Strange Days

NHKスペシャル「変革の世紀」

2002年04月14日(日曜日) 23時00分 テレビ

 今晩のNHKスペシャルは、新シリーズ「変革の世紀」。第一回は『立ち上がる市民パワー』。
 ここ数年、いわゆる新ラウンドを議題とするWTOの会合に、"反グローバル化"を標榜する様々な市民グループが異議を唱え、会場を取り囲んで気勢をあげる光景が見られるようになった。そうした市民グループの中の中に、フランスに本部を持つATTACがある。彼らは"もう一つの世界"を合言葉に、行き過ぎたグローバル化は貧富の差を拡大し、社会に不安をもたらすと主張する。
 ATTACは、ル・モンドのある社説を切っ掛けに生まれた。その記事を執筆したル・モンドの編集長は、今はATTACの主要メンバーでもある。行き過ぎたグローバル化の弊害を説くその記事には、思いがけないくらいの反響があり、社会の非常に広い範囲で、興味を集めているのだと気づかされた。その記事を切っ掛けに、インターネット上で様々なディスカッションが繰り返されるようになった。それはやがて、市民グループATTACの成立へと向かった。
 ATTACの特徴は、比較的高年齢層が多いことだ。このことは、比較的余暇があり、経済的にも豊かな層が、それでも(自分たちに富をもたらしているに相違ない)世界経済のあり方に疑問を抱き、さらには抗議の声を挙げていることを意味する。いわば自分たちの富の源泉に疑問の目を向けた形になっている。あるいは、当然あるべき配当が、実際にはなされてないと感じているのだろうか。
 ATTACの会員はフランスを中心に世界中に広がっている。特に会員の多いフランスでは、あちこちの地区で会合が持たれ、様々な議題に対して議論が続けられている。そして彼らのターゲットの一つが、その発足のきっかけになった経済のグローバル化を推し進める、WTOの会合なのだ。
 WTO新ラウンド反対を叫ぶ団体は、ATTAC以外にも多種多様に存在する。カナダのある団体は、カナダ政府がガソリン添加物禁止を撤回した経緯から、『国民の健康より海外貿易を優先する政策に反対するには、自分たちも国境を越えてゆかねばならない』という認識に至り、ATTAC同様にWTO新ラウンド反対を叫ぶようになったという。
 先進国だけの現象ではない。ジンバブエでは、通貨危機を切っ掛けに、自国経済のあり方に疑問を抱く経済学者が、やはり市民団体を結集してグローバル化に抗議の声を挙げるようになった。彼は、先進国の市民グループに、正直なところ反感を抱いていたという。しかし、『共に新ラウンドに反対してゆこう』というメールを先進諸国の市民グループから受け取ったのを切っ掛けに、考えを改め、共闘するようになったという。
 1999年、シアトルで行われたWTO新ラウンド交渉は、新ラウンドの危険性を説く市民団体に推されるようにして、まずいわゆる発展途上国が異議を唱え、さらに先進国同士でも意見が分裂するようになり、結局は決裂する結果となった。それ以降も、新ラウンドは、こうした市民グループたちの反対に悩まされつづけている。
 彼ら自らもグローバル化を進める市民グループは、一様に『シアトルが原点だ』という。従来、国際政治の前には無力だった一般市民だが、連帯することでその壁を突き崩せることに気づき始めている。この流れは、インターネットという効率的な知識共有手段により、ますます加速してゆくだろう。
 実は、僕自身は、テレビで放映されるWTO議場を取り囲む市民団体と、彼らが引き起こす暴動(市民団体は各国政府の陰謀だと主張している)を見て、なんだってあんなことをするのか、その行動原理に疑問を感じ、むしろ反発を感じていた。しかし、その成立の経緯、そこに所属する人々の素顔を見て、かなり親近感を憶えた。僕だってクラゲのような生活を送ってはいるが、クラゲ程度には生存競争にさらされ、自分と社会のありように様々な疑問を感じている。そこで声を挙げ、実際に行動した人々が、彼らなのだと理解した。彼らと、様々な事柄を話し合ってみたいと思った。たとえ思想も価値観も異なっていても、得られるものはありそうに感じたし、また彼らも対話を重んじるだろうと思った。もちろん、対話可能性など全く無いような、奇矯で過激なグループもいるのだろう。だが、彼らの大半が、専門の市民運動屋(家ではなく)ではなく、その辺の一般市民だという認識は重い。
 しかし、まだわだかまりは残る。最初、彼ら市民グループはこう叫んでいた「あちら(国際会議に臨む各国政府高官の人数)は30人、こっちは3億人!」と。ちょっと待て、それはおかしい。彼ら市民グループが代表してカウントできる人数は、彼ら自身の人数に過ぎないはずではないか。勝手に、その他の無関心層を代表してしまっていいのだろうか。"市民グループ"が代表する"市民"とは、実際には市民のごく一部、彼ら自身に過ぎないのではないか。ニクソンばりにサイレント・マジョリティを持ち出すのなら、それは"30人"の側だって持ち出せるはずだ。
 このスローガンが、自覚的にスローガンにとどまっているのならいいだろう。しかし、これが『我々=最大多数派』、いや、『我々=市民全て』という錯誤に変わるとき、市民運動は政治的な革命運動へと堕落してゆくだろう。
 市民パワーは強大化してゆく。インターネットなどのツールを手に入れた結果、これはもう逆転しようの無いことだろう。しかし、強大化したものには錯誤と、腐敗とがつきまとう。彼らが決してジャコバン化しないなどと、どこの誰にも保証は出来ない。強大化する市民パワーを、今度はまた誰かが監視しなければならない。そういう流れからは、NGOを監査するNGO、あるいは国際的なルールが求められることになるだろうと思う。直接、政治を担おうとする市民、それがどのように影響してゆくのか、今の段階では計り知れない。


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