South of Heaven


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雨天につき観望なし

2000年04月26日(水) 23時10分 星見

 夕方には小降りになっていたので晴れてくれるかと思っていたら、そのまま朝方まで降り続いたようだ。

流行の複合機

2000年04月26日(水) 20時09分 コンピュータ 天気:雨

 ふとしたきっかけから、最近何機種か出ている個人向け複合機が欲しくなってしまった。複合機といっても戦闘機+雷撃機でも冷蔵庫+掃除機でもなく(あるのかそんなの)プリンタ+スキャナの機械だ。EPSON、CANON、XEROXが投入しており、この先なかなかの激戦区になりそうな勢いだ。
 実は以前からPM700の代替が欲しくて物色してはいたのだ。そして平均的日本人の居住スペースしか持たない僕の目は、当然複合機に熱い視線を注ぐことになる。
 その時の感想は、いずれも一長一短あるというものだった。まずEPSONの機械はUSBしかサポートしてないのが気に入らなかった。手許にあるWindows98プリインストール機というと、TP235しかない。CANONの機械はプリンタ性能が他社に比べて低いのが短所。そしてXEROXの機械はカラー印刷できないと「思い込んで」いた。しかし昨日調べてみると、実はちゃんとカラー印刷も可能であることに気づいてしまった。僕の使い方ではほとんど欠点がなくなってしまった。うう、かなりまずいかも。本格的に欲しくなってしまった。
 この分じゃ週末には秋葉で買ってしまっているかも。大口径の双眼鏡も欲しいところなのだが。

今夜の観望はなし

2000年04月25日(火) 23時07分 星見

 昼にはかなり晴れていたが、常にうす雲がかかっている状態だった。帰宅する頃には雲が濃くなって、星がほとんど見えない状態。今夜は観望出来なかった。
 考えてみると、一番活用している観望用具は双眼鏡たちだ。100EDは望遠鏡としては非常に手軽だが、それでも多少の準備は必要だ。GP赤道儀を使う場合はなおさら。だから今より強力な双眼鏡があればいいんでないかいと安易に考えた。そこでしばらくネット漂流。
 今持ってるうちで最強なのはMIZAR製の10倍42mmという機種だ。7000円だったので、左側の像が収束しないなど細かな欠点をいろいろ抱えてはいる。しかし結構広視野で明るいので、まあ値段相応ではあるのだろう。
 これより上のクラスとなると、50mmから100mmクラスに目が行く。100mm以上になるとこれまた単なる双眼鏡とは別種の世界に行っているので、できるだけ大口径でかつ気軽に扱えそうな機種を探した。このクラスでは宮内光学の60mm、77mmの機種に目が行く。接眼部が45度、または90度傾斜した本格的な対空型だ。NIKONやFUJINONの中/大口径にも目が行く。しかしこの辺になると相当高価だ。ちょっとした望遠鏡を買うくらいの覚悟は必要だ。そうなるとやはり因縁のMIZARか。20*80で3万弱という信じがたい値がついている。NIKONの18*70が11万円するのに。それでもこの価格だとそそられるものがある。
 頑丈な鏡筒設計で有名な高橋製作所の22*60という奴は、口径は中くらいだがレンズが蛍石製だ。別にフローライト原理主義者になるつもりは無いけれど、色収差がそろそろ気になってくるこのクラスではちょっとそそられる。ただし価格も重量も80mm級だ。宮内には同じくフローライト使用の100mmがあるけれど、価格は38万弱。かなりの覚悟が必要だ。
 こう考えていくと、安い大口径か高価な中口径かという選択になってしまうのかな。奮発して高価な大口径に行くか。悩ましいところだ。

アニメとか

2000年04月25日(火) 20時06分 テレビ

 先週撮っておいたグルグルを見た。ああ、ゆうしゃさま~(爆死)。相変わらず変なノリで良いです。キタキタ親父おいしすぎる(アレはタモリのネタにあったな)。着ぐるみ着せたがるモンスターも良い。
 六番目の小夜子。やっと第1週を見た。小夜子役の女の子、前から見ると鬘かと思うような不自然な髪型なのだが。後ろから見ると自然だな。まだ導入部という感じだ。

寝れば寝るほどまだ眠い

2000年04月25日(火) 18時05分 暮らし 天気:晴れのちくもり

 昨夜は早めに寝たので7時間以上の睡眠時間は確保できたはずだ。ところがそれでも昼間は眠気に悩まされることになった。睡眠中枢が壊れた?
 とりあえず仕事に集中している間は大丈夫なのだが、ふと時間が空くと気が遠くなってしまう。サマータイムなんぞよりもシエスタを導入せんかい > 政府

嵐が去って観望

2000年04月24日(月) 23時03分 星見 天気:雨のち晴れ

 夕方定時間際、突如として重々しい雷鳴が職場に鳴り響いた。外を見ると、この時刻にも関わらず真っ暗だ。ある種の条件反射として作業中の文書をこまめにセーブするモードに入りつつ、外の雨音に耳を傾けた。えらい降ってるなあ。こりゃ今夜も観望は無理だろう。
 ところが、これは単なる通り雨に過ぎなかったらしい。会社を退ける頃に空を見上げると、なぜか空が暗い気がする。空が曇っていると、光害のおかげで空は明るくなるのだが、暗いということは晴れているということだ。
 足早に帰宅して、ベランダに出てみた。空はやはり晴れていて、所々に雲は残っているものの、星はばっちりと見える。早速観望タイム。
 かなり眠かったので、2丁双眼鏡モードで観望開始。ワイドビノで空をざっと掃天する。冬の星座たちは西に去り、すでにこいぬ座が西空低くにかかっているだけだ。一方、しし座とおとめ座が相次いで登りつつある。双眼鏡をスピカ付近にやると、明るいスピカの右下に少し暗い星々が台形を形作っているのが見えた。からす座だ。今まで気にもしたことがなかった星座だが、ワイドビノで明瞭に捉えることが出来るので、少し見てやろうかという気になった。
 MIZAR10*42を向けた。からす座のスピカ寄りにある二重星がくっきりと見え、さらに細かい星々も浮かび上がってくる。ワイドビノの視野にはむしろこじんまりと納まっていたからす座も、10倍程度の双眼鏡でのぞくともう全体像をつかむのが難しくなる。そのかわり、星を一番明るく感じるのは、このMIZARだ。通り雨のおかげで空の浮遊物が吹き払われたのか、夜空は洗い清めたように透明だ。ZepのStairway to Heavenに「五月姫のための清めの雨なのさ」という一節があるけれど、今夜の雨はまさにそういう感じ。
 そのからす座の二重星の近辺からおとめ座方面に移動していくと、なんとなく暗いぼんやりした星がいくつも見えているような気がした。この双眼鏡では限界だ。
 ここでようやく100EDが登場する。SWK22mmで30倍弱。これで問題の空域をうろついてみた。30倍弱とはいえ、10倍の双眼鏡と比べてもはるかに狭い領域しか見えない。その代わりにさらに細かい星々が浮かび上がってくる。なんとなく不思議な気分だ。
 この辺りにはM104があるはずだ。M104はソンブレロ銀河として有名な系外銀河だ。別の銀河をほぼ真横から見ている形になるので、写真で有名な特徴のある眺めになる。もっとも、100ED程度の能力では楕円形の広がりがわかる程度だろうが。
 M104では無かったが、いくつか面白い星の並びを見つけた。見かけ上は同じくらいに暗い小さな星が、ごくごく近接して並んでいるのだ。二つというのが多かったが、なかには四つが同じ空域に密集しているものもあった。これらの多くは単に見かけ上の並びに過ぎないのだろうが、実際の連星だってあるかもしれない。また球状星団の最も明るい部分を見ていることもあるだろう。ふつうの星図には載ってないような、暗くてマイナーな星たちだ。大倍率でもやっと分離できる程度の星たちを、しばし飽きもせず眺めていた。
 結局M104は見つからなかったが、星たちの不思議に思いを馳せる俺様だった。

今夜の観望

2000年04月23日(日) 23時02分 星見

 今夜はきれいに晴れたので、夕方から観望を開始した。まずは西空低くにあるオリオン座。オリオン大星雲は、大気の透明度の低さと、低高度にあるという悪条件から、なんとも冴えないものに映った。久しぶりに見るM42も、明るい星を10個ほど見分けるのがやっとだった。
 この時刻には南天は寂しいものなので、冬の星座たちに別れを告げて部屋に戻った。
 11時頃にまたベランダに出た。この時刻にはおとめ座が南中しつつあるので、まずはワイドビノで星空探索をした。ワイドビノだと星座がほとんど視界に収まりきるので、星図と対照しながらすぐに探し出すことが出来る。おとめ座も、しし座も、高倍率の望遠鏡ではなかなか全体像をつかめず、いらいらするのだが、ワイドビノなら一発だ。軽量だし、これは本当に便利なアイテムだと思う。しかし星を一番明るく感じるのは、MIZAR10*42の双眼鏡のほうだ。
 おとめ座からかみのけ座にかけては局部銀河群があるはずだ。一応、その方面に望遠鏡を向けたが、相手が銀河ばかりなのであんまり期待は出来ない。BORG100ED程度の能力では、よほどきれいに導入しない限り、ただの暗い星と見分けがつかないだろう。
 しし座のレグルスも、おとめ座のスピカも明るい星だ。それらをしばらく100EDで眺めた。ピントを出すと、その周囲に小さな星が群れているのがわかる。高度があるので、大気の影響が少ないせいもあるだろう。
 しばらくネット沈没した後、またベランダに出た。月が昇りつつある時刻である。さそり座がベランダの真正面に見えるので、しばらく星座をたどってみた。小さな星が群れている場所、暗くて星が少ない場所(暗黒星雲がある?)があり、見ていて飽きない。
 月は満月度75%程度まで欠けていて、昼夜境界線のクレーター群が幽玄な眺めを見せた。ティコの中央にある丘陵までくっきりと見えた。これで14インチ級の望遠鏡で強倍率をかけたら、どんなにいい眺めだろう。
 寝る前に、双眼鏡の2丁拳銃で北天を眺めた。こちらも今夜はゴージャスだ。大熊座のひしゃくは西天に大きくかかり、カシオペアは東天に傾いている。天頂付近は無数の星が肩を寄せ合い、抜きん出た1等星が自己主張している。ワイドビノを使えば星座が、MIZARを使えば細かな星星が見える。首が痛くなることを除けば、本当に美しくてうれしくなる眺めだ。明日が休みならば、朝まで飽きずに眺めていただろう。GP赤道儀も出したかもしれない。
 GWに期待をつなぎつつ就眠。

星空幻想

2000年04月23日(日) 19時01分 天気:晴れ

 昨日に続いてだらけきった一日。もうすぐ10連休だからと思うと、なんでも後回しでいいやと考えてしまうのだ。実に無為な日々を過ごしている。
 これではいかんと思いつつ、「臨死体験」を読みきり、さらに日野啓三の「断崖の年」も読み始めた。偶然だが、どちらも死の淵からの生還が背景にある。
 日野は腎臓ガンで比較的早期に摘出手術を受け、その手術の前後に様々な体験をする。死ぬかもしれないという恐怖がもたらす心の変化も興味深い。しかし圧巻なのは、腎臓摘出手術の直後に体験した、意識の異様な変容のほうだった。
 日野は手術前の検査がもたらした精神的苦痛から十分に立ち直れないまま、深い昏睡に落とされる手術を施される。集中治療室の暗い静寂に神経を痛めつけられた日野は、モルヒネがもたらす意識の変容のなかで奇妙な幻影を見る。一つは隣の病棟の屋上、その手すりに並んで腰掛けた、いくつもの人影だ。その屋上には滅多に人が立ち寄らず、まして危険な手すりに腰掛けるものなどいないと日野の理性は承知している。しかしそれでもくっきりと、その人影を幻視してしまうのである。凝視すれば、そのディテールまで明確に観えるくらいに。日野はその人影たちに懐かしいような親しみを感じたという。
 もう一つは空を過ぎっていく動物たちの顔だという。それも赤く点滅しながら飛び交うという、浦安にあるでかいネズミの支配下にあるテーマパークを思わせるような、奇妙にファンタジックな光景だった。
 日野はその顔たちを眺めながら、これが星座の原型だったのではないかと考えるのだ。隣の病棟の人影にせよ、空飛ぶ顔たちにせよ、それらは自らの意識のごく内側に潜んでいるというのだ。そしてそれらは意識のごく薄い表層を食い破って、いつでも飛び出してきてしまう。日野はモルヒネが生み出した激しい幻覚と考え合わせ、人は結局見たいものを見ているのだと考える。そして人が見たいものは、時代によって移り変わってきただろうと。
 中世の(欧州の)農民たちは常に多くの悪魔、天使、聖人たちと畑にいたという。彼らはそれを実際に「観て」いたのだろう。その時代の価値観、論理に照らし合わせれば、それらの実在は非常なリアリティを伴っており、紛れもない現実だったということなのだろうか。
 僕たち現代人も様々なもの(たとえばガイア、たとえば市場、たとえば民主主義)を幻視しており、その実在は多くの人にとって疑うべくもないものだ。しかし後の世ではやはりただの幻想だったと決め付けられることになるかもしれない。
 話はようやく星座の話になるのだが。日野は空を飛ぶ顔たちを幻視したとき、かつての人々はこんな風に、空にうごめく英雄や大熊の姿を見ていたのだと直感した。僕にはこんなあからさまな幻視の経験がないので何ともいえないが、人が見たいものを見てしまうという現象は良く体験するので、日野の所感には違和感を感じない。恐らくそうだったのだろうと思うのだ。そのことは立花隆の「臨死体験」でも語られていることだ。人はしばしば自らの見たいものを見てしまう。人間の視覚は客観的なものではなく、脳という個人的で主観的な器官が処理したものを「観て」いることを意味する。さらに敷衍すると、人にはそもそも客観する能力が無いという結論さえ出てくる。しかし多くの人と見ているものを共有しているように思えるのはなぜだろうか。もしかしたら単なる共同幻想を形成しているだけなのかもしれない。そして星座も、ある時代の人々の共同幻想だったのではないか。いや、幻想というよりは、それも一つの現実だ。
 考えが共同幻想という段階にいたると、もはや何事も直ちに否定することが出来ない気分になってくる。街頭でUFOによる救済という奇怪なものを訴えている人々も、実は彼ら自身のコンテキストでは十分に客観的なのかもしれない。そして彼らを笑っている僕らのほうも、実は別種の共同幻想に囚われているだけなのかもしれない。僕らに可能なのは、それを恐れつつなおも笑うという態度に過ぎないのではないだろうか。
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