Strange Days

2002年01月01日(火曜日)

なんら変わることのない元日

23時00分 暮らし

 朝、雑煮とおせちで新年を祝い、昼から初詣で。見るところのないテレビを見て、しかしウィーン・フィルのニューイヤーコンサートは楽しみにする。そういういつもと同じ正月を迎えた。違うのは、夜になって雪が降ってきたという点くらいだろうか。例年にない寒さだ。こりゃあ自転車に乗れないかも。

21世紀の最初の一年が過ぎて

00時00分 思考 天気:晴れのち雪

 はかり知れぬ未来が、時のどこかにその身を横たえる......。21世紀最初の一年は、僕にとって未来の計り知れなさをさらに痛感させるものとなった。
 21世紀の始まりを迎えたとき、僕はこれでいくつかの難問の解が見えるに違いないと思った。一つは日本が陥っている根深い不況。長期的にいつかは脱するとみんな思っているのだが、そのいつかが一向にやって来ない。僕はその原因の大きな部分を、世紀末的情緒に由来する先の見えない不安感が占めているのだと思った。個人消費の伸び悩みは、この先になにが待ち受けているかが分からないという不安感に由来している。そしてその不安感の大きな部分を、漠然とした世紀末意識が占めているに違いない。だから、その源である世紀末を終えてしまえば、気分的に自由かつ開放的になり、個人消費の低迷は自動的に解消されるだろう、と。しかし、事態はむしろ逆に、世紀末を終えて、しかし余計に閉塞感を抱えてしまうという結果になってしまった。
 もう一つは地域紛争の問題だ。これは経済のグローバル化が最終段階に入り、地域格差がさらに個人格差という問題に発展するに至り、逆に沈静化するものだと思っていた。世界中のどの個人にも成功への道があり、一方、成功した"民族"などという存在は成り立たなくなり(なぜならば民族は個人の集団へと結局解消されてしまうから)、民族を軸とした従来の地域紛争、更には宗教紛争も、徐々に沈静化して行くだろうと考えていたのだ。ところが、去年9月のビン・ラーディン一派によるテロで、そんな甘い考えは吹き飛んでしまった。ビン・ラーディンは、国家、民族だけが見えていた従来型の地域紛争に、個人として初めて顔を見せた人物なのだ。いや、昔からカダフィ、フセインといった人物は顔を見せていたじゃないかという指摘はあるだろう。だが、彼らはあくまでも国家、民族の代表だった。彼らは国家、民族の力に動かされていると言ってもいいだろう。ところが、ビン・ラーディンは個人の財産を軸に、宗教勢力を巻き込む形で立ち現れてきた。いわば、自営型のテロリストだ。こういう型のテロリストは、20世紀においては例が無かった。少なくとも、目立たない少数派だった。それが一躍、世界の表舞台に飛び出してきたのだ。世界に恐怖をもたらすものとして。
 どちらも、僕の想像の外にある事態だった。いつかは来るはずの終わりが来ないで、解消されるはずの恐怖に新しい要素が加わったのだ。僕の、常人よりは豊かだと思っていた想像力も、実は本当の未来のバリエーションの前には、全く貧しいものだという事を露呈してしまった。21世紀最初の年でさえもこの激動なら、残る99年には一体どんな未来があるというのだ。ほとんど恐怖するしかないではないか。