Strange Days

NHKスペシャル「日本人はるかな旅」森が育てた縄文文化

2001年10月21日(日曜日) 23時10分 テレビ

 今夜のNHKスペシャルは、「日本人はるかな旅」第3集、"森が育てた縄文文化"。
 近年、縄文期の遺構の発見が相次いでいる。東京都の多摩ニュータウンからは、大型の竪穴式住居で構成された集落が発見されている。また開発の進む地方でも、新たな遺構が次々に発見されている。旧石器時代の遺構はだいたい夢と消えたが、縄文期の遺跡に関しては数量ともにさらに充実しつつあるのだ。その中には、今までの縄文期に関する常識を覆す発見もあった。青森県の三内丸山遺跡もそのひとつ。
 三内丸山遺跡は、最盛期には五百人ほどが居住したと考えられる縄文期の"村"だ。そこには数十戸の竪穴式住居の他に、巨大な六本の柱で構成された物見やぐら、そして二百人あまりを一度に収容できたと思われる巨大な竪穴式住居も見つかっている。ここは住居というよりは集会所だったと考えられている。つまり、この"村"には既に公共施設が備えられていたのだ。
 この"村"が、豊かな物質的充足を享受していたことをうかがわせる出土品も、数多く発見されている。例えば黒曜石。これは刃物の材料となる。また翡翠は装飾品として珍重されたようだ。また村からは多くの土偶が出土している。このことは、村人は生活に追われる事があまりなく、十分な余暇を得て精神世界の儀式を盛んに行っていたことを示唆している。
 彼らが一種の儀式を行っていたことは間違いなさそうだ。村の中心の広場を囲むようにして、なぜか多くの盛り土がされている。その盛り土からは、どうやら完全品をわざわざ壊したらしい土器のかけらなども出土している。最下層からは古い人骨が出土しており、恐らくは"村"の創設期の住民、村人全ての先祖に当たる人物だったようだ。想像をたくましくすれば、村人はその先祖の功を讃え、定期的に"祭"を催していたのではなかろうか。
 村は入り江を望む位置にあり、入り江に入ってくる日本各地からの舟(黒曜石や翡翠を携えて物々交換にやってきたのだろう)からは、ひときわ巨大な物見やぐらが目に入ったはずだ。外来の人々は、浜を上がって村に近づくに連れ大きくなってくる物見やぐら、集会所を目にし、また立ち並ぶ住居の群れを目の当たりにして、畏敬の念すら覚えたかもしれない。ベトナム戦争に北ベトナム兵として参戦した経験を持つベトナムの作家が、始めてマンハッタンの巨大ビル群を目の当たりにしたとき、『物質文明の迫力を感じた』と所感を述べたのを見たことがある。この村も、そうした物質文明の迫力を体現する嚆矢だったとはいえないだろうか。
 一体、この北の地に、これほどの豊かさをもたらしたものはなんだったのだろう。その鍵は、土壌に含まれている花粉にあった。詳しく分析すると、この近辺に分布していた楢、櫟などの森が、村の興隆と反比例するようにして減少しているのだ。逆に増加した植物がある。栗の木だ。栗は渋抜きの必要がないなど、食用としては非常に効率的な植物だ。栗が自然に増加して、他の照葉樹を圧倒したとは考えられないから、恐らくは村人が木を伐採し、その代わりに栗を植えたのだろうと考えられている。その結果、一か所に数百人もの住民が定住するという、縄文期の常識からは考えられない状況が実現したのだ。
 ところが、この繁栄もやがて終わりを迎える。ある時期に、この村の住民が周辺に散っていってしまったのだ。その謎を解く鍵も、栗の木にあった。この時期の栗の木の年輪を見ると、急に成育状況が悪化したことが分かる。この村は、あまりにも栗に頼りすぎていた。モノカルチャー型経済は効率が非常に優れているが、反面主穀がやられると経済自体が破滅する。それくらいもろいものでもある。縄文期、他の地域では主要な食物の違いはあれど、栽培、採取、狩猟など、いくつもの手段で食料を得ていた。この村は、そうした多様性を放棄したが故に、他の地域を圧する繁栄を勝ち得た。ところが、経済の根幹をやられると、もう抵抗する術を持っていなかったのだ。それゆえに、この村は衰亡せざるを得なかったのだろう。
 何故栗の成育が悪化したのだろう。実はこの時期、地球規模の寒冷化が起こり、平均気温が3℃ほども低下してしまったのだ。その結果、比較的温暖だった青森の地も、栗の成育に適さないほど寒冷化してしまったのだ。
 この経験は、しかしのちの世の人々に伝えられた、と番組では述べていた。富山県で発見されたやや後の時代の縄文遺跡は、数戸程度の集落が三つ固まっている真ん中に、なんらかの作業場と考えられる遺構が位置している。その遺構は、恐らくは栃の実のあく抜きを行うための水利設備だったようだ。しかも、この設備は、三つの集落が協同で管理していたらしい。彼らは、三内丸山の人々のように一か所に固まり、植樹を行って効率的な農業を行う事はやってなかったようだ。しかし、その頃の森に豊富にあった栃の実を処理し、しかも森林に負担をかけない程度に分散して暮らす道を選んだのだ。その結果、たとえ栃の実が取れなくても、その他の狩猟、採取によって暮らして行ける余裕を確保することが出来たのだろう。その代わり、労働集約的な作業のみ、周辺の村々の共同作業で遂行する事にしたのだろう。森に依存しすぎず、しかし社会性は確保するという、ある意味では三内丸山の村よりも高度な組織性を実現したわけだ。この流れは、後の世の村落共同体、そして里山という形で、つい近年まで脈々と受け継がれてきたのではないだろうか。


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