Strange Days

2000年05月16日(火曜日)

観望できない

23時05分 星見

 今夜もくもり。本当に夜になると真っ白に曇ってしまうものだ。今夜も観望はなし。

ともに生きる

20時04分 思考

 僕たちは様々な身体的機能差を持つ人々と共存している。なぜかこのところ足を骨折した人を街中でよく見かけるのだが(スキーで足を挫いたのかな)、こうした人々は一時的な身体機能差を獲得したと考えるべきだろう。職場には事故かなんかで片腕を切断してしまった人もいる。
 なかでも不自由そうなのが視覚障害者だと思う。目が見えているのならば、自分の能力に合った行動パターンを選ぶことで、危険を低減できることだろう。しかし目が見えてないと、自分の現在位置を見失ってしまえば、今自分が危険なのかどうかさえもわからなくなる。人間の生活に視力による検証というものが濃厚に盛り込まれている以上、もっとも割を食うのが視覚障害者だろうと思うのだ。
 東京かどこかの鉄道で、視覚障害者が発車直後の車両に引っかかり、数十メートルも引きずられて大怪我をするという事故があった。被害者はこの鉄道会社を告訴している。鉄道会社は一応点字案内板と点字パネルを巡らせてはいたのだが、それは視覚障害者の事故を防ぐには不十分だったというわけだ。視覚障害者の事故を防ぐには、車両とホームを分離する柵とドアが必要だと被害者と支援者たちは主張している。ちょうど新幹線の新横浜、新神戸駅のホームの装置が該当するのだろう。
 彼らはこのような装置が鉄道会社に過大な経済的負担を与えるものではなく、また必須のものだと主張している。視覚障害者が今のように狭いホームを安全に通過するのは、利用者の多さとともに確かに困難そうな感じがする。だって、満員のホームの端に立ってる時、すぐ横を列車が発車していくのは怖くありませんか?
 しかし経済的負担が小さいというのはどうだろう。経済的負担というものは負担に見合った効果によって大小が云々されるものだ。この場合、健常者にはさほどうまみが無い。今の方式の制約の少ないホームの方が、様々な行動をとりやすいからだ。歩行障害者にとっては難所になる高さ20cmほどの段差も、それを難なく飛び越えられる健常者にとっては、長さ2mほどのスロープと手すりのコンビよりは好都合なのだ。スロープと手すりの工費は、健常者にとっては無用な負担と解釈しうる。もちろん、その段差に引っかかって転倒してしまうこともあるだろう。しかし日常的に問題なく通行できている健常者は、そのような不測の事態を都合よく忘れてしまえるものなのだ。
 同じように、それなりに運動の自由な健常者にとって、ホームの幅を実質的に狭めてしまう柵は邪魔に感じられるだろう。
 この訴訟に関わる支援者が作るサイトを僕が見たときに感じたのは、なぜだか怒りに近い不快感だった。それは民事訴訟にありがちな「私は悪くない!」「あいつが悪いんだ!」「あいつは社会の敵だ!」というややヒステリックになりがちなトーンを感じ取ったからだというのもある。しかしそれとともに、原告側が主張する「健常者へのメリット」が胡散臭く感じられたからだというのもあったのだ。要するにそんな負担は不要なのではないか、と。
 果たしてそうだろうか。「健常者」にだって運動や視覚の機能に差があるのはまず間違いない。万人が青年期の体力を維持できているわけではないのだ。老年期に入ると、体は健やかでも体力は着実に落ちてしまう。同じように視力も着実に落ちてくる。そうなってきて始めて、それぞれの障害者の主張する「健常者」へのメリットも実感できるようになるだろう。僕個人にとっては、今は幸いにして想像の域にとどまっている。しかしそれを実感する日がくるのも、まず間違いないことだ。
 このように、本当に人間にとって住みよい社会を作るには、様々な局面で想像力を要求される。思いやりという言葉に代表させたくは無いが、それも人間が持つべき想像力の一つだと思う。この点で、障害者とその支援者たちは日々を迂闊に生きる僕のような「健常者」よりもはるかに先達だ。この件をしばらく考えてみて、少しばかり蒙を啓かれる思いがした。
 しかしながら、社会全体を見ると、こうした想像力が発揮される余裕が失われているようなのが気にかかる。犯罪者、特に若年犯罪者に対する論調の険しさだ。なんというか、問題のすべてを犯罪者当人に求めようという姿勢が気にかかる。確かに純粋に個人の責任に帰すべき犯罪もあるのだろう。しかし多くの犯罪が社会的に醸成されてしまうものであるという認識に立てば、彼らは結果に過ぎない。終わりの無いもぐらたたきゲームに興じながら、そのゲーム機の存在に気づかないような迂闊さを秘めてしまっているように思える。
 逆に全てを社会に帰す姿勢も歓迎できない。個人の行為が社会と個人の相互作用のなかで生み出されていく以上、個人と社会という二つの地点の間のどこかに、本来求めうる力点があると思うのだ。そしてそれがどこにあるのかを推し量るのに必要なのが、結局は「健常者」を「障害者」へと敷衍していくような想像の目なのではないだろうか。犯罪の要因を個人に求めれば事足りるとする姿勢は、結局のところ人間を社会に関連無く点在するだけの個人として孤立させてしまうだろう。

そば拳

12時03分 暮らし 天気:晴れかもくもりかも

 近所に「そば拳」なる蕎麦屋がある。「そば挙」でもないし「そば幸」でもない。「そば拳」なのだ。
 店構えからするとふつうの蕎麦屋だ。ふつうのサッシの引き戸に暖簾。その脇にふつうの蕎麦屋の範疇にとどまっているメニューのショーケースがある。店構えのどこにも不穏さは無い。ただ屋号だけが只者でなさを主張している。
 なにが「そば拳」なのだろう。どうにも気になる。時々、入ってみようかと思うのだが(場所的に便利なので)、引き戸を開けた途端になにが起こるかを想像すると、どうにも怖いものがある。
 もしかしてアレかな。やはり引き戸の向こうには店主が身構えていて、パンピーの迂闊な客(僕みたいなの)が入ってくるのを待ち構えているのであろうか。そして引き戸を開けた途端に「きえーい!」とか「ちぇすとーっ!」とか気合をかけながら顔面めがけて強烈な正拳突きを繰り出してくるのかな。するとなにせ迂闊な客(僕みたいなの)なので豪雨を受け止める相模湖のようにまともに食らうことであろう。これはもう吹き飛びますな。鼻血を撒き散らしながら飛ぶだろう。前歯の6本くらいもイッてるかも知れない。後頭部を硬い路面に思い切り打ち付けるのも当然のことだろう。
 もしも意識があったら店から出てきた店主の顔を拝めるだろうな。店主は容貌こそごくふつうの親父だが、眼光の鋭さで只者で無さを主張していることだろう。もしも多少の気力が残っていて、なにか不服そうな表情を見せようものなら、親父は襟首をつかんで引きずり上げてくれるだろうな。そして言い聞かせるようにしていうのだ。
「いいか、俺の蕎麦はおまえのような間抜けに食わすことは出来ん。一昨日来やがれ、この腐れド外道めがっ」
 そしてとどめのアッパーカットを食らわせてくれることだろう。
 この店主の一撃をかわした者だけ、そば拳のそばにありつくことが出来るのだ。
 さぞかしうまいのだろうって? いやいや、やっぱりまずいのである。