Strange Days

2000年04月23日(日曜日)

星空幻想

19時01分 天気:晴れ

 昨日に続いてだらけきった一日。もうすぐ10連休だからと思うと、なんでも後回しでいいやと考えてしまうのだ。実に無為な日々を過ごしている。
 これではいかんと思いつつ、「臨死体験」を読みきり、さらに日野啓三の「断崖の年」も読み始めた。偶然だが、どちらも死の淵からの生還が背景にある。
 日野は腎臓ガンで比較的早期に摘出手術を受け、その手術の前後に様々な体験をする。死ぬかもしれないという恐怖がもたらす心の変化も興味深い。しかし圧巻なのは、腎臓摘出手術の直後に体験した、意識の異様な変容のほうだった。
 日野は手術前の検査がもたらした精神的苦痛から十分に立ち直れないまま、深い昏睡に落とされる手術を施される。集中治療室の暗い静寂に神経を痛めつけられた日野は、モルヒネがもたらす意識の変容のなかで奇妙な幻影を見る。一つは隣の病棟の屋上、その手すりに並んで腰掛けた、いくつもの人影だ。その屋上には滅多に人が立ち寄らず、まして危険な手すりに腰掛けるものなどいないと日野の理性は承知している。しかしそれでもくっきりと、その人影を幻視してしまうのである。凝視すれば、そのディテールまで明確に観えるくらいに。日野はその人影たちに懐かしいような親しみを感じたという。
 もう一つは空を過ぎっていく動物たちの顔だという。それも赤く点滅しながら飛び交うという、浦安にあるでかいネズミの支配下にあるテーマパークを思わせるような、奇妙にファンタジックな光景だった。
 日野はその顔たちを眺めながら、これが星座の原型だったのではないかと考えるのだ。隣の病棟の人影にせよ、空飛ぶ顔たちにせよ、それらは自らの意識のごく内側に潜んでいるというのだ。そしてそれらは意識のごく薄い表層を食い破って、いつでも飛び出してきてしまう。日野はモルヒネが生み出した激しい幻覚と考え合わせ、人は結局見たいものを見ているのだと考える。そして人が見たいものは、時代によって移り変わってきただろうと。
 中世の(欧州の)農民たちは常に多くの悪魔、天使、聖人たちと畑にいたという。彼らはそれを実際に「観て」いたのだろう。その時代の価値観、論理に照らし合わせれば、それらの実在は非常なリアリティを伴っており、紛れもない現実だったということなのだろうか。
 僕たち現代人も様々なもの(たとえばガイア、たとえば市場、たとえば民主主義)を幻視しており、その実在は多くの人にとって疑うべくもないものだ。しかし後の世ではやはりただの幻想だったと決め付けられることになるかもしれない。
 話はようやく星座の話になるのだが。日野は空を飛ぶ顔たちを幻視したとき、かつての人々はこんな風に、空にうごめく英雄や大熊の姿を見ていたのだと直感した。僕にはこんなあからさまな幻視の経験がないので何ともいえないが、人が見たいものを見てしまうという現象は良く体験するので、日野の所感には違和感を感じない。恐らくそうだったのだろうと思うのだ。そのことは立花隆の「臨死体験」でも語られていることだ。人はしばしば自らの見たいものを見てしまう。人間の視覚は客観的なものではなく、脳という個人的で主観的な器官が処理したものを「観て」いることを意味する。さらに敷衍すると、人にはそもそも客観する能力が無いという結論さえ出てくる。しかし多くの人と見ているものを共有しているように思えるのはなぜだろうか。もしかしたら単なる共同幻想を形成しているだけなのかもしれない。そして星座も、ある時代の人々の共同幻想だったのではないか。いや、幻想というよりは、それも一つの現実だ。
 考えが共同幻想という段階にいたると、もはや何事も直ちに否定することが出来ない気分になってくる。街頭でUFOによる救済という奇怪なものを訴えている人々も、実は彼ら自身のコンテキストでは十分に客観的なのかもしれない。そして彼らを笑っている僕らのほうも、実は別種の共同幻想に囚われているだけなのかもしれない。僕らに可能なのは、それを恐れつつなおも笑うという態度に過ぎないのではないだろうか。

2000年04月09日(日曜日)

湘南台にお出かけ

20時06分 天気:晴れ

 昼頃まで寝て、さてどうしようかと思案した。BORG等からの荷物を待っていたのだが、この分では未発送だと推測される。では外出しよう。
 湘南台まで230円。つくづく納得できないのが、あざみ野まで乗っても500円だという点だ。距離的には10倍ではすまない。
 湘南台に出ると、図書館のほうに歩いていった。途中、ちょっとした公園があるのだが、そこでは多くの人々が花見を楽しんでいた。そうか、花見の季節だったんだ。公園のそこここや、隣の中学校に点在するさくらを眺めながら、図書館に向かった。
 図書館では臨死関係の本を探してみた。昨日から立花隆の「臨死」上下巻を読み出していた。500ページ2巻の大著で、この間再放送を見たNHKスペシャルでの取材を起点に書かれたものだ。この中で「死ぬ瞬間」(キューブラー・ロス著)が取り上げられていたので、探し出して斜め読みしてみた。時代はベトナム戦争末期の'69年。「アメリカの20世紀が終わった」といわれた頃だ。様々な価値観が大転換を遂げつつあった頃にこの本が書かれたのは、ある意味で象徴的といえる。
 ロス博士は死病に力尽きようとしている人々にインタビューを試み、その貴重な体験から何事かを学べるのではないかと考えた人だ。最初の頃は現場の医師たちの理解を得られず、インタビューは困難を極めた。しかし少しずつ支持を集めていき、最終的には毎回50人規模のセミナーを開けるまでに発展した。
 ロス博士は人が死を受け入れるまでには五つの心の段階があると説いた。
 最初は否認。自分が死ぬことなどありえないと信じ、死病に取り付かれたことを否定しようとする時期だ。この時期は永続せず、死の瞬間まで否認しつづけることは出来ないとしている。
 次に怒り。「なぜ自分が死なねばならないのか」といったように、自己に死すべき理由がないと捉え、その不条理さを前に怒りという形での発散をせざるを得なくなる時期だ。多くの末期患者が医療の現場で扱いにくい人物となるのは、この時期の存在のためだという。
 続いて取り引き。「せめて子供が大きくなるまでは」あるいは「作りかけの本棚が出来るまでは」といった風に、生あるうちに成さねばならぬことがあると設定し、その間の生を継続できるように訴えるものだ。超越者が相手である場合もあるし、自分の欲求を叶えられる身近な人物である場合もある。~
 続いて抑鬱がくる。死という避けがたい運命を前に、成さねばならなかった事、成したことを思い返して悲しみに暮れる時期だ。
 そして最後に受容だ。死をあるがままの事実として受け入れる。しかし必ずしも死に積極的な意味付けが成されたわけではない。病者の体力的な問題から思考が鈍り、無気力とものぐさのうちに受け入れていることも多い。
 ロス博士のこの分類は、あまりにも物語的に過ぎると感じるが、同時に広く受け入れられている考えでもあるらしい。ターミナル・ケアの現場では、なんらかの指針が必要だということなのだろう。
 こうした分析を元に、死すべき人々と、残された人々への対応を説いたのがこの書だ。ロス博士はその後も死に関する本を著している。
 ロス博士のこうした活動を通じて、ターミナル・ケアという考えが医療の主流に持ち込まれることになったのだ。従来から宗教を中心としたターミナル・ケアはあったが、近代医療においては胡散くらいモノと捉えられていた。近代医療の現場では長い間人の死という運命を受け容れず、戦うことを前提に組織づくられて来た。そこにインパクトを与え、死生観に新しい意味を付け加えたこの書は、歴史的なものとしてもっと評価すべきだろう。
 さて、他に臨死関係はというと、少なくとも宗教、哲学関係には無い。心理学関係でもない。探してみると、医療関係に固まっていた。確かにごもっともなのだが。
 その後、PC屋と本屋によって帰った。おっと、文房具屋でちょっとしたアイテムを購入。原稿用紙などの目隠し用テープだ。剥がしても跡が残らないテープを探したら、たまたまこれだっただけなのだが。実は100EDのタレットからやや重いLVアイピースがすっぽ抜けそうなので、なにか手当てしようと思い立ったのだ。これで固定してみると、かなり強度が増したように思える。剥がしても跡は残らないので、抜き差しするときにも安心だ。

2000年04月06日(木曜日)

これでもたまにはフィクションも読むのだ

21時00分

 夕方までドロドロと眠ったので、病み上がりは快適かと思いきや、まるで気分が乗らない。まだ寝たりないくらいだ。自家中毒の前兆と思われるので、茶を喫しつつ本を読んだ。
 読んだのは神林長平の「魂の駆動体」。ホビーとしてのクルマが、それどころか実体としての肉体が捨て去られつつある時代に、その自動車を蘇らせようとして情熱を燃やす老人たちの話が前半。この辺り、個人的には涙無しに読めなかった(いやほんとに泣いたわけじゃないが)。最近になって、天体観望という廃れつつある趣味を得た僕には、この老人たちの生き様は過大なくらいのリアリティを伴って感じられる。望遠鏡自作などという日本では滅亡寸前の趣味を持つ人々も、とても冷静に読めないのではないだろうか。
 後半は遠未来、既に滅亡した人間を研究する翼人の活動を軸に展開される。翼人の一人が人間の肉体を得て、その視点で人間の遺物を研究しようとする。最近、エクリチュールという問題を少し探求しているので、この翼人の思考法はよくわかる。僕たちはどれほど精神が自由だと信じていても、事実は肉体に縛られ、モノに囚われ、言葉に拘束されている。だからこそ精神は自由だという言明が尊いものになるのだが、ともあれ何をするにも晴れ上がり前の宇宙のように、光はまっすぐに進めない。この闇の中で真理を探究するには、真理を曲げて見せている(というか"真理"の外形を定めている)モノどもの形を把握し、それが認識に与える影響を探る必要があるだろう。翼人はヒトの思考法の中心にあるであろう肉体を模倣することで、その闇を突破しようとしたのだ。
 翼人による人間研究は長足の進歩を遂げるが、しかし魂の無い研究用アンドロイドに魂が宿ったことから、事態は急速に発展していくのだ。
 この「魂」という科学の俎上には載りにくいモノを、神林は饒舌なほどの理屈で修飾してみせる。理論というより理屈というべきだろう。人間の動機や生きる意味、そして機械の発展系に過ぎないアンドロイドとヒトとを分けるものとして、ともあれ魂なるものを置くのだ。実体は何でもいい。そして実はヒト(や翼人)はこの魂が目的を果たすために存在しているに過ぎないというわけだ。オブジェクト・オリエンテッドな駆動法なのだ。
 ラストシーンは、この老人たちならば必ず目的を実現したに違いないと思わせ、ニヤリとさせられる。この神林の飄々としたユーモアには、いつもホッとさせられる。