Strange Days

2004年02月15日(日曜日)

NHKスペシャル「カルロ・ウルバニ SARSと闘い死んだ医師の全記録」

23時50分 テレビ

 今夜のNHKスペシャルは、「カルロ・ウルバニ SARSと闘い死んだ医師の全記録」~ベトナムで何が起きたのか?~
 去年のSARS流行の記憶は生々しいし、鶏インフルエンザの流行も不気味だ。SARSが流行した去年前半には、空気感染するという情報もあって、なかばパニックのようになっていた。事実、東アジアの経済に大きな傷跡をもたらしているのだ。最終的に死者700名を越えた段階で、流行は収まった。だが、もしも一人の医師の命を賭けた奮闘が無ければ、死者は4桁になっていたかもしれない。
 一昨年の初冬、中国広東省で謎の肺炎が流行り始めた。これがSARS流行の発端となったのだが、中国政府は当初、いや病原が特定されるまで、この肺炎が新しい種類のものであることを否定し続けた。現地のWHO関係者は、新型肺炎の全容解明の手がかりを前にしながら、中国国家の秘密主義という大きな壁に阻まれ、最初期段階での流行制圧に失敗していた。結果、SARSは世界各国へと飛び火してゆく。香港、ベトナム、シンガポール、カナダ。市場としての魅力から多くのビジネスマンが行きかう中国は、SARSの"発信元"としてはうってつけだったのだ。だが、早期にSARSに直面したベトナムでは、感染者63名、死者5名と、比較的軽微な損害で切り抜けた。その影には、一人のイタリア人医師の努力があった。
 カルロ・ウルバニ医師は、国境なき医師団を経てWHOに入り、感染症対策の専門家として、当時ハノイに赴いていた。3月、彼の元に、市内の民間病院(社会主義国家ベトナムでは初めての)から、見慣れない症状を見せる患者に関して助言して欲しいという要請が入ってきた。患者は中国系アメリカ人のビジネスマンで、入国時に体調不良を訴え、入院、直後に重症に発展したという。ウルバニ医師は、その症状の進行の早さに疑念を抱いた。通常、肺炎を引き起こすような病気は、重症に発展するまで比較的長い時間を要する。それに対し、この患者の場合は、わずか5日程度。しかも健康な成人をここまで重症化させるような例は、彼の知る限りなかった。ウルバニ医師は出来る限りの治療を試みながら、彼の脳裏に浮かんだ疑念を突き止めようとした。そのビジネスマンは香港を経由してきたという。その中国で流行していると伝えられる肺炎との関連を懸念したのだ。同じものだとすると、ウィルスによる流行性のものであることになる。ウルバニ医師は、在中国のWHO職員と連絡を取り、情報を得ようとしたが、先に挙げた中国の秘密主義体質が、それを阻んだ。
 ウルバニ医師は、これが新しいウィルスによるものであることを確信していた。そのことをWHOの関係者やベトナムの保健政策責任者に説き続ける。しかし、病原や詳しいメカニズムに関して特定するには、時間も情報も不足していた。結局、この患者は、より高度な医療を求め、香港へと搬送されてしまった。しかし、ベトナムにおけるSARS流行は、まさにこの瞬間に始まったのだ。
 程なく、医療スタッフの中から、不調や不安を訴える声が出始めた。そして彼らに、最初の患者と全く同じ症状が現れ始めた。これで病原がウィルスであり、しかも人に感染することが確定的になった。ウルバニ医師は既に取り始めていた院内感染対策を徹底すると共に、患者の聞き取り調査を行い、彼らが最初の患者のごく近傍に接近していた事実を突き止めた。空気感染の懸念は薄れたが、飛沫感染である可能性は強まった。こうしてウルバニ医師が整理した情報は、後にSARSを制圧してゆく過程で大きな意味を持った。
 未知の病気に見舞われたスタッフは、パニック寸前に陥った。それを食い止めながら、ウルバニ医師は国家への働きかけを続けた。当初、ベトナム保健省は事態を軽く見ていた。単なるインフルエンザの変種だろうと見ていたのだ。しかし、ウルバニ医師は、必死に説得を続ける。ここで食い止めないと、流行は爆発的に広がり、手の打ちようが無くなるのだ、と。彼の粘り強い説得が功を奏し、ベトナム政府は国を挙げての感染拡大防止に乗り出した。病院は閉鎖され、既に感染の疑いが濃い患者から隔離されていた一般患者も転院させ、外部との接触を絶った。またウルバニ医師の助言に基づく二次感染対策も徹底された。その結果、やがてベトナムでは感染が食い止められ、いち早く制圧に成功したのだ。WHO側からすれば、国家主義の壁を熱意で乗り越えての勝利、ということだろう。しかしベトナム側から見れば、感染症との闘いに豊富な経験を持つベトナムの国家レベルでの正しい指針の勝利、というところになるのだろうか。
 WHOの診断基準のための骨格となるデータを提供するなど、計り知れない貢献を果たしたウルバニ医師。しかし彼自身も、感染から逃れることは出来なかった。あまりに患者たちと接触しすぎていたのだ。彼はタイに出張という形で出国したところで発病が明らかになり、隔離先の病院で死去した。
 彼の命がけの貢献が無ければ、SARSの流行という事実は発覚が遅れ、さらに診断基準も整わぬゆえに爆発的流行を食い止めるすべが無かったかもしれない。
 もう一人のイタリア人、マルコ・パンターニの死の報に接した夜、別のイタリア人の死に様を知るというのも、奇妙な偶然に思えなくは無い。
 現在、SARSの病原と特定されたコロナウィルスの変種には、ウルバニ医師の名が冠されている。

パンターニ逝く

22時30分 自転車

 夜、いくつかの自転車系個人サイトを見て回っていたら、『パンターニが死んだ』というショッキングなニュースが飛び交っていた。特に詳しいのは、いつものようにNacoさんのトクダネページ。亡くなった状況からすると、自殺が疑われても仕方ない状況だが、薬物の過剰摂取などの事故の可能性もありうる。少なくとも他殺の可能性は消えたようだ。
 今年に入って、いや去年の段階から既に、パンターニは事実上引退同然の状況にあった。モチベーションを維持できない、という本人周辺からのコメントも漏れ伝えられていた。ここ数年は、チームや当人周辺のトラブルに引きずり回され、思うようにレースに集中できなかったように見えていた。ダブルツールという偉業を成し遂げた反動か、世間の耳目が彼に集まっていたわけだが、豪放そうな外見と裏腹に、実は繊細だといわれる性格の彼には、ノイズの多い環境は耐えられなかったようだ。彼がもう少し運に恵まれれば、アームストロングのツール・ド・フランス連覇だって難しくなっていたはずだ。
 今は捜査の結果を待つしかない状況だが、パンターニをレースに集中させることが出来なかったイタリアの自転車関係者は、きっと後味の悪い思いをしていることだろう。
 さようなら、マルコ。あなたは人生最期の頂上ゴールを決めてしまったのだね。

2月の荒川サイクリング

22時10分 自転車

 今日は、吉例荒川サイクリングの日。1月の時は体調不良で出られず、さらに昨日もインフルエンザの余波で復調しきってなかったので走れず、今日はその鬱憤を晴らすべく少し走りたかったので、参加することにした。
 参加宣言にはTCR-2で出ると書いた。Tarmacの到着予定が3月で、次回の荒川ではTCR-2がフレームだけになっている可能性があり、ならばこれが最後の機会と思って連れて行くことにしたのだ。ところが、ふとサイクルベースあさひを確認すると、入荷予定が5月になっているではないか! これは当面届かんなと思い直し、体調が万全でもないことを勘案して、BD-1での参加に急遽あいなった。
 今日は浮間舟渡まで行くつもりは無く、赤羽から最初の休憩ポイントで直接合流する腹積もりだった。7:30くらいに地下鉄に乗れば、東海道線で東京、京浜東北線で赤羽と乗り継ぎ、9:00には赤羽に出られるはずだ。
 赤羽で降りたのは9:00前。BD-1を展開し、荒川へと向かった。まだ浮間舟渡は出てないだろうと睨み、途中合流の可能性を横目に、浮間舟渡までの遡上コースを取った。
 荒川は、やはり広くて走りやすい。特に上流に近いこの辺りは、下流のグラウンド沿いの区画のような惨状はなく、静かなものだ。のんびり走っていたら、前をロードっぽい自転車に乗った人が走って行くのに突き当たった。無理に追い抜くのも嫌なので、少しずつ距離を詰めながら寄って行くと、おや、この自転車は小径車だ。それどころか、乗っている方に見覚えが……。なんと、先週お会いしたばかりのオオタ氏だった。少し遅めに起きたので輪行するつもりだったのだが、面倒になって自走してきたのだという。
 オオタ氏と肩を並べ、さてどこで合流するかと思いつつ走っていったのだが、結局は浮間舟渡を出発直前に滑り込むことに成功した。しかし、当然のことながら、即座に出発する羽目となった。
 今日はカラッと晴れ上がり、暖かな日になった。南下する道中、あまりに暖かいので汗ばむほどだった。今日は参加して良かったなと思った。
 中洲に渡ってからの道は、いつの間にか整備が進んでおり、意味あるのかよと思っていた真ん中の未舗装区画が、いつの間にか舗装されていた。中川水門を過ぎ、葛西橋を過ぎたところで、なんと集団で道を間違え、行き過ぎてしまった。マモル氏とおしゃべりしながら走っていたせいもあるのだが、先ほどもいったように道の整備が進み、前と状景が変わっていたために、ついつい葛西橋への入り口を見落としてしまったようだ。
 昼食時、おの氏の発案で集合写真が撮られた。集合写真が撮られたということは、かなり人数が多かったのだろう。
 解散後、東京組について日比谷公園まで走り、そこから東京駅に出て、輪行で帰還した。
 今日は天気にも恵まれ、気持ちいいサイクリングが出来た。