Strange Days

テレビ見た

2000年10月21日(土曜日) 23時55分 テレビ

 ということでテレビを見た。ビデオに撮っていた番組をしばし眺める。見たのはNHKで火曜日にやっている「プロジェクトX」。難題に挑戦する人々の姿を描き出そうという趣旨の番組だ。今回は飛鳥寺金堂再建に挑んだ硬骨の宮大工たちの話題。飛鳥寺は奈良時代以来の歴史ある寺院だが、その本堂である金堂は戦国時代に焼け落ち、昭和に至るまで仮の本堂で凌いできた。これを再建しようという気運が、昭和30年代に入って最高潮に達した。しかし資金面を別にしても、大きな難題があった。再建の担い手である宮大工がいないのだ。宮大工は高い技術を持っているので、需要が急増していた都市部での建築現場に引っ張りだこだったのだ。金堂の再建は東大寺の鬼と呼ばれた宮大工が請け負ったが、その手足となる宮大工が集まらない。しかし思いもよらないことに、ふつうの大工仕事に飽き足らない若い大工たちが数多く集まってきたという。まあどこにでも高い技術を持つことにあこがれる者がいるのだ。
 ボーっとしている間にNHKスペシャルが始まった。今日はカナダはバンクーバー島の湾内に形作られた不思議な生態系の話題。
 バンクーバー島は北米大陸本土の近傍に浮かぶ細長い島だ。その地形は氷河に削り取られた複雑なもので、海の底までそんな地形が続いている。このバンクーバー島と大陸の間にある袋状の細長い湾は、多くのイルカやシャチ、そして数多くの海の生き物を育む豊かな海だ。海中にはイソギンチャクやナマコ、カニなどが生息しているが、いずれも他の海域では見られない生態を見せる。また非常に大型化するのも特徴だ。
 大型化するのはこの海が養分に富み、餌が豊富で、かつまた危険を逃れられる隠れ家に事欠かない点に由来する。哺乳類などの複雑な生物を除き、軟体動物や魚類などは生涯に渡って成長しつづける。この海の生き物たちはその寿命をまっとう出来るほど長生きするので、その間成長しつづけるというわけだ。
 この海域の養分は湧昇海流にその源がある。湧昇海流とは深海底から湧き上がってくる海流のことで、窒素、カリウムなどの養分に飛んでいる。深海底は生命の総量から言えば寂しい世界だが、実は表層から沈んでくる生命の死骸や様々な有機物が沈殿する、養分に富んだ世界でもあるのだ。湧昇海流の基本パターンは、地球の自転により生じる気流とコリオリの力で海岸近くの表層水が沖に押しやられ、それを補う形で深層から海水が湧きあがってくるというものだ。
 しかしバンクーバー島のそれはやや様相を異にしている。バンクーバー島と大陸との間にある狭い湾には、大陸に降り積もった膨大な積雪がもたらす真水が注ぎ込んでいる。真水は海水より軽いので、表層の海水を沖へと押しやる。そのときにその海水の流出を補う力が働き、海底から海水がせりあがってくる、ということらしい。しかしこの説明をなんとなく納得できなかったのは僕だけだろうか。真水の流入が止まれば湧昇海流が生じるのも分かる気がするが、常に流入しつづけていたらそんな力は働かないのではないだろうか。まあこれは大海嘯(アマゾンにおけるポロロッカね)と同じように、自然は必ずしも人間の直感に従わないということなのかもしれない。
 この湧昇海流がもたらす養分は、雨季が明けた5月に植物性プランクトンの大繁殖を促す。そしてその植物性プランクトンは動物性プランクトンを、動物性プランクトンはさらに大型の生物を養うというわけだ。
 この海域はこのようにして莫大なバイオマスを保持している。そしてそれは、この海域での熾烈な生存競争をももたらしている。番組中、座布団くらいありそうなヒトデに対し、様々な生き物が対抗する様子が撮影されていた。この海域に密集している二枚貝の一種は、ヒトデが触れると海水を噴出して逃げ去る。日本など他の海域に住む近縁種はこうした行動をとらないそうだ。またナマコも活発に動いて逃げてしまう。そしてなんと、一般的には定着して動かないと思われているイソギンチャクまで、ヒトデに襲われると岩場を離れ、泳ぎだしてしまうのだ! 今回の仰天画像といえよう(笑)。泳ぐイソギンチャクなど、本邦初公開ではないだろうか。
 この爆発的なバイオマスの増大も、日照時間が短くなる冬季には退勢に転じる。そしてまた次の春を待つのだ。
 23:00からの国宝探訪。今回は縄文遺跡からの出土品2点。
 一つは縄文のビーナス(ぱちもん臭い名前だと感じるのは僕だけだろうか)と呼ばれる高さ30センチほどの地母神像。縄文の土偶の多くは、その全身に刺青を施していることを表す修飾が施されている。しかしこの像ではそうした修飾を省かれ、面を強調したマッシブな造型が施されている。縄文土偶の多くは、不思議なことに手足などをバラバラにされた状態で出土する。これは呪い師が依頼主の悪い部分に相当する部分をもぎ取り、呪術を施していたことを表わすと考えられている。しかしこのビーナス像などの大型のものでは、不思議なことにそうした扱いを免れているものが多い。これは大型の土偶が公共の、祭りなどで据えられる礼拝の対象であったことを表わしていると解釈しうる。
 このビーナス像よりも強烈な印象を受けるのが、もう一つの国宝、有名な火焔土器だ。ビーナス像が祭祀に用いる非実用品なのに対し、火焔土器は煮炊きに用いる実用品だ。それなのに、おおよそ現代では考えられないほど過剰な修飾が施されている。その修飾がもたらす印象は強烈で、見るものの精神に訴えかけてくる衝撃力を持っているように思える。それも、精神の暗部、光の届かない部分に。暗部、というとネガティブな価値をもっていそうに思えるが、この造型が与えるインパクトはそうした既存の価値観を土台から揺さぶるような、精神世界のあり方を覆すような力を秘めているように感じる。ぜひとも、この目で見てみたいと思った。
 火焔土器の複雑極まりない造型は、実は数種類のモチーフの組み合わせで構成されている。そして越後近辺に散在する他の火焔土器も、同じモチーフを使用している。これは製作者集団が参照すべき原器を共有していたと考えるより、その描くべきモチーフを共有していたと考えるべきだという事らしい。モチーフの一つは"S"字型の曲線だが、これは宇宙が広がっていく様と、それが一点に集中する様とを併記したモチーフだという。つまり、火焔土器のモチーフは具象ではなく、抽象なのだ。火焔土器は縄文人の豊かな精神世界をうかがわせる、ホンの小さなのぞき穴でもあるのだろうか。


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