Strange Days

中上清展/絵画から湧く光

2008年03月08日(土曜日) 23時12分 美術館 , 思考 天気:湿っぽいよ?

 鎌倉館での企画展は、『中上清展/絵画から湧く光』だった。強い印象を受けたので、そのことを書こう。
 第1展示室に最近の作品、第2展示室に過去の作品を集めていたのだが、第1展示室に展示された最近の作品を見て衝撃を受けた。最初の絵*1の前に釘付けになってしまった。
 実はこの人の作品は目にしたことがあった。しかしそれは、PCの上でのこと。以前の企画展や、前に横浜美術館でやった近年のアーティスト6人展だったか、とにかく便利そうな企画展の開催要項を調べているとき、この人の作品を間接的に目にしていた。まああざといなというのが、その時抱いた淡い印象の全てだ。
 ところが、実物を前にして、その迫力に言葉を失ってしまった。文字通り、ううむとか、うぐぅとか、そんな唸り声しかひり出せない。中上清を検索すればその作品をモニタで見ることは出来る。だがそれは、実物のもつ迫力の朧な残滓に過ぎない。
 これは言語化できない領域の芸術だと思った。もちろん、そもそもある絵画の100%を表現できる言語なんて無い。でも描かれているものに関してはほぼ言語化できるだろうし、それを見た人の主観は半分くらいは言語化できると思っている。それが文学というものの目指している位置だし、現代の文学はその点に関してそこそこ成功していると思うからだ。
 ところが、これらの絵はなにが描かれているのか言語化するのが難しいし、そのくせに受けた衝撃の大きさを確実に伝えることも難しいように感じた。文学の最果て、断崖絶壁の向こうにふわふわ浮かぶ亡霊のようなものだ。
 光と影というとレンブラントだが、レンブラントの光は日光だ。いかに弱弱しくとも、それははっきりした光源を持っている。ろうそくを使った作品でも同様だ。
 ところが中上清の描く『光』は、それがなんなのかはっきりしない。日光なのか、もっと朧な月光なのか、さらには描かれているもの自体が光っているのか、いずれのようにも見える。レンブラントは筆、中上清はエアブラシ*2という違いもあるのだろうが、そもそも中上清はなにを描くかに関心が無いように見える。なにが表現されるかに拘っているように感じた。『こう描いてゆけばこれがあるはずだ』ではなくて、『こう描いてゆけば何が生まれるだろう』と。人物をその内面まで描ききろうとしたレンブラントとの差異を感じる。4世紀近い時代の違いもあるのだろう。これらの作品はアクリル絵の具で描かれている。
 面白いのは、絵画手法の差からか、2007年に描かれた作品群と、それ以外のものとに、大きな隔絶があるように感じたことだ。単なる抽象画だった古い作品群はもとより、2000年に描かれた作品群との間にも。2000年の作品群は、エアブラシで紙面に液滴を溜め、それを一方向に垂らすという技法で描かれている。その軌跡が奇妙に生物的であり、闇に光る花のように見えるのだ。が、2007年の作品からは、もはやいかなる生命の痕跡も見つけられない。2000年の中上清と2007年との彼との間に、いかなる変化があったのか興味深い。いやもしかして、単に新たなる技法への挑戦が、そういう結果を生んだに過ぎないのかもしれないが。
 今日はうるさい客のせいで没入できなかったので、来週また来ようと思う。最後に、討ち死に覚悟で言語化を試み、この記事を終える。*3

 そこは遥か高空の雲中とも、高山の稜線とも、月に照らされた砂丘とも、遥か海面からの光に浮かんだ海底とも、そのいずれであるともないともいえない世界だ。
 光がある。雲中を抜けた日の光とも、高空に狐絶した月の光とも、世界そのものの発光とも、そのいずれであるともないともいえない光だ。
 世界に光が現れる。射す、などという心強い光ではない。どこに光源があるとも知れない、その癖にはっきりと印象に残る光が、よちよちと、あるいはよぼよぼと、いざり寄って来たのである。
 光は<もの>の向こうから、その稜線を回って我々の目に届く。光が反射し、屈折し、透過し、回折し、減衰し、増幅し、重複し、分離し、過剰になり、過少になり、我々の眼に届く。
 その時、<もの>の姿を見る。ものは高山の稜線と、いくつもの尖塔に見える。だが海底に盛り上がる砂丘の稜線とも見える。また人智の外にある雲中の光景とも、大瀑布を見上げた様とも映る。
 光は稜線をようやく超えてくると、その<もの>の表面に走る襞のようななにかを零れ落ちてゆく。そしてやがて画面の外、<もの>が安住していた闇へと消えてゆくのだ。


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