Strange Days

2000年06月28日(水曜日)

夢記憶

23時19分 思考 天気:曇りだし雨だし

 今日は定時退勤日だったのでさっさと退勤した。帰宅して生焼きそばを作ってビールで流し込んだら、強烈な睡魔が襲撃してきた。反射的に抵抗しながら『ああ、ここは会社じゃないんだ』と思い直し、素直に布団にもぐりこんだ。
 どれくらい寝たのか、起き出したのはもう1:00過ぎだった。頭がボーっとしてかつ重い。ちょっと熱があるようだ。風邪を召した模様である。エアコンをドライに入れっぱなしにして寝込んだのだが、ちょっと体を冷やしすぎたようだ。今夜は湿度が頓に高い。
 悪夢っぽい夢を見たというのもあるかも。会社の同僚が登場する夢で、かなりうなされたような気がするのだが、少し経つと綺麗さっぱり忘れていた。
 人間は夢を記憶に留めておかないようになっているのだ、という説を前にどこかで書いた気がする。どこで目にしたのか忘れたのだが、人間は毎日見る夢(実は憶えてないだけで毎日必ず見ているのだ)をいちいち記憶にとどめておいたら容量をオーバーしてしまうので、それを忘れるように出来ているのだという仮説だ。それを目にしたときには素直にそうなのかと思ったのだが、良く考えると「ではどのようにして」というメカニズムの説明がまるで成されていない。
 僕は案外に夢も他の体験と同様の機構で処理され、場合によっては長期記憶に移行する事もあるのだろうと思っている。実際、子供の頃に見た悪夢(笑っちゃうのだが、傘お化けが登場する)は、今に至るまで鮮烈に憶えている。でも夢の大部分を忘却してしまうのも確かだ。
 これは要するに、夢に脈絡がないからこそ記憶していられないのだと解くべきだと思う。人は過去のことを思い出すとき、その事項に関連した出来事を手がかりに思い出す。例えば「あれは夏休みの初日だった」とか「実家の裏山で」とかいう風にだ。また「叔母さんが遊びに来た」から「おはぎをおすそ分けしてもらえた」という風に論理的な整合性をも手がかりにその先の展開を思い出すこともある。
 ところが夢は時制も論理的な接続をも超越しているために、こうした通常の手繰り方では思い出せないのだ。まるごとエピソードの塊としてしか処理できない。だからその中の1エピソードを思い出すことは可能でも、その全体を思い出すことは難しいのだ。この辺は、やっぱり前に書いた人の恐怖体験の記憶に似ている。
 これを克服するには夢を見た直後にノートなどに書き付けるしかない。しかしそのようにして文書化された「夢」は、見た当人の夢解釈でしかないだろう。かように、夢はその全体像を処理できないが故にとりとめが無く、またそれ故に悪夢は根源的な恐怖を呼び覚ますのではないだろうか。

2000年06月21日(水曜日)

魂の故郷に帰れ(by デロリンマン)

17時42分 思考 天気:薄曇

 夏場なので怪談サイトをうろついているのだが(って眠れなくなるからやめろって)、少しリンクをたどるとオカルト系のサイトに行き当たってしまう。おかげでリーディングだのチャネリングだのヒーリングだのといった代物に少し詳しくなってしまった。リーディングは宇宙のどこぞにある「アカシック・レコード」なる、宇宙開闢以来今までの、そして今からの全ての出来事や"真理"を記録した媒体を自由に読み取ることができる、と主張するものだ。チャネリングはどこぞの親切な宇宙人が頭の中にいろんな事を直接吹き込んでくれる、というものだ。ヒーリングは単に癒すという意味でも使われるが、例によって大変安易そうに"宇宙の真理"やら"隠されたエネルギー"とかいった代物と結び付けられてしまっている。いずれにせよ、なにか「とてつもないもの」が我々の既知の世界の外にあって、それを自由に扱える方法を心得ている、と主張している点では共通している。そしてこれらの能力を持つと主張する人々は、一様に「訓練すれば誰にでもこの能力を持てること」を主張し、「物質文明からの脱却」を叫ぶ。
 奇妙な事実がある。その「物質文明からの脱却」を主張し、かつ自らは脱却していると主張してもいる人々が、それらの能力を他者に使用したり教授したりするときには金を取るのだ。それもたかが1時間のセッションで数万円という、決して安くはない(僕の主観では絶望的に高い)金を取るのだ。この金は何のための取るのか。
 そんな素朴で本質的な質問があるチャネラーのサイトに寄せられていた。開示するだけサイトの責任者は誠実だったといえる。それに対して同調する意見もあったが、サイトの性格もあってなんとかこの矛盾を説明しようとする意見が多かったように思う。すまん、どこのサイトだったか再検索しても見つからないのだ。
 金を取るという行為を合理化しようとする手法には共通点があった。金は「中立的」であると定義するものだ。金額が高かろうが低かろうが修行や各能力の正否には無関係だというものだ。
 だがこのような理屈ではなぜ金を取るのかということをまったく説明できない。単に金が好きだから、と受け取らざるを得ない。もしも真に物質文明を脱却していると主張しているのなら、その物質文明の中枢にある資本という概念そのものを否定しなければならないはずだ。取った金を何に使うのか。他の困っている人を救ったりするという意向は全く見られない。それとも「親切な異星人」が金儲け大好きなのだろうか。そんな馬鹿な。彼らが自らの欲望を満たすために使うのだと考えることに、ほぼ無理はないだろう。彼らは、自らが物質文明(とやら)のしくみにどっぷり漬かり、あまつさえその中での快楽を追い求めているのに、口ではそこからの脱却を主張する。まるで自らは快楽をむさぼりつつ、信者には清貧と喜捨を説いた中世の堕落した僧侶たちのようなものだ。
 これらの人々は明らかに嘘をついている、と僕の直感は告げている。それも悪質な嘘だ。直感だけでなく、上記のように考えれば理屈も通らないことが分かるはずだ。ひどく不誠実な人々だと思う。
 僕の実家が真宗だからこう思うのではないのだが、こうした人々に比べて法然や親鸞といった人々はなんと清廉で壮烈な生き方をしたのだろう。それぞれの信念を通すために時の権力の弾圧を被り、物質的な栄華はまったく手にできなかった。だがその思想は後世に巨大な影響を与えたのだ。精神的な栄華というものがもしあるのなら、これらの先達たちのそれが当たるのではないか。だがかれらの精神を中心に成立していたはずの浄土宗や浄土真宗が、後世にいたって物質的な栄華の中に堕落してしまったことも忘れてはならないと思う。清貧を通すのは難しい。
 少し僕の考えを書いておくと、「アカシック・レコード」なるものの実在はもちろん疑わしい。宇宙は偶然に生まれ、偶然により今の姿ができたに過ぎないだろう。未来も過去も、ランダムな数列が作り出しているに過ぎない。したがってリーディングなるものが成り立つとは思えない。また親切な宇宙人がいていろいろ吹き込んでくれるとも思えない。異星人の存在は疑わしいし(そういう意味で僕はSETIにも懐疑的だ)、たとえいても人間と意思疎通ができるとも思えないのだ。この広い宇宙の、それも地球のごく近くに、人間と様々な論理の通じあえる異星人がいるかどうか、大変疑わしいと思わざるを得ない。例えば人間のごく近い場所にいる犬や猫に、人間の神学や経済学を理解させられるだろうか。まず不可能だ。犬や猫は人間と同じ生命圏に住み、その行動様式や素朴な経済観念(例えば山を登るより脇道を迂回したほうが楽、など)も通じている。その犬猫との意思疎通ができないのに、共通したバックグラウンドをなにも持たないであろう異星人と意思疎通するなど、まずもって不可能に思えるのだ。
 それでもビリーバーたちは信じつづけるだろう。それは問題ない。彼らが何を信じようと、世の中は相変わらず科学主義のイデオロギーを享受しつづけるだろうからだ。だがその物質文明のグラウンドでは、それをいくらかでも良くしようという無数の試行が続いている。破綻をぎりぎりで逃れようと苦闘している人々がいるのだ。その物質文明のグラウンドにありながら、口だけで否定してみせる行為はひどい背信行為ではないだろうか。僕がチャネラーたちに感じるのは、実はそういう部分での怒りなのだ。

2000年06月17日(土曜日)

今夜の世紀を越えて

23時32分 思考

 帰宅してふとテレビをつけたら、今夜のNHKスペシャルは世紀を越えてだった。いつもなら日曜日にやるのだが、危ない危ない。
 今夜は今シリーズの最終回、第6回目。実は第5回目を先週録画したまま見てなかったので、順番が逆転してしまった。まあ順番は関係ないシリーズだが。
 今回はシリーズの最終回「自分らしく死にたい」。最終回にふさわしく死を取り上げた。
 アメリカ、オレゴン州では、世界でも例の無い法律が成立し、運用されている。これは余命幾ばくも無く、苦痛を和らげる手段の無い患者に対し、医師が致死量の睡眠薬を処方することを許可する法律だ。医師による自殺幇助と呼ばれている。
 オレゴン州に住むある女性は、肺機能が次第に低下するという病気により、余命半年と診断されていた。彼女は自分がかかった病気に関して徹底的に調べ、自分が既に末期であることと、そしてこの病気が末期に大変な苦痛を味あわせるものである事を知った。彼女は主治医に法律に基づいた自殺用睡眠薬の処方を依頼するとともに、その法律で定められた別の医師による診断を受けた。法律では、まず主治医に処方を口頭で依頼するとともに、余命半年以下であるという診断書を得る。次に別の医師による同様の診断書を得て、初めて書面による処方の依頼をする。そこでさらに時間を置き、再び口頭で処方を依頼すると、初めて自殺用の睡眠薬を得ることができる。それを使用するかどうかは、後は患者の自由意志にゆだねられるのだ。
 この女性は自分の容態が油断なら無いことから、一刻も早く処方を受けたかったのだが、二人目の医師の診断は意外なことに余命1年以上というものだった。
 このような処方を受けた患者は、既に40人以上に上っていると見られている。
 州内の別の女性は、筋肉が無力になる病気にかかり、やはりこの処方を受けた。彼女は自分が完全に無力化し、家族に迷惑をかけることを避けたかったのだ。自分がそのような状態になる前に自ら命を絶つのが、自分の尊厳を守ることだと考えたのだ。死ぬときは自分で決めたい、というのだ。そしてこの女性は、処方を受けた薬を間を置かず服用することに決めた。
 彼女は家族と、処方する医師の囲む中、自宅で服用した。それは彼女なりの尊厳ある死だったが、しかし家族や医師に波紋を投げかけるものとなった。夫は妻の"自殺"に耐えられず、別室に逃れ、しかし進行している事態に耐えられず、さらに車で近くの海岸へと向かった。そこは妻との想い出の海岸だった。彼はとうとう妻の死に立ち会わなかった。
 子供たちも自分を育ててくれた母親の死の手助けをしなければならなかったことに、それぞれ複雑な思いを抱いた。医師にとっても耐えがたいことだった。本来、患者の命を例えわずかでも延ばすことを正義とする医療の現場では、積極的に死へと導くこのような処方への抵抗が大きいのも当然のことだろう。
 この女性は長い眠りの後、そのまま事切れたという。
 医師による自殺幇助への風当たりは強い。オレゴン州の他にも三つの州で同様の法律の制定が叫ばれたが、強い反対にあっていずれも否決されている。また連邦議会でも強い非難を浴び、医師による自殺幇助を禁じる法律の制定も目論まれている。「死へと逃れることなく、一分一秒でも長く生きることが絶対的な正義だ」というわけなのだろうか。だがそれはどういう正義なのだろう。
 最初の女性はこの動きを見ながら、「あの人たちは本当に死にかかっている人間の事などわかってはいない」と切り捨てる。彼女の苦しみの質を理解してないというのだ。「あの人たちは私を拷問にかけている」とまでいう。彼女はそこまでして生きる意味がないと感じている。しかも耐えがたい苦痛に耐えながら生きるなんて。それを命を危険に曝されてもいない議員たちが勝手に「生きろ」と命じるのは耐えがたいことだ、ということなのだろう。
 しかしオレゴン州のこの法律は世界に類例の無いものだ。日本でもホスピスの普及などによって終末医療への関心が高まってはいるが、積極的な自殺やその幇助までは視程に入っていない。苦痛を和らげつつ、末期の時を自然に迎えようというのがその全てだ。日本でも短い生を続ける意味を見失い、自殺を図ったり、周囲に殺害を依頼する患者がいるという。だがそれらは心のケアにより、かなりの程度回復できるものらしい。だが最初の女性の例でいえば、その苦痛は心の不安とは別の次元に属するといえる。
 オランダでは、積極的に医師による自殺「介助」が認められている。自殺幇助というレベルではなく、医師により致死性の薬物の注入などが、社会全体で容認されているのだ。余命幾ばくも無く、治療方法が無く、苦痛を緩和する手段も無く、本人の意思が明示されている場合、オランダの医師は患者の命を終わらせる手助けができるというのだ。この場合、医師に関しては犯罪として記録に残るものの、罪に問われることは無い。そしてこの慣習を法律化しようという動きがあり、成立する見込みだという。日本でも積極的な自殺介助は認められていないものの、自殺介助の基準(それを逸脱すれば殺人に問われる基準)としてオランダのそれと同様のものとする判例が出ている。
 このように、死生観は変わりつつある。生を絶対的な正義とみなす近代の死生観は、生をそれを遂行するに足る価値があるかどうかで決める、相対的な死生観へと取って代わられつつあるように見える。しかし注意しなければならないことは、死が個人的な価値観では決して決まらないものだということだ。その意味では死の価値(生の価値でもある)は、以前から相対的であるのがふつうだったということだろう。僕たちは、生がたまたま絶対的な正義であるかのように映る異常な時代を生きてきたというに過ぎないのではないか。
 そして死は死する者だけにとって意味を持つのではない。残されていく家族の痛みを思えば、死する人は長く痛みを耐えなければならないと感じるかもしれない。逆にその痛みを思うとき、周囲の人々は、そして医師は死の痛みに耐えなければならないのかもしれない。その判定基準を死する当人へと委ねようというのが、僕たちが受け容れつつある新しい死生観の正体なのではないだろうか。いずれにせよ、死は案外多くの時代、その個人の自由意志に委ねられてきたように見える。
 最初の女性は、二人目の医師による診断を得られないうちに、とうとう激しい呼吸困難のうちに死に至った。逃げているのではと勘ぐりたくなるような二人目の医師の態度や、連邦議会での対抗法案制定の動きなどの雑音に悩まされながらの最期は、さぞかし不本意だったろう。

2000年06月16日(金曜日)

皇太后逝く

20時27分 思考

 皇太后、つまり昭和天皇の奥さんが亡くなった。この場合は明らかに神式なので、きっと冥福は祈っても差し支えないだろう。仏教的には冥福など無意味だろうから。
 激動、というにもあまりにも凄まじい疾風怒濤の時代となった昭和を生き通した彼女の生涯は、春風駘蕩とした平安時代の皇后たちとは質的に異なっていただろうと思う。昭和天皇が戦争を始めたとも終わらせたとも思わないが(とはいえ無関係ともいえない)、彼女の内助の功が昭和天皇を支え、戦争終結に多少なりとも好影響を与えただろうと評価したい。敗戦という局面で、夫が、そして自分が戦犯に問われないか不安の日々を過ごしただろう。もちろん、天皇制を支えたという意味で、WW2時のおびただしい死者に責任を負わねばならない立場だったともいえる。しかしそれは、おおよそ個人が負いうる責任の範疇を逸脱しているのではないか。むしろ天皇という神格的個人に国家の存在理由の根拠を置いた戦前の日本が間違っていたのだというべきだろう。
 彼女には冥福よりも必要なものがあるはずだ。お疲れ様、そしておやすみなさい。

2000年06月13日(火曜日)

幽霊

23時29分 思考

 結構怖い心霊話サイトを見つけた。 ここはテケテケもの、湖から無数の手ものなどの類型が少ないので、なかなか楽しめるサイトだ。といっても夜遅くに読む気にはなれませんが。
 こうした心霊話に仏僧(フランスの坊さんにあらず)が出てきて人間の霊魂に関して実しやかに説諭するということがしばしば書かれているのだが、これは本来の仏教からいえば噴飯もののことなのだそうだ。本来、仏教は魂のような永劫普遍のものの存在を認めていない。これが絶対神だのなんだのを教義とする他の宗教との違いだ。我々が目にするところの世界には、永劫普遍に変わらぬものなど何一つありはしない。そのような観測から、移ろい行く諸々のものへの執着を捨てるために修行し、そのような心の平静を得よというのが仏陀の主張らしい。何かをひたすら信ぜよとは説いていない。原始仏典には「信仰を捨てよ」とまであるという。原始仏教は自らを信仰ではないとみなしていた、ということらしい。
 そういう本来の仏教の姿からすれば、事あるごとに魂だの死後の世界だのが語られ、織田無道のような人まで闊歩する日本の仏教は堕落しているともいえる。しかし古来からの御霊信仰とシームレスに接続できる霊魂説を採らないで仏教の興隆があったとも思えない。
 急いで付け加えておくと、仏教では魂の存在を否定してはいない。しかしそのようにあるのかないのか分からないものを語ることは無意義だという立場から、少なくとも原始仏教では魂に関して何も語っていない。仏陀も「魂はあるのですか」とか「死後の世界はどうなのでしょう」とかいった人間の知覚の及ばない世界に関する質問に対し、沈黙を守ったという。そのようなあるのかないのか分からない事に関わりあうよりは、現実に存在する病老貧苦などの災いを克服せよというのが仏陀の態度だった、らしい。
 こんな話を聞くと、例えば超心理学の発展で霊魂や死後の世界の実在が明らかになったら、仏教者はどうするのだろうと思ってしまう。それを取り込んだ新しい教義を発展させるのだろうか。それとも所詮外道の説として切り捨ててしまうのだろうか。確かに、人間の知覚と言う問題に関して、現代科学と仏教とでは大きな隔たりがあるように感じる。
 ともあれ、仏教的には魂は「無い」として良い。少なくとも、それは人間には知覚し得ない世界のことだ。また科学的、唯物論的な態度を取っても魂は存在しない。幽霊なんていやしないのだ。
 とまで考えてはいてもやっぱり幽霊は怖いのである。だって、我々の想像も及ばぬなにかが存在するかもしれないじゃないですか。それを僕の頭のどこかが恐れつづけているのだ。