Strange Days

2000年05月21日(日曜日)

近場に出かけよう

18時04分 天気:くもりと晴れの遷移状態

 雨が上がった。空を見上げると雲が多いが、所々青空が見えて、そこだけは五月にふさわしい濃い青空だ。ちょいと出かけた。
 部屋を出た瞬間はいずみ中央からいずみ野の図書館にでも行こうかと思っていたが、立場駅が見えるとそっちに足が向き、湘南台の方に出てしまった。こっちの方がいろいろあって便利なのだ。
 湘南台の図書館では政治関係の書棚でいろいろ読み漁っていたが、異常に熱心に棚を眺め、本を次々抜き出している中年男性に気兼ねして、早々に移った。といっても三歩横に移動しただけだが。この人は要するに政治ヲタクなのだろうか?
 その三歩歩いた場所にあったのが、立花隆の「日本共産党の研究」。手に取って読み始めたが、いや面白いのなんの。高度なジャーナリズムと良質のエンターテイメントは両立しうる事を示しているのだろう。戦前、治安維持法下の共産党というアンダーグラウンドにしかなり得ない存在が、戦時色が濃厚になっていく日本でどうあがき、自滅していったかを解明した大著だ。文藝春秋連載当時から日本共産党自身との激烈な論争(といえるものではなく中傷に過ぎなかったのが残念、と立花は述べているが)を経たこの書は、版を重ねるごとに手が加えられ、戦前の国内共産主義史を研究する上での原典足りうるものになっている。非常に精緻に証拠を集め、確実な解釈を取り、そして新たな思考へと導いていく。一説には、'80年代に入っての日本共産党の退勢は、この本が与えたインパクトによるものだとさえ言われる。田中金脈に対する執拗な追跡が時の総理大臣を退陣に追い込んだことと思い併せれば、立花隆まことに恐るべしとしかいいようが無い。しかも、立花の筆致はなおも中立的なのだ。
 面白いのはその批判本が(主に日本共産党周辺から)山のように出版されていることだ。それほど痛いところを突かれたのだろうかと思いたくもなる。しかし今も論議に耐えうるほどの価値をもっているのは、当の「日本共産党の研究」だけだ。
 図書館は5時閉館なので、その前に出た。
 その足でPC屋に寄り、さらにダイエーの5Fをうろついた。なんとなくFMラジオが欲しかったのだが、思ったより高かったのでやめた。ここでは大皿と食器棚、そしてレジャー用の折りたたみ椅子を買った。折りたたみ椅子は観望の際に使用するつもりだ。

2000年05月10日(水曜日)

本を買い込む

20時58分 天気:くもりでしょう

 定時退勤日なので、帰りに戸塚の有隣堂に寄った。「日本SF論争史」が欲しかったのだけど、まだ発売されてないのか見つからなかった。マイナーな本なので、見つけたら買わなければ。
 その代わりに目に付いた本を5冊くらい買って帰った。
 そのなかの一冊は佐藤大輔の「レッドサン・ブラッククロス」パナマ強襲編。えっ、徳間で出してた文庫版のほうはどうなるの? いちおう、文庫版の続き(ソコトラ強襲上陸の直後)の状況なので、連続性はあるようだ。いずれ文庫に落ちるだろう。でも買った。
 SF本としてソウヤーの「フレームシフト」。遺伝子を扱ったSF(もう独立したジャンルが出来るかも)としてよく出来ているという評判だったので買い。
 そしてついに手に入れた「キャッチ=22」。まさか有隣堂に上下揃いで置いてあるとは。これで「キャッチ=22」上巻買占め闇組織の存在は、ようやく否定されたのだろうか。いや、あるいは彼奴らの魔手が及ぶ前に発見できただけなのかもしれない。彼奴らの魔手は次にどの本に及ぶか分からないぞ。
 最後は話題の「作家の値うち」。なんで"値うち"なんだろう。"値打ち"だと読めないからか(そんなばかな)。
 この本は純文学、エンターテイメントの現役作家50人の代表作に点を付けるという、ある意味粗雑極まりない暴挙を試みたものだ。他のジャンル(例えばゲーム)では点数制でゲームを評価する記事などというものはふつうなのだが(ファミ通が走りか?)、文学では滅多にお目にかかれない。しかも100点満点で、評価基準も明らかにされないという粗雑さ。ふつう、個人の主観に完全に依拠するような評価では、評価段階を適当に荒くして幅を持たせるものだ。実際、この本でほぼ同点になっている別個の作品の優劣がいまいち分からない。40点の作品は41点の作品より1点分だけ優れているのか。1点分の優位とはなにか、まるで伝わってこない。そういう精密な評価ではなく、もっと私的な「オレ文学適合度」と解釈した方がまだ理解できる。しかしそれは卑しくも公的に「書評家」と名乗っているものの仕事ではない。これはもう叩いてくださいといわんばかりだ。
 内容的にも村上春樹や石原慎太郎(確かにかっこいい小説を書く人ではあるが)の評価が異常に高い一方、丸山健二や船戸与一の評価が異常に低いのが不思議だ。丸山に関してはまだ理解できるかなと思うのだが、船戸に対する「評価不能(なくらい低い)」という"評価"は何事だ。書評家としての責任放棄も甚だしい。船戸が一定の読者を得ているという現実をどう解釈するつもりなのだろう。単に船戸が体現する「国際陰謀史観ロマンティシズム(?)」を理解する能力がない(正確にはそういう評価をする読者がいると理解できない)と表明しているに過ぎないのではないか。つまり書評家としての一種の敗北宣言ではないか。むしろテキスト以外の影響(例えば船戸に夜這いをかけられたかとか)いったものを疑ってしまうのである。
 このようにあちこちの極地ではかなり破綻してしまっているのではあるが、筆者自身はいずれどこかが破綻するだろうと覚悟しながらの上梓だとも読める。しかしだからといってそれを「読者との評価軸のズレ」に帰するのはいただけない。それを敢えて<絶対>的な評価軸に置換して見せるのが書評家の仕事でしょうに。
 これだけ読むと、買うに値しなかった本なのかということになりそうだが、実は全然そうではない。買ってよかったと思った。書評家としての筆者の評価軸にふらつきがあるにせよ、一人の読書人としてしては質/量共に隔絶したレベルにあるのは疑いようもない。それに、極地以外での諸作品の評価は、概ね納得できるものでもあった(渡辺淳一に対する論評は痛快)。また「読者の評価の手助けになれば」という筆者の言葉を素直に受け取れば、確かに大きな手助けになりそうだ。同時に、あまり意思的でない読者は、この本の評価に支配されてしまいそうだ。
 しかしながら、書評家の仕事の半分が絶対的評価である半面、残り半分は「オレ文学」の評価軸をいかに世間に押し付けていくかという事でもある。そういう意味で非常に分かりやすく増殖しやすい形で「オレ文学基準」を押し出した福田和也という書評家は、確信犯ならば実に強かだといわざるを得ない。ゆめゆめ、飲み込まれないように気をつけながら読むべし。