Strange Days

恒例年末旅行2014 三日目 吉野散策

2014年12月22日(月曜日) 21時01分 天気:雪優勢

 今日はメインイベントその2。奈良吉野を散策する。大体は、南朝の遺蹟を拾って歩くことになるのだろう。


 恐らくは、吉野が最も華やぐのは、まだ4カ月も先の、春桜の頃だろう。しかし、冬の吉野もいいのではなかろうか。たぶん。
 現地までは、近鉄線を乗り継ぐ。大和八木から乗り換え1回で行けるのだ。便利。
 近鉄吉野口駅はターミナルなので、欧州のターミナル駅を和風に再解釈したような佇まいだ。このせせこましい猥雑さこそ、和の真髄。
 吉野の中心である金峰山寺は、吉野口のある谷間の底からは、稜線に登った場所にある。歩いても行けるのだが、ロープウェイで登ってみた。
 登り切ると、谷の奥に向けての傾斜地に、家並みと寺社が点在している。逆方向に、つまり谷の出口方向に歩を進めると、曰く有りげな橋があった。金峰山寺周辺は、かつては山城が築かれており、南北朝の開幕を告げる吉野籠城戦では、護良親王らが篭った城、だと思う。そしてこの橋は、当時城を囲んで掘られていた、空堀の一つに掛かっているのだ。今は空堀も痕跡しか無いが、この橋を見て往時を偲べ、などと看板が掛かっていた。
 さて、正規には、谷の奥、金峰山寺方面に向かうのが正しい。ロープウェイ駅から登ってゆくと、これも曰く有りげな門が現れる。通称黒門。ここは金峰山寺の総門であり、これ以南は金峰山寺の寺領ということになるのかな。
 金峰山寺は大きい。その仁王門、そして本堂は国宝。仁王門は、残念ながら修復中で、覆いが掛かっていた。本堂手前の空間は、護良親王の本営が置かれた場所だとか。
 お腹が空いたし、寒いし、となると。昼時にはちょっと早かったが、金峰山寺の裏手にあった土産物屋兼食堂に入る。奈良といえばの柿の葉寿司。それに鍋焼きうどんを付けた。いや、逆か。ともあれ、柿の葉寿司は、意外に濃厚な口当たりで、これ主菜でもいいなと思った。
 金峰山寺以南は寺社の密集地帯だ。そして、その方々に南朝方の事蹟が残されている。吉水神社は、南朝の御座所が置かれた神社で、元々義経を一時匿ったという伝承もあるようだ。某女子高生脱衣麻雀アニメと由縁あり、絵馬掛けに痛絵馬がズラリと並んでいるのは、一層のこと事壮観だった。実に日本的カオス。
 やや山寄りに立つ勝手神社は、源義経の足手まといとなった静御前が、鎌倉方の吉野執行に捉えられた時、侍たちの前で舞ったという伝承がある神社。だが、近年になって不審火で社殿が燃えてしまい、再建費用を募っているところだという。
 桜本坊という宿坊も兼ねた寺院は、金峰山寺間近の立地もあり、秀吉の吉野花見の際には、徳川家康の宿地となったという。その縁があり、徳川家累代の位牌が預けられていた。
 斜向かいの竹林院には、その吉野花見の際に、千利休が作庭した庭園が残されている。一説には、その後に細川幽斎が改修したという。うむ、確かに*1
 狼煙台だったという、ちょっとした高台に登ってみたり、奥の方のマニアックな家道に踏み入ったりしたが、吉野山頂の登るのは断念した。寒くて死ぬ。
 さて、吉野は、概ね金峰山寺のある、谷の西側が拓けている。しかし、谷を挟んだ東側にも、いくつかの寺がある。その一つ、如意輪寺へと足を運んだ。と、簡単に書くのだが、これがなかなかの難行。一旦谷間に降りるルートもあるが、谷奥から回りこむ車道を通る方が楽そうと見て、徒歩で向かったのだ。が、結構歩く。先の谷西は、既に家屋が立っている関係で、広い車道を通せず、車はこちらの谷東を通るように車道が通されている。暫し、てくてく歩き続ける。
 やがて、如意輪寺への看板が見え、出口に辿り着いた。ここまで、人っ子一人居ないので、特に冬場には不安感に圧倒されそうだ。ともあれ、着いた。
 中には、後醍醐帝の墓所がある。近くには、別の皇子だか貴族だかの墓が一つだけあるのだが、もの寂しい場所だ。
 如意輪寺自体も興味深い寺で、南朝縁の事物が残されている。楠木正行が四條畷に潰える直前、決死の覚悟を短刀にて刻んだ扉が残されている。太平記の時代の人物が、今まさにそこで決死の思いを刻んでいる様が目に浮かぶようであった。
 この如意輪寺から、谷底に降りると、近鉄吉野口駅まで歩けるハイキング道があるはずだ。が、もう少し見ておく場所はあるだろうと、再び谷の西に向かう。
 谷を抜ける道は、こんなクリート殺しの石畳で、なかなかの難行だった。
 谷奥の丘の辺りが、桜の名所で、五郎平茶屋という地名が残されている。確かに茶屋があるっぽいが、今は営業してはいない。期間営業なのだろう。
 日が暮れかかったので、来た道を戻って帰宅した。次に来るなら、ちゃんとした靴を履いてこようと思った。

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