Strange Days

2002年12月15日(日曜日)

NHKスペシャル「大河出現」タクラマカン砂漠、ホータン川

00時00分 テレビ 天気:チョット雲多いかな

 今夜のNHKスペシャルは、久しぶりの自然もの。タクラマカン砂漠に夏の間だけ現れる大河、ホータン川の姿を追う。
 タクラマカン砂漠は一年を通じて雨がほとんど降らない、カラカラに乾ききった砂漠地帯だ。特にその中央部は動くものの姿も稀な死の地帯だ。当然、水を連想させる川、湖など見当たらない。ところが、6月末から3ヶ月だけ、この砂漠の真ん中に大河が忽然と姿をあらわすのだ。
 タクラマカン砂漠の南部には、崑崙山脈の丈高い姿が聳え立っている。白く雪をまとった崑崙山脈には、氷河が発達している。氷河は一年中消えることが無いが、日照時間が伸び、気温が上昇する夏には、その先端部が溶け出して氷河が後退する。溶け出した水はどこに向かうのだろうか。そう、崑崙山脈から見ると低地にあるタクラマカン砂漠に向けて流れ出すのだ。
 五月。この一帯の気温が上昇すると、徐々に増える雪解け水が、砂漠に向かって流れ始める。この頃にはまだ地表を流れる水流はない。しかし水は地下に浸透し、タクラマカン砂漠から遥か北のタリム川に向けて流れて行く。五月下旬、ホータン川出現の先触れとして、タリム川へと向かう地下水路の帯が観測される。この地下の川の水位が上がりきったとき、初めてホータン川が姿を現すのだ。地下水位が低ければ、いくら大量の流水を地表を流れようとしても、すぐに乾燥し切った大地に吸い込まれるだけだ。しかし地下水位が十分高ければ、水は乾燥地帯でも地表に消えることなく、川として流れて行けるわけだ。
 6月。流路に近い町や開拓村では、人々の動きが慌しくなる。タクラマカン砂漠で水を豊富に入手できるのは、ホータン川が現れている3か月の間のことでしかない。それにあわせ、作物の栽培計画を進めなければならないし、灌漑施設も整備しなければならない。開拓村では、入植以来作物の栽培に失敗しつづけてきた農家が、今年の作物に期待をかけている。それがうまく育つかどうかは、ホータン川からの水が一日でも早く引けるかどうかに掛かっている。
 地下水位が上昇すると、乾ききっていた川床が湿り始め、靴で踏んだだけで水が染み出てくるようになる。間もなく、"川"がやってくる。
 上流から生き物のように川床を這いまわりながら下ってきた水流が、人家の近くにまで姿を現した。川の出現は、いつになっても大事件だ。たまたま川床で放牧中だった羊飼いは、大急ぎで羊たちを岸へと避難させた。
 ホータン川は、盛夏にかけてその勢いを増してゆく。方々で堤防が決壊し、その度に近隣の住民が対応に追われる。一日以上道路が使えないと、その近隣に住民に罰金が課せられるのだそうだ。日本とはえらい違いだなあ(日本だと住民が提訴して国が金を払うことになるのだろう)。
 ホータン川は、数百キロの距離を流れて行くのだが、その高低差は僅か100mくらいだという。そんなわけで、川は僅かな低地や障害物で流れを変えながら、離散、集合を繰り返して行く。だが、タリム川が近づくと、次第に一つの大きな流れにまとまって行く。そして、やがてタリム川へと合流する瞬間を迎える。ホータン川貫流の瞬間だ。
 ホータン川は9月に入ると勢いを失い、次第に川床へと消えてゆくのだろう(番組ではここまでは放送しなかった)。しかし、大河が現れ、消えるという驚異を毎年目にしている人々は、他の地域の人間たちとは自然観が異なっているのかもしれない。

2002年12月07日(土曜日)

NHKスペシャル「変革の世紀」

00時00分 テレビ 天気:雨ですぜ

 今夜のNHKスペシャルは、「変革の世紀」。このシリーズも最終回だ。
 冷戦終結後に明らかに変わり始めた富のあり方は、日本型企業にも大きな変化を強要し始めている。狂牛病対策費を国家からだまし取ろうとした日本ハムでは、若手社員を中心に企業風土を変えようという運動が進められている。従来、日本ハムという企業の中で、いくつもの独立性の高い部門が競い合って、売上高の高さを競うというあり方が続けられて来た。しかしこの形態は、企業内部に縦割り社会を作り出し、企業内部の風通しを悪化させるという弱点がある。今回の不正でも、現場(直轄子会社)による不正は直属の部門で握りつぶされ、内部告発により初めて外部に知られる結果になった。日立という会社も強い縦割り型なので、けっこう耳が痛い話だ。
 直接的に内部告発を奨励しようという動きは、NECなどの電機系大手にも広がっている。内部告発専用のメールアドレスを公開して、内部からの声を直接中枢に吸い上げようという意図だ。これにより、社内の不正が大きくなる前に、対策を打てたという。しかし、これは一種の秘密警察ではないだろうか。インターネットアクセスに対するフィルタリングもそうなのだが、本来は社内の個々人の活動は、その当人の裁量に任されるべきだ。エロいウェブの閲覧がけしからぬということなら、単にその社員のアクセス量が、生み出す利益に見合ってないという事実を指摘して、是正を迫るべきだろう。フィルタリングという非インテリジェントな手段はやりすぎだと思うのだ。同じように告発のような手段も、と書きかけて、告発の場合は告発者、告発受理者というそれぞれの段階で知的な判断が期待できるからいいのか、と自己解決してしまったりしてな(ダメじゃん)。しかし、内部告発はその性質上告発者を隠蔽しなければならないので、社内競争で足を引っ張る手段として悪用されるかもしれない。またそれとは逆に、情報の質から告発者が特定されてしまう可能性も高い。告発者を保護しながら、制度を悪用されない仕組みが不可欠だ。
 番組では音楽産業界からの主張をほぼそのまま取り上げて、「(不正)コピー=悪」という図式を強調しながら、著作権の保護を不可欠とする内容を放送した。だが、いわゆる不正コピー問題の根本には、消費者の側からすれば問題とは思えない行為までの排除を強要されていることに対する、強い反感が横たわっているのではないだろうか。さらにいえば、"権利"というもののあり方自身が変わりつつあるのだ。
 例えば音楽CDをコピーして友人に渡すこと。あるいは歌詞(の一部)をウェブで引用すること、などが、"権利者"の側から"不正"とされている行為だ。しかし、前者はともかく、後者が本当に権利侵害に当たるのだろうか。歌詞を一つ引用する毎に、"権利者"の儲けが減って行くなんて信じられるだろうか。それが『歌詞を引用する毎に課金する仕組みを作れば儲かるはずなのだから、これは侵害である』という主張に基づいているのなら、僕はいくらなんでも権利の濫用に過ぎないだろうと思うのだが。だいたい、自由な引用を拒むということは、自由な批評をも拒むということだ。それは市井に新たな才能が育ちにくいということを意味する。前者の行為も、同じように濫用されれば、自由な才能を育てる機会を失わせることにつながらないだろうか。
 権利者側の主張を言い換えれば、金のない者は音楽を聴くなということになる。タダでは聴かせないと。だが先人たちの無償の膨大な蓄積の上に成り立っているくせに、自分たちの持ち物だけはしっかり有償とする価値観は奇形的ではないだろうか。いったい、ただ単に"今"存在しているというだけで、音楽という巨大な共有財産のあり方を決定付けられるなどと、彼らはなぜ思い上がるのだろうか。
 よしんば音楽産業が成り立たなくなったとしても、それで誰が、どれほど困るというのか。産業界の人々を除けば、誰も困らないのではないだろうか。社会現象として容易に思いつくのが、メガヒットが出にくくなるという点だろう。これという大ヒットは無くなるかもしれない。実際、音楽CDのメガヒットは、このところ急激に減っている。しかし、それらの急激なヒットは、結局は音楽産業自身の作り出したもので、聴く側からすればどうでもいいことだと思う。例えばBeatlesだのDeep Purpleだのだって、あんな大ヒットにはつながらなかったかもしれない。でも僕は、本当に良いものならば常に売れ続け、結局世に広く知られるようになるのだと信じている。今は音楽産業の背後に隠蔽されているCD製作手段が、インターネットを介してクリエータと結びつくようになるまで、あと一歩だと思う。そうなれば、ますます産業界はその存在意義を問われるようなるだろう。音楽産業があるから音楽があるのではない。ハードロックだのポップスだのという産業音楽に音楽産業(なんの洒落だ)が深くかかわっているのは認めるにせよ、結局はそれらだって一つの必然として登場しただろうと思うのだ。音楽産業はプロモーターだったかもしれないが、自身がクリエーターだった例は無いじゃないか。それなのに自らが文化の創造者であるかのように振る舞うとは、なんという思い上がりなのだ、はあはあ(なにを興奮しているのだ)。
 こう考えると、本来の権利者を取り込もうという産業界(音楽に限らず文芸、美術などなど)の動きは剣呑に思える。なぜならば、本来のクリエーターたちが主張するとき、正面切って反論しづらい雰囲気が醸し出されるからだ。しかし、クリエーターたちは、自由な批評を最も必要とする部分であるはずだ。本来ならばクリエーターとコンシューマーがサシで話し合えばいいものを、中間搾取しているに過ぎない産業界が出てくるから話がややこしくなるのだ。コンピュータ産業(特に無形のソフトウェア産業)にも無縁な話ではない。
 そういう意味で、番組中登場していた新しいデリバリーの形を追求するクリエーターたちの姿は興味深い。ある小説家は、10年掛かりで書き上げた小説を1年ほど前に上梓した。しかしその小説の最終的な原稿は、実はインターネットのウェブサイトでも公開されているのだ。その小説は、数年前からインターネット上に公開されており、その読者からのインタラクティブな批評を通じ、完成形に近づいていったという。小説から、その小説を広く読んで欲しいから公開しているという。所得につなげるより、広く読まれることで社会的な知の増大に貢献することを願っている、というわけなのだろう。かっこいいなあ。しかし、餓死の危険性が飛躍的に低減された現代社会において、金銭的な富よりも社会的な富に寄与することを望む層が増えているのは事実だろう。与謝野晶子の"黄金の釘"というわけだ。大昔にだって樽のディオゲネスのような変わり者がいたんだし。
 そんな富に対する市民の態度の変化は、自ら社会に対して行動しようという意思につながって行く。
 近年、NGOに代表される市民グループの活動が全世界に広がっている。今、国境を越えた国際協力、なかんずく難民対策において、NGOの力は不可欠なものになりつつある。国家の枠から自由な彼らは、ごく自然に他国(あるいは多国籍)のNGOと協力体制を取り、結果的に一国家を越える影響力を行使する場合すらある。NGOについてはもう常識の範疇だろう。
 市民グループの活動として面白かったのが、北海道で進められている市民による風力発電プラント建設プロジェクトだ。これは一般市民から出資を募り、17年で償還するという前提で大型の風力発電施設を作るというものだ。従来の市民運動が法制度や援助活動のような無形、あるいは不定形のものを対象にしていたのに対し、これはプラントという有形のものを自らの手で作ろうという画期的なものだ。特に電力政策は国家、産業界の専任事項とされてきたものなのだから、そこに市民層が直接介入し始めたという意義は小さくないと思うのだ。こうしたプラントが、風力発電に限らず満遍なく張り巡らされるようになったとしたら、ある地域の巨大プラントで集中的に電力を生産するという基本政策すら、その意義を問われるようになるだろう。ひいては、市民の側からはつねに否定的な評価を受け続けている原発も、その立場が危うくなるかもしれない。マクロな国家戦略が、ミクロな市民活動の積み重ねで変わるかもしれない。否、その存在意義が失われるかもしれない。そういう面白さと、危うさが共にある。
 番組を通して見て、その狙いはいまいち分からなかったのだが(あるいは番組ホームページとのインタラクティブ性を狙いすぎたのか)、この先に待ち受ける変化の風は確かに感じた。市民パワーが、知の、富のあり方がどう変わるのか、あるいは結局変わらないのか、まだ未来は計り知れない。だがはっきりいえることは、近未来社会においては、行動せざるものに発言の権利無しという倫理が打ち出されるだろうということだ。漫然とそこに座って権利を主張するものに未来はないのだ。こりゃキビシーよ。
 翻って我が身を省みれば、毎日インターネットだの自転車だの本だのに耽溺しているのはどうよ? 僕が社会に関与する手段、それはどうあるべきなのか、それを模索してみたくなった。