Strange Days

臨死体験

2000年03月11日(土曜日) 23時34分 テレビ

 今夜の「時の記憶」は'91年に放送されたNHKスペシャル、立花隆の取材で製作された「臨死体験」だった。1.5時間の長尺の番組だが、非常に面白かった。
 臨死体験とはなんだろう。それは人が死線をさまよっているときに体験する奇妙な出来事のことだ。近年、医療技術の発達により、少し前なら助からなかったような危篤状態から生還する人が増えている。そうした人々の中に、従来の科学的な説明が当てはまらないような体験をする人も多い。それらの奇妙な体験をまとめて臨死体験と呼ぶ。
 臨死体験の細かなパターンはいくつもあるが、共通して見えてくるパターンもある。
1.肉体から視点が離脱する(いわゆるオカルト用語の幽体離脱)。
2.暗い穴の向こうに明るい光が見える。
3.明るい場所には花園が広がっている(あるいは大変居心地よさそうな場所である)。
4.そこでかつて死んだ肉親と出会うこともある。
5.そこから先に進むが、障壁(川のような場合もある。肉親に呼び戻される場合もある)を前に引き返し、息を吹き返す。
 これらの体験はたいてい宗教的ないしオカルト的意味付けがなされる。しかし近年になって多くの体験が知られるに連れ、科学的な文脈で解釈し直そうという動きが起こっている。
 全米の臨死学会が設立され、そこで数多くの事例が報告されている。学会の設立に関わったある医師は、医療の現場で数多くの臨死体験に接し、その存在には疑問の余地が無いという。死地から生還した患者の多くは臨死体験を口にするという。
 立花もその報告数の多さから臨死体験の"実在"は疑えないという。では臨死体験の正体はいったいなんなのだろう。
 臨死体験者は多くの場合意識不明の昏睡状態にある。従って体験者は外部からの情報を受け取り得ない状況にある。しかし体験者の中には幽体離脱の最中に、当人が知り得ないような事項(たとえば昏睡中の現場の状況や、医師たちの会話、仕種)を言い当てる者もある。そこでこれら臨死体験は現実の体験であるという説が成り立つ。
 一方で臨死体験は脳内の"体験"に過ぎないという説もある。先の昏睡中の体験は、医師たちの会話を体験者が無意識のうちに聞き取ったいたものという解釈だ。しかしそれだけでは説明できないような事柄まで憶えている患者もいる。
 脳内現象説にはある有力な証拠もある。1950年代、北米の脳外科医が、局部麻酔で開頭した患者の大脳に電気的刺激を加え、その時になにを感じているかを聞き取るという実験を行った。すると側頭葉の一部を刺激すると、幽体離脱のような感覚をおぼえる事が発見されたのだ。つまり昏睡中の体験者は、この部分が活性化される事によって、擬似的な体験をしているに過ぎないとも考えられるのだ。また他にも大脳生理学的な手がかりがいくつか得られている。
 ところが脳内現象説には大きな落とし穴がある。昏睡中の体験者の脳の活動レベルは極めて低く、夢を見たり幻覚をおぼえたりする力も無さそうなのだ。また個体の終焉という、種の保存という視点からは無意味な場合に活性化される機能の意味はなんなのだろう。
 臨死体験現実説を取った場合、肉体から抜け出して外部の情報を得る事が出来る"実体"が想定される。大抵の場合、それは古典的な意味での霊魂であると解釈される。こうした2元論を取る人々は、どうも医療の現場に近い人々が多いような節がうかがえる。実体験者という特権的な立場に近い者ほど、そのリアルさを疑い得ないという事を示しているのかもしれない。
 こうした臨死体験のモチーフは、実は宗教にも大きな影を落としている。仏教、キリスト教を問わず、宗教画には光の道というモチーフが数多く登場する。これは臨死体験者が宗教的な影響を受けている事を示しているのだろうか。実はまだ宗教的なカラーに染められていない少年期の臨死体験者も、似たような体験を語っている事から、必ずしもそうとはいえない。逆に宗教の誕生に臨死体験が深く関わっているという説もある。もしそうなら、臨死体験は宗教の誕生と同じくらい古い歴史を持っている可能性はある。
 こうして多くの事例を並べてみても、臨死体験の正体ははっきりしない。明らかに脳内現象説が有力だ。例えば幽体離脱者がふつう知り得ない事項を語るという現象は、実は事後的に記憶された事柄に過ぎないという考えもありうる。また幽体離脱感覚を誘発する機能の存在意義は、例えば通常の生活では別の機能を発揮するものだとも考えられる。また死から生還した人が死を恐れなくなるという事実(後で記述する)から、実は個体の生存に極めて有利に働く機能であるとも考えられる。しかしこれだけでは体験の全てを網羅できるとはいえない。その意味では、臨死体験という魅力的な現象は、21世紀に入っても追求されつづける事になるだろう。
 ところで、臨死体験者の多くが死を恐れなくなるという現象はなんなのだろう。先の生存有利説に従えば、実は進化論で説明可能な形質の一つに過ぎないともいえる。だが臨死体験者が喜びを持って語る様子を見ると、無理に科学的な解釈に委ねなくてもいいのではないかとも思えるのだ。科学的に探求するのは構わないが、それが臨死体験者に「それは脳内の現象に過ぎない」と語る事の意味は果たしてどれだけあるのだろう。臨死を境に新しい肯定的な価値観を持った人に対し、こうした言説はどれほどの価値があるのだろう。科学的な価値はあるだろうが、人間の価値観全てを科学に委ねる必要の無い事は言うまでもない。人間の価値観は常に科学、宗教、その他の論理に関連しながらも、なおもその外に立つものだと思う。僕たちは個人的な経験という計量も一般化も拒絶した物差しに依って生きている。この事実を直視しないで一つの価値観を強制する事は、多くの知性的な存在が見逃しつづけている暴力ではないだろうか。それが臨死体験者にまで及ばない事を祈るばかりだ。


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