Strange Days

痛くない奴に小説など書けるか

2001年04月25日(水曜日) 22時04分 思考

 あちこちで「痛い」という表現を目にして、僕もあまり気にせず使っている。しかし、考えてみれば危険な言葉だ。
 なにが痛く感じるかというと、これは痛い人の過剰な部分に、痛く感じている人が共感できないことだろう。例えばやおいに関して熱烈に語っている人を見て、やおいというものに思い入れの無い人は痛く感じるだろうが、思い入れのある人は共感できるだろう。親馬鹿という行為も、その子供に思い入れの無い赤の他人には痛く映ることだろう。しかしながら、人間誰しも過剰な部分はあるはずで、もし無いとすればその人は死んだように起伏の無い生活を送っているとしか思えない。現代人なら、なにかしら思い入れのあるものを持っているだろう。大体、なにかを熱心に語るには、それだけの動機が必要だろうから、他人に痛い認定している人々も、実際には痛い部分を抱えているに違いない。
 問題は本人が痛いことを認識しているかどうかだ、とする声もありそうだが、僕はそれは問題の中心を外していると思う。なぜならば、語られる以上はその部分は本人にとって過剰な部分であり、それだけで"痛い"と認識されてしまう危険性を払拭できないからだ。痛いかどうかは、個々人の価値観と対照されて初めて明らかになる事項であり、なにがそう認識されるかは完全に不確定だ。単に日常の必要性から風呂釜の機能に関して語っていても、それは興味のない第三者からは「痛い」と見なされる可能性が常にある。つまり、予め発信者の価値観との対照だけで「これは痛いかも」と認識することに、僕はあまり意義を見出せない。むしろそのような認識は、事後の反応に対する汎用的な心構え程度に抑えて置けばよいのではなかろうか。
 このことを創作(とまで身構えなくとも、まあ書く行為そのものでもいいが)にひきつけて考えると、創作家が痛い部分を抱えているのは必定だろうし、創作の中心はまさにその痛い部分に相違ない。なぜならば、創作し、語るには過剰な部分が必要だからだ。そしてそのような部分は、他者から見れば「痛い」と見なされる可能性を常に秘めている。その程度のことは、創作の上ではごく当たり前の、軽度のリスクと見なしても構わない。むしろ、ある種の人間にとっては魅力的だが、別種の人間にとっては痛く感じるような事項を見つけ出すことこそが、実は優れた創作の基本なのではなかろうか。万人に心地よい、ムードミュージックのような創作に、どれほどの価値があるというのだ。むしろ、読者に一歩退かれれば、すぐに痛さが目立ってしまうような、懐深くまで飛び込まなければ、魅力的な創作など不可能だろう。それを万人に受け容れられやすい形にするのは、創作技術の仕事だと思う。
 新田次郎や井上靖の描く自然は、どちらかといえば乾いた視点を感じさせるが、単にモノとして眺めてだけではあのような描写は出来まい。むしろ自然への過剰なまでの思い入れが無ければ、かの優れた描写は無かったのではないだろうか。そしてそれを、一見乾いた背景に見せているのは、実は優れた創作技術の賜物なのではないだろうか。


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