Strange Days

2000年11月12日(日曜日)

恐怖と対決すること

23時03分 テレビ

 鍋を作りながら(といっても鋳造したり鍛造したり溶接したりしていたわけではない)NHKスペシャルを見た。昨夜から続けての教育問題、というか子供はどうなっとるのだ問題だ。
 なにせ鍋を作りながらだったのでよく見ていられず、印象を語ることしかできないのだが、主に引きこもりに関してのレポートだったと思う。番組では引きこもってしまった子供(といっても20代の大人が多いそうだ)と苦闘する家族の姿を追い、公的な支援がなかなか得られない現状を訴えていた。引きこもりに限らず心に病を抱える人口はますます増大しているわけだから、公的なカウンセラーの増員は必須だろうなと思った。
 それにしても、なぜ引きこもってしまうのだろうか。きっかけはいろいろあるのだろう。僕もなんとなく外に出たくない時期が続くことがある。しかしいざ引きこもってしまった人々がその状態をさらに続けざるを得ない理由は、なんとなくわかる気がする。簡潔にいえば、外が怖いのではないだろうか。外に出れば何が起こるかはわからない。どんな不条理な理由で傷つけられるかわからない。いや、たとえ道理に合っていても傷つけられるのに耐えられないことさえあるだろう。しかし家にいればとりあえずこれ以上傷つくことは無い。だから今の状態、引きこもっている状態を続けざるを得なくなるとまずは考えられる。
 しかしテレビでは、引きこもっている人の口から、引きこもっていることでさらに傷ついていく心境も語られていた。引きこもっていても苦痛に感じるのは同じなのではないだろうか。つまり「傷つくから」は引きこもりつづける第1理由にはならない。だから「怖いのでは」と考えるのだ。傷つけられるというのは、怖い理由の一つに過ぎないのだろう。
 どうして怖いのか。それは「わからない」からではないだろうか。引きこもりにより、引きこもった個人は外部とのチャンネルを絶ってしまう。すると当然情報が途絶するわけで、引きこもり者は外で何が起こっているのかを知ることができなくなる。いや正確には「外があるということが分からなくなる」のかもしれない。するとすべての判断が自分の内部情報だけに基づくことになり、未来予測がネガティブに傾きがちになり、さらには支離滅裂になる。その結果、「外」に対して闇雲な恐怖を抱くことになるのではないか、と。
 でも外界の未知さというものは、いつでも人間を取り巻いてきたはずだ。それなのに、なぜ今になって引きこもりが増えたのだろうか。
 理由の一つは、かつては引きこもるという行動に対する社会的な制約が強く、家から強制的に排除されることが多かったからだろう。しかしそれ以上の理由として、外への好奇心が失われているからというのもあるのではないだろうか。恐怖の最大の理由は未知であることだ。もしも対象が既知のものならば、それに対する対策も講じようがある。恐怖を克服する手段はある。しかし対象が未知ならば講じようが無い。恐怖は恐怖のままとなる。誰でも、いつでも、未知なものに対して恐怖を抱くのはごく自然な感情だと思う。しかしそれを克服するための知的な好奇心を持てるのが、人間の最大の特徴なのではないだろうか。かつてはそれが人を引きこもりから救う鍵になっていた。それが教育の失敗なのか悪霊のせいか分からないが、我々の生活の中から徐々に失われてきてしまっているように感じるのだ。そういう感覚を共有している人は多いように思う。
 一時期「何故殺してはいけないか」という子供からの質問を想定したような問いに、どのように答えるかが(大人の間だけで)話題になったことがある。あたかも子供が疑問を発しているように見えるが、実際にそれが問われている状況、そして回答が考えられている状況を考えれば、大人が自問自答しているだけなのは自明のことだと思う。そして答えはある程度問いそのものが内包していると思う。なぜならば、単に「殺してはいけないか」という問いに対してだけならば、「本当は殺していい」という合意が社会の広い範囲で共有されているからだ。それは死刑制度の存続、戦争に対する反応、そして以前の玄倉川の痛ましい事故で見られたような「死んで当然だ」という反応を見るだけで充分だ。これらの問題に対する社会の反応は、命より優先すべきものがあるという認識が、かなり広範囲に共有されていることを示している。つまり、場合によっては「殺していい」のだ。
 しかし「何故~」となると少し趣が変わってくるかもしれないと思う。「何故~」と問うからには、「殺したい」というより積極的な意思が存在するはずだ。何故ならば、「殺したい」という意思を止める理由を欲しているという構造が存在するわけなのだから。そしてその裏返しは、「何故殺さなければならないか」ではないだろうか。つまり、「殺したい」という衝動の理由を問う自問自答がその正体なのではないだろうか。
 どうして「殺したい」、それも自分でも分からない理由で「殺したい」などと思うのだろうか。これを僕は「怖いからだ」と思うのだ。「怖い」のは理解できないからではないだろうか。例えば少年が浮浪者を襲うということがあるが、彼らは浮浪者が「怖い」から襲うのではないかと思っている。身体に危害が加えられるなどと考えているわけではないだろうが、なぜあんな無為な状態でなおも生きているのかが理解できず、その存在そのものが怖いのではないだろうか。そう考えないと、単に反撃可能性が低いからというだけでは、いくつかの残虐な事件の謎は解けないと思う。大人にも同じ傾向が存在するように思える。
 知的好奇心の喪失という謎を解くには、情報の氾濫を想起すれば充分かもしれないと思う。僕たち(なかんずく僕のような知識人まがい)は、周囲に溢れる出来合いの知識を受け容れるだけで精一杯だ。それ以上の、本当の意味での未知に挑む気力はそんなに無い。あるいは教育カリキュラム、教師の資質双方の問題が、現代の日本人から知的好奇心を喪失させたのかもしれない。なにより、恐怖に立ち向かう意思を、僕たちは失ってしまっているのではないか。これをどう立て直せばいいのか。どうにも答えの出せないでいる。

戸塚へ

18時02分 暮らし 天気:くもりかな

 6時間くらいトロトロ寝て昼過ぎに起きる。ということは今日も明け方まで起きてたのかっ。少し眠かったが、戸塚の図書館に出かけた。
 図書館では本棚から本棚へとうろうろしながら、ロボット関係の本を探した。これがなぜか見つからないのだ。機械工学の棚にも電子工学の棚にも無い。蔵書に一つも無いということはありえないから、きっとどこかに固まっているのだと思うのだが。しかしその間に面白そうな本を見つけては読みふけった。
 帰りに駅前のミスドに寄ったら例によって満杯。朝方とか20時過ぎとかは結構すいているのだが、一番利用したいこの時刻には満杯なのだ。って当たり前だよな。みんなこの時刻に利用したいって事だろうから。
 結局、ドーナツだけ買って帰った。