Strange Days

2001年04月12日(木曜日)

SFの要件

19時46分 SF 天気:晴れ

 このウェブページの創設以来、「SFとはなにか」という問題に度々肉薄してきたわけだが(どの辺がだ)、未だに分からない部分は多い。が、少しずつこうではないか推測できる部分は増えてきた。今日はその辺を暫定的にまとめてみようと思う。~
 SFとScienceが極めて強く結びついていることは疑問の余地が無いように思う。例えば市場に科学技術が援用された小説(『パラサイト・イブ』、『二重螺旋の悪魔』など)が登場した時、「それはSFではないか」という論議が必ず発生する。このことは、逆説的にだが、SF小説の前提として「科学技術の援用」というものが一つあるからだといえないだろうか。この点に関しては、あまり異論があるとは思えない。異論があるとすれば「ファンタジーはどう扱う」かという点だろう。これはまたいつか、別途述べることにしたい(このまま忘れたりしてな)。~
 「科学技術」がSF小説の前提とすると、しかし「科学技術を援用した実録小説」はどうなるかという問題が発生する。例えば本四架橋の人間ドラマを書くとすれば、必然的に本四架橋で用いられる様々な科学技術を取り上げざるを得ないだろう。しかし「実録小説」であるならばその細部まで"事実"が入り込んでいるはずだ。フィクションが作用する余地は少ないように思う。それをSF小説と呼べるかどうかは疑問だ。例えば「アポロ13号」を題材にした小説はいくつかあるが、それらをSF小説と呼ぶことには抵抗がある。事実、それらはSF小説と呼ばれることが無いように思う。だからSF小説には、なんらかのフィクション(虚構)が必要なのではないか。~
 虚構は、非真実と同義ではない。非真実は単に!trueだが、虚構とは全体が非真実であってもその内部では論理が一貫しているものだ。つまり全体を!(true)として括れるものではあっても、その内部での関係性はtrueであるもののことだ。~
 SF小説への虚構の関与の仕方には二通りあると、とりあえず考えてみよう。一つはSF小説で前提としている科学技術が虚構であるもの。もう一つは小説にかかれているストーリーが虚構であるものだ。後者を敢えてSF小説から外そうという意見もあるようだが、僕はこれもSF小説の範疇にあると考えたい。というのは、科学技術というものは敷衍性が極めて強く、「Aが実用されるならBも実用される」という形で、一つの『科学知識|科学技術|科学思想』が確立されれば、また別種の『科学知識|科学技術|科学思想』もまた成立すると予見されるものだからである。これは科学そのものが予言性を強く持つという性質に由来している。つまり、『科学技術の虚構性』は、実はあまり強度に関係が無い。そもそも、小説という形を取る以上、その前提とされる論理と、語られる内容とは、きれいに分離できたりしないだろう。この両者は不可分であると見なすならば、SF小説とは「科学技術を前提とした、虚構性のある小説」ということになる。これがSF小説の最低要件だ。~
 しかし、もしもこのように置いたならば、少し困ることがある。というのは、「科学技術を前提に置き、ストーリーに虚構を含む小説」ということなら、世の中の小説の大半が含まれてしまうからだ。~
 サン・テクジュペリの「夜間飛行」は、航空機という新しい科学技術が勃興しつつある時代を背景に、その科学技術を手に果敢に冒険に挑むパイロット、その家族、そしてそれらの人々に一見冷酷に当たりつつ、実は深い人間理解に根ざす高い精神性から理想を具現しようとする支配人とが織り成す、人間ドラマの傑作だ。この「夜間飛行」から"航空機"や"地球に関する科学知識"のみを取り除くことは出来ない。というのはパイロットたちの冒険心、支配人の対人観の背景には、科学知識の強い関与があるからだ。ここでは、人間という全人的存在の成立に、科学知識が不可欠な前提として立ち現れている。従って、「夜間飛行」という小説は科学知識(技術)が大前提にある小説であり、SF小説として読めてしまうということになる。いや、そもそも現代の小説で、全人的存在から"科学"を欠落させて成立しうる小説が、どれくらいあるだろう。つまり、小説と呼ばれるものの全体集合の大きな部分を、僕たちは"SF小説"として読めてしまうということになる。~
 僕はそれで構わないのではないかと思う。ここからはジャンル論が関わってくる。ジャンルというものは人工的な概念だが、斯界においては2種類のそれが混在しているということに注意しなければならない。一つは出版社、流通、購買者の利便に沿って"冊"を単位に分けられるジャンル。もう一つはその"冊"の内部の構成要素に着目する、小説の要素としてのジャンルだ。前者によれば、一冊の本は一つのジャンルにしか置けない。後者によれば、一冊の本をどのようにでも分類できる。ふつう、「SFの衰亡」というものが語られる時、前者の分類による。つまり、本屋のSFコーナーが縮小したとか、本の帯にSFの二文字が見られなくなったとかいった類のものだ。しかし後者のようなSF的要素というものに目をやるとき、市場にはSF小説が溢れているといえる。今、"科学"を排除した小説がどれほど成り立ちうるか。僕たちの日常生活そのものが科学的営為を大前提にしているのだ。よほど注意深く創作しない限り、どのような小説であれ"科学"による関与を免れ得まい。つまり、「SFの衰亡」なるものが語られる時、それを肯定するものも否定するものも、実は商業的なジャンル主義の奴隷に成り下がっている事に注意しなければならないだろう。後者として取るならば、恋愛小説や推理小説がそれぞれ兼用しうるように、多くの小説がSF小説として読めてしまうことに、なんら問題が無いことが分かるだろう。~
 それではSF作家/読者が意識するSFの"コア"とはなんだろう。科学の性質の一つに、強い予言性がある。ある科学知識について、ある条件が成り立つならば、ある状況が発生することを予言できる。例えばCO2による温室効果という知識があるとき、大気に占めるCO2の濃度が上昇することが発生したならば、地表での平均気温の上昇が観測されるだろう。このような"予言"が小説のテーマとして立ち現れている小説を、僕たちは"SF小説"と呼んでいるのではないだろうか。逆に"予言"がストーリー上の単なる必要性により語られる場合、それは"SF小説"とは呼ばれないように思う。『パラサイト・イブ』がいくら最新の遺伝子学を引用したものであろうとも、小説自身がなんらかの科学的予言をテーマとしていない限り、(いわゆる)ジャンルSFの書き手や読み手が受け容れるのに抵抗するだろう。『パラサイト・イブ』がジャンルSFの担い手に複雑な反応を引き起こしているのには、こうした背景があると思う。~
 ジャンルSFは実に様々なものを予言している。その中には軌道エレベーターや遺伝子クラック、不死人類のようなガジェットもあれば、人間の深刻な認識論的変化もある。A.C.クラークは『幼年期の終わり』で宗教の終焉や、隔絶した科学知識をもつ存在の理解不能性を書いた。小松左京は『果しなき流れの果に』で全宇宙的意識の進化の中に善悪の二項的対立、調停の必然を描いた。このようにSFはしばしば"予言"する。しかし予言するがゆえに、その的中率が比較的簡単に測られるという性質がある。認識論的変化は哲学的命題であり簡単には測れないが、各種ガジェットの実現や近未来の社会的現象の類ならば簡単に図れる。SFがしばしば"子供だまし"とされるのには、このような背景があるように思う。恋愛小説や推理小説に結果的な真偽を問うことは無意義だからだ。~
 まとめると、SF小説とは「科学技術を前提に置き、ストーリーに虚構を含む小説」である。そしてその結果として、SF小説はなんらかの"予言性"を持つことになる。そしてその"予言性"が作品のテーマに強く関与している時、僕たちSF読みはそれをSF小説であると見なしているのだろう。~