宙は、120~150億年ほど昔、ビッグバンとして知られる爆発的な拡大により、無限小に近い一点から始まった。最初、物質の密度が高かったために光は直進できず、光そのものを目にすることは難しかったはずだ(つまり宇宙が『光あれ』という宣言と共に始まったという物語は眉唾物だ)。やがて宇宙が"晴れ上がり"(密度が下がったので光が直進できるようになった)、それと共に密度に濃淡が生じ始めた。やがて濃い部分は凝縮し始め、星が生まれ、重いものは恒星として自ら光り始めただろう。さらにそれらが集まって大きな構造が構築され、それは銀河となっただろう。恒星は重いものほど寿命が短い。自らを構成している水素とヘリウムを燃やし尽くすと、縮退して矮星と化したり、あるいは華々しい大爆発を起こす超新星となる。その時、恒星の内部で生産された重い元素(生物にとって欠かせない炭素など)が放出され、それらは徐々に蓄積されていった。やがてそれら重い元素を豊富に含む惑星が、平凡な主系列星の周りに生まれ、その一つが生命を、そしてやがて僕たち人間をも生み出す地球となったのだ。
 宇宙の"半生"を書くとすれば、以上のようなものになるだろう。
 では、宇宙のこの後は、"後半生"は、どのようなものになるのだろう。
 宇宙は拡大している。この事実を明らかにしたのは、宇宙天文台に名を残すエドウィン・ハッブル博士だった。彼は長い間天空に散らばるいくつかの銀河を観測し、それらが全て、地球から見て遠ざかっている事を突き止めた。その事は、宇宙全体が拡大しているからだとしか説明できない。そしてその論理的必然として、宇宙は無限小一点から生まれたというビッグバン宇宙論も導き出された。宇宙は永遠不変のものではなかったのだ。
 従来、そのビッグバン宇宙論では、宇宙の未来を決定付けるものは、宇宙自身の総質量と、最初に拡大し始めたときの速度だとされてきた。もしも総質量が大きければ、宇宙自身の引力が大きくなり、拡大する速度がそれだけ早く低下する。一方、速度が大きければ、宇宙の拡大するスピードはそれだけ長く維持される。もしも速度が十分に大きければ、宇宙は徐々に速度を落としながらも、永遠に拡大しつづけるだろう(開いた宇宙のモデル)。逆に質量がある程度大きければ、ある時点で宇宙は縮退し始め、やがて1点へとつぶれてしまうだろう(閉じた宇宙のモデル)。この二つのシナリオの間のどこかに、宇宙の運命があると信じられてきた。ところが、長い間支配的だったこれらのモデルに、今、大きな疑問が投げかけられている。~
 近年、大型の望遠鏡が世界のあちこちに設置され、深宇宙の探査手段は、ハッブルの時代からは大きく進歩している。他ならぬハッブルの名を冠した宇宙天文台もその一つだ。これらを動員して、宇宙の拡大する速度が精密に調べられた。すると、思わぬ結果が出た。宇宙が拡大する速度は、次第に減速するどころか、高まっているという結果が出たのだ。予想とは正反する結果だ。
 もしもこれが正しいとするのなら、宇宙は決してクランチしないという事になる。ビッグ・クランチ、収束する宇宙は、ビッグバンが考えられ始めてきたときから多くのSF作家の心を捉えてきたシチュエーションだ。ところが、宇宙の本当の後半生は、ひたすら拡がって希薄化するだけの、おおよそ詩的でないものだというのだ。いやまあ、この予測も人間が目にする範囲で仮定を積み重ねて推測されたものだから、あっさり覆ってしまうかもしれない。しかし、科学の最先端に目を向けている作家たちには、ちと書きづらい状況が予想されるわけだ。
 この未来像が正しいとすれば、宇宙の未来はどうなってしまうのか。
 事を地球に限れば、その寿命は太陽のそれに束縛される。太陽は、いずれ核部の水素、ヘリウムを使い尽くし、巨星化するだろう。すると、そのぶよぶよ太った太陽の外殻は、ほとんど金星軌道にまで達する。地球は間近に迫った太陽の高熱に焼き尽くされ、決して生命の存在できない世界になる。その前に人類なり他の知的生命なりが軌道を変えて、迫る危難を乗り越えるかもしれない。しかし、なんらかの人為的操作を加えなければ、この時点で生命の星、地球はおしまいである。やがて太陽は燃え尽き、矮星化し、太陽系は暗く冷たい星の墓場と化す。
 銀河系にも終わりの時は来る。銀河系の中核などで活動しているブラックホールが成長し、周囲の星を飲み尽くしてしまうのだ。また太陽と同様に、恒星たちも燃え尽きて行く。あるものは超新星化し、あるものは燃え尽き、あるものはブラックホールに飲み込まれる。やがて銀河系は、一つの巨大なブラックホールに飲み込まれてしまうかもしれない。
 宇宙がさらに拡大しつつあるということは、銀河系間の距離も広がっているということだ。銀河系は、他の銀河とは行き会わず、また他の銀河すらも見えなくなる中、孤独な死を迎えるのかもしれない。
 死は宇宙全体を満たす。星の進化が進めば、やがて燃料である水素とヘリウムが尽き、明るい恒星は死滅してしまうだろう。後にはブラックホールと、燃え尽きた暗い星だけが散らばる、荒涼とした世界がやって来る。さらに、ブラックホールにすら死はやって来る。ブラックホールは全てを飲み込む存在とされているが、実際には事象の境界線付近で一対の光子が生成され、その一方が地平線の向こうに逃れることでエネルギーを失って行く。表面積と質量の比は、質量が大きいほど小さくなるので、大質量のうちはさほど急にはエネルギーを失わない。ところが小さくなるに従って表面積/質量が大きくなるので、エネルギーも早く失われるようになり、最後の瞬間には爆発的に蒸発してしまうのだ。さらに、物質の基本構成要素である陽子にも寿命があることが予言されている。こうして、宇宙には数種類の素粒子だけが残る、本当に暗黒の未来が待ち受けているのだ。
 こうした宇宙の急拡大をもたらしているものは、真空のエネルギーだといわれている。真空のエネルギー、基底エネルギーは、本来なら0エネルギーであるはずの空間に、それでも量子効果で絶えず素粒子が生成、消滅することから存在するものだ。このエネルギーは、ビックバン直後には豊富に存在し、空間へと変換されることで急激な空間の拡大、インフレーションを起こした。その後、大半は熱へと変換され、ほとんど消えてしまったのだが、ごく一部が残っていた。基底エネルギーは、空間が拡大しても、単位容量辺りの密度は変わらないという性質がある。宇宙が拡大すれば、そこに潜む基底エネルギーの総量は、その分だけ増えるというわけだ。それが宇宙の現在でのインフレーションを起こしている原因だとされている。この先、基底エネルギーがまた熱に変わるのかどうかは分からない。
 いずれにせよ、この宇宙に終わりが来るのは間違いない。しかし、その時までに誕生した生命には、あるいはこの宇宙の寿命を越えて生き延びるチャンスがあるかもしれない。
 宇宙論は、この宇宙から別の宇宙、ベビーユニバースが生成されては成長して行くという予言をしている。もしもそうなら、その子宇宙と連絡する手段があるのなら、知的生命が移住するチャンスもあるかもしれない。その手段として考えられているのが、ブラックホールなどの超越的現象により生じるワームホールだ。ワームホールは空間を別の空間へと短絡させる事が出来る。これを人為的に操作すれば、この宇宙から別の宇宙へと移住鵜することも可能かもしれないのだ。
 しかしまあ、本当のところ、人類は太陽系からの脱出すらも難しいと考えざるを得ない。夢想は、人間の現実を遙かに越えた世界を垣間見させてくれるのだが。

2001年11月11日(日曜日)

NHKスペシャル「日本人はるかな旅」

22時47分 テレビ

 今夜のNHKスペシャルは「日本人はるかな旅」第4集"イネ、知られざる1万年の旅"。
 従来、日本列島で稲作が始まったのは2000年余り前、弥生時代の始まりの頃だと言われていた。その説に拠れば、日本に稲をもたらしたのは、中国や朝鮮半島からの渡来人だったとされてきた。しかし、こうした従来の定説は、いくつかの新発見によって覆されつつある。
 中国雲南省。ここは稲作文化発祥の地とされてきた土地だ。雲南省には、多種多様な品種の米がある。その種類の豊富さは、この地で営まれてきた稲作文化の長さを直感させるものだ。実際、雲南省では5000年前の稲が発見されている。ところが、日本の稲作は、実に6000年前まで遡れることがわかってきたのだ。
 近年、縄文遺跡の土壌を解析すると、米に含まれる珪酸化石が存在している事例が見出された。このことは、縄文早期から前期にかけて、既に米を食料としていたことを暗示している。
 この稲作の技術はどこから伝わってきたのだろう。
 雲南省から東、長江中下流域に、古い穴居時代の遺跡が発見されている。1万年近く前のそれらの遺跡を調査したところ、驚くべきことに古い稲が発見された。それも、野生種ではなく、明らかに栽培された種だった。この頃、既に稲作が始まっていたらしい。
 やがて長江河口では、この稲作を中心に大規模な村が作られるほど、稲作が盛んになっていった。この頃は水田耕作ではなく、畑作だったらしい。この稲作が日本へと伝わった背景には、この河口域の人々の生活様式があった。彼らは農耕民であると同時に、海で魚を獲る漁労民でもあったのだ。彼らは稲作の技術を身に着けていたが、同時に海の真っ只中に乗り出し、魚を獲って生計を立てていたのだ。そして、東シナ海の台風や季節風は、時に彼らを日本へと流し去ってしまった、というわけだ。
 だが、この時に日本にもたらされたのは、熱帯ジャポニカという種の稲だった。熱帯ジャポニカは、その名の通り熱帯地方に適した種で、温帯の日本列島ではなかなか根付かない。事実、この時期の稲作は、温暖な西日本を中心に行われていたようだ。
 縄文時代の稲作は、今に伝わる水田の技術で営まれていたわけではない。今も熱帯地方で行われている、焼畑農業によって栽培されていたようだ。
 では、現在日本に根付いている、温帯ジャポニカはどのようにしてもたらされたのだろう。これは従来の説と同様、中国大陸からの渡来人によってもたらされたようだ。そして、わずか300年ほどの間に、本州北端にまで達している。この異常な普及には、実は熱帯ジャポニカの経験が生かされている。
 熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカを交雑させ、雑種を作る。その雑種は、親たちよりも遥かに早く生育するという習性を持つ。この特徴は、寒く、夏が短い北の地では、必須のものだったろう。日本列島が稲実る国になった背景には、こうした思いがけない稲の性質が働いていたのだ。

2001年11月10日(土曜日)

なにもしませんでした

23時43分 テレビ 天気:寒い雨

 暗い、寒い、雨の日。あんまり寒いので、布団から出る気がしなくなる。急に気温が下がったようだ。夜に至っては今秋初めて暖房を入れた。
 昼過ぎにようやく起き出し、キワチャリのタイヤチェックをしようと思ったが、タイヤを外すのが死ぬほど手間がかかりそうなので挫折。じゃあどこかに出かけようかと思った。実は、Librettoの最新機種を買おうかと思って、金まで用意していたのだ。ノートPCを買うのは、実に3年ぶりだ。でも、TP235でもそんなに困ってはいない。最近は、ノートPCを持ち歩くこと自体が少なくなっている。シグマリオンもある。まあ、急いで買うことも無いかと思い直した。この金は、もう少し考えてLibを買うか、あるいはE5000の購入に当てるかを決めよう。そんなわけで出る気が無くなった僕は、また布団に入って昼寝してしまった(をい)。寝るのはいい。最も金のかからない娯楽だ。今週一杯の寝不足も解消できる。
 夕方になってようやく起き出し、テレビで聖徳太子のドラマを見る。ははあ、これがあるから、先週辺りから聖徳太子特集がバンバンあったわけか。
 ドラマでは聖徳太子がやたら耳がいい(そりゃ良かったんだろうが)異能の人として描かれていた。本木雅弘がなんだかいい役者になってきたのにはびっくり。元々俳優向けの人だったんだろうか。モックンと呼ばれていた頃(今でも呼ばれてはいるが)からすると、隔日の観があるな。大河ドラマの主演に抜擢されて、なんにせよ一皮剥けたのだろう。

2001年11月03日(土曜日)

歴史ドキュメント「隠された聖徳太子の世界」

23時19分 テレビ

 今夜のNHKスペシャル枠は、歴史ドキュメントと称して「隠された聖徳太子の世界」という番組を放映していた。内容的にNHKスペシャルで時々やる歴史ロマンものと変わりなく、なんだって別枠にしたのか不思議だ。
 聖徳太子の死後、妃だった橘大女郎が作らせた、1丁の刺繍がある。天寿国繍帳というその刺繍は、太子没後の1300年もの激動の時代を生き延びてきた、貴重な文物だ。
 もともと、太子が建立した法隆寺に眠っていたものを、鎌倉時代の尼僧信如が発見したものだ。当時、既に痛みが進み、銘文や図案の概略に関しての書写が行われていた。その後、さらに痛みが進み、遂には断片化してしまったため、江戸時代にそれらを縫い合わせたり、足りない部分を継ぎ足したりする補修が行われた。しかし補修は従前の図柄や時代的な背景にまったく無顧慮に行われたため、オリジナルの部分もそれぞれバラバラに継ぎはぎされ、元の図柄が全く分からない有り様になっていた。
 今回、この刺繍を30年も研究してきた早稲田大学の大橋教授を中心に、CGによるオリジナル図案の復元が試みられた。しかし、ほとんど原型を留めていないこの刺繍帳、果たして本当にどこまで再現できるのだろう。
 手がかりは、まず残されたオリジナル部分にある。例えば、同じ幾何学模様を繰り返している細い図案が残されている。これは明らかに帳の四周を囲っていたと考えられる。また飛天、蓮の花が多用されていることから、仏教思想、しかも中国隋代のものに色濃く影響されているものと思われる。また製作の経緯から、原図を描いたのが朝鮮出身の帰化人であったことが分かっており、当地のデザインも影響していると考えるのが自然だ。
 さらに、信如が書き残した概略、特に完全に解読されていた銘文の情報が役に立った。銘文は400文字が100個の亀甲紋に記される形だったとされている。これらの情報を突き合わせることで、最終的にかなり確度の高い復元が可能になった。
 基本的に、寝台などを飾る帳という形態から、同じ図案がほぼ等間隔に散りばめらていたと推定された。帳は二枚一組で、それぞれの中央に最も重要なモチーフが縫いこまれていた。一つは菩薩像、そしてもう一つには蓮華の花から天寿国(極楽)に往生した瞬間の聖徳太子像が、それぞれに縫いこまれていただろう。そしてその周囲には、蓮の花が咲き乱れる池、その蓮華から太子と同じように往生して現れた人々が表現されていたのだろう。
 それにしても、手がかりってのはあるもんだと思った。