Strange Days

2000年11月04日(土曜日)

星を見た

23時55分 星見

 曇りが続いていたせいでなかなか星を見れなかった。NHKスペシャルが後を引いて少しボーっとしていたのだが、やがてようやくベランダに望遠鏡を出す元気が戻ってきた。
 時間は既に2:00過ぎ。ちょうどオリオン座が南中している。まずは西に傾いている木星と土星を視界に収めた。薄雲が出ていて、しかもシンチレーションが安定しない。土星も木星も何がなんだかわからないような見え方だ。あきらめて、オリオン座に向けた。
 LVW42で見るオリオン座は、いつもながら圧巻だ。特に高度がある今の時刻では、目が慣れるに従って小さな星たちがぞろぞろと現れてくる。LV4でトラペジウムを狙うと、四つまではきれいに分解できて、ことによればさらに見えそうな感じだ。......あれ? 土星を見たときにはあんなにシンチレーションが不安定だったのに、この安定ぶりはなんだ? よくわからないが、今夜はオリオン座に関してはシンチレーションが安定していた。なぜだ!
 ともあれ、薄雲があるくせにシーイングそのものも良かったので、濃い雲の切れ目を探してはしばらく眺めていた。やがて雲が一面に出てきたのでおしまい。
 やっと冬型の天気になってきたようだ。

小さき人々

23時41分 テレビ

 今夜のNHKスペシャルは久しぶりにガツンとやられた気がする。ロシアの女流作家、スベトラーナ・アレクシェービッチが混迷にあえぐ祖国の様々な人々について語る。
 アレクシェービッチ女史は、ゴルバチョフ政権下の'85年に、WW2時独ソ戦に動員された女性兵士の苦渋を描いた「戦争は女の顔をしていない」で一躍脚光を浴びた気鋭のノンフィクション作家だ。それ以来、アフガニスタン戦争、チェルノブイリなど、ロシアを中心としたスラブ諸国を襲う災厄に関して書きつづけてきた。
 近年、ロシアは2度にわたる崩壊を体験してきた。一つは'91年のソ連邦解体に連なる共産主義社会の崩壊、そしてもう一つはその後に豊かな富を生み出すはずだった資本主義社会の失敗だ。今、ロシアは一部の成功者を除いて、経済的などん底にあえいでいる。日本のそれなど比較にならないほどの破綻だ。人々はかつて信じていたモノたちがあっけなく崩れ去るさまを目の当たりにし、誇りを傷つけられている。
 日本でもそうだが、ロシアでは毎日のように自殺者が電車を止めてしまう。最近、一人の老人がやはり電車の前に身を投げた。彼は独ソ戦緒戦において絶望的状況の中で陥落したブレスト要塞の生き残りの一人、ソ連邦英雄とされた元兵士だった。ブレスト要塞の陥落は、それを予期していなかったスターリンの名誉を傷つけるものとされた。捕虜となった人々はシベリアへと送られ、その存在そのものが抹殺された。ところがフルシチョフ政権が登場するとスターリン批判の格好の題材として取り上げられ、彼らブレスト要塞の生存者たちは逆にソ連邦英雄へと祭り上げられた。この老人はそれに奢ることなく、模範的労働者としてその後の人生を歩んできた。「ソビエト連邦」、「社会主義社会」という枠内での栄誉に、十分に満足していたのだ。ところがそれらの栄誉も、ブレスト要塞での悲劇の後に得た勲章も、ソ連邦の破滅ですべて無に帰してしまった。名誉を得るだけで満足し、決して財産は望まなかったのに、その名誉さえ奪われてしまったのだ。既に老境にあった彼は生きる意味を見失ったのか、ついに自死へと至った。彼の妻は、彼が「休暇に出かける」という書置きだけを残して出て行ったと証言する。彼女はそれを額面どおり受け取ったようで、さして不審に思わず農作業を続けたという。生活は楽ではない、というか苦しい。そのような想像力を働かせる余裕が無かったものと思われる。彼女は「あなたは死んでしまったけど私は生きつづける。あなたより強いのだから」と涙ながらに老英雄をなじるのだ。この言葉は痛ましくはあるけれど、同時になにか救われるような強さを感じさせてくれる。しかしアレクシェービッチはいう。「彼がブレストの罪を負わされたとき、彼は彼女だけのものだった。しかし彼が英雄とされたとき、国家が彼を奪っていった」と。この過酷で醒めた短評は、アレクシェービッチが単なる民衆の代弁者でないことを物語っているように思える。彼女は「権力者は人間の生の声を一番恐れる」からこの仕事を続けているのだと語る。権力者による隠然たる暴力を暴き立てる。そこに彼女の関心があるようだ。
 巨大な権力機構であるソ連崩壊のきっかけになったとさえいえるのが、悪夢のようなチェルノブイリ原発事故だった。アレクシェービッチの故郷は、ソ連邦崩壊により誕生した小国ベラルーシにある。ベラルーシはチェルノブイリ原発が存在するウクライナと国境を接している。そのため、事故が発生したときには莫大な量の放射性物質が降り注いだのだ。その影響は計り知れない。今に至るも多数の人々が汚染地帯での生活を余儀なくされている。
 事故が発生した当初、多くの人は単なる火事だと考えたそうだ。当の技術者たちが原子炉の崩壊という現実を認めたのは、空からの観測や外部の専門家による指摘を受けてからのことだったのだ。そのため、ろくな装備もないまま、あまりにも多くの人が致死量の放射線を浴びてしまった。
 原発のすぐ近くに住んでいた消防士も、事故発生とともに駆けつけ、莫大な量の放射線を浴びてしまった一人だ。その結果、彼自身が高レベルの放射性を持つことになってしまった。看護婦さえも近寄ることを拒んだという。彼は新婚ほやほやで、家では妻が帰りを待っていた。しかし「すぐ戻る」と告げて事故現場に駆けつけた夫が、いつまで経っても帰ってこない。やがて夫は入院しているという情報が飛び込んできた。しかも彼はモスクワの病院に移送されるという。地方の病院では手のうちようが無いほどの事態が、彼の身に起こっていたのだ。
 発電所所属の消防隊が現場に到着したのは、事故発生からわずか5分後のことだったという。この迅速な活動開始は任務を考えれば当然のことではあるが、その結果として十分な情報もなく、闇雲に危険に立ち向かわざるを得なかった。チェルノブイリでの初期の死者は、原発技術者を除けば消防隊に集中している。記録によれば急性放射線障害で倒れた消防士は17人、そのうち6人がモスクワの病院で、手厚い介護の甲斐なく死に至った。彼もその死者のうちに含まれている。莫大な放射線を浴びたとき、彼は現代医療でも手の届かない彼岸に去ってしまっていたのだ。彼はもはや生かされる死人となっていた。
 絶望的な状況にもかかわらず、医療テクノロジーの力、そしてなによりも妻の献身により、彼はその後の数カ月を生き延びた。最後は組織の壊死が全身に広がり、関節が外れてしまうほどの状態になったという。考えるだけでも気が滅入りそうだ。しかし妻の献身は、彼にとって救いになったと考えたい。彼の最後の時間は無駄ではなかったのだと。
 だが彼の死を看取った妻には、チェルノブイリはなおも災厄をもたらした。事故当時身ごもっていたのだが、夫の死後に出産した子供は生まれつき内臓障害を持っており、出産からわずか数時間で世を去った。その後、彼女は別の男性との間に一子を設けたが、その子供も障害を負っていたという。彼女は心の中で最初の夫の面影を追い求め、その肉体は放射線障害の影におびえている。
 事故から14年経った今、チェルノブイリ一帯は住人がいないという意味での無人地帯になっている。しかしチェルノブイリの無事だった原子炉の運転は続いている。これもようやく廃止されることになったようだが。
 チェルノブイリ事故での被災者は3群に分けられる。一つは先の勇敢な消防士、原子炉の技術者など直接被爆したグループ。次にチェルノブイリ原発近辺の清掃、修繕や、事故を起こした4号炉を"埋葬"するための"石棺"作りに携わった労働者、軍人、技術者たち。そして最後に事故による汚染域内にいたため被爆した人々だ。最初の群、次の群も問題だが、今最大の問題となっているのが第3群、汚染地域に住んでいる人々だ。公式には、健康に問題が発生するほど汚染された地域からは住民が退去させられ、別の地域で生活しているとされている。しかし実際には避難範囲である半径30km圏内の外でも汚染はひどく、さらには"無人地帯"にも多くの住人が舞い戻っているという。舞い戻らざるを得なかったのだ。移住先では十分な支援も職もなく、生きてゆくためには汚染されている故地に戻らざるを得なかったのだ。そうした地域では、主に食料からの経口による被爆が続いている。
 そうした食料による汚染を局限しようと、医学アカデミーを辞してまでも被爆量の測定、住民の指導を続けている医師がいる。彼は簡単に被爆量を計測できる機械を製作し、放射線の影響を受けやすい子供たちの調査を続けている。彼には気がかりな子供がいた。その子供は計測の度に異常に高い被爆量を示すのだ。家庭に問題があるとにらんだ彼は、その実際を調査した。すると貧しい小作農である両親は、子供たちの栄養源として牛乳を与えていることがわかった。牛乳は牛のえさ、牛、そして牛乳という方向に濃縮が進む結果、放射能汚染度が高くなってしまう食品だ。当然、医師は牛乳を与えることをやめるよう両親に告げた。しかしそれは無理だと両親は言う。経済的に貧しい彼らにとって、牛乳は他に代替しようのない重要な栄養源なのだ。生きてゆくために、たとえ将来に影響が残るとしても、牛乳を与えることをやめるわけにはいかないのだ。「どうしようもない」と彼らは言う。いかに危険が潜在しているとはいえ、他の道は選べないのだ。
 この状況は、一見して貧困とチェルノブイリ原発事故が重なり合った特異な状況にも見える。だが果たしてそうなのだろうか。
 この農夫の悲劇の根底は、目の前に苦難があっても避け得ないこと。そしてその苦難がいつまで続くかわからないことに端を発する。アレクシェービッチは「これは新しい状況だ」という。戦争とは違うのだと。戦争ならば、戦争が終われば人々が傷つけられることはもうない。生まれてくる子供たちも、恐らくは健常者だろう。だがチェルノブイリで災厄に見舞われた人々にとって、その傷害はいつ果てるとも知らず、将来生まれてくる子供たちにまで影響が残ってしまう。だがそのような状況ならば、僕らの身の回りにも簡単に見出せる。例えば環境ホルモン、例えば薬害エイズ、例えばPCB汚染など、思いもよらないところに顕在化し、しかもそれを避けるのが困難な状況ばかりだ。現代人は、そのような不条理で、しかも後遺症の果てしない苦難に取り囲まれているといっても過言ではないだろう。先の勇敢な消防士と、日本で起こった東海村での臨界事故の犠牲者との類似点を指摘するのは容易だ。アレクシェービッチは「チェルノブイリの惨禍は終わってない。今まさにその状況にある」という。それならば僕らもその状況下にあるといえるのではないだろうか。人間は、今やその全員がチェルノブイリ状況下に生きているのだ、と。
 それにしても、いつもより長い75分の番組は、とても数日では消化できないほど重い内容だった(冒頭の石鹸の話など)。頭を一撃されたように感じる。

秋葉に出かけるぴょ

20時40分 暮らし 天気:曇りですか晴れですか(ええいはっきりしろい)

 前夜、まあいつもの夜に較べたら早いかもしれないなあという時刻に寝たので、起きたのはまだ午前中のことだった。昼食にラーメンを食らい、秋葉へと出かけた。お目当てはCFメモリカードだったのだが......。
 昭和通口から書泉方面に抜け、九十九本店から若松方面に歩いた。若松でCFメモリカードを買おうかと思っていたのだが、ここで大いにひよった。今のところシグマリオンの32MBの容量で不足はないし、もう少し待つとCFメモリがさらに値下がりするだろう。本当に必要になったら買えばいいのだ。そんなこといってるといつまで経っても買えないが、まあすぐ必要というものでないのは確かだ。そういうわけで12月まで待つことにした。
 その後、M専近辺からとかT-Zone本店に回ってみると、以前T-Zone本店だった鉛筆ビルが九十九に占拠されているではないか。このビルは、DOS/Vが世に出た頃には数少ないPCショップの一つだったんだよな。今も無事に残っているのはコムサテライトくらいになってしまった(あそこも移転したが)。そういえばこのT-Zone側にあるゲーマーズ本店と道路を挟んでもう一軒ゲーマーズがあるのだが、ふと気づくとブラックゲーマーズになっているではないか。とうとう店舗にまで進出して来たか。看板でぴよこがなにやら吼えてます(笑)。
 帰り道、17:20くらいに昭和通側のドトールに寄ったのだが、「あと10分で閉めます」なんていわれた。こんなに早く閉めるの? いつももう少し早く寄るので気づかなかった。いったい、どういう客層を当てこんでいるんだろうね。
 帰路、東海道線に乗って、シグマリオンで日記を書いていると、目の前に座った中学生らしき二人組がポータブルCDプレーヤーを取り出して「うごかねー」と話し合っている。よく見るとそれはMP3ファイルを直接再生できるタイプだった。CD-Rを取り出して「認識できてないのでは」などと話していた。結構、この手の機器が普及してきたようだ。