Strange Days

2000年04月20日(木曜日)

地下車道

20時44分 思考 天気:雨のち雨(なにがだ)

 さてさて、今朝は朝から雨だ。傘を差して駅に向かう道すがら、国道の横断歩道の少なさと、信号間隔の長さにあきれ果てる。これなら歩道橋の方がいい。もっともこれは僕の主観によるものだが。
 歩道橋も万能ではないのは確かだ。金がかかるし、体の不自由な人には大層つらいものだと思う。しかし常時横断可能になるという利点はありがたい。
 金がかかるのはどうしようもないとして、体の不自由な人にとって障害にならないような歩道橋は作れないのだろうか。要するに歩道橋は車と歩行者の通行空間を分離させるものといえる。それなら車のほうを上にすればいいのだ。これが恐らく都市高速の発想の原点だろう。ところが都市高速のような巨大な構造物を街中に作ることは、都市空間の有効利用という観点からは優れた策といえない。なら車の方を地下に追いやってしまってはどうだろうと思うのだ。車道を都市の地下に張り巡らし、地上はあくまで歩行者の空間とするのだ。
 すると騒音問題がかなり解決する。地下車道を密閉型にして、防音壁で囲めばシャットアウトできるだろう。そうすると大気汚染が心配になるが、これも強力な空調装置を巡らせれば問題にならないのではないかと思う。それを外気と交換する際に、フィルターなどで清浄化すれば、都市部の大気汚染も改善されるのではないだろうか。ヒート・アイランドの問題も含めて、要するにこれらはアン・コントロールドな場所に原因があるから対処できないのだから。
 しかし歩道と車道を完全に分離してしまうと、タクシーやバス、あるいはもっと単純に自家用車での外出の際などにいろいろ困ってしまうだろう。したがってスポット的にでも車道が地上に出ている場所が必要になると思う。エレベータなどで結ぶという手もあるが、利便性という点で大きく劣ってしまうのは避けられない。
 この程度の発想ならたぶんゼネコンの企画室とかで扱われていることだろう。しかし一向に話題にならないのは、都市の地下空間の再利用の難しさ、ありていにいって高くつくという点に尽きるのだろうと思う。それならば予め地下利用を前提とした都市計画を立てればいいのではないか。要するに都市開発区域の地下を予め人工建築物化しておけば、後々に再利用する際にも有効に働くはずだ。
 もっとも、これほどまでして地下利用に執着する理由は日本国内では無いかも知れない。日本では都市の建設可能な場所は、すでにあらかた使い尽くされているからだ。北米のように土地に恵まれた場所ならば、こうしたビジョンも有効なのかもしれないが。

2000年04月15日(土曜日)

寝週末と心霊体験

20時23分 思考 天気:雨

 せっかくの週末だというのに雨。出かけるのも本を読むのも面倒になった僕は、日がな一日寝てすごした。日ごろの睡眠不足をまとめて解消しようとでもいうのか。
 世の中には寝溜めができるという人もいるようだが、僕はまったく駄目だ。最近、星を見る習慣が出来たので、帰ったらすぐ寝て、夜中に起きだして星を見た後で、また寝るという生活をしている。一応、一日7時間程度の睡眠時間は確保できているはずだ。ところが体の方は明け方までの数時間の睡眠しか憶えていないらしく、目覚めると肉体はなお睡眠を欲しているのだ!(単なる寝不足という意味だが) 要するに帰ってすぐ寝る分はあまり意味が無いのだが、その頃には睡眠不足で意識不明寸前なので、どうしても寝ざるを得ない。
 そういうことで週末に寝まくってもあまり意味が無いのだが、半分眠りかけつつも頭はさめているという状況が好きなので、ゴロゴロしていることにした。この状況で様々な論理の飛躍が果たされるということは、今読んでいる「臨死体験」にも出ている事例である。この状況では、通常の負荷にさらされつづけている状況では果たせない種類の情報処理を、無意識のうちに遂行しているようだ。
 この半覚醒状態では、ココロとカラダの同期がずれて、通常では体験できない現象が起こることがあるという。事実、僕はオカルト用語でいう幽体分離と思しき現象を何度も体験している。誰もが体験するであろう金縛りの状況で、強く外界の事を想うと、視点のみが想った場所に移動する。カラダから抜け出して、部屋の中を漂い、さらには屋外に出て空を自由に飛ぶことが出来る。それも非常にリアリティを伴った体験なのだ。ところが、後で言語化しようとすると、実は体験の細部が非常にあいまいで朧であることに気づくのだ。思うに、「明瞭であると感じること」と「体験の細部まで明瞭に記憶すること」はまったく別種の体験なのだと思う。ここで前後の体験を等号で結んでしまう人は、無意識のうちに日常得ている他のデータを拝借してきて、結果的に「明瞭な体験」そのものを捏造しているのではないだろうか。
 まどろんでいて眠りに落ちる寸前で頭に浮かぶ映像は、時たま非常に明晰なものになる。これも僕が体験するところの幽体分離と同質の体験なのかもしれない。このことを考えてみると、人間の想像の不明瞭さは、実は身体感覚というノイズの存在ゆえのものなのかもしれないと思われる。眠り込む寸前、カラダの感覚が消失し、想像のほうのリアリティが向上する。そこで人間の恐怖心やその他の性質が幻視させるのが様々な心霊体験の正体なのではないだろうか。事実、金縛り状態で「のどを締め上げる腕」だとか「背後に添い寝する誰か」を想像すると、その通りのものを体験できる。それを消すように強く念じると、その通りに消えてしまう。明らかに幻覚なのだ。まあこれは、僕個人の体験という、それ自身では一般化も解析も出来ないモノに依拠しているのだけれど。

2000年04月04日(火曜日)

仮想世界と信頼性

22時53分 思考 天気:くもり

 むー、けだるい一日。
 疲れ目がきつかったので、1分仕事しては1分休みという感じで目を労わりながら(というか酷使しながら)終日過ごした。
 帰って寝る前にチャットをしていると、各種コンテストの話題が出ていた。神奈川新聞の30万円/15枚という文芸コンテストは割が良さそうだ。が、15枚などという短さで何を書けることやら。
 それよりエルフ(18禁ゲーの雄)が主催しているゲームコンテストの方が凄いかも。こちらは1000万円だ。いったいどういうゲームを望まれているのか不明なのだが(18禁じゃなくても可らしい)、ひとつJava3DでQuake系ゲームでも組んでみるか(同案多数かも知れず)。
 文藝に命をかけることを誓った(誰にだ)僕ではあるが、20世紀末の一大消費文明の中を生きてはいるので、やはりゲームにも色気がある。ネットワーク接続が様々な形で提供されていく事になる近未来では、それがゲームに与えるインパクトも巨大なものになるだろう。今のようなコンシューマーゲーム機の世界は、案外に長生きできないのかもしれない。UO2やDiablo2が未来のゲームを垣間見せてくれるだろうか。それともまったく新しいコンセプトのゲームが登場するのだろうか。この先、携帯電話の高性能化などで、普通の人々も含めてますますゲーム世界での滞在時間が長くなるだろう。そうするとゲームの中ですべての生活を送れること(例えば日用品を届けてもらえるように手配すること)が望まれるようになると思うのだが。そういう推測からは、ゲーム世界とショッピングモールが一体化するのは、もう時間の問題だと思う。信用の置ける決済手段が確立されれば、ゲーム世界の形は大きく変わっていくのではないだろうか。逆に今ゲーム世界(はもとよりインターネットそのもの)の足かせになっているのが、信用の置ける決済手段がないという点に尽きるのではないだろうか。
 電子出版が取り沙汰されているが、現状では紙に取って代わるのはかなり難しいだろうと思う。可読性云々のハード的なハンデも大きいのだが、100円、200円といった小額決済が簡単には出来ないという点も大きいと思う。店員と直接顔を付き合わせたまま、商品と貨幣を直接交換する。この信頼性の高い決済手段に変わる電子決済が登場しない限り、小額商品を取り扱う電子出版(ようするに最大のマスを望める分野)が確立できる望みは低いのではないだろうか。むしろオンデマンド出版のように、現状の紙出版を補完する形での電子出版に可能性がある。
 要するに、ゲームにせよなんにせよ、信頼の置けないものに金を払いたくないのが人情というものだし、物の道理だろう。