Strange Days

九州横断ツーリング4日目

2010年04月28日(水曜日) 22時31分 , 自転車 ( 自転車旅行記 ) , デジタルカメラ 天気:快晴

 再び九州本土に戻る4日目。自走も考えたが、船と鉄路を組み合わせることにした。


 宿に食事はついてないが、コンビニで買っておいたものを軽くとっておいた。安いわりに共同スペースが充実しており、ユースっぽい宿を期待する向きには良さそうだ。出立前に宿の女の子と記念写真をとってもらった。
 港に向かう。本渡港からは三角港へと高速船が就航している。以前は熊本新港まで高速フェリーが就航していたのだが、これは廃止され、その後にこの航路ができたらしい。
 港に着き、輪行状態にしてから停泊中の高速船に乗り込んだ。切符は船内で直接購入する形だ。船はおじさんと若いお姉さんという意外な組み合わせで運行されている。しかし、僕以外の客がいない。この航路はバスより便利だと思うんだがなあ。船の旅は楽しいし。みんな、猫も杓子もクルマクルマということなんだろうか。
 おじさんも女の子もたいそう親切で、なにかと話をしたり、記念撮影をしたもらったりしながら、船の旅を楽しんだ。天草の海は多島海とは言うが、本土に近づくまでは天草自身がずーっと横たわっているだけだ。最後、天草五橋という橋たちが見え始めた頃、やっと面白くなってくる。
 途中の停泊地で、天草五橋の4号橋をバックに記念撮影してもらった。熊本の人々は親切な人が多く、この船でもずいぶん親切にしてもらった。途中で記念撮影なんて定期バスではありえないだろう。客が僕一人きりだった事からも、厳しい経営状況がうかがえるが、頑張って欲しいものだ。というわけで、みんな本渡~三角航路を利用しよう。自転車を載せるのも問題なさそうだし*1
 さて、三角線に乗り継ぎ、熊本に。宿は駅と熊本城の中間辺りにある、染物と宿の中島家というところだった。ここも低価格の、共同スペースが充実したタイプの宿だった。部屋は4畳半だった天草ゲストハウスに対し、3畳程度。設備は尽く新しい。が、部屋の壁最上部は開いており、周囲の音がモロに聞こえる、いわば半ドミトリー形式というべき個室だった。僕は別に気にしないが、宿では静寂が欲しいという向きには向いてない。
 荷物を宿に置くと、自転車を北に向けた。西南の役最大の激戦地、田原坂を見ておこうと思ったのだ。最初はここまで輪行してから熊本に折り返すつもりだったのだが、熊本での乗り継ぎが不便そうだったので、熊本から中継することにしたのだ。
 えらいアップダウンと、土地勘の無さから、いささかワンダリングしてしまったが、なんとか田原坂公園に着く。ここには資料館もあるので、見てゆくつもりだった。
 公園の端、資料館の横に、西南の役の際に流れ弾で損壊した跡の残る弾痕の家なる蔵が立っている。あの当時の蔵が、しかも修理もせずに、などと驚いたが、なんのことはない、当時の写真をもとに再現されたものだという。
 資料館に入る。西南の役に関しては流石に総合的に知ることが出来るように、資料が陳列されている。この田原坂を加藤清正ら歴代の藩主が整備してきたこと、それが西南の役で熊本城救援の政府軍を阻止する薩摩軍に味方したこと。しかし結局は兵力と装備の差が勝敗を決めたこと、などが資料から知ることが出来る。
 特に装備に関して、薩軍が前装式銃主体だったのに対し、政府軍は最新式の後装式銃を重点的に配し、火力サービスの効率化を図ったことが強調されていた。雨天では前装式銃が射撃速度を落としたのに対し、後装式銃はあまり影響を受けなかったという。それが火力の差となって現れたのだと。
 それとともに、政府軍は刻一刻と兵力を増強していったのに対し、薩軍は思うように補充出来なかった点も大きいようだ。また十分な戦力を持つ政府軍は、熊本港から後衝軍を上陸させ、第2戦線を形成できたのも大きい。
 公園の真ん中には美少年*2の銅像が、大樹をバックに立っている
 自転車に戻り、田原坂の実物を下ってみた。田原坂は北から一の坂、二の坂、三の坂とつながっているのだが、どこがどうなのかは看板以外に知る手段がない。しかし、凹型の細い道が1.5km程も続き、しかも左右に伏兵に最適な竹林が密生していたのだから、これは抜くのに大変な犠牲を払ったはずだわいと思う。
 田原坂から輪行して戻り、宿の主人に聞いた近所の焼鳥屋に出かけた。たば鳥という店で、一串\150~300程度で、\2500も出せば満腹になる。特にしいたけのウマさにやられた。
 宿に帰り、VAIO Xで旅の日記を書いてから就眠。

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