Strange Days

2009年06月07日(日曜日)

坂倉準三のモダニズム建築

19時25分 美術館 , 自転車 ( 自転車散歩 ) , デジタルカメラ 天気:晴れ

 今日は、昨日とは打って変わった好天だ。昼ごろまでゴロゴロしてから、午後になる前にMasterXLを境川に向けた。
 久しぶりに長後のCoCo壱番屋でカレーを食し、境川を下り始めた。今日は鎌倉の近代美術館に行ってこよう。
 境川、そして七里ガ浜では、大変な数の自転車乗りと行き交う。ここ数週間、鬱憤を溜めていた人は多かったろう。
 ここも久しぶりの飯田牧場に立ち寄った。自転車が多いな。メロンをヤル。
 境川東岸の東海道線踏切を越える時だった。なんか、前方からキモイ自転車が来るぞ。俺は良く知らないが、Volaeとかいうリカンベント自転車じゃなかろうか。そして乗っている人も詳しくは知らないが、宇津木氏(仮名)では無かろうか。後ろに小柄な女性がくっついているので間違いなかろう。呼び止めて、埜庵からの帰りだと知る。今日は見知った顔が多いだろうな。行きたい方向と逆だったし、食事も冷たいものも済ませてしまっていたので、今日のところは寄らない。そうだ、来週金曜日はまたワークシェア休*1なので、その日に埜庵にキモイ自転車でうかがうことにしよう。そういえば、なぜか埜庵を一人で訪う時は、リカンベント率が高い。
 鎌倉に向かい、人ごみと車とに酔いそうになりながら、近美鎌倉に入った。
 開催中だったのは、建築家坂倉準三展。坂倉はモダニズム建築の巨匠、ル・コルビュジエたら申すおっさんの弟子だった人物だ。モダニズム建築というのは、あれだな、目新しい素材と工法を使って、人間工学的にも、建築合理性においても高いものを目指そうという様式の建築だ。板倉は日本建築を再解釈しつつ、工学の進歩によって手が届くようになった新しい素材、工法を積極的に取り入れてきた。
 あまり期待してなかったのだが*2、近美鎌倉が坂倉の手になるということもあり、また意外に馴染みのある建造物が坂倉の手になるものだったこともあり、かなり楽しめた。
 意外に馴染みのある建造物の一が、我が故郷呉の市役所、そして市民ホールだ。あれも古い*3、そしてモダンな建築物だ。なるほど、あれもこのおっさんの手になるものだったとは。
 坂倉の仕事は、戦前に渡仏してル・コルビュジエに師事し、欧州で開かれた万博の日本館のデザインを手がけるなど、実績を上げている。
 戦争が迫った時期に帰国し、今度はある程度戦時体制に迎合しつつ、戦時ならではの生産合理性を追求した建築物を手がけた。この時期の坂倉の仕事には、確かに体制に迎合したものならではの歪みが見られる。ピラミッドにしか見えない忠魂碑など、果たしてモダニズムの産物といえただろうか。が、他方ではモダニズム建築の持つ生産合理性との親和性の高さも、確かに生かされていたようだ。
 戦後は一転してGHQからの仕事を請け負って糊口を凌ぐとともに、インテリアデザインに手を広げて仕事の分野を広げてゆく。坂倉は企業、地方自治体の建築物を手がけ、やがて都市のグランドデザインにまで関与してゆく。戦後の復興期、自由に青写真を描けるという幸運もあったのだろう。渋谷、新宿の開発、再開発事業は今も続いているが、坂倉の関与も大きかったということだ。
 この建築家の仕事を通覧して思ったのは、モダニズム建築はサイズアップが簡単なことと、そうであるが故にサイズアップが昂進して画一化が進んでしまうことだった。
 坂倉の戦前の仕事と、戦後のそれとを分ける線は、対象とするものの大きさではないか。戦前のそれは、それほどには巨大ではない。しかし戦後、素材、工法上の大進歩もあって、描けるデザインは巨大なものになってゆく。その時、細部を比較的単純なアルゴリズムで描けるモダニズムは、サイズアップを容易にせしめるものだった。ビルを高くしたければそのまま高さを増せばよく、広くしたければ窓の数を増やしてやればいい。それで破綻しにくいのがモダニズム建築の長所なんだろう。しかし、そうしてできたものは、強い画一性を以って見るものを威圧する。ぶっちゃけ、あの窓の一つ一つに、同じような顔をした、同じような生き方をした『民衆』が綿々とはめ込まれている様を想起してしまうのだ。そして、自分もまたその一つに連なっていることを。
 建築家たちもそれに気づいていたはずだ。だから同じように見える建造物の細部に、あえてモザイク様のタイルを張り巡らしたり、打ちっぱなしのコンクリートにも工夫を凝らしてのっぺりした面を目立たなくしようとしたのだろう。ところが、モノが巨大化すると、そうした細部の工夫は目に見えなくなってしまう。結局のところ、ディティールと同じように、一人一人の人間もまた、その巨大さの前にそれぞれの顔を失い、国民だとか大衆だとか社員だとか住民だとかいった、より統一された抽象的人間という文脈に収容されてしまうのだろう。アレクシェービッチ風にいえば、巨大なものの前に見えなくされ、小さくされてしまうのだ。色んなポストモダニズムの流れは、まさにそこで頑張りましょうというスタイルだよな。
 次に別館を襲う。美術館の催しに継続的に関与してきたらしい、子供たちの短評とともに、コレクションが陳列されている。考えすぎのもの、アレレと思うもの、ハッとさせられるもの、色んな短評があって面白い。
 コレクションの一つ、やたら蒼い作品が気に入る。部屋に飾るならこれだな。
 その後、物凄い渋滞の北鎌倉への道をよじ登り、大船でいつものルートに乗って、境川に入った。紫陽花は今日も絶好調。今日も自転車乗りはやたら多い。
 美しいMasterXLを撮って、まだ日暮れ時には早いが帰宅した。