Strange Days

信長の夢・安土城

2001年02月17日(土曜日) 23時41分 テレビ 天気:晴れ

 今晩のNHKスペシャルは、織田信長の安土城に関するものだった。
 安土城といえば、『安土・桃山時代』などと称されるように、織豊期の代表的な城だが、その実態は知られていない。というのも、この城が完成してわずか数年で、信長が本能寺の変に倒れたからだ。その直後、誰の手によるものかは分からないが安土城には火が放たれ、泡沫の夢のように焼け落ちたという。だからこの城に関する文書は、信長に謁見したフロイスの覚え書き、『信長記』などわずかなものに限られる。
 10年ほど前から、この幻の安土城の城跡を発掘する、大掛かりなプロジェクトが進められている。プロジェクトは麓から始まり、既に天守があった山頂部にまで到達している。その間、従来の見解を覆すような発見が相次いでいる。
 この城は山頂に天守閣、本丸を据え、その周囲に信長配下の武将たちの館と砦が連なる、構えとしては山城のそれをかなり踏襲しているものだ。しかしごく近傍に街道を抱え、城下町が発展していること、また城の外郭が平地に接していたことなどから、平城へと移行する直前の段階を表すものだといわれていた。しかし安土城は、どうやら軍事目的に作られた城では無いようなのだ。
 まず大手門を抜けると、通常の城構えではすぐに隔壁に突き当たり、大きく折れ曲がって、かついくつもの内門に遮られながらようやく本丸に到達する。ところが、安土城では幅広い大手路がまっすぐに上り、本丸にほとんど直結している。これでは防備の役に立たない。
 この謎は、やはり謎めいた本丸の構造を解明することで、やはり解き明かされた。本丸は、通常の武家屋敷と異なり、柱の間隔が長い公家屋敷の構造を持っていたのだ。しかも、天皇の住まいである清涼殿のそれと酷似していた。このことから、信長は本丸へと天皇を迎えるために、わざわざ大手路をまっすぐに引いたのだと推測される。
 天守閣も奇妙な構造をしていた。最近、東京の出版社の資料室から、どこの城のものとも思われない天守閣の図面が発見された。その図面を安土城の天守閣遺構と比較してみると、良く近似している。このことから、この図面は、完成間際の安土城天守閣を採寸したものであると考えられている。
 この図面を見ると、天守閣と本丸の間に、渡り廊下が設けられている。こういう奇妙な構造の城は、他に例がない。これも安土城の遺構と良く一致している。恐らく、天皇を本丸に据え、自らは天守閣で政務を執りながら、必要に応じて往来しようという腹積もりだったと推測される。信長は天皇家を自らの権力構造の中に取り込むつもりだったのだ。
 天守閣の遺構から発掘された、もっとも奇妙なものは、その中心に据えられていたと考えられる穴だろう。先の図面との比較から、これは仏舎利等を納める仏塔の跡だと考えられた。城の中心にこんなものがあるなど、前代未聞ではないか。
 また天守閣はこの仏塔を含む大きな吹き抜けを持つ下層部と、その上に載った上層部とに分けられる。下層部には信長が生活し、政務を執っていたと考えられている。通常、天守閣はせいぜい評定の場、つまり会議室として用いられる程度で、平時には人が住むものではない。最初に天守閣を作った信長自身は、これを生活の場としても使用するつもりだったわけだ。このことから、信長は安土城を軍事目的ではなく、自らが天下布武を進める中心の政庁として使用することを目論んでいたのだと推定できる。
 天守閣の上層部は、なんとも奇天烈な形をしている。まず第6層は全体として8角形をしており、さらに最上層の第7層は正方形で、それらの外観も内観もきらびやかな金箔が張り巡らされていた。この上層部の内部には、当時の名高い絵師たちの仏教、儒教に題を取った絵画が並べられていたという。ここは信長が未来の構想を練ったり、客を招いたりする場所だったのではないだろうか。
 さて、この天守閣のモチーフはどこから得られたのだろう。大きな吹き抜けを持ち、絢爛豪華な装いを施されているという点から、西洋の宗教建築に題を得たのではないかと推測される。
 この天守閣に与えられた宗教的芳香、天皇を間近に置こうという本丸の構えなどから、これらは宗教に縁遠く、天皇に代表される既存の権力に冷淡だったという信長観を変えるものだ、と、番組ではされていた。
 それはどうだろう。従来、信長がかなり宗教的な「第六天魔王」だの「成ろうが三定」などといった言葉を口にしていた形跡が指摘されていた。今回の発見も、その範疇を出るものではないのではないだろうか。天皇家に対する件を含めて、とどのつまりマキャベリスト信長は、ある時は反抗的な宗教を徹底的に弾圧し、ある時は無意味な権威を拒否し、逆にあるときは利用しがいのある宗教や権威を取り込むという風に、その時その時で利用できるものを利用していたに過ぎないのではないだろうか。
 どうも信長は時代の革命児だといわれ過ぎていて気持ち悪い。確かに時代の先を行った面もあるが、例えば楽市が六角氏の施政下で既に行われていたという説もあるように、必ずしも信長が全てを発明したわけではないようなのだ。そもそも、一人の人間がこれほど多くの面で創造的に振る舞えるとは考えられない。恐らく、軍事、政治、それぞれの面で有力なブレーンがあったのではないだろうか。また彼に先取の目があったにしても、それはアレンジャーとして有能だったという評価にしか繋がらないのではないだろうか。
 この先、人間信長の姿が解明されていけば、隠されたブレーンが発掘されるなどして、これまた評価が変わって行くかもしれない。これも歴史の面白いところだ。
 しかしこの番組、何度も放映を延期されてきたのだが、もしかして途中で登場した、なんとも都合よく発掘された天守閣の資料に、一抹の不安があったからなのだろうか。例の"神の手"事件の余波なら、ちょっとばかり笑える話だ。


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