Strange Days

リスクと個人

2012年12月14日(金曜日) 23時14分 思考 天気:気温の割に寒い曇

 3/11震災以来のリスク論議、特に原発を巡るものがそうなのだが、単に『危険あり』というレベルに留まっているものが多くて、個人としてどう受け止めるべきか戸惑ってしまう。
 『危険がある』なら、まず回避を最優先すべきという考えはあるとして、しかしその危険にどの程度の重み付けをするかは、結構個人的な嗜好の入り込む余地があるのではないか。
 例えばタバコ。喫煙者にもまじめにリスクを検討して受け入れている向きもあるのだろうが、単に止められないというだけの理由で、リスクを無視している向きも多いと思う。それはまあ、まさに個人の嗜好なんだから、仕方ないんじゃないかしらん。
 しかし非喫煙者である僕とすれば、やはりまずは避けたいリスクではある。だから、飲食店では禁煙店を優先的に探すし、ホテルでも喫煙ルームはまず外す。しかし、もっと大きなリスク、端的に言って対人関係のリスク*1を避けるため、喫煙空間に身をおくリスクを取る立場だってあるだろう。つまり、大抵のリスクは個人のレベルでは交換可能だ。
 翻って原発。まるでこの世の終わりを告げるかのような、反原発論者たちの熱狂的な警告にもかかわらず、今のところ放射性物質で死に至らしめられたり、あるいは寿命が縮んだ人は居ないように見える。そもそも、見えているリスクは数十年単位での発がんリスクなのだから、即座に体感することは不可能だ。そして、概ね信用できそうな数値を受け入れるならば、そのリスクも先に上げた喫煙リスクに比較すれば、むしろ低いものだ。
 ぶっちゃけ、『リスクは避けるべし』という言葉が独り歩きしてないかな。先に挙げたように、他に優先して回避すべきリスクはあるだろう。また避けようのないリスクはある。原発即時停止論に見る『これはリスクだから絶対避けろ』という極論は、多くの人にとって受け入れがたいのではないか。原発リスクは多くのリスクと背反だ。停電リスクと直接相反する。火力を働かせなければならない現状からしても、輸入に伴うリスクは発生するし、第一に直ちに金銭に跳ね返る。そう考えると、原発稼働に伴うそれは、『避けるべきリスク』の第一ではないと思う。
 ここに、"原発直下"で相次いで"発見"されている活断層というリスクが登場する。しかしこれも、どう考えればいいのだろう。"発見"の契機が、活断層の年代に関する定義変更であることは間違いない。でも、その変更の契機が”今後活動の可能性がある断層”の根幹に関わる部分であることに困ってしまう。単に法的技術的な話じゃなくて、過去活動歴があり、また再稼働する可能性のある年代が長く見られるようになったという、地震学的な根幹に関わる変更だからだ。しかし、20万年動かなかった断層が動く可能性をそんなに高く見る必要があるのか? 例えば九州の巨大カルデラ噴火は1万年周期だ。それが完全に無視されている現状で、わざわざ十万年単位で再来するかどうかわからない変更に、それほどまでに備えなくてはならないのか? それがわからない。
 個人のレベルでは、停電リスクという大きなリスクの前では、『今』断層が動くかどうかなんていうリスクは、ごく小さいものに思える。稼働させて、時間をかけて対策してゆくべきではなかろうか。その上で、『今』活断層が動き、直撃してしまったならば、もう仕方ないと思うしか無いのでは。つまり、それは飲むべきリスクであると思うのだ。
 という思考の経緯を人に説明しようとすると、まず自分が混乱してしまうので、メモ書きとして書いておく。


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