Strange Days

藤沢市を縦に走ってみた

2003年05月03日(土曜日) 00時00分 自転車 天気:今日もいいね

 自転車三昧のGWシリーズ。今日は本当ならSFセミナーに出かけるつもりだったが、直前に公表されたプログラムを見ても、興味あるタイトルが見当たらない。強いていえば飛浩隆とSFラジオドラマだろうが、もっとSFの外部とクロスオーバーした話を聞きたい僕には、それほど訴求力を持ち得なかった。
 時間が空いたので、トレンクルでポタリングに出かけることにした。サドルバッグにボトルを差しただけで、お気楽に出発進行。
 まずは昼飯だろうと、湘南台方面に走り、イトーヨーカドーに向かった。1Fでさぬきうどんを、と思ってのぞいてみると、いやはや嫌になりそうな人出。延々とカウンターに列が出来ている。敬遠。
 このまま進んで行き、秋葉台公園で左折すると、やがてねぎ屋に出る。久しぶりに行ってみるか。
 ねぎ屋(ここは"家"じゃなくてこっちが正しかったはずだ)の前にトレンクルを拘束プレイして、チャーシュー麺の食券を買った。この店、なぜかやたらピリピリした雰囲気が厨房に漂っていることもあり、実は苦手なのだ。この日もオヤジが店員の女性を怒鳴りつけていた。店員同士の関係が丸々見えてしまうのが、厨房がオープン形式になっている家系ラーメン屋の嫌な点の一つだ。どうせオープン形式をとるのなら、もっとショーアップした調理様式を見せて欲しいものだ。
 出てきたラーメンはうまい。しかし、だし家時代ほどスープに深みが無いような気もする。オヤジもいろいろ試行錯誤しているのだろうか。
 店を出て、トレンクルを解放していると、通りすがりの初老の男性に話し掛けられた。曰く、『その自転車の重さは如何程也や?』。余、答えて曰く、『8kg弱ナリヨ』(いやそんな面白い言葉は使わなかったが)。なんでも、その男性は病気で体力を落とし、重い物は持てないと医師に宣告されたんだそうだ。しかし健康のために運動したい。そこで、軽い自転車に興味があった、ということだった。持たせてあげると、『軽いねえ』としみじみいった。そりゃあ、おじさんが乗ってるママチャリよりは、ずっと軽量です。こいつがトレンクルということや、値段なんかの事をいろいろ話してあげると、その男性は礼を言って去っていった。どうも、小さな折り畳みは、女性よりも年を召した男性を惹きつけるようだ。
 さて、これからどうしようか。秋葉台公園から南下するこの道は、最終的には藤沢駅北側に出るようだ。ここを走ってみよう。
 なかなかいい道が続く。交通量も多くはない。ポツ、ポツと郊外型の店舗が立ち並び、その間に住宅がまばらに並んでいる。目を東に遣ると、引地川らしき川と、それに沿った道が見える。
 途中、トレンクルを止め、後輪のスポークをチェックした。実は、トレンクルの後輪から回転するごとに音が出て、気になっていたのだ。手で確認すると、ニップルに力を加えるとわずかに動くスポークが何本もある。簡単に動くものは締めておいたのだが、それでも音は止まない。最終的にはプロショップに持ち込んで処置してもらうことにして、応急処置としてテンションの低そうなスポークを締めておくことにした。締めて、走って、また締めて、と繰り返し、やがてほとんど解消できた。なんでこんなに緩んだんだろう。もしかして、春になって暖まったから? MOBILLYでこういうことは無かったんだけど。
 藤沢市街地に入り、境川へと抜けて、それからまたゆっくり北上し始めた。ダイクマに立ち寄って、また東進する。相鉄の下を抜け、区役所近くの和泉川に出た時、そういえばここにも遊歩道があったなと思い出した。そっちも走ってみよう。
 和泉川の右岸を走ってゆく。区庁舎の南にかけて、整備された公園が続く。長後街道沿いのそれは、ちょっと人手が入りすぎているように思えた。そこを抜けると、徐々に普通の小川になってゆくのだ。路面はタイル張り、コンクリート打ち、小石を埋め込んで路面加工してあるものなど様々だ。基本的に自転車の通行なんか、ちっとも考えて無さそうだ。それは車道を走れということなんだろう。それでも、あえて遊歩道を走ってみた。
 少し進むと、また整備された公園が川を挟む区画に出た。しかし、ここは色んな遊具や設備で川を切り取ったような、上流の眺めとは違う。川は川として流れ、それを挟む道にざっくりしたスペースをとり、道や、芝生を巡らせたような仕掛けだ。なんとも、あっけらかんとした眺めだ。しかし、この光景は和む。人が少ないのも良い。犬を連れた女性が、ゆっくり散歩しているだけだ。暮れなずむ町に、少し放って置かれたような小公園が、何一つ意識されること無く溶け込んでいる。
 きっと、この小公園は、この辺りに住む人たちの憩いの場になっているのだろう。そのくせ、いざこの町の良いところを問われた時、きっとこの小公園のことは語られないに違いない。そう思わせるくらい、この小公園は地味に溶け込んでいた。上流の、子供のために川を玩具にしたような公園に比べ、ここは川をさほどいじってない(もちろん、偏執狂的な治水工事を受けた後は、だけど)。調和という言葉さえも思い浮かばない程度の、ささやかな空間だった。きっと、僕たちを取り囲んでいる世界には、この程度のものを滑り込ませる余地が、たくさんあると思うのだ。そして、たぶん、巨大なテーマパークを作るとか、海を埋め立てて広大な土地を手に入れるとかするよりも、こうした小さな事業の方が暮らしをより良くしてくれるのではないだろうか。それぞれのものの『より良くしてくれる』性質が違うことを了解しながらも、それでもやはり自分たちの足元にこそ『より良くして行く』可能性が転がっているのだと思う。そしてきっと、後者の方が見落とされることが多いのだろうね。
 この小さな公園が、意外に大事にされていることは、道に落ちているゴミの少なさで分かる。市街地の公園、パブリックスペースでのゴミの多さには、本当に嫌になる。しかしここは、恐らく地元民しか立ち寄らないのだろう。自分の庭先にゴミを捨てるようなもので、気持ち悪いに違いない。また定期的に清掃している人がいるのかもしれない。そこでしみじみ考えた。もしも旧イラク政府が国民を真に大事にし、イデオロギーよりもその生活を大事にしていたのなら、きっとこういう場所がたくさんあっただろう。またマイクを向けられた人々も、上から押し付けられたスローガンを叫ぶよりも、きっとこうした場所にこそ、外国の取材班を連れてきていただろう。そしてもしもそうなっていたのなら、アメリカ世論もあそこまで過激化しなかったのではないだろうか。しかし実際には人々はテレビの前でスローガンを連呼することばかりを押し付けられ、逆にフセイン政権の現実を赤裸々に晒す結果になってしまった。メディアの情報操作を加味しても、イラクの人々の足元が、諸外国に伝わることは少なかった。北朝鮮と同じように、イラク政府も自分たちの権力を守る物以外には、結局興味を持たなかったのだろう。
 レズニックの「パラダイス」でも、住民も観光客も見過ごすような場所に、その星のかつての面影を留めた"楽園"があった、なんてシチュエーションが出てくるけれど。目に付きやすいところはいろんな修飾をされてしまうので、こんなエアポケットのような場所にしか、時間は足を留めてくれないのかもしれない。
 道を南下して行くと、やがて2車線の道路と交わる地点で途切れてしまった。今度は左岸を北上し、やがていつもの帰宅ルートに乗った。このご近所ポタリング、なかなかの発見があって、楽しかったな。


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