South of Heaven


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スターベース

2000年03月19日(日) 20時57分 暮らし 天気:曇りのち晴れ

 午前中に目覚めると、空は曇り。前日の天気予報では午後にかけて雨になるという事だったが、家にくすぶっているのもなんなので出かける事にした。
 出かける前に秋葉ホットラインを見ると、メモリがまたしても暴落気配。急いで買わなくて良かった。メモリもプロセッサも1Gクラスが視界に入ってきた。
 電車を乗り継いで、4時前には昭和通口を出ていた。いつもなら書泉ブックタワー方面に曲がるのだが、今日は逆方向に向かった。秋葉近辺にあるもう1軒の望遠鏡屋、スターベースをのぞいていこうと思ったのだ。スターベースは高級/高剛性望遠鏡で有名な高橋製作所の直営ショップだ。太い通り二つ目を曲がるとあるという事だが。
 そこに行くまで、今まで来た事が無かった方面の店を見る事が出来た。カメラ屋があったのでのぞいてみたが、E950のパーツはなさそうだ。しかし汎用の部品は扱っているので、なにか欲しい時に便利かもしれない。その近くにはドトールもある。電気街方面のドトールは常に超満員なので、空いていそうなこっちは便利そうだ。
 さて、地図通りに歩いていくと、確かにスターベースの文字が目に入った。大きな通りに面した、便利そうな場所にある。店は静かで、おじさんが一人、奥のカウンターに腰掛けていた。KYOEIよりちょっと広くて、望遠鏡の品揃えも豊富だ。高橋の高そうな(実際高い)望遠鏡もいくつか置いてあった。FS-60ってちっこいんだな。ドブソニアンも置いてある。
 面白そうな望遠鏡もあった。Meadeの小口径(60mm?)屈折経緯台で、望遠鏡としての能力は低そうで安価なのだが、ETX系列で大々的に売り出した自動導入が可能な機種らしいのだ。自動導入付きで5万円しないので、ガイド用にどうだろうか。などと考えるくらい天体の導入に苦労する俺様である事よ(爆)。
 続いてKYOEIに寄った。どっちかで4mm弱、あるいは7mm弱程度のアイピースの安いのを探したが、あまりピンと来るのが無かった。単体で、あるいは手許の2.2倍バローレンズと組み合わせて200倍程度の倍率を得たいのだが。
 結局、ここではなにも買わず、電気街巡りでPalm用画面保護シートとPC-UNIX用VJEを買って帰った。
 帰って、鉄腕ダッシュを見ながらPalmにシートを貼り付けたが、どうしても細かな泡が入ってしまう。しかも慎重に何度も貼り直したためか、指の当たっていた辺りに埃が盛大についてしまった。どちらも実用上の問題はないにせよ、なんだか頭に来る。

番組改編期だ

2000年03月18日(土) 23時55分 テレビ

 NHKの番組に3月一杯で終わりというのを見かけるようになった。サイエンス・アイは4月から23:30に移動してこっそりと続くようだが、三井ゆりが降りた。三井さん、ご苦労様でした。って何者か知りもせんで気安く労う俺様は何者だ。
 日本映像の20世紀もそろそろ全都道府県をカバーする頃だろうから、たぶん終わりだろう。すると9:00からぽっかり開くことになるが、なにを入れるんだろう。未来潮流が復活するならちょっと嬉しいぞ。大穴でYOUの復活だ(どんな大穴だ)。
 23:00からの「街道をゆく」も今週で最終回。今回は司馬の絶筆となった、また出版もされてなかった(と思ったらちゃんと出版されていた)濃尾参州紀行だ。実際の道行きは尾張から三河にかけてだが、この地域から出た戦国の三雄のうち、信長、秀吉は美濃と縁が深いので題名のようになる。
 話は信長の桶狭間強襲に始まる。東海一の弓取りといわれ、決して暗愚でも怯懦でもなかった今川義元を討ち取ったこの戦いは、小勢力に過ぎなかった織田勢力を一気に歴史の表舞台に立たせることになった。信長は神仏を奉ずることを嫌い、むしろそれを利用する事に努めた(足利将軍の扱いと同じだ)合理主義者といわれているが、司馬の見方もそれに準じている。信長は熱田神宮の権威を利用して兵を奮い立たせ、桶狭間強襲戦に打ち勝ったという。信長の偉さは、と司馬はいうのだが、この桶狭間の模倣を二度としなかった点にある。つまり桶狭間の戦いを奇跡と見て、同じように圧倒的に不利な状況からの戦いは挑まなかった点にあると。これは確かにそうなのだろうが、同時に織田が既にかなりに勢力を築いていた点も見落とせないだろう。そもそも極小豪族に過ぎなかった毛利元就の場合、その初陣、郡山城籠城戦、そして厳島の奇襲戦と、大勢力になれるまで幾度となく"奇跡の"勝利を遂げねばならなかった。いずれの場合も大勢力を敵に苦しい戦いを強いられ、物量で勝ち抜けるような戦いは老境に差しかかって以降の尼子攻めなど、むしろ少数とさえいえるくらいだ。こうした点を見ると、信長にはいくつもの恵まれた条件、運がついて回った点も否めず。それが天下人に近づいた少数者の条件であったとさえいえるのではないだろうか。
 司馬は三河に残る蜂須賀小六と秀吉、当時日吉丸といわれた小者の出会いにまつわる伝説が残されている。また小六と秀吉が八丁味噌を盗みに蔵に忍び込んだという残されている。美濃から尾張にかけて小勢ながら野盗や野武士を糾合して大勢力の下働きもしていた小六が、なにを好き好んで三河に出張したというのだろう。ともあれ、なぜか小六と秀吉の伝説が三河にいくつも残されているのである。司馬はそれを秀吉が偉くなりすぎたからだといっている。小六程度の小勢力は、歴史のなかに埋もれるはずなのに、秀吉という天下人と結びつけられたがために、純朴な三河人の記憶に「情け容赦無く」残されたというのだ。
 三河といえば最終的な天下人となった家康の祖地だ。家康の祖先は三河松平郷に流れ着いた修行僧だといわれている。その三河の小豪族が徐々に勢力を伸ばし、家康の父の代には三河半国を占める有力勢力にまで発展している。ところが東の今川氏、西の織田氏という有力な勢力に挟まれたのが松平氏の不運で、あっと言う間に三河は二大勢力の草刈り場と化してしまった。家康も少年時代は織田、次いで今川に人質として送られ、更には父が家臣に弑殺されるという事件も体験している。恐怖に満ちたものだったろう。しかしその家康を家臣団がよく支えた。家康にとって唯一最大の宝は、彼の幼少期からともに艱難辛苦を味わってきた家臣団だったといえる。彼ら家臣団から見て、家康は「愛敬のある人」に映っていたらしい。愛敬とは、愛すべき欠陥を抱えていることと見ていい。家康の場合、それは臆病さだったろう。
 家康の臆病さと勇敢さは三方が原の一戦に現れている。家康は彼を無視して進もうとする武田信玄の大軍に挑みかかるという暴挙を図り、思慮深い信玄にまさに鎧袖一触というべき無残な惨敗を遂げてしまう。この時に本多忠勝の勇戦により辛うじて危地を逃れるが、飛び込んだ浜松城ではすべての門を開け放ち、かがり火を皓々と灯すという一か八かの策略に出た。案の定、疑い深い武田の追撃隊は、策の存在を疑い、結局引き返してしまう。この敗戦で、家康は逃げ帰る途中に恐怖のあまり脱糞したという逸話も有名だ。この様に家康という人は勇敢さと臆病さの両極端を揺れ動く振幅の大きい人であり、それが天下取りという大事業を成し遂げたという想像も成り立ちそうだ。
 この家康の人柄に関する考察が、司馬の絶筆となった。
 1年に渡った街道をゆくも、今回が最終回。司馬遼太郎という人は司馬史観という(たぶんに批判的な)ものも語られるほど、近年の歴史観にインパクトを与えた人だった。しかし司馬は小説家だ。桁外れの見識を持つにせよ、その真偽を問われるような立場にはない。司馬の提示する"歴史観"に乗ったり誹ったりする方がおかしいのではないだろうか。
 僕が最近になって司馬の書くものを好むようになったのは、そのものの歴史観というより、歴史を眺めながら密やかに笑ったり悲しんだりする態度を気に入ったからに過ぎない。過ぎないなどと口幅ったいことをいえる相手ではない大作家ではある。しかし司馬自身は、自分の著書を斜め読みしてお気に入りの逸話や、自分の持つ幻想を投影するような読まれ方を、案外に疎ましく思ってはいなかったのではないだろうか。いずれにせよ、歴史とは無数の価値観が、残された事物をその物差しで読んでいく作業のことなのだから。
 司馬の面白さは中国に対して下へも置かぬ評価を書きながら、実はそこかしこで現代中国の矛盾を密やかに暴き立てているような、筆の掠れを読ませるようなところにある。歴史に対しても、また須田画伯に対する剽軽な記述にもそれがある。過ぎ去ったものに哀惜の想いを評しつつ、実はその裏で舌を出しているようなユーモアが、どこか殺伐としがちな歴史という舞台を、これほどまでに魅力的にしてみせたのではないだろうか。
 テレビでの放送は終わったが、本の方はやっと20巻を読み始めたところだ。今しばらく、司馬の剽軽な筆に付き合える。

ゴロゴロ

2000年03月18日(土) 22時54分 暮らし 天気:曇り

 今日はひたすらなにもしないで怠けるつもりだったので、ひたすら惰眠を貪った。おかげで夕暮れまでには立派な自家中毒にかかっていたものだ(ダメだなあ)。
 それも夕食に鍋を作って汗をかきつつ食らい、長風呂で汗を流すとさっぱり解消された。

星座を探す

2000年03月17日(金) 23時53分 星見

 今夜の観望は晴れた空に助けられて大いに収穫があった。木曜日の雨に大気中の粉塵が洗い流されたのか、透明度はかなり高い。また風が弱かったのでシンチレーションも悪くなかった。こんな夜のオリオン大星雲の眺めは見事なものだ。8"級のシュミカセが欲しくなる瞬間だ。M42も大倍率で安定して見える。
 夜明け前にもう一度空を見た。相変わらず大気は安定しているが、明るい星が少ないので寂しい感じがする。前から4時ごろに東南東辺りに見える赤い星がアンタレスだろうと目星をつけていたのだが、その周囲の星の配置がなんだかさそり座に見えず、その同定に苦労していた。今夜は時間があるので、天文ガイドのとじ込み星図を眺めつつ、ああでもないこうでもないとためつすがめつ見比べた。ずっと西の方に明るい星があって、これがカペラのような気がするのだが、2等星以下の暗い星ばかりなのでなかなかはっきりしない。困りつつ星図と空を眺めていると、ふと非常に特徴的な星の並びを見つけてしまった。ちょうどカペラ(?)とアンタレスの中間付近だ。渡り鳥の雁行のような、五つの星が上向きの矢尻型に並んだ、ちょっと珍しい配置だ。星図を見ると、まさにその通りの並びがある。するとそれを挟んだ二つの明るい星はアンタレスとカペラか。それは予想以上に空に広く、かつ傾いて位置していた。考えてみれば空は球形で、星図はメルカトル図法で製図されたものなのだから、位置的に歪みが出るのは当然だろう。さらにアンタレス周辺の星の並びを眺めて、ようやくそれがさそり座であることを納得できた。サソリは地平線上の家々にしっぽを突っ込んで立ち上がっている。
 ようやく自分が見ているものの正体が知れたので、今見えている南天のM天体を探してみた。有名どころでは、M4がアンタレスの並びにいるはずだが......見えない。それらしいものが見当たらない。ガイドブックによれば、M4は小口径の双眼鏡や、場合によっては肉眼でも見分けられるそうなのだが......。それが見えないということで、本当にこれがさそり座であるかどうかがまたあやふやになってきた。いやまあ、その他の星の並びなどが一致しているので、間違いないと思うだが......たぶん。
 同じようにカペラ周辺のM天体も探しては見たが、これらは仰角30度以下の低い空にあり、なかなか見えてくれない。ベランダからもっと天頂近くまで見渡す方法が必要になりそうだ。さて、どうしたことか。

3/17の暮らし

2000年03月17日(金) 19時52分 暮らし 天気:曇りのち晴れ

3連休前日ということで、どことなくざわついた雰囲気の一日だった。休日出勤はしなくて済みそうだ。

今夜の観望

2000年03月16日(木) 23時51分 星見

 帰宅した頃には雲が空を覆っていて、観望は無理だと諦めていた。ところが寝る前にベランダに出てみると、いつの間にか雲は駆逐されて晴れやかな星空が広がっているではないか。
双眼鏡でしばらく空を眺めてみた。月はもう西の空に傾いていたが、双眼鏡を向けると眩しいくらいに明るい顔を見せてくれた。それにしても色収差の大きい双眼鏡だ。南西の位置にケンタウルス座と思しき星座がかかっていた。一番明るいこれが太陽系に一番近いアルファ・ケンタウリか。......本当に合ってるんだろうな?(爆) ちょっと無理な姿勢ながら、天頂近くに双眼鏡を向けてみた。いつも見ている高度の低い領域と異なり、小さな星の連なりが絨毯のように見えた。あたり前の事だが、天頂付近は星の光が大気を通過する距離が一番短いので、光が減衰したり発散したりする事が最も少ない。そういうわけで天頂に望遠鏡を向けたいのだが、ベランダからだと手すりに付けるタイプの経緯台が無いと無理だ。秋葉で探してくるか。

3/16の暮らし

2000年03月16日(木) 20時50分 暮らし 天気:雨のち晴れ

 朝起きると、久しぶりに本格的な雨が降っていた。昨晩、寝る前に空を見上げた時、意外に分厚い雲が広がってるのを見て、もしかしたらと思っていたが。
 小田急&JRで通っていた時、ホームに雨が吹き込んできたりしていろいろ不便な思いをしたものだが、地下鉄ではそういう思いはしなくて済む。しかし季節感に乏しいのは否めない。車内広告がわずかな季節感を醸し出してはいるのだが。

今夜の観望はなし

2000年03月15日(水) 23時49分 星見

 曇っていたので、今夜の観望は無し。この所、夜になると曇る日が続いている。
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