Strange Days

2001年01月31日(水曜日)

ぼちぼちとVine2.1の設定

22時56分 コンピュータ 天気:くもりですよ?

 定時退勤日だったので、早い時間に帰宅できた。が、こういう日に限って空が曇っている! 経緯台をまた路上に出せるのはいつの日だろうか。
 帰宅して、Vine2.1の設定にぼちぼちと取り掛かった。これは再作業の必要があったときのための備忘録として書く(滅)。日記を読む限り、久遠氏もLinuxで苦労しているようだな。でも俺は趣味だもんね(爆)。なんていいつつ、既に仕事でもLinuxは足音高く迫っているのだ。
 まずは雑誌の付録CD-ROMから出来るだけパッチを当ててやる。これ自体はほぼ自動(というかコマンドラインでrpm連打連打)で終了。初期状態ではlinuxconfが「ファイルが未来の日付になってるから更新できんもんね」と謎のメッセージを出して動いてくれなかったのだが、それは解消されたようだ。というか、LinuxのこういうGUIベースの設定ツールは、ときどき不安定な奴がある。最終的には設定ファイルを手書きでがしがし更新しなければならない場合もあるわけだ。もう少しがんばれ。
 次にほったらかしのUW-SCSI9GB*2のRAID化を図った。こいつは日立製のハーフハイト(つまり標準の5インチベイ一つ分)のHDDで、猛烈な発熱とそれなりの高速性が特徴のデバイスだ。重さは殺人向き。別に捨てても良かったのだが、いくらATA100で転送速度が100MBPSに達したとはいえ、所詮シングルキューであるATAよりはSCSIの方が負荷に強そうだ。最終的にはこの機械をファイルサーバに(1号機はそういう業務から解放)するつもりなので、高速ストレージの足回りは残しておいた方が良い、かも。
 とりあえずコマンドラインで"mkraid"などのraidtoolが使えないことは確認し、またインストールもされてないことは確認した。それでインターネット検索でVineでのソフトウェアRAIDの状況を確認した。すると最近の世代のカーネル(2.2.14以降?)ではRAID機能が組み込まれてはいるものの、raidtoolそのものはやはり別途用意しなくてはならないことが分かった。確かに、"/proc/md"は存在している。では2号機でraidtool0.9を落とし、FTPして......。できんやん。そう、ftpdが起動されてなかったのである。ではinetd.confにftpdを記述して、"kill -HUP ほげほげ"で再起動する。うん、プロセスはいるぞ。が、やはり2号機から接続できないのである。調べてみると、そもそもftpaccess.confがいません。あらら、手で書くかな。
 もうftpと格闘するのは嫌になったので、RAIDもろとも脇に追いやり、プライオリティの高い別の仕事に移った。
 まずはDistributed.netクライアントの設定。Webサイトから最新クライアントをダウンロードし、適当なディレクトリ(とりあえず/usr/local/binに掘った)に展開し、設定。動作することは確認した。ベンチマークを取ると、同じプロセッサをNTで使ってた時より、多少速度が向上しているようだ。いやまあ、誤差範囲ですが。
 さらに起動スクリプトを適当に書いて、rc3.d辺りにシンボリックリンクを張ってやるとOK。1号機のdnet-proxyとも交信している。
 次にsquid。こちらは/etc/squid/squid.confをやっぱり適当に設定して、と......。つながらないな。ふとdns設定をしてなかったことに気づき、linuxconfで設定してやると、ばっちり。一時的に1号機でdelegateを運用していたのだが、やはりメモリを十分与えたsquidは速い。
 最後にsambaを、と思いつつ風呂に入ったりしていると、猛烈に眠くなってそのまま就眠。以降は明日。

2001年01月30日(火曜日)

星を見ましょかね

23時55分 星見

 今夜も空は晴れ晴れとしている。しかし寒いのである。21:00過ぎ、寒さに震えながら、ベランダにMIZAR20*80を出して星を眺めた。
 空は晴れているのだが、シーイングは高くない。高空の風があるようで、星像の揺らぎが大きい。しばらくして闇に眼が慣れると、オリオン大星雲の散光がかなりくっきり見えてきた。しかし、ベランダから目に入る唯一の大光源、中学校の校舎にまだ明かりがあったので、いまいち暗く見えない。ほぼ南中しているシリウスに向け、下に引いてゆくと、M41がポツポツと見えた。本当にポツポツという感じだ。10*42だとまるごとボヤッとしたにじみにしか見えないのだが。
 日付が変わる頃にまたベランダに出て、西に沈み始めているオリオン座を見た。部屋の明かりを消してなかったので暗順応が充分でなかったのだが、しばらく手で遮光しながら見ていると、オリオン大星雲から三ツ星にかけての見事な眺めが浮かび上がってきた。
 猛烈に眠いので、この辺で就眠。

旧牛筐体ATX化(ほぼ完結編)

23時30分 コンピュータ 天気:晴れにょ

 朝までにはほぼATX化が完結していた旧牛筐体だが、メインボードが32GB以上のIDEなHDDを認識できないという問題があり、接続した全パーツが稼動するかどうかは未確認であった。既に筐体の問題ではないが、ここまで解決できないとATX化が完成した気持ちになれない。
 この問題は、HDDのジャンパ設定を買えて32GBでクリップすれば、一応回避できる。でも15GBも損するのはなあとも思う。会社でふと閃いたのは、BIOSが古いのではないかということだ。考えてみれば、僕は基本的には問題が無い限りBIOSやドライバのアップデートをやらないので(Windows系OSの場合は穴が大きすぎてアップデートせざるを得ないが)、BIOSなんかは平気で買った当時のままだったりする。3号機に入れたメインボードは、旧2号機から外したTekramのP6B40D-A5。これ、確かなんかのトラブルで1回だけBIOSをアップデートしたんだっけ。
 帰宅して、Tekramのウェブページを見ると、BIOSの最新バージョン(といっても去年の頭時点だが)は1.07。起動画面では1.02。こりゃ古い。アップデート履歴を見ると、1.06辺りで「大容量ディスクに関する障害の修正」というのがあった。怪しいな。Windowsで起動ディスクを作り(ゲッ、Meって"format /s"無くしちゃったんだ。サイテーだ。不要ファイルをガシガシ削りましたよ)、アップデートファイルとEEPROMライターをコピーして、アップデートをかける。そして起動すると、今度はちゃんと45GBを認識してくれた。やったね。さらに内蔵SCSIディスクの接続順などを見直し、最終的に全機器が認識された。これでOSインストールできそうだ。
 ふと気になったのが、内部の気流のことだ。確かATX電源は外部から吸入する仕様だったよな。ところが、電源のファンに手をかざすと、しっかり排気しているではないか。ウゲッ、考えてたのと逆だ。慌てて前面ファンも再度前後を入れ替え、吸入側にした。これで前面吸入、背面排気と、今までと同じ流れになる。プロセッサはちょうど風の流路に当たるようで、都合よい。しかしそれほど強力なファンでもないようなので、夏場にはちょっと気がかりだ。
 このマシンには、IDE接続のDVD-ROM/CD-ROMドライブを着けた。価格的に、CD-ROM専用ドライブと、そう変わりが無いからだ。つまりIDEはIBMのDTTA307045+DVD-ROMドライブの1系統。SCSIはUW-SCSIが富士通の9GB*2、(Nalrrow)SCSIが富士通(なんか多いな)のMOドライブ640MB+外部接続のNakamichi4倍速7連装CD-ROMドライブの2系統。前に較べると、かなり軽量化された。さらに内蔵音源も、以前のSB16からPCIベースのSB128に替えた。この機械もついにISAレスな構成になった。手許の機械の中で、ISAが現役なのは1号機、それも音源のSB64Goldだけだ。
 ここに早速Linuxをインストールする。今回はVine2.1にした。モノはLinuxマガジンの付録CD-ROMを使った。Laser5はフィックスの更新がやや遅くて不満があったので、比較的手が早そうなVineにしてみたのだ。
 2号機でインストール起動ディスクを作り、DVD-ROMにCD-ROMを載せ、起動。後はDisk Druidでのパーティション決定を経て、グラフィックアダプタ、LANの設定くらいで、後はほとんど全自動で進む。凄いね。ほとんどWindowsMe並だ。あっちは「もう設定不要です!」などと誇らしげだが、こっちは単に設定不要という事実があるだけで、寡黙なのが好ましい(笑)。
 インストールが終わり、再起動。この時点では何の問題が無い。しかしXを起動すると、これが懐かしのWindow Makerだったりするわけだ。また800*600表示なのもヤだな。X設定は/sbin/setupで修正し、1600*1280表示を確保。ここで音源設定を試してみると、ほとんど全自動で認識してしまった。恐るべし。最後にWindow ManagerはsetwmでGNOME(というかEnlightenment?)に変えて見た。前から使っていたからだが、色々気分によって他のWMに変えると良いかも。
 後はsquid、sambaの再設定、9GBディスクのRAID化位か。

2001年01月29日(月曜日)

続旧牛筐体ATX化

23時55分 コンピュータ 天気:晴れですね

 今日も今日とて牛箱のATX化に励むのであった。
 早々に帰宅し、まずは開口部の切削を続ける。これは早い時間に終えないと、騒音で近所に苦情が出る恐れがある。特に階下の老夫婦には迷惑をかけたくない。
 この筐体はATボード用の物だから、シリアルだのパラレルだののコネクタが適当に開口している。ATX用のポート群を出すだけの開口を得るには、このいくつかを過ぎる必要がある。おかげでなんだか歪な形になりそうだ。
 ともかく、昨日ある程度まで進んでいた1辺の切削を進めた。金属鋸でごしごしやるわけだ。これは予想外に快調に進み、予定ラインに20分程度で達した。さあ、ここから次の1辺へと移るコーナーの処理が問題だ。金属鋸は薄い板状なので、コーナーを曲がれない。そこでワイヤソーの出番だ。ワイヤソーは細いので、どこにでも入り込めるし、カーブを切ることさえ可能だ、と思ったのだが......。
 早速ワイヤソーをフクロから取り出してみる。「NASAでも採用!」の文字が躍っている。案外、NASAの本部ビルの庭師が使ってるんだったりして。しかし手触りは案外に高級そうだ。では最初に切削した辺からコーナーまで入れて......。は、入らん(爆)。これは盲点だった。案外にワイヤが太いので、薄い板である金属鋸が通った後を辿れないのである。それでも無理に通そうと苦闘していると......。
 折れたやん(核爆)。身も世も無く泣きじゃくる俺様であった。
 こうなると別の一手を考えるしかない。次に思いついたのは、補助線を切ることだった。1辺を切ったら、次の1辺の通過予定地の、コーナーから少し離れた地点(金属鋸の鋸先が入るくらい)まで補助線を切り、コーナーから補助線の先端を通る部分をペンチで折り取るという目論見だ。補助線を出来るだけ短くしたかったので、色々工夫しながら切り出した。
 最後の1辺を折り取り、やすりで仕上げると、まあ見た目はともかく、実用的には充分な塩梅になったのである。
 ここで睡魔に襲われ、朝方まで眠る俺様だった。
 朝方起きだし、メインボードを着けてみた。問題無さそう。電源を取り付け、ボード類、ドライブ類を取り付け、ケーブルを張り巡らす。前よりかなりドライブが減ったので、電源もケーブルの取り回しも楽々だ。唯一の問題が、MB側IDEコネクタが全ピンあるのに、買ったATA100対応ケーブルでは塞がれていることだ。ここが未接続だったらピンを折っても問題無いけれど、MBの説明書を見てもはっきりしない。これは安全策をとり、ケーブルコネクタ側に穴をあけた。
 さらに筐体側コネクタをメインボードに取り付けた。電源スイッチ、リセットスイッチ、LED類、いずれも無駄にならない。改造は完璧だ。多分。
 そしていよいよ起動してみる。電源スイッチはちゃんと機能した。そしてメモリチェック画面が出た。万歳。完璧だ。ここでBIOSセットアップをしてみる。が、ここで問題発生。新たに取り付けたATA100なHDDが認識されないのだ。どうしてだろう。
 しばらく試してみて、HDD側に"32GB CLIPPING"なる怪しげなジャンパ設定があったのを思い出した。もしかして、と思って設定してみると、見事に認識! 32GBで(爆)。つまりこういうことだ。このメインボードが発売された頃には、まだ32GB以上のディスクが無かったので、Over 32GB Problemが対策されてないのだ。これはどうするか。このまま使うか。それともLinuxでは問題なく使えるだろうと見込んでセットアップしてみるか。
 というところで時間切れ。出勤する俺様であった。帰って、どうしようかね。

2001年01月28日(日曜日)

星を見ましょ

23時55分 星見

 21:00過ぎに外を見ると、曇るという予報に反して晴れがっている。この機会を逃すまじと思い、100EDをベランダに出した。
 晴れてはいる。しかし大気中の水分が多く、視界はかなり曇っている。オリオン座の三ツ星付近から小三ツ星への近辺は、相変わらず見事な眺めだ。しかしトラペジウムは三つまでしか見えない。やはりかなり霞んでいるのだ。
 M41に100EDを向け、SW24.5で導入、UW6.7で眺めた。ほぼ南中しているにも関わらず、見える星はやや少なめ。
 昨夜晴れていたら、きっと見事な眺めだったのだろう。

Gnutelle

22時53分 インターネット

 かのGnutellaで遊んでみた。正確には、Gnutellaプロトコル(だよな)を使う互換ソフト、Bearshareで。こいつをインストールし、適当にパラメータを弄ってやると、内外にどんどん通信し始める。もっぱらこちらの公開ディレクトリを問い合わせるキーワードだが、自動的に他のサーバと通信してもいるようだ。トラフィックが凄そうだったので、これもパラメタを弄って絞ってやった。
 ではMP3ファイルをサーチしてみようか。懐かしの曲、Bugllesの"Video Killed the Radio Star"なんてどうだ。最初、正確な曲名を思い出せなくて、Bugllesのスペリングも間違っていたりして、ヒットしなかったのだが、検索エンジンで調査して正確なスペリングを使うと、あっという間に何十と無くヒットした。そのうち一つをクリックし、ダウンロードを開始してやった。これがなかなか進まない。こっちの線が細いせいもあるのだろう。しばしばタイムアウトする。しかし、放っておくとやがてダウンロードできたようだ。プレイヤーに放り込むと、をう、確かにアレだアレ。女の子の甘い声で「アァン、アアンアン」っての(笑)。懐かしい記憶が呼び起こされた。
 Gnutellaってのは(Napstarもだろうが)面白いが、しかしCD代わりのリソースになるのは、今の段階では難しいような気がする。入手の確実性が劣るし、早さもそれなりだ。ADSLやFTTHが引ければ良いかというと、今度は基幹線やサーバの能力が飽和してしまうのではないか。後数年しないと実用的にはならないだろうし、入手の確実性が低いという点はどうにもならないだろう。当面は、むしろ既存の音楽ビジネスを補完する方向で活用できるのではないかと思った。
 しかし、長期的には、こうしたネットワークレベルの共有リソースの発達が、例えばシングルCDのような一過性のビジネスを難しくするのは確かだろう。

いよいよ旧牛2K筐体ATX化に着手

21時52分 コンピュータ 天気:晴れ

 昨日夕刻まで降り続いた雪が止み、朝から徐々に晴れ始めた。昼前には日差しも強くなってきて、融雪が一層進んだ模様。屋根から電線から、水滴がぽたぽたと落ちてくる。車道の融雪も進み、ぬかるみ状態のところも多い。が、歩道やアパートの通路なんかは、人通りが無いせいでバージンスノーだ(なんぢゃそれわ)。その雪のせいで地表の反射能が上がり、部屋の中に差し込む明かりがまぶしいまぶしい。それとかなり暖かだ。窓を開けて、風を呼び込んだ。
 さて、Gateway社旧型筐体のATX化に着手することにしよう。まずはその前に部屋の片付けだ(爆)。作業場所の確保のために、PCを中心に積みあがっていた本やCD類を片付けた。ああ、すっきりした。
 そして全関係者を寝室に強制連行し、いよいよ執刀である。まずは連続稼動を重ねてゴミが付着しまくった筐体の掃除である。筐体外部を濡れティッシュで拭うと、あっという間に真っ黒になる。筐体を開けると、嫌になるくらいのケーブルと機械が、ほこりにまみれてうずくまっている。なにせこの機械には、IDEのHDD*1と、UW-SCSIなHDD*6が収まって、さらにSCSIなMOドライブまで内蔵しているのだ。これらのうち1GBのHDD*4(いまやゴミみたいなもんだ)とIDEのHDDを撤去し、45GBのATA100ベースHDDに置き換えるのだ。これだけで、相当に発熱は減るはずだ。またプロセッサもMMXPentiumプロセッサ200MHzのデュアルから、Pentium2プロセッサ400MHzデュアルに変わる。かなり強化されるはずだ。
 元々この機械は、買った'95年時点でPentiumプロセッサ120MHz、メモリ16MB、三洋の4連装CD-ROMドライブを奢った機械で、今は亡き友人スミス氏が「これで25万なら俺も欲しい」と羨ましがってくれた機械だったのだ。その後強化に強化を重ね、今ではMMXPentiumプロセッサ200MHzデュアル、メモリが256MBという構成に進化してきた。
 今のままでもsquidを転がすくらいなら何の問題も無い。しかしこの先のことを考えると、ATX化しないことに明日はないと思った。もうATメインボードは、市場でも酷く希少になっている。ATX化のハードルは、そう高くないと見た。
 まずケーブル類を引き抜きながら、筐体内部の掃除をした。掃除機とブロワーで細かいほこりまで処理する。頑固な綿ぼこりはティッシュを濡らしてふき取る。はっきりいって喉をやられるかと思った。そして内部のボードを全て抜き、ビハインドベイも取り去って、ATX化の要領を検討した。背面の開口は除き、電源は同一メーカーゆえかほぼ同じサイズだ。この交換に問題は無さそうだ。ややこしそうなのが電源スイッチ近辺だった。ここはATではケーブルで電源と直結だったので、何とかして外さなければならない。まえはどうやって外したんだっけ。よっぽどケーブルを切ろうかと思った。しかしここでATA66対応のケーブルが無いのに気づいた。時間は16:30。買い物がてら、湘南台のウェーブアイに向かった。ここでATA66ケーブルや細かなスペーサーなどを物色中に、"ATX対応電源スイッチキット"を発見。形状的には、今のAT電源スイッチとコンパチのようだ。これも買って帰った。
 帰宅して、さっそくスイッチを交換する。まずは前面パネルを外さなければ。詳しく観察して、ネジ止めされているのを発見。難なく外した。しかしこれでも取れない。実は前面パネルに伸びているLED類のケーブルが、筐体内部にしっかり留められているので引き出せないのだ。留めているストラップを切って引き出した。
 前面パネルとの隙間には、6年間の酷使を物語る凄まじいほこりが詰まっている。これを掃除機とブロワーで吸い取り、電源スイッチを交換した。パネルを仮止めしてテスト。が、なぜかスイッチがクリックされている形跡が無い。よくよく新旧スイッチを比較してみると、ATXスイッチの押し棒の方がなぜか5mmほど短かった。耐久性等を考慮し、ガムテープを細く切ってぐるぐる巻きにし、その5mmを稼いだ。これでOK。また前面ファンも前後逆に入れ替えておいた。AT機では電源ファンは排気する仕様だったので、前面ファンは吸気側になっている。しかしATXでは電源ファンが吸気する仕様なので、前面排気にしなければならない。
 ここまでで大体めどがついたので、いよいよ後面の開口部切開に取り掛かった。まずATXメインボードを仮に入れ、位置を合わせた。その上で赤マジックで線取りし、金属鋸をシリアルポートの開口部から入れ、ゴリゴリと切り始める。が、これは予想外に難問だった。切る速度自体は3cm/10分位で進むのだが、音が大きくて階下の住人の迷惑になりそうだ。ちょっと夜やるのは気が引ける。今夜は10分ほど作業し、ここで一部中止。休日にやるしかないのかな。
 しかし、切開自身はかなり簡単であることが分かった。難問は、角の処理だ。金属鋸では曲がれない。そこでワイヤソーの出番となるはずだが、今夜はそこまではいけなかった。まあ、すぐに必要になる機械でもない。気長にやろう。

2001年01月27日(土曜日)

大雪ですな

20時50分 暮らし 天気:雪

 一個人の精神状態に関わりなく、冬は深まって行くのである。今日はやや、というかかなり回復した感じ。これはもう開き直って、「眠れないときは眠らないのだ、眠りたいときに眠るのだ」と思い切ったからであろう。休日はこれでいいのである。
 今朝も今朝とて、ほとんど夜明けまで起きていた。しかし昼前には起きだし、これからのスケジュールを思い描いたのである。語尾の「ある」ってのがうっとうしいのである。しかしなんだか文体がしまって見えるから霊験あらたかではある。
 それにしてもたまげたぜ。朝方に外を見ると、もう雪がどっさり降り積もっているではないか。しかも、昼になっても降り止む気配はない。むしろ、ますます激しくなっている。これは、うかつに外出すると遭難するぞ......。温暖な瀬戸内育ちで、暑さにも寒さにも脆弱は俺様は危機感をおぼえた。今日は出るのよそうか。少なくとも、これで秋葉に出るのは自殺行為だ。東海道線がいつ止まるか知れたもんじゃない。
 では横浜にしておこうかと、横浜近辺のPCショップを調べてみた。パーツ屋としてはT-Zoneがあったが、既に閉店している。しかしDOS/Vパラダイスがあるではないか。というわけで早速出かけた。
 外に出ると、今まさに大雪真っ盛りという感じで、強風と雪に吹きつけられる羽目になるのだ。買って1年も経ってない傘だが、この近辺の強風にやられて、もう骨はボキボキである。やけくそで傘を畳んで駅まで歩いた。駅に着いたときには帽子も、コートも雪で真っ白だった(爆)。こういうこともあろうかと、今日はいつものコートではなく、羽毛入りの撥水加工したモノを着てたのだ。
 横浜駅周辺も雪で凄いことになっていた。そのせいか、戸外の人通りは少なめだ。しかし屋内の人通りは相当のものだった。元気なもんだ。
 DOS/Vパラダイスはハンズの手前、花屋の奥にある。ここでサイレンサータイプの電源と、45GBのHDD、256MBPC100のメモリ二つを買って出た。便利な店だ。更にハンズで金属鋸、ワイヤソーなどを買って帰った。これで準備は万端......なはずだ。

2001年01月26日(金曜日)

鬱です

22時49分 暮らし 天気:くもりですか

 昨日の今日だが、まだ回復していない。体と心が非同期に、バラバラに動いている感じがする。夜、寝床に横になると、なぜだかなぜか動悸が高まり、あっという間に眠れなくなるのだ。アルコールの助けを借りても無駄なことだ。眠りが浅く、目覚めても眠った気がしない。駄目駄目状態充填120%なのである。ドリルミサイル以外には無敵状態なのである。このところの毎朝恒例の頭痛が考える気力を奪ってしまうのである。というわけで、今日もお休み。
 休んだところでやることなんかありゃしない。無気力に画面を見つめているだけなのである。ゲームをやってものめり込めない。なにかと興味が続かない。そりゃあ元々虫けら並の注意持続時間(ギブスン風)の持ち主ではあるけれど、今はほぼ量子時間程度の気力しか続かないのである。要するに駄目なのである。こういう時になにをしても駄目なので、ひたすら布団で妄想に、それも全く浮き世離れしたそれに励むのである。せめて星でもみれればいいのだが、この天候では望むべくもない。という未曾有の精神の危機にさらされながらも、なせか駄文だけは書き続ける俺様なのである。ああ、まったりと日が暮れて行く。

2001年01月25日(木曜日)

もしかして、これは......

22時47分 暮らし 天気:雨ですな

 最近、体調が優れない。一日中体に倦怠感がみなぎっており、特に朝方は頭痛がすることもある。なかなか寝つけず、寝入ってもすぐ目覚めてしまう。こんな状態なのに、朝方起床時間より早く目覚め、それっきり寝つけなくなる。時々、意味もなく動悸が高まる。また何ごとにつけ好奇心が減退している。それと、性欲も減退して、今年に入ってそっち方面はごぶさただ。と、これらを列記して気づいたのだ。これって鬱病の症状そのものではないかいな。特に睡眠障害なんて、鬱病の顕著な特徴である。
 ううむ、やばい。いろいろ思い当たる節はあるのだが、なにも今こうならなくてもと思うぞ。も少し暇な時に鬱になってくれれば。って、多忙がストレッサーの一つであることは間違いないだろうが。
 仕事中にも動悸が昂進し始めたので、これはあかんと思い医務室に相談しに行った。一応、話を聞いてくれて、原因が病的なものか、精神的なものか分からないので、動悸の症状を自分で観察してくれといわれた。不整脈があれば疾病による可能性があり、そうでなければ精神的なものである可能性がある。というわけで昼に早退して(仕事にならん)、しばらく動悸の観察に務めた。今のところ、不整脈らしきものはないので、どうも精神的なもののような気がする。
 まだ素人判断なので決定できないが、鬱病だとするとしばし薬物投与を受けることになるだろうな。最近はかなり高性能の抗鬱剤があるので、効果が大きいらしい。というか、鬱病はヒトの精神感度の問題でもあるので、それを緩和してやることが症状の緩和に繋がるということらしい。一方、ストレッサーの解消も図らなくてはならない。こちらはまあしばらく業務内容を変えるということになるのだろうな。
 まだ多くの不確定要素が残されてはいるが、いろんな意味で無理の出来ない局面に立っているような気がする。

2001年01月24日(水曜日)

Libretto20復活計画

20時46分 コンピュータ 天気:くもり

 ふと、枕元に放ってあったLibretto20を思い出した。確か、以前に日立製9.5mm3.2GBディスクに換えて、Laser5Linuxを入れてあったはずだ。枕元で弄るのはこれが楽である。そう思って、Linuxを起動してみると、LANカードが認識されない。前に苦労して、しかし最後まで認識させられなかったのだっけ。原因不明なのだが、このLANカードは他の環境だとタプルの読み出しが出来なかったりして、なにか変なのだ。まあそれでもより新しいPCMCIAドライバで試してはどうかと思い、いっそのこと雑誌付録のVine2.1にしちゃおうかと思い始めた。ディスクの絶対的な容量が足りなさそうなのだけど、そもそもLANカードを認識してくれないとFTPインストールも無理そうだな。他のカードで試してみるか。

2001年01月23日(火曜日)

今夜の星見

23時55分 星見

 日付が変わる頃、凄く眠かったが空は晴れていたので、双眼鏡を手にベランダに出た。MIZAR10*42という小口径でも良く見える。空がそれだけ透明なのだろう。オリオン座の近辺には細かな星がウジャウジャ群れている感じだ、もう少し目が暗順応していたら、さぞかし見事な眺めだったろう。一方、シリウスの近辺を歩いていると......おや、M41がちゃんと見える。ぼんやりした星の塊という感じだが、それでも見えるものは見えるのだな。
 それにつけてもキヤノン18*50ISの欲しさよ。

Software Choice

23時44分 コンピュータ

 しばらくどうするか悩んでいたOS/2のコンビニパックだが、結局入手することにした。内容的に充実しているし、今後OS/2を再インストールすることを考えれば、入手した方が便利だ。ということで、九十九電気のネット通販に見積もり依頼した。1号機のプロセッサ交換を機に入れ替えてみようと思う。

ロカティオの無償修理

20時43分 デジタルギミック 天気:晴れ

 今週の頭、エプソンから「ロカティオ無償修理のお知らせ」という葉書が届いた。これは先週の中くらいに公表されたもので、ロカティオの設計に不具合があり、場合によって使用不能になる故に無償で修理するというものだ。その不具合というのが、ロカティオを強く落下させたとき、電池ソケットが破損し、異常に過熱することがあるというものらしい。その結果、電池ソケットが使用不能になるという。そんなに強く落とすとは思えないし(それは使い方に問題があるような気がする)、あったとしても相当稀な場合に思える。それでもきっちり無償修理してくれるというのだから、エプソンの姿勢に好感を持った人は多いと思う。もちろん、そのコストはエプソンの製品に上乗せされるのだろうけれど、長く使いつづけたいものにとっては少々のコスト増があっても故障可能性が減るほうが嬉しい。
 たぶん、今回の対応の裏には、インターネットを舞台に増えているクレーマーサイトの存在があるのだろう。悪意のクレーマーと善意のコンシューマの線引きは難しいが、彼らの存在にある程度の意義があったということは出来るだろうな。
 この告知自身は先週のうちにウェブで見ていたので、さっそく受付に電話して修理の依頼をした。すると翌日には専用の梱包用ダンボールが届き、これを着払いで発送すればOKということだ。まだバックアップを取ってない関係上、未発送だが、エプソンのすばやい対応には好感が持てる。
 なんていって、戻り品が傷だらけになっていたら笑えるのだが(というか泣ける)。

2001年01月22日(月曜日)

(勝手に)進化するマクロウィルス

22時40分 コンピュータ 天気:くもりなにょ

 かのmelissaの新種が発見されたそうだ。
 一世を風靡したmelissaはMSのOutlook/Outlook Express、Wordをターゲットにしたマクロウィルスだ。ウィルスの本体は何か適当で注意を惹きそうなサブジェクトの電子メールとして送付されてくる。この電子メールに添付されたWord文書を開いた時に、Wordマクロが実行されることで処理が開始される。この時、レジストリの一部に情報を書き込み、Word文書のテンプレートにウィルスを書き込むと共に、Outlook、あるいはOutlook Expressをキックする。キックされたMUAは、そのアドレス帳の先頭50グループに対して、さらに同内容の電子メールと添付Word文書を複製し、発信するわけだ。アドレス帳それぞれには多数のアドレスが記載されうるので、非常にたくさんの2次感染者が発生する可能性を秘めている。
 Melissa自身、発想は単純だし、事実非常に簡単に作成できるタイプのウィルスだ。特にユーザの介入を必要とする点で、ウィルスとしての面白みに欠けるともいえそうだ。本当に優れた(??)ウィルスは、もちろん誰の介入も必要とせず静かに広がってゆき、その感染経路も特定し難いものだろう。しかしこうしたMelissaの単純さは、無数の変種を生み出す素地を生み出している。Wordマクロはその辺のおじさんでも扱えるくらい可読性が高いので、トライ・アンド・エラーでがんばれば、プログラミング未経験者にだって改造できるのだ。そういうわけで、Melissa変種は大変に多い。例えば、Outlook、Outlook Expressを直接キックする処理に変わり、MUAのMAPI呼び出しを埋め込んだものがある。これにより、MUAがなんであれ同様のウィルスメール発行処理を実行できるので、Melissaで有効だったOutlook/Outlook Expressを使用不可にするという対策が無意味になる。
 今回の変種は、新たにMac OFFICE2001を対象としたくらいの違いでしかない。しかし、実はこれが登場した背景が面白い。McAfeeの解析チームの考えでは、このMelissa変種は誰かが改造したのではなく、Mac OFFICE2001を使っているユーザがウィルスに感染したWindows版Word文書を保存したために感染したと考えている。つまり、プログラムの原作者が考えていなかったプラットフォームにまで、期せずして拡大したというわけだ。
 この背景には、アプリケーション設計者なら誰もが夢見るクロスプラットフォーム性の追求がある。MS OFFICEは、もちろんもっとも広範に使われているオフィス・スートだろう。MSの主眼はWindows市場にあるが、Excel自身がMacで生まれた背景もあり、Macでも非常に広範に使われている。この時に問題になるのが文書の互換性だ。異なるプラットフォーム間でも、同じ文書では同じ結果(表示、印刷など)を得たいと考えるのは当然だろう。しかし今のドキュメント類は、テキスト情報だけでなくフォーマット情報、文書の属性、場合によってはプログラムさえも内蔵している。MS OFFICEのマクロもドキュメントに埋め込まれたプログラムの一種だ。これもクロスプラットフォーム性を得たい。そして実際にOFFICE文書の高度なクロスプラットフォーム性を確保した結果、そのOFFICE文書上に実装されたウィルスにまでクロスプラットフォーム性を与える結果になったというわけだ。旧来のウィルスがあるプラットフォームに強く依存したものが大半であったのに対し、マクロウィルスはその壁を比較的容易に乗り越えうる能力を秘めている。特に興味深いのが、MacでもWindowsと同じようにOutlook、Outlook Expressをキックできる点だ。今のMacでもIEが標準だし、OFFICEを入れればOutlookも入るのだろうが、キックできるということはMAPIまで実装されたのかと思う。詳しくは分からないが、MSの戦略を考えれば、自社規格の普及によるユーザ囲い込みを狙うのも必然だと思うのだ。OFFICEやWindowsを支えている足回りの規格が、クロスプラットフォーム性の追求によって普及するに連れ、Windows特有のものだった一部マクロウィルスが、さらに甚大な被害をもたらすようになる可能性を示唆しているのではないだろうか。
 このことは他のプラットフォームを使っているユーザにも当然に無縁ではない。というのは、MS OFFICEドキュメントの蓄積を無視できない他の団体が、それを別のプラットフォームで扱えるような互換環境の整備に注力しているからだ。例えば、SUNはMS OFFICE互換のStar OFFICEを様々なプラットフォーム向けに開発しているが、高度なドキュメント再現性を持たせようとするならば、当然マクロウィルスへの感染可能性まで高めてしまうだろう。Windowsユーザのドタバタを嘲笑いつつ見ていたUNIXやOS/2のユーザにも無縁なものではなくなってしまう可能性があるのだ。それもこれもMSの市場独占が影響していると思う。もしもMAPIやMSのマクロ規格がオープンな現場で生まれたものであるならば、常に批判的な検討が入ることにより、この種の単純なマクロによるウィルス実装は防げたかもしれない。危険性が早い段階で指摘されれば、危険の根は早く摘み取られただろうし、それが出来なくとも代替規格が登場することで結果的に蔓延する可能性を低減できたかもしれない。こう考えてみると、MS社の市場独占を積極的に支持し、あるいはそれを知りつつ楽観視している一般ユーザの責任も、普通考えられている以上に重いと思うのだ。これらの人々の支持なくしてMS社の強い独占体制は維持できないだろうし、そのプロダクトを盲目的に受け容れる素地無くして危険性の高いOFFICE文書の蔓延もありえない。これらMS支持者の無知が、インターネット世界の危険性を高め、しかもそれはMS支持者だけでなく他のプラットフォームにまで影響を与えているわけだ。
 反省しろよMS支持者ども。といいたいが、現在のオフィスではMSの文書規格を全く無視できないというのが辛すぎるくらい辛いところではないだろうか。正直、一刻も早くXMLベースの世界になって欲しい(なったらなったでMS"特有"のXML規格が登場するのかもしれないが)。

2001年01月21日(日曜日)

ローテーブルで鍋

23時38分 暮らし

 帰宅して、早速3モードFDD取り付け、といいたいところだが、PCを開けるのが面倒なので来週末くらいに見送った。その代わり、昨日届いていたローテーブルを我が定位置の横に設置した。これで食事しながらゲームできる。とりあえずTP235を載せて、そこにマウスとHHKを接続、試しにDOOMを起動すると、ちゃんとプレイできた。DOSゲームはこいつに任せりゃいいか。
 寄せ鍋を作り、このテーブルで喰いながらゲームをする。うう、食が進まないのでこれは止めた方が良さそうだ。
 さらに、今日買った辞書パックをインストールしてみた。これは便利だ。辞書一冊でも2000円は超えるのに、2500円でこれだけ付くというのは良い。問題はライセンスだが、何も書いてないんだよね。
 というわけで、いろいろやったのかやってないのか分からない週末が、またしても過ぎてゆくのであった。

雪を踏みながら

20時36分 暮らし 天気:くもり

 昨夜の降雪がまだ近所には残っている。朝方、外を見ると、隣近所の屋根が真っ白になっていた。雪が振動を吸収するのだろうか、なんだか随分静かだ。道路を見ると、早くもぬかるみ始めている。
 昼過ぎに今年最初の秋葉に出かけた。太い道路は既に乾いていたが、日陰の細い道にはまだかなりの雪が残っている。この寒さで、日陰の雪はなかなか解けないようだ。
 今年最初の秋葉は、驚くほど人出が少なかった。年末の殺人的人出の反動だろうか。もうすぐ期末なので、また人出は回復するだろう。
 今日の目当ては3モードのFDDドライブだ。なんでそんなものが要るのかといえば、久しぶりに98ゲームをやりたかったからである。98というのはもちろんWindows98でもPC98スペックでもなく、NECのハードウェアPC-9801シリーズのことだ。僕がPC(というのはこの場合はIBM-PC/AT互換機のこと。全くややこしいな!)に移行したのは、確か'92年の事だった。って自分でメモしてるんだから確認しろよな。確かに本格移行は'92年ですな。だがそれまでの4年間、さらには移行後の'95年頃までは、ゲームの世界ではまだまだPC-98優勢だったのだ。だから手許には、いまだに大量のPC-98ゲームが残っていたりするのだ。その中のいくつかは、いまだに時折プレイしたくなる。ソーサリアンはWindows環境に移植されたが、マイナーすぎるくらいマイナーなリングマスターは絶対移植されないだろう。
 それら98ゲームをプレイするにはどうすればよいのか。一つは実家に送ったPC-9801を送り返してもらうことだ。だがアレは場所を取るし、さらにいえば今のPCからいちいち離れ、別の機械でプレイするのは面倒に過ぎる。
 しかしである。世の中にはやるべきことをやっている人がいる。今、PC-9801エミュレータを作成している個人/団体がいくつかあるのだ。マシンパワーが圧倒的に向上したし、さらにPC-9801のハードウェア解析も盛んだったので、その気になれば個人レベルでも作れる状況になっているのだ。それらのエミュレータの中には、PC-9801のBIOS吸出しが必要なものがある。必要でないものもある。しかし共通しているのは、まずはPC-98ソフトのディスクにアクセスできなければならないということだ。その為には、PCに3モードFDDを取り付ける必要がある。価格的に高いものでもないので、まずはそれを買おうという気になった。
 秋葉に出て、電気街口から出た。去年の年末から進めていた改札のレイアウト変更が完了したようで、人の流れが幾分整理されてきたような気がする。絶対的な能力が低いので、焼け石に水かもしれない。
 九十九本店から若松地下にかけて歩いてみた。お目当ては、以前から流通しているトムキャットのパッケージなのだが、それは見当たらない。若松の地下では、滅多やたらにTP760関係のオプションが目に付いた。
 モノは俺コン本店で入手した。しかし俺コンって、なんだってあんなに客の捌きが悪いのだろう。一人の客が会計を済ませるまでに、数分を要している。
 さらに、ちょっとした気まぐれで、T-ZoneパーツショップでHHK(Lite)を買う。個人的に、あまりに整理されすぎたキーレイアウトは幸せになれそうに無いが、この小ささは魅力なので買った。
 俺コンからZOA方面に向かう路上に、中古のパソコンやらソフトやらを並べて売っているところがある。ここで広辞苑V5、漢和辞典、英和、和英辞典、現代用語辞典がパックになったCD-ROMが2500円で売られていたので買ってみた。モノはFM-Vの付録品らしいが、いいのかなー、ライセンスは......。
 帰路、スターベースを冷やかす。店頭にあったアストロノーマー22*60をのぞいてみたが、非常に精密な見え方が印象的だった。ああ、なんだか双眼鏡地獄にはまりそう。
 それから昭和通側のドトールで一服し、帰宅した。

2001年01月20日(土曜日)

GW2KケースのATX化

23時35分 コンピュータ

 去年の終わり頃、Windowsな機械の増強が終わった。次はOS/2な1号機とLinuxな3号機だ。1号機でやることは簡単だ。メインボードとプロセッサを換えるだけ。しかも現用のメモリがPC100(CL2)なので、それを流用することを考えればAthlonベースになるのは確実だ。問題は、現用の音源のSB64がISAボードであることくらいだろう。しかしKT133ベースのMBでもISA付きのものはあったし、無くてもSB64をお蔵入りさせて、他の適当な音源を探してくればよいだけだ。
 大きな問題がありそうなのは、3号機の方だったりする。3号機の方は、現状ではMMX Pentiumプロセッサ200MHzのデュアルを運用しており、SIMMベースで256MBにしてある。これを前に2号機で使用していたPentium2プロセッサ400MHデュアルの構成にしたいのである。まずメモリは捨てなければならない。こういう構成は珍しいから、売ってもいいかもしれない。物好きが買うかも。メモリを512MBくらい買うことは、今はもう問題ではなくなっている。問題はメインボードだ。3号機のケースはGatewayの旧型ケースで、ATファクタの設計になっている。今、ATファクタで、スロット1デュアルなどという構成のMBは無さそうだ。というより、ATファクタのMBを探す方が難しい。ということで、早くも暗礁に乗り上げそうなのである。
 しかし世の中にはチャレンジングな人々も多いのである。この旧型GW2Kケースに愛着があり、ATXベースに改造してしまう人がたくさんいるらしいのだ。そうした情報をウェブで探して回った。
 まず、ATファクタとATXファクタではメインボードのネジ位置などはかなり共通だ。問題はATXの場合はバックパネルへの各種I/Oの開口が、ATとは大きく異なるということだ。ATではこれらはケース側に固定し、ケーブルで接続していた。しかしATXでは全てMBに直接ビルトインされるのだ。その結果、まずケース背面を改造しなければならなくなる。また電源そのものが異なるのでこれも交換せざるを得ない。しかしこのATX電源は、高熱を発するプロセッサに直接風を送る設計になっており、実はATXファクタではMBの位置と電源の推奨位置が決まっている。しかしこのケースではもちろんそういう配慮はされてないから、プロセッサの冷却では問題が起きそうに思える。しかしこれは、後方排気式の電源にするとか、あるいはケース前面の吸気ファンを排気式に換えるなどの手がある。念のために、筐体内ファンを追加することも考慮しなければならないかもしれない。最後に、ケースに造り付けのスイッチ類、例えば電源スイッチのコンパチビリティの問題がある。電源スイッチの方式は変わり、従来だと電源を直接操作するものだったのに対し、ATXではMBからの信号で操作するものになっている。ほとんどコンパチではないと思った方が良さそうだ。これを解決するには、もちろんスイッチを換えなければならない。しかし、幸いにしてリセットスイッチを流用するという手があるそうだ。
 この先も使い続けて行くことを考えれば、ここで改造してしまうのはいい考えのように思える。

雪です

23時32分 暮らし 天気:雪だっ!

 体力がげっそり落ちてしまった。今朝も今朝とて5:00という変な時間に起き出してしまい、午前中一杯はぼんやりしていた。と思いきや、突然荷物が届いたりする。先週注文していたローテーブルだ。組み立てる体力は無さそうだ。しばし放置する。
 また真っ昼間に寝入り、夜起き出すと、なにやら異常に寒い。寒気が布団の間から入り込んでくるようだ。外を見てみると、なんといつの間にやら一面の銀世界に変わっているではないか。そういえば、なんだか外でシャリシャリ音がすると思っていたのだ。22:00頃、食事のために外に出ると、雪を踏みながらしばし歩いた。こんなに雪を見るのは何年ぶりだろうか。

心臓にクるぜ、Windows Me

22時55分 コンピュータ

 さて、不快な話題も書いておこう。
 夜、DOOM系のゲームをいろいろ試しているときだった。この場合のDOOM系というのは、まさしく".wad"ファイルをプレイできるもののことで、idが作ったものの他はいろんなグループや愛好家が作っている。出来が良かったものにGLDoomがあったが、ソースを紛失したとかいうことで開発中止になってしまった。とにかく、非営利団体によっていくつものコンパチプログラムが開発されているのが、DOOMの一筋縄ではいかないところだ。そろそろQuakeもそうなるのではないかしら。確か同じように、idからソースが開示されたはずだ。
 なぜいくつも試さなければならなかったかというと、FinalDOOMでマウスが使えないことに気づいたからだ。セットアップでマウス使用可能にしても駄目なのだ。旧2、4号機でも同じ問題があったのだが、原因が未だに判明してない。一方、DOOM1/2では音源が使えない。やむなく、代替プログラムを探していたというわけだ。
 BOOMなどいくつか試したものの中では、どうもGLDoomがもっとも筋がよい。BOOMではマウスボタンのアサインがうまくいかず、DoomGLでは起動できなかった。しかしGLDoomでも問題がないわけではない。実はしばしばハングアップするのだ。それもOSごと固まるという怖い固まり方なのだ。それでも、他よりましなので、だましだまし使い続けていた。しかしある時、マップを出すためにタブを押し、同時に押し間違えでシフトキーかなにかを押してしまったところ、それがいけなかったのか、それっきりゲームが固まってしまったのだ。とりあえずリセットキーコンビは効くようなのでキーリセットをかけ、リブートさせた。そして再表示されたデスクトップを見て肝を冷やしたね。最低限のアイコンしかないでやんの。そりゃあ僕はデスクトップにアイコンを並べない主義ではあるが、これはあんまりだ。
 それだけならばまだしも、である。まずエクスプローラを表示させると、「アクティヴXコントロールを使用できない」とかでまともに表示されない。またスタートメニューが表示されない。どっちも現状のWindows系OSでは致命的な障害だ。これはたぶん、IEのデスクトップ統合とやらが徒になっているのだろう。まったく、よけいなことをしやがって(怒)。
 やむなくセーフモードで起動したが、それで直るものではない。おそらく、何らかの理由でレジストリが壊れてしまったのだろう。これがレジストリの怖いところだ。様々な別種の情報を少数のファイルにまとめてしまっているので、そのファイルがダメージを受けると広範囲に被害が及ぶのだ。これが従来の.iniファイルによる個別管理や、さらにはUNIXにおける各自適当な管理だと、ダメージが大きくなることはない。が、こっちはこっちで果たしてどうすれば復旧できるのかはmanの類をじっくり読まなければならない。夢路いたし君かゆしである。
 そういえば以前に復旧ディスクを作ってあったな、と思いだし、起動してみた。起動すると、なにやらヘルプファイルを表示するので読み進むと、レジストリ修復用のregscanなるコマンドがあることが分かった。最後の賭でそいつを起動してみると、なんと直ってしまった。なんと便利な奴。しかしこれが最後の方法であるのは明らかで、レジストリ管理方式が危険であることに変わりないように思う。ちょうどFATが正副二重管理になっているのと同じだ。副がだめならおしまいなのである。
 MS式の危険さと便利さを味わった経験だった。

2001年01月19日(金曜日)

風邪がキてます

22時28分 暮らし 天気:曇ってます

 風邪がいっこうに治らない。昨日の夕方から昏々と眠り続け、のどの渇きと空腹をいやす以外には寝てばかりいた。朝になってまた起き出してみたが、まだ熱があって、脱水症状を起こしており、異常な気怠さがある。咳は出ないが鼻水が出る出る。会社に今日も休む旨電話して、あまりにも気持ち悪いので風呂を沸かして入った。
 起きて、お茶を飲みながらPCで遊ぶ。というか、ほとんど椅子に沈み込んでぼんやりしているだけで、夕方にはまた寝入ってしまった。こういう断続的な寝方は後に響くので、本当はきっちり寝たいのだが。

2001年01月18日(木曜日)

かぜで休むことなりよ

22時25分 インターネット 天気:晴れらしい

 やはりというか、高熱が生じ、脳の内部がとろとろにとろけてしまった。こうなるとひたすら寝るより外はないのである。というわけで会社を休み、昨夜から風呂も入らず粘っこい(笑)体のままふとんにくるまっており申した。やることといえば時々起きてインターネットアクセスすることだけだ。
 暇なので余計なことをしてしまう。まず2号機のディスクを整理した。NTのパーティションをとうとう削除して、余っていた他のパーティション込で切り直した。まだまだずいぶん余っている。次に4号機でDOSゲーをやりたくて、DOSプロンプトで音源を使えるようにしようと格闘したが、駄目。DOS用のドライバもあるのだが、なぜか音が出てくれない。KT133内蔵の音源チップでは無理なのだろうか。あるいは、素直にDOSを入れちゃうか。95の場合は後からDOSを入れることも出来たのだが、Meではどうだろう。
 さらにLinuxな3号機にMozillaを入れようと格闘した。M18では動いていたのに、0.7ではうまく動かない。なぜだ。と思っていたら、suでルートになっていたのが駄目だった。X-Loginしたユーザじゃないとコンソールの権限故か駄目みたい。
 最後はまたしても新しいプロバイダと契約してしまった。wakwak.comである。NTTコミュニケーションがやってる奴だ。ここのフレッツ接続専用のメニューだと、800円/月と非常にお安い。またWebページ容量として50MB貸してくれる。その上、AIRNETのフレッツ接続メニューと異なり、フレッツ専用の場合でも一般APに(別途課金はされるが)接続可能なのだ。さらにAPも非常に多い。AIRNETの利点はWebスペースが無制限である点だが、これはそのうちにIPアドレス固定サービスが始まることを考慮すれば、もうあまり必要のないことに思える。
 この上、入会金無料なのだから、ひとまず入るのも悪くないだろうと思った。
 サインアップして早速使っているが、そんなに遅くはないようだ。フレッツ光ファイバーが始まるまでは、これで頑張れるかな。というか立場はADSL適用外なので、頑張るしかないのだけど。

2001年01月17日(水曜日)

やられましたか

20時24分 暮らし 天気:晴れみたいですよ

 ううむ、どうも調子が悪い。朝方から時々動悸が激しくなり、また全身に非常なだるさがある。なんだか不安だ。ここ数日のあまりの寒さに脳みそがシャーベット状になってしまったのか。それはそれでなんとなく爽快そうな雰囲気があるが。
 しかしいちだんと悪化したのは、帰宅してすぐ飯を喰らい、ふとんに横になってからだった。頭痛が激しくなり、体が動かない! 休んで悪化したとは、なんとも難儀なものだ。
 雰囲気的には風邪のようだ。咳は出ないのでインフルエンザではないようだが。ううむしかし、つらいのである。

2001年01月16日(火曜日)

Linuxのアップデート

20時22分 コンピュータ 天気:晴れ

 朝、会社への出掛けにLaser5のWebサイトをのぞいてみると、いつの間にやらLaser5 Linuxのアップデートファイルが多量にアップロードされているではないか。インストール以来ろくにアップデートしてなかったので、帰宅してすぐにアップデートを始めた。ざっと30ファイル、40MB以上はあるのではないだろうか。しかし、アップデートはrpmを使えばそれぞれ一発で済むので、ある意味では非常に楽だった。MS系のOSを使っていると、ちまちま細かなパッチを当てる度に再起動しなければならないことが多いが、PC-UNIXではその必要はあまり無いようだ。MSの場合はFixPackを出してくれることもあるが、あれも場合によっては一発当てただけではうまくいかない場合もあるからな。クローズドなOSの使い難いところだ。
 んでアップデートを当てられるだけ当ててなにが変わったかというと、見た目は何の変わりも無い。でもアップデートの大半はセキュリティホールを塞ぐものなので、常時接続環境では安心感が増した、ような気がする。実際のところ、最低限のことをやったに過ぎないのだろう。~
 これでkernel2.4が安定するまで大丈夫、かな?

2001年01月15日(月曜日)

Strange Days

23時20分 インターネット

 最近、インターネット検索のGoogleを良く使う。検索ページを進めて行くと結果が違ってきたりして、いまいち怪しい部分もあるのだが、キャッシュを読めるのが便利で使っている。このGoogleで、なんの気なしにこの日記ページの題名になっている"Strange Days"を検索してみたのだ。
 すると、出るわ出るわ、日記ページがぼろぼろと出てくる。うう、こんなに同名の日記ページが多いなんて。しかも僕が標榜しているような"単なる日常"の類の副題を添えているものも多い。要するに俺頭は世間並みって奴なのだな。一人の日本人として安心したよ。わはは(爆)。
 ちなみに、僕が元ネタにした佐野元春の同名曲、DOORSの同名アルバムもヒットしている。だがしかし、僕のページはヒットしないのだ。なんで~?

円安でPCパーツ価格上昇だって

20時19分 コンピュータ 天気:晴れ

 円安が進んでいるが、そのせいでメモリやプロセッサの価格が上昇しているようだ。一時は1万円割れ目前といわれたPC133 256MBメモリも、先週末からかえって上昇し始めているという。去年、メモリがほんの一時反騰した瞬間に買ってしまった身としては、どんどんあがれ~といってやりたい気分だ。
 しかしまあ、かつて16MBメモリ2枚を49800円で買い、「をを安いなあ」と喜んだこともある身としてみれば、いくら上がろうが安いものは安いのだけど。
 去年の増強では1号機にまで手が回らず、P2/300MHzのままなので、Athlon1GHzくらいにしてやりたいのだが。問題はいろいろ余計な機能が着いたメインボードの方だったりするのだ。でもまあ、そろそろ検討してみるか。

2001年01月14日(日曜日)

今夜の星見

23時55分 星見

 実家から戻って以来、あまりに寒い日が続くので、星見の方がお休みになっていた。さすがに氷点下の寒空で、風に吹かれながらの観望は命に関わる。とは思ったが、今夜は非常に星空がクリアだったので、久しぶりにベランダに100EDを出した。
 TG-L経緯台に100EDを載せる間にも、あまりの寒さに手がかじかんでくる。僕は北海道では越冬できない人間だな。
 まずは小三ツ星から三ツ星にかけて、LVW42、SW24.5を取り替えながら見た。低倍率だと非常にきれいに見える。が、UW6.7でM42を見ると、像が揺らいで星像が収束しない。風が強いのだ。
 ふと思い出して、シリウスを標的にして、ファインダーの照準を合わせなおした。この間の帰省でばらしたので、てんで合ってなかったのだ。そしてシリウスの南の方を探すと、今夜もM41がきれいに見えた。ある意味、M42よりも冬の象徴のように感じられる。小さな、控えめな星団だ。UW6.7に換えると、視界一杯に星が散らばって見える。
 この辺で、脳天が寒くなってきたので、撤収した。

NHKスペシャル

23時16分 テレビ

 今夜のNHKスペシャルは「犯罪交渉人 命を巡る攻防」。ネゴシエータという職種は、アメリカで'71年に発生した刑務所での大規模暴動で、多数の死傷者が出た苦い経験から生まれたものなのだそうだ。ちょっと驚いたのだが、日本では犯罪者の説得に警察がその家族を連れてきたりするのだが、それは禁止事項となっていたりする。日本とアメリカとでは、ネゴシエータが生まれた背景も、その役割も違うようだ。
 番組では、ある事件を題材に、ネゴシエータと犯罪者の交渉の経緯を追った。ネゴシエータは、まず犯人側との関係を構築することに力を注ぐ。例えば食料の供給と引き換えに人質解放があったなら、それは資源を交換し合う関係になる。そのようにして、犯人に自分が味方だと思わせるのが第一歩なのだそうだ。その為には、警察側の上位の指揮者でない方が良い。なにか犯人側の要求を飲めない場合でも、上司が許可しないからといった風に上司の責任にすれば、犯人がネゴシエータに怒りを向けることを避けられる。このようにして、次第に犯人に取り入ってゆくわけだ。
 この事件は、宝石店に押し入った強盗団が、警察側のすばやい手配に逃げられず、立てこもったというのが端緒だった。犯人側のリーダーは正確な氏名も判明せず、警察側では専門家の意見を聞きながら犯人像を推定するしかなかった。犯人は交渉の途上で怒りを見せたりしたが、警察側は犯人が高い教育を受け、こうした一見感情的な行動も演技かもしれないと考えた。こうして難しい交渉が続いた。突破口になったのは、食料の差し入れと交換に人質解放を求める交渉の中での、犯人の発言だった。交渉は何度ももつれかかったが、犯人がベトナム帰りであることなどのプロファイルの一端、そして比較的法律に知識があり、前科があるために刑務所で残りの一生を過ごさなければならないことを恐れている、などのことが分かったのだ。ネゴシエータを担当した女性は、ここで賭けに出た。犯人にこの事件でも最大7年の刑にしかならないと信じ込ませようとしたのだ。さらに犯人側の要求に応え弁護士を召喚したが、その弁護士にも口裏を合わせるように要請したのだ。
 2時間に渡って弁護士と話した犯人は、最終的に投降することに決めた。だが一番痛かったのは、犯人が最後にネゴシエータに向かっていった言葉だ。彼は「あんたの言うことが本当だったら、俺はまた人を信じられるようになるかもしれないのに」といったのだ。彼はネゴシエータが最終的に嘘をついている可能性が高いことを知りつつ、それでもわずかな善意の可能性を求めてその要請に応じたのだ。ベトナム帰り、前科者と、世間が冷たく当たる条件が揃っているこの犯人も、心のどこかで自分を受け容れてくれる世界を求めていたのだろう。重犯罪者に対して単純に重罪を課せという意見は多いのだが、本当の意味で犯罪防止に役立つかどうかは一筋縄ではいかないということを思い出させた。
 ネゴシエータは当の人質には感謝されない職種だという。番組中、元祖ネゴシエータとでも言うべき男性がいっていたが、多数の事件を穏当に解決したにも関わらず、感謝の言葉をかけてくれたのは一人だけだったという。あまり報われることの無いネゴシエータたちは、しかし今日もアメリカのどこかで活躍しているだろう。

いろいろ荷物が届く

11時15分 暮らし 天気:晴れだけど寒い!

 朝方、宅急便の人にたたき起こされた。持ってきたのは実家からの荷物だった。この間帰省した時、母がなぜかハーフコートを買ってくれて、それからいろいろパジャマだのなんだのと買って送ってくれたのだ。なにか、帰省した時の格好が、よほどみすぼらしく見えたらしい。いや、そんな金に困っているわけでもないのだけれど。まあありがたく頂いといた。っていうかほんとに自分では服を買わない人間なので、こういうおせっかいは結構ありがたかったりするのだ。なにせ末っ子だし、一番早く手許を離れたので、なにかと気になっているようだ。母ももう70。いつまで元気で居てくれるだろうか。

2001年01月13日(土曜日)

オフでした

23時03分 暮らし 天気:晴れ(寒い)

 この業界(どの業界だ)では"オフ"といえばオフライン・ミーティングというモノを指示する。考えてみればおかしな言葉だ。世の中みんなオンラインでつながっているのかといいたくなる。日本人にとってはメールといえば電子メールのことを指示するが、英語圏の人々にとっては当然物理メールのことを指す。それと同じように、恐らくは日本特有のジャーゴンなんだろうな。いやそんなことが分かっても何の得にもならないが。
 ともあれ(意味ねえ前ふりだ)、そのオフに今日も出撃した。今年の初オフで、久遠氏の呼びかけで新年会をやろうという目論見だった。輝かしい新世紀最初のオフだ。さぞかし参加者が多いだろう、と思いきや、何の事はない久遠氏、はるだぁ氏、そしてこの竹本というむやみに濃厚そうな面々のみが集まった。他の皆さんは、たまたま他の新年会に当たったとか、単に反応がなかったとかいったものが多い。これは久遠氏の人望の無さを表しているに違いない、と密かに思う俺様だった(っていうか自分の人望はどうよ?) 今、ふと思ったのだが、久遠氏は大阪だとか、札幌だとかいった遠隔地の人間にむやみに人望があるような気がする。一種の観光地人間なのかもしれない。富士山のように、遠くから拝むのが一番良いのかもしれないな。ってそれって人としてどうよ?(爆)
 まあともあれ、話して楽しい久遠氏と、一見寡黙だが一言一言が深いはるだぁ氏、かつて一世を風靡したうなずきトリオの流れを汲む俺様の約3名が、横浜の街に集結する事になった。
 集合時刻は17:00。その直前に集合場所のファーストキッチン(ビックカメラの正面)に着くと、すでにはるだぁ氏が待っていた。はるだぁ氏と暴走族がうるさくてねえ、などと話しているうちに、集合時刻を10分ほど遅刻して久遠氏が登場した。まさかファーストキッチンで新年会というわけにいかず、適当な店を求めて歩き出した。
 誰もが横浜に縁があるので、適当な店を誰かが知っているだろうと思っていた。ところが久遠氏はこの界隈に最近縁が無かったようで、またはるだぁ氏の記憶はかなり前のもの、そして最近通っているはずの僕は夜の街を知らないと、それぞれ肝心なところでいまいち頼りにならない。それでも、まあ大体繁華街の位置は分かるので、はるだぁ氏の記憶を頼りに店を探し、適当な焼肉屋が出しているしゃぶしゃぶ食い放題の看板を発見、そこに決めた。
 まだ18:00にもなってないので、店内には我々だけだった。よほど寂れている店かと思ったのだが、店は清潔で、また次第に客が増えていった。早すぎただけのようだ。
 ここでしゃぶしゃぶを食らいながらいろいろ話したが、例によってほとんどおぼえていない。メモしながら話せばよかったかもしれないが、まあそこまでして残すようなものでもないだろう。
 しゃぶしゃぶは90分だったので、19:00前には店を追い出されてしまった。結構お安く済んだ印象がある。
 さて、難民と化したおやじ三人は、おやじ狩りに遭う危険におびえながらも新天地を求めてさまよう。まだ時間が早かったので、とりあえず川沿いの映画館の1Fにある珈琲ショップに入った。ここで珈琲1杯で2時間近く粘るという暴挙に出た。迷惑な客だ。ここで久遠氏の新兵器、CASIO LV-10をしげしげと眺めた。1万円以下という超低価格デジカメで、VGAサイズの画像を内蔵メモリに貯蔵し、USBで転送するタイプだ。フラッシュを内蔵し、それなりにお得そうな印象がある。しかしアフタービューできないのは痛いな。またシャッターが下りたかどうかが電子音でしか知らされないというのも痛い。なるほど確かに便利そうだが、3万出して旧機種を買った方がいいように思った。
 この店でもまた喋くること2時間弱。さすがに閉店の時間となって追い出された。
 再度放浪する我々が見出した最後の地は、駅前の大通りに面した純喫茶店だった。まさか、横浜駅前にこんな店が生き延びているとは思っても居なかった。きっと、店主の趣味かなんかだぜ。なにせ、同種の店であるルノアールのように値段が異常に高いわけでもなく、ケーキセットで600円というところだ。
 ここでもいよいよ話が弾む。バンダイが出すというザクの話題や、70年代の狂気のような漫画、アニメを体験した我々にエヴァはなんというものでもない、などといった話題が飛び交った。いやあ、ザクは欲しすぎるぜ。
 さすがにここでお開きとなり、22:00の横浜で三々五々帰宅していった。今回もお安く楽しめた。

2001年01月12日(金曜日)

なんだか今週は長かった

20時02分 暮らし 天気:晴れてますよね?

 なんだか今週は長く感じられた。長い休暇明けともなると、体が休暇体質に変わっているわけで、それが出勤体質に変化するまで最大96時間(当人比)かかるのだ。今週は月曜日が謎の移動により成人の日になったので、実質四日間の出勤で済んだのだ。ところが、その間は出勤体質への移行期だったので、夜は目が冴え、昼は眠いという地獄のような生活になったのだ。いやもう、いきなり休みたいと思ったね。
 そんなこんなで今週を過ごし、ようやく出勤体質に変わったかなと思ったらもう休みだ。来週まで後を引かねば良いが。

2001年01月11日(木曜日)

PHSでiMODE?

22時00分 デジタルギミック 天気:はれ

 なんだか単体でiMODEアクセス(相当)できるPHS通話機がDOCOMOから出るそうな。なんでも、現状のPHS通話方式そのままに、C-HTMLブラウザを載せたものだとか。便利そうではあるけれど、パケット課金式の運用を考えているiMODEに対して、時間課金式のPHS一般通話のままではちょいとつらいかもしれない。PHSにもパケット通話があったはずだが、結構高価だった記憶がある。まあC-HTMLでもいいから単体でブラウズしたいという要望は多いのかも。
 僕の場合はロカティオの類で充分ではあるのだけれど、611S後継機が単体でブラウズできるようなら嬉しいな。というか、そういうのを出さないのか > DOCOMO&SHARP

2001年01月10日(水曜日)

Appleの新PowerBookG4

23時00分 コンピュータ

 Appleから新しいPowerBookG4が発表されたという。厚さは1インチ、チタニウム製の高級そうなボディーをまとった、重さ2.4kgほどの機械だ。高級そうなイメージはある。しかしまあ、このセグメントって、数年前にノートPCで流行った薄型ノートそのものではないか。実際、液晶のサイズをのぞいて、最新ノートPCに対するアドバンテージは少ないようだ。あまり興味はないのだけど、どうもAppleのノート型に関する政策は奇妙に感じられる。PowerBook主流はともかくとして、iBookってのは結局どうなったのだろう。同じ世代のノートPCに較べて、画面サイズも重さも先祖帰りしてしまったような、あの変なノートは。なんだかちぐはぐに感じるのだ。
 今回のMacWorldExpoで、G4Cubeの増強か大幅値下げを期待していたのだけど、予め発表済みのもの以上はないようだ。売れてないようなのだけど、Cubeのコンセプト自体は間違ってないと思うのだが。やはり、Macに生きる人々は、拡張性を気にするのだろうか。

キヤノンの新デジカメ

20時58分 デジタルギミック 天気:くもり

 愛用のE950も買って1年半経った。手に馴染んで使いやすいカメラではあるのだけれど、最新機種に較べればいろいろ物足りないところが感じられるようになった。特に、オリンパスE-10なんかに較べると、望遠が物足りないこと、描写力の限界が目立ってきたことは否めない。E-10は1枚写して見ただけだが、空気まで写りこみそうな描写力は凄いと思った。やはり、画素密度が倍増することは、描写力の向上につながるとはいえるようだ。
 E-10には動作がいまいち鈍いなど、それ以外の部分で食指が動かない。しかしここに、かなり近いスペックで、しかも手ぶれ防止機構がついた機種が、キヤノンから発表された。10倍ズーム搭載(F2.8-3.5相当)となると、手持ちではまともな撮影は不可能だが、銀塩カメラや双眼鏡で培った手ぶれ防止技術が、それを可能にしている。スタイルもなんだかかっこよさそう。問題は画素数が250万画素超クラスと今の水準からは物足りないこと、そして起動時の動作が鈍いというレポートだ。前者はレンズ構成から見てかなり暗い光学系になりそうなので、あるいは仕方ないのかもしれない。しかし後者は気になる。やはり瞬間的なシャッターチャンスと遭遇することはありうるからだ。またズーミングのスピードが遅いのも気に掛かる。連射速度も低いが、これは僕の使い方では多用しないので気にならない。それ以外のプレビュー速度などは、非常に快適なのだそうだ。
 レポートは英語版の、しかもβ機でのものなので、レンズ系はともかく、処理速度は変わる可能性もある。しかし現状でもかなり魅力的に感じる。ううむ、E990後継まで待つつもりだったのだが、これ買っちゃうかな。あるいはE990後継(あるいはもう一クラス下の機種)+レンズ交換式1眼デジカメを買うか。これから春にかけて新機種の発表が相次ぐはずなので、また魅力的な機種も登場するのだろう。

2001年01月09日(火曜日)

仕事始め

22時57分 暮らし 天気:くもりかな、雨になりました

 今日から会社に出勤するのである。気分は朝から萎え萎えである。しかし行かざるを得ない。
 会社では世話しているマシン群の再起動を行ったが、HPのUNIXワークステーションが起動しない。調べてみると、モニタが逝ってて、その影響で起動シーケンスの途中で停止していたらしい。応急で別のモニタに繋ぐと、なんということもなく立ち上がった。この機械、起動中にモニタの情報を見て、それからコンソールを起動しているようだ。面白い機械だ。こういうときに困るのだが。
 夜はさっさと帰宅した。今夜半から明日未明にかけて、今世紀初の皆既月食が見られるはずだが、あいにくの雨天でそれは果たせそうにない。おとなしく寝た。

2001年01月08日(月曜日)

成人の日なのだ

21時53分 思考

 今年の1/15は月曜日なのだが、休みではない。休みは1/8に移動しているのだ。1/15が土日に掛かっているのなら話はわかるが、なぜ1週間前の同じ曜日に移動するのだ? なにか超自然的な力を感じる(爆)。
 今日は手ぶらで戸塚に出かけ、原稿用紙と本を買って、図書館で調べ物をした。原稿用紙は、比較的最近たくさん買い込んだようなおぼろげな記憶があるのだが、昨夜書き物をしようとしたら底を突いているのに気づいたのだ。そんなに書いたっけ? まあ無いものはしょうがないので買いに行ったわけだ。
 図書館ではAI関連の本を読みたかったのに、なぜか葬式仏教批判の本を読んでしまった。著者は日本の仏教界が堕落しきり、死者や地縁のしがらみ、果ては(織田無道のように)霊魂実在説をネタに金を搾り取る魍魎の跋扈する状況を批判する人だ。特に死者をネタに遺族から金を搾り取る事を強く批判している。著者は無宗教式でも、さらには手作りでも葬儀を執り行えることを説明し、まず葬儀を主催する側が従来の仏教支配から脱却することを奨めている。また時代がまさに葬儀の脱宗教化、脱既成化に進んでおり、このままでは遠からず仏教は滅びると言明する。
 僕も、織田無道なんて輩(こだわるようだが、あの人は何故自分を仏教の僧侶だと思えるのだろうか)が跳梁跋扈する日本の仏教界は、一度滅びた方が良い。というより、今を生きる僕たちにとって不要なら、二度と存在しなくなっても良い。恐らく、仏陀自身もそういうだろう。仏教の教義の根源は、様々な執着を絶つ事だと聞いた。ならば、従来の宗教観が変わり、その重みが失せた今でも、既得権にしがみついている仏教界の醜さはなんなのだろう。状況が変わったとき、それを客観視して新しい規範を作り出せるのが仏教でいう智慧ではなかったのだろうか。自己革新できない宗教に人を救う力はない。
 んで、この本の面白かった点は、オウム真理教の麻原との鼎談が載っている点だ。出版は'92年なので、オウムはまだ大事件は起こしていない。しかし筆者は、麻原の強引な仏教解釈に明らかに戸惑って、違和感を表明している。しかしこの時点でオウムの危険性に気づいている気配もない。オウムはどこで間違ってしまったのだろうか。それとも、全ての宗教は同じ危険性を孕みながら、客観的世界との整合性に目を向けることで破綻を免れているのだろうか。
 もう一つ、著者が創価学会を買っている点も面白いと思った。創価学会、特に池田大作氏周辺に大きな問題があることは認めつつ、しかし創価学会が打ち出したいくつかの方針を、高く評価しているのだ。例えば、日蓮正宗との決別は必然だったろうとする。日蓮正宗にも、程度の違いはあっても葬式仏教問題はあり、その歪みに関しては、信者団体である学会側と折り合えなかったのだとする。そして決裂の結果生まれた友人葬という信者手作りの葬儀の可能性を指摘するのである。しかし、その友人葬が近年では廃れてきた点、また正宗側から離反した僧侶に対する態度を決めかねている点など、問題指摘も手厳しい。まあ創価学会という問題の多い組織にも、様々な学ぶ点はあるということだろう。
 しかしまあ、図書館くんだりまで来て、僕はなにを読んでなにを怒っているのだろう。
 帰路、地下鉄で晴れ着の女の子集団と遭遇した。成人式帰りでしょう。あれは貸衣装なのだろうか。

初雪

17時51分 暮らし 天気:雪

 昨夜から雪が降り始めた。なんかシャラシャラ音がするなあと思って、夜中に外に出てみると、周囲の家の屋根が白いでやんの。一昨日の夜は気温が氷点下に下がって寒かったが、雪が降り出すと凝結熱のおかげでかえって暖かくなる。でもしばらくはコートを手放せそうに無いし、夜の星見も厳しくなるかもしれない。

2001年01月07日(日曜日)

七草粥

23時56分 暮らし

 昼頃、ふとPHSに目をやると、なぜか実家の電話番号が表示されていた。実家から掛かってきたのかと思い、電話してみると、母はそんな憶えが無いという。恐らく、再ダイヤルボタンが入ってしまい、番号だけが表示されていたのだろう。
 その時に、母が「七草粥でも食べんさい」といった。確かに、昨日パックが売られていたっけ。そんなわけで、鍋は休んで七草粥を作った。パックの七草を買って、まずは緑が鮮やかになるように茹で、水に曝し、粥に放り込んだ。味付けは微量の塩のみ。
 ビールを飲みながら平らげたが、昨日の暴食の後だけに気分がいい。しかし、やはり一人で食うには少し多かったようだ。半分の量を、適当なおかずと食うと良いのかもしれない。
 ともあれ、気分的にも正月は終わった。

NHKスペシャル「三蔵法師祈りの旅」

23時55分 テレビ

 今夜のNHKスペシャルは、昨夜放映された「三蔵法師祈りの旅」の後半だった。
 画家平山郁夫氏は、20年がかりで大作壁画を完成させ、奈良薬師寺に寄贈した。7部の絵で構成された壁画は、玄奘三蔵によるインド往還をテーマにした連作壁画だった。
 平山は、玄奘三蔵を幾度か描いている。平山は、少年の頃に広島で被爆している。自身は原爆炸裂の瞬間に物陰にあった偶然から生き残ることが出来た。が、その直後の凄惨な被爆地を目にし、その情景が頭から離れなくなった。何故、戦争との関連の薄かった一般市民が、このような惨い目に遭わねばならないのか。そして何故、これほどの惨禍にあってまで、人は生きなければならないのか。平山は悩みつづけた。
 やがて平山の脳裏に浮かび上がったのは、苦難に満ちた旅を続ける一人の若い僧侶の姿だったという。玄奘三蔵。唐代に単身東方に旅し、仏教の中心地だったインドから膨大な経典を手に入れた僧侶だった。
 唐初、隋の滅亡に続く戦乱が人々を痛めつけた。玄奘は苦難に喘ぐ人々の生きる拠り所を求める声に答えるべく、無謀とも言えるインド往還を志したのだ。当時、中国における仏教は内部抗争に明け暮れ、その地盤が揺らいでいた。その確かな拠り所を得るには、仏教の中心地と考えられていたインドで、本場の仏典を学ばねばならないと考えたのだ。
 当時、唐からの出国は禁じられており、玄奘の行動は国禁に背くものだった。しかしあえてその禁を犯した。
 玄奘は長安を発ち、やがてタクラマカン砂漠に入り、唐の西境を出た。そして多くの異民族の間を抜けながら、崑崙山脈へとひた歩いた。唐とインドの間には、ヒマラヤの大山塊があり、容易には超えられない。そこでまずは西アジアを経由する必要があった。当時、西域には様々な宗教が混交していた。イスラム教はまだ登場してなかっただろうが、ゾロアスター教などの古教が健在だったはずだ。玄奘はそれらに触れながら、多様な認識を獲得し、人間的に強靭になっていったのではないか、と番組では述べていた。
 平山は、あるときは砂漠で路頭に迷い、あるときは異民族に取り囲まれながら、なおもインドへの旅を諦めなかった玄奘の姿を、彼自身の生きる縁にした。平山の初期の作に、歩く玄奘の姿を描いたものがあるのだ。
 玄奘はやがてインドに到着した。しかしそこで彼が目にしたのは、インドでの仏教衰退の現実だった。インドに行けば本当の仏教を目にすることが出来る。その期待は裏切られた。極楽浄土がそこにあると考えるほどには無知ではなかったろうが、玄奘はインドの現実に無知ではあったかもしれない。彼はヒンドゥー教に飲み込まれる寸前の、インド仏教最後の時期にやってきてしまったのだ。存続していた仏教大学でその精髄を学んだものの、気は晴れない。やがて6年をかけて仏典を学び終えた彼は、インドを一周する旅に出る。すぐに唐に戻る気になれなかったのだろう。一体、インドにおいても衰退期に入った仏教を持ち帰る意味があるのか。そう自問したに違いない。
 彼はその旅において、様々な神々に祈りを捧げる人々の姿を目にした。祈ること。これこそが信仰の中心であり、そして祈る縁を与えるものが彼の持ち帰る仏典なのである。あるいは玄奘は、そう考えたのかもしれない。そして結局のところ、玄奘は唐への帰還を果たすのである。
 番組として、平山の体験と玄奘の旅とが交互に語られたので、やや分かり難い部分があった。特に玄奘がインドの旅で見出した希望の正体が、いまいち分かり難いのである。これは仏教そのものが、現代社会において混迷しているという事情と、恐らく不可分ではあるまい。

年初の横浜へ

17時46分 暮らし 天気:かなり寒い曇り

 ちょっと横浜に出かけた。ハンズで少々お買い物をしたのだ。午前中に出かけたのだが、そのせいか案外に人込みは少なく、楽に歩けた。ハンズに入り、1階ずつ見て回った。むやみに物欲が刺激される店だ。しかし今日は必要なものしか買わなかった。
 まず湯飲みとポット。ほんとは湯飲みと急須を買うつもりだったのだが、紅茶も結構淹れることも鑑み、紅茶用のポットを買った。まあ構造的に近いので兼用できるだろう。さらにコーヒー用のポットも購入した。別のフロアではロータイプの机を購入したが、物が無く後日届けてもらうことになった。
 そのまま帰宅し、眠いので爆睡した。どうも昼寝の習慣がついてしまったようだ。

2001年01月06日(土曜日)

ぼんやり一日を過ごす

22時44分 暮らし 天気:晴れっぽい

 帰省して疲れたので、終日ぼんやりと過ごした。別に実家で疲れることがある訳ではないものの、行き帰りの新幹線でやはり疲れてしまうのだ。どうしても往復35000円以上掛かるしで、大変な事業なのだ。
 それならそれで、部屋の片付けでもすればいいのだが、そういう気力が湧かず、Diablo2で遊ぶばかりだった。そういう気力はあるのかっ。
 夕方、鍋でもするかとヨークマートに買い物に出かけたら、春の七草がパックになって売られている。そうか、明日は七草粥をむさぼり食らう日なのだ。でも今日は鍋したかったので、とりあえず買わずに帰った。
 鍋を作り、NHKスペシャルを見た。画家の平山郁夫氏が奈良薬師寺に寄贈した7枚の絵を巡る物語。
 詳細は後半が放映される明日にまとめて書こうと思う。鍋はうまかった。やはり水の澄んだ(気がする)冬場に作る鍋は、夏場の鍋よりうまい(というか、ふつう夏場に作らないと思うね)。が、鍋を全部平らげたら腹がパンパンになって苦しい(x_x)(バカだ)。呻吟しながら布団に横になり、国宝探訪を見ていたが、意識が途切れがちであった。ううむ、スーパーの食材を買い集めると、最低限この量になるのだが。現状は2日に分けているのだが、これを3日に分けたほうが良いのだろうか。

2001年01月05日(金曜日)

横浜に帰る

23時43分 暮らし 天気:くもりですかねえ

 今日、横浜に戻ることにした。10:00頃に実家を出て、昼過ぎには新幹線に乗っていた。呉駅で指定席を取って置いたのだが、案外に自由席は込んでいたようだ。取って置いて良かった。
 新幹線の車内ではシグマリオンに向かってたまっていた日記をぼちぼちとつけた。どうも、休みの日となると日記を書く気がしなくなる。
 列車が大阪に差し掛かった辺りから空模様が怪しくなってきた。そして列車が京都を過ぎ、関ヶ原に掛かった頃から、辺り一面の雪景色に変わった。吹雪いている。あまりの豹変ぶりに唖然とした。吹雪により列車が徐行運転するほどだった。いやはや、日本って気候の変動が激しい国なのだな。
 やがて列車は名古屋を過ぎ、太平洋岸に出た。名古屋辺りまでは雪の白さが目立ったが、豊橋辺りまでくるとそんな気配は微塵もなくなる。やがて静岡を過ぎ、進行方向左手に夕闇に沈み切る寸前の富士山が見えてきた。本当に、背景に融けきる寸前という時刻だった。
 やがて新横浜に到着し、疲れ切った体をアパートまで運び込んだ。来週にはまた同じ日常が始まる。

2001年01月04日(木曜日)

故郷での星見

23時55分 星見 天気:晴れてきた晴れてきた

 せっかく持って帰った100EDだが、実は今日に至るまで一度も出してなかった。呉の空は、どういうわけか夜には曇るのである。気候が冬型に移行した影響もあるのかもしれない。ともあれ、夜になる度に曇り空を見上げてため息をつく日々だった。
 今日もやや雲が多いが、せっかくだからと望遠鏡を家の前に出してみた。実は、帰省した翌日に、裏山になかなかすてきな星見スポットを発見してはいたのだ。しかし市街地の光がもろに目にはいるし、風はもろに食らうしで、冬場は特に辛そうだ。というわけで、家の前に出したわけだ。
 とにかく寒い。帰省して以来、外気は一段と冷たくなってきたように感じる。簡易赤道儀を適当に北に向け、100EDをセットしてオリオン座に向けた。やはり背景が明るいが、それなりによく見えた。SW24.5で小三ツ星を見ると、なかなか美しく浮かび上がってきた。特にトラペジウムは複数の星に分離できる。UW6.7に換えてみたが、トラペジウムは四つに分離でき、しかし四つ目の星がかなり暗いという程度だった。
 出していたのは家の前の駐車場だったのだが、やがて車が入ってきたので初星見はお終い。今年も良い星見ができますように。

2001年01月03日(水曜日)

宮島へ

21時28分 暮らし 天気:曇り時々晴れ

 珍しくも、9:00に起きた。今日、宮島は厳島神社に出かけるつもりだったのだ。もっと早く出ようかと思っていたが、なんだかんだで10:00に出発した。
 宮島口までは電車で直接行ける。というか、JRの連絡船があるので、宮島までの切符を直接買えるのだ。運良く呉線経由岩国行きに乗ったので、宮島口までは本当に直接行けた。そこからフェリーに乗って海を渡る。船に乗るのは久しぶりだ。いやはや、本当にどれくらい昔に乗ったのが最後か、いますぐには思い出せないくらいだ。あれも確か宮島行きで、かれこれ10年以上前のことだったろう。
 まだ正月三が日の内ということで、フェリーは客室もデッキも人であふれ返っていた。僕は海を見たかったのでデッキに立っていた。寒風に吹かれながらE950をうならせる。宮島近辺の景観も、なんだか妙に小ぎれいになってしまった。やがてフェリーは桟橋に着岸し、僕は宮島に上陸した。
 桟橋から厳島神社へと向かう道沿いに、たくさんの商店が軒を連ねている。僕はコンビニを探したのだが、なんだか無さそうだ。弥山に登るつもりだったので、途中でカロリーメイトでももぐもぐしようかと思ったのだ。商店会の取り決めかなにかで出店を拒否しているのかもしれない。そうだよなあ、今時の若いもんは割り切ってコンビニ弁当で済ませてしまいそうで、地元の飲食店が客を奪われるかもしれないから。
 ともかく、ないないと思いつつ歩いているうちに、やがて厳島神社に到着した。かなりの人混みで、特にツアー客が多いようだ。干潮時だったので、大鳥居は砂の上にポツンと全身を現している。本殿に差し掛かると、なにか祭事があったのか巫女さんの群が引き上げてくるところだった。御子さん属性の方々には堪えられない光景に違いない(なにがだ)。
 さて、厳島神社の参拝も済ませたので、弥山征服に乗り出した。まずは紅葉谷公園からロープウェイで中腹を目指すのだ。ロープウェイまでは結構歩く。その道すがら、なにやら不穏な兆候が散見された。茶屋を通るとき、やはり登頂されようというのだろう初老のご夫婦が、茶屋のおばさんと言葉を交わしている。そこで「風で運行中止ですか」という言葉を耳にしたのだ。むむ、まさかそんな......。果たして、ロープウェイの駅に着くと、出迎えたのは無情にも『強風により運行中止』という看板だった。すごすごと引き返さざるを得ない俺様だった。
 さて困った。午前中に上陸したのは、弥山登頂を見込んでのスケジュールからだったのだが、これでは大幅に時間が余ってしまうではないか。そこで予定変更。今日は寄るつもりが無かった水族館に立ち寄ることにした。
 水族館も家族連れですごい混雑だった。客観的には小さな建物なのだが、構造の妙か結構広く感じられる。規模的には名古屋市水族館の半分くらいだろうか。楽しみにしていたラッコは、なんと鳥羽水族館に嫁入りしてしまったという。許すまじ、鳥羽水族館(爆)。その代わり、カワウソが仲間入りしていた。一瞬たりとも静止しない、世にも忙しない生き物だった。
 ざっと見て回ったが、深海魚がいないのが残念だ。そのかわりというか、回遊魚の類は豊富で、特に円形水槽ではハマチやブリなどおいしそうなところが跳ねていた。別の大型水槽では、スナメリクジラが遊んでいる。なかなか愛嬌のある奴だ。
 屋外に出て、ペンギンの群やトドを見た。トドはでかいでかい。しかし番の雄の方は水に潜ったきり、呼吸するときだけ顔を上げる程度で、全く動かないでやんの。
 そのうちにアシカのショーが始まったので、童心に帰って見た(爆)。お姉さん、楽しそう。
 まだ15:00前だったが、そろそろ帰宅することにした。帰路、広島駅ビルで遅い昼食としてお好み焼きを喰らった。やはり豚玉うどんに限る。
 今日はそれなりに充実した気分で帰宅した。

2001年01月02日(火曜日)

兄一家来襲

20時24分 暮らし 天気:くもりっぽいかなあ

 兄が実家に子供を連れてきた。女の子二人は破壊力抜群で、相手をしていた長兄が散々な目に遭わされたようだ。
 その時に、兄に以前あげていたKODAK DC210が活用されてないことが判明した。というのは、僕が後で送ると約束していたPC接続キットを、まだ送ってなかったからだ。わはは、僕のせいでした(爆)。
 今度こそ送ると約束して、兄は疲れた身にむち打って帰っていった。所帯持ちは楽じゃなさそうだ。

2001年01月01日(月曜日)

新世紀の第1日目

23時23分 暮らし 天気:晴れだか曇りだか

 特に感想もなく目覚め、雑煮やおせちを食らいながらテレビを眺める。しかしまあ、これほど見所のない番組構成になる季節は他にないだろう。毎年、駅伝がやけに高い視聴率を取っているけれど、あれはきっと他に見るモノがないからだぜ。もしかして、この季節は報道関係の人もお休みを取っているのだろうか。
 しばし朝刊を読みふけり、母が初詣に行くというので着いていった。亀山神社という、呉市街地では一番大きな神社だ。ここは確か京都の某神社の分社だったような。しかし軍港化されて以降、戦地に赴く軍人たちを多く見送った神社である。今日はバスで近くまで行ったのだが、昔なじみの循環線が軒並み統廃合されてしまい、市街地を避けて走るような不条理な路線を突っ走っている。神社にはいつもと違い、裏口からのアプローチとなった。
 境内は相当の人混みで、参道の入り口近くまで人の列が伸びている。不思議なことに、誰一人として割り込もうとしない。異様なくらいお行儀の良い人々だった。頭のどこかに、やはり信仰のようなモノが生き残っているのだろう。
 神に何事か願を掛け、おみくじを引いて、さっさと家に引き返した。が、なんとバスが全くない。無いことはないが、我が家の近くを通る便は無いようだ。結局、歩いて帰る羽目になった。運動にはなったな。
 夜、21:00からのNHKスペシャルは、A.C.クラークが登場してべらべらしゃべりまくる番組だった(いったいどんな番組だ)。うん、昨日にも書いたのだが、21世紀初頭においてインターネットは重要な存在になるだろうが、「21世紀=インターネットの時代」という図式はどうだろう。いくらなんでも単純すぎるのではないだろうか。この番組に限らないが、NHKはどうもそういう基調で番組を作る傾向があるなあ。でもまあ、当面は重要な技術になることだろう。
 この番組は、4月から9回シリーズで放送される新シリーズの予告編のような位置づけだった。そのシリーズは宇宙をテーマにしたものになるという。去年、宇宙デジタル図鑑が終わってしまって寂しい思いをしていたので大いに期待できそうだ。